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Channel: ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。
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文豪夏目漱石らが描写した江戸・浅草の香具師「長井兵助」 

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漱石の俳句 「長井兵助」
 文豪夏目漱石には長井兵助を歌った俳句がある。 
「長井兵助」は、江戸時代後期、安永(1772~1781)頃,江戸浅草奥山,上野山下などで人集めに大太刀の居合抜きを演じて歯磨きを売ったり、口中の治療をした香具師(やし)である。長井兵助は先祖代々浅草に住み、居合抜で人寄せをして家伝の歯磨や陣中膏蟇油を売っていた浅草や上野で有名な大道商人だった。
 明治10から20年代にかけって5代目が活躍していたというから、漱石の俳句にある人物は5代目とみられる。 

【俳句】
 抜くは長井兵助の太刀春の風 (明治30年作)
 
 句の言葉使いは大道芸よろしく講談調になっている。心地好い春風に吹かれて、見物している夏目漱石の機嫌もすこぶるよい。句を読む者も機嫌よくなる、そんな句である。 

 漱石は1893(明治26)年、帝国大学を卒業し、高等師範学校の英語教師になったが、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚えていた。失恋や肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになり、参禅などして治療に努めたが効果はなかった。

 1895(明治28)年、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に赴任した。松山は正岡子規の故郷であり、子規とともに俳句に精進し数々の佳作を残している。 

 1896(明治29)年、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚したが、順調な家庭生活とはいかなかった。家庭面以外では俳壇でも活躍し名声を上げていった。
 上の句はその頃の作である。 

小説『彼岸過迄』に登場する「長井兵助」
 漱石は小説『彼岸過迄』の中で “主人公田川啓太郎” が「占ない者」を求めて浅草を歩く場面で、啓太郎が子供の頃、祖父に浅草に出かけたとき聞かされた長井兵助の居合抜きについて記述している。
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【「停留所」十六】
 敬太郎はどこの占い者に行ったものかと考えて見たが、あいにくどこという当もなかった。白山の裏とか、芝公園の中とか、銀座何丁目とか今までに名前を聞いたのは二三軒あるが、むやみに流行はやるのは山師らしくって行く気にならず、と云って、自分で嘘と知りつつ出鱈目を強いてもっともらしく述べる奴はなお不都合であるし、できるならば余り人の込み合わない家で、閑静なひげを生やした爺さんが奇警な言葉で、簡潔にすぱすぱといい破ってくれるのがどこかにいればいいがと思った。  

 そう思いながら、彼は自分の父がよく相談に出かけた、郷里の一本寺の隠居の顔を頭の中に描えがき出した。それからふと気がついて、考えるんだかただ坐っているんだか分らない自分の様子が馬鹿馬鹿しくなったので、とにかく出てそこいらを歩いてるうちに、運命が自分を誘い込むような占者の看板にぶつかるだろうという漠然たる頭に帽子を載のせた。

 彼は久しぶりに下谷の車坂へ出て、あれから東へ真直に、寺の門だの、仏師屋だの、古臭い生薬屋だの、徳川時代のがらくたを埃といっしょに並べた道具屋だのを左右に見ながら、わざと門跡の中を抜けて、奴鰻(やっこうなぎ)の角へ出た。 

 彼は小供の時分よく江戸時代の浅草を知っている彼の祖父さんから、しばしば観音様の繁華を耳にした。

 仲見世だの、奥山だの、並木だの、駒形だの、いろいろ云って聞かされる中には、今の人があまり口にしない名前さえあった。広小路に菜飯と田楽を食わせるすみ屋という洒落た家があるとか、駒形の御堂の前の綺麗な縄暖簾を下げた鰌屋は昔から名代ものだとか、食物の話もだいぶ聞かされたが、
 すべての中で最も敬太郎の頭を刺戟したものは、長井兵助の居合抜きと、脇差をぐいぐい呑のんで見せる豆蔵と、江州伊吹山の麓ふもとにいる前足が四つで後足が六つある大蟇(おおがま)の干し固であった。 

それらには蔵くらの二階の長持の中にある草双紙の画解が、子供の想像に都合の好いような説明をいくらでも与えてくれた。

 一本歯の下駄をはいたまま、小さい三宝上にしゃがんだ男が、襷(たすき)がけで身体よりも高く反返った刀を抜こうとするところや、大きな蝦蟆(がま)の上に胡坐をかいて、児雷也(じらいや)が魔法か何か使っているところや、顔より大きそうな天眼鏡(てんがんきょう)を持った白い髯の爺さんが、唐机(とうづくえ)の前に坐って、平突(へいつく)ばったちょん髷を上から見下みおろすところや、大抵の不思議なものはみんな絵本から抜け出して、想像の浅草に並んでいた。 

 こういう訳で敬太郎の頭に映る観音の境内には、歴史的に妖嬌陸離(ようきょうりくり)たる色彩が、十八間の本堂を包んで、小供の時から常に陽炎(かげろ)っていたのである。
 
 東京へ来てから、この怪しい夢はもとより手痛く打ち崩ずされてしまったが、それでも時々は今でも観音様の屋根に鵠(こう)の鳥とりが巣を食っているだろうぐらいの考にふらふらとなる事がある。
 今日も浅草へ行ったらどうかなるだろうという料簡が暗に働らいて、足が自とこっちに向いたのである。
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【江戸府内 繪本風俗往來下編】に描写された
   長井兵助の居合抜き
 明治38年刊の東洋堂版に『江戸府内 絵本風俗往来』という菊版袋とじの和本上下2冊がある。東陽堂は、当時の風俗を描写し「風俗画報」として明治22年から大正5年の間、出版している。この雑誌は明治から大正にかけて江戸の歴史風俗地誌として異彩を放っている。

 本書の著者の芦廼葉散人菊池貴一郎の詳細は不明であるが、『江戸府内 絵本風俗往来』の「序」「・・・・・60余年来当地に居住し、昔のことは悉く知りぬきたり。されば其の風俗を記して大いに江戸児風を吹かせむと。几案の前に座禅しつつ。躍起となりて筆をとり。江戸口調の文を以て江戸純粋の歳事をありのままにかきちらし。・・・・・・」とあり、上編の「序」の日付は「明治38年11月」となっているので、当時すでに70を越えた人である。あまり評判にもならなかったので専門学者でもなく画工でもなく、市井の好事家であったと推し量られる。
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居合抜き 長井兵助  

居合抜きの歯磨売は浅草御蔵前に長井兵助あり三田松本町有馬邸前にあり 此二家の外江戸中になし 

二家とも表間口二間半許にて店は白地に藍の大形井桁の内に長の字の総張付壁同じく襖障子を立し様は其頃の医師の玄関の如く

其内正面に光輝きたる真鍮作りの長短大中小の居合太刀幾腰も刀掛にかけたり

又黄銅磨の金具打たる箱を据置威風を粧ふ

三田なる居合抜きは幸橋御門久保町の原或ひは芝愛宕下増上寺御成門外なる路傍に露店を張りて

家業の歯磨を商う時は五六間四方に大きな麻縄を張廻し

其正面程よき所に台を据其上に刀掛を置て居合太刀をかざり

其後部は家の印を染出せる大暖簾を以て掩ひ刀掛の前に小さな台の据えてあり

其上には1尺四方の三方盆を置たり

居合抜きの扮打は黒染五ツ所定紋付の衣類に小倉織の平袴を付て高股立をとり

白き襷を十字に綾どり甲斐々々しく居合太刀を帯て

右手に白扇を持て一本歯の高足駄を踏みて立上がりける

左手には帯たる一丈に余れる長き居合太刀の鍔許を握りて占身せるは

直ちに抜んず光景なりしかば

最前より見物せる山の如き人々は居合を見て行んと樂みしに

居合抜は口軽き滑稽を言て見物の頤を解しめ

巳に抜かと見へて又抜ず家伝歯磨の効能をいふより歯磨を売る

見物は居合を見たさに買ずもがなの歯磨きを買ふに未だ居合をせず

此中蓋を傾けんまでに時を移す

見物の人々足の痛きを覚へず

小僧は主人の使ひの遅刻を忘れ

田舎人は懐中の財布を抜かれしを心づかず

居合抜は今まで帯びて居たる丈余の太刀は脱して後辺にかけ短かき太刀と指かへ前に、

蹲(うずくま)れる己の抱えの小僧目がけてヤッといふ声に抜き放ち小僧を相手に打ち振けるが

待甲斐程に覚へねば忽ち足の痛を感じ見物は失望らしく散乱すれば

叉後より立止る居合抜は短剣を鞘に納めて再び丈余の長太刀を帯しも抜かざることは以前に同じ

又歯磨の家伝の効能随分人を馬鹿にせしも

馬鹿になりて見物するは居合を抜ざる中の却て面白居合になりては

趣味多からざりしと覚へたり。 


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  『江戸府内絵本風俗往来 新装版』絵・文 菊池貴一郎著 有限会社青蛙房 平成15年5月20日


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