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陽成院の歌が謳われた頃は大震災と火山噴火の時代だった 

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陽成天皇(院)の時代は、大震災と火山噴火の時代
貞明親王は9歳で即位し陽成天皇となったが、
摂政をつとめた叔父の藤原基経は貞観地震発生時、陸奥出羽按察使として東北経営に深く関わる地位にいた。

 蝦夷の反乱や各地で起こった地震などから東北地方の経営は京都にいる天皇や役人にとって大きな問題、関心事であった。
天皇自ら東北地方の被災地を視察される機会もあったであろう。
  陽成院の歌が謳われたのは日本の各地で大震災と火山噴火が起こった時代だった。

 天皇在位中は一人も正式な妃は入内していないが、退位させられた時は17歳であった。 
 “恋愛”中であった天皇が東北往復の途中、筑波山にのぼり、その恋心を謳ったのが、
小倉百人一首の歌なのであろう。

百人一首と陽成院の歌
 百人一首は、上代から鎌倉時代初期までの歌人100人の短歌を1首ずつ集めたものである。
 藤原定家の選んだ歌をもとにして後の人が多少補い、
南北朝時代から室町時代の中期のころ現在のかたちにしたといわれている。

 内容は春6首、夏4首、秋16首、冬6首、恋43首、離別1首、き旅4首、雑20首である。  
 中世の時代的好尚を反映して、恋が全体の約半分もあり、四季のうちでは秋が半数をしめている。
 作者は8人の天皇をはじめ、公卿、殿上人、地下(じげ)の人、15人の僧と各層にわたり、女宮・人妻など女性が21人もおり多彩である。
  この中に陽成院の歌が一首入っている。
優雅流麗な古今調、新古今調を中心としており、万葉の歌も《新古今集》のかたちで、
100首全体の歌風に統一的雰囲気がみうけられる。 

                
           日本かるた協会「小倉百人一首 源氏 国定」の箱の絵

陽成院 (868年~949年)
 平安時代前期の天皇(在位876~884)。
 清和天皇の第1皇子で母は藤原長良(ながら)の娘の高子。
 幼名を貞明親王といい、869年(貞観11年2月)に生後3ヵ月で皇太子となった。 

 9歳で即位するとともに母の兄の藤原基経が摂政となり、在位のあいだ実権を握って政治をとっていたが、藤原基経が清和天皇に2人の娘を入内させたのに続き、陽成天皇の元服に際し、さらに娘の佳美子または温子を入内させようとしたのを、母后の高子が拒否したため不仲となったらしく、883年(元慶7)の秋から数カ月のあいだ自邸にひきこもって政務を見なかった。

 元慶7年11月になると、宮中で天皇の乳母であった紀全子(きのまたこ)の子、源益(みなもとのすすむ)が殴殺されるという宮中での殺人事件という未曾有の異常事が起こった。 

 天皇はやや異常性格で狂暴牲をおびていたので、基経はついに決意して、翌年2月に天皇を廃して光孝天皇を立てた。(ただし、表面的には病気による自発的退位である)。
 陽成天皇にはその在位中、一人も正式な妃は入内していない。 

 退位後も天皇は乱暴な行為が多かったが、幾度か歌合を催すなど、歌才があったようである。
 陽成天皇自身の歌として伝わるのは宇多天皇の妹にあたる妃の一人、釣殿宮綏子内親王にあてた歌で、『後撰和歌集』に入撰し、『小倉百人一首』にも採録された下の一首のみである。 
 
 これは、
●陽成天皇の退位時の年齢が17歳(満15歳)で、母の兄藤原基経と母 高子の確執が有ったこと、
●天皇を廃位し、自身の意向に沿う光孝・宇多帝を擁立した基経は、自己の行為を正当化するため乱暴な行為が多かった陽成天皇を暴君に仕立てた可能性が有るとの説もあり、
 陽成天皇が退位した後も光孝・宇多・醍醐の諸帝の陽成天皇に対する警戒感が強く、
『日本三代実録』や『新国史』の編纂は陽成上皇に対して自己の皇統の正当性を主張するための史書作成であったとする説もある。

 これらのことから考えると、陽成天皇は、歌才が有ったので他にも多くの歌があったであろうが、
恋人で後に結婚した釣殿宮綏子内親王に送った小倉百人一首の歌以外は、“暴君”に仕立てら、ことごとく葬り去られたのであろうか。真相は分からない。

 なお、墓は京都市左京区浄土寺真如町にあり、神楽岡東陵という。 

  
    
    
         筑波山内 がま公園にある碑文

百人一首の歌 
  「つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる」 

 筑波山の峰から流れ落ちる男女川。その流れははじめはわずかの水量だが、やがて積り積って深い淵となるように、私のあなたに対する恋の心も、今では淵のように、深い思いになってしまったことだ。 (後撰集・恋三) 

 『後撰集』詞書に「釣殿の皇女につかはしける」とあり、この恋の相手である光孝天皇の皇女 綏子(すい)内親王にあてた歌である。 
 「筑波嶺」は茨城県の筑波山で男体山と女体山からなり、古代から男女が集まり歌垣(かがいともいう。男女が山上に集まって歌を詠み交わし、求愛・求婚をした行事)を催した地として知られている。 
 「みなの川」は筑波山から霞ヶ浦に流れる桜川をいうが、桜川に注ぐ川という説もある。
 「淵」は流れがよどんで深くなっている所。峰からしたたり落ちるしずくが、いつの間にか渓流となり、深い淵を持つ男女川となっていく。
 自分でも気が付かぬうちに、激しく深い恋の思いが心中に淵となっている。
 抜きさしならぬ恋情に呪縛されている我が身にあらためて驚く、そのような情感あふれた恋歌中の恋歌である。


〔関連記事〕  秘伝・ガマの油売り口上


朝廷の東北地方経営と大地震の頻発 
 2011年3月に東日本大震災が発生したが、陽成院の時代は、毎年のように日本各地で
東日本大震災クラスの地震や火山爆発及が度々起こっている。

 陽成院が1歳であった869年7月(貞観11年5月26日)、貞観地震が起こった。  
また、878年11月1日(元慶2年9月29日)関東諸国でM7.4の地震が発生している。

 天皇は、関東・東北各地の被災地を視察され、筑波山周辺を訪れたことは想像に難くない。
 その際に読まれたのが百人一首のうたなのであろう。

 陽成院が30才代になる間に起こった大きな地震と火山噴火を列挙する。
 
 


   
       
 古代の東北地方では、大和朝廷と蝦夷との間で激しい戦いが繰り返されたが、
逐次平定され朝廷と蝦夷が共存路線を歩むようになった。
 ところが9世紀になると朝廷側の厳しい徴税に反発した蝦夷の反乱が繰り返されるようになり、
東北地方の経営は朝廷にとって大きな課題であった。

 
 〔参考〕東日本大震災による多賀城市の被災状況

     七ヶ浜町のガレキ集積所                    


     七ヶ浜海岸 津波で流された住居跡     
      

  〔参考〕 
     多賀城跡の案内板   
     
    
     多賀城跡 政庁跡  
 
 

 

 
     
     城跡の下、平地部に集積された瓦礫の山       
          貞観地震の津波はこの付近まで襲った。
     
  
 
 
     
                  (写真撮影 平成23年7月17日)  

 

  〔関連記事〕
  第十八代永井兵助の「筑波山ガマの油売り口上」



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