徳川光圀の肖像 (常陸太田市 久昌寺所蔵)
『水戸市史 中巻(一)』
水戸藩の第2代藩主徳川光圀は、水戸黄門としても知られ名君の誉れが高い。初代藩主徳川頼房の三男で、儒学を奨励し、彰考館を設けて大日本史を編纂し、水戸学の基礎をつくった藩主である。藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地の探検などを行った。大日本史と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたことは高く評価されている。
寛文(1661〜1672年)年から元禄(1688〜1703年)に至る時代は、土地経済のほかに貨幣経済が発達し、商業活動が高まり町人の勢力が盛り上がって来た時である。他方、農村でも、新田開発・治水技術・耕作技術の進歩などで生活が向上すると共に、貨幣経済に捲き込まれて貧富の差が拡大しはじめた時である。この情勢に対して領主側の財政も貨幣支出が増大したため財政難や家臣の生活難が重大な政治問題となってきた。
水戸光圀を統治者として見た場合、石高のわりには御三家の一つとして高い格式を保つため出費が多く、先代の頼房時代から既に悪化していた藩財政が広範な文化事業をてがけたためさらなる財政悪化をもたらしている。このため年貢の取り立ては厳しくなり、貨幣経済が進行する中で苦難な生活を強いられた農民の逃散が絶えなかった。
藩の体制整備
(藩の諸制度の整備)
幕府は、武家諸法度(元和令全13条)、同寛永令(全19条)、天和令(全15条)、禁中並びに公家諸法度(全17条)、諸宗寺院法度(全9条)及び諸士法度(全23条)などを制定し武家や公家を統制した。光圀もこれらを基に諸制度を整備した。その基礎には儒教の礼を重んずる思想が見受けられる。
水戸藩でもこの時代、藩の諾制度の整備が進んだ。たとえば寛文年中、武具奉行、寄合指引、土蔵番頭、寺杜奉行、人改奉行、目帳役などが新設されている。そのほか1678(延宝6)年には、諸士の服制を身分別に定め、儀式の場合の衣服は、小姓頭以上は布衣、寄合指引以下附家老中山組付まで素袍(すおう)、以下の諸士は麻上下(かみしも)とした。このとき、城内の礼式が全備した。また裁判の公平、牢獄の改良などを行なった。これらのほか、小事にまで典礼制定の実例が少なくない。
光圀の施政の著しい特徴は家臣団の増加である。1664(寛文4)年、諸士の次男63人を馬廻組に取立てたのをはじめ、1669(寛文9)年には、歩行士を他所かち召抱えず、諸士の次三男を召しだす方針を定めた。この次三男取立策の恩恵で、従来、長男のほか一家を立てる道がほとんど塞がっていた若侍たちの前途が開けたわけである。なお、新規に召抱えの士も多かったが、そのうちには、領内諸所に土着していた佐竹氏の遺臣の子孫が少なくない。彼ら佐竹時代以来の土着勢力を藩の側に引き付けたことは、民政を進める上で役立った。
家臣団増強策に見合うものが1670(寛文10)年の軍制の制定であり、家臣団統制のための家中法度の制定である。家中法度は倹約令を含めてたびたび出されたが、1662(寛文2)年の法度27か条、天和3年の法度23か条が最も詳しく、士の心得から目常衣食住まで規制している。
(城下の行政)
水戸藩の初代藩主、頼房は、1625(寛永2)年から1627(寛永4)年まで、1626(寛永3)年の上洛の年を除いて毎年水戸に就藩し、水戸城の修復や城下町造営、さまざまな法令を定め、城下の整備を行った。
光圀の城下行政として水戸の土民の生活と最も密接な関係を持つものは、1663(寛文3)年の笠原水道の開通である。飲用水不足に苦しむ下町の人々が、この水道から蒙った恩恵は計り知れない。また那珂川、千波湖の水害を防ぐため新堀を掘って那珂川へ水を抜いた。このほか1681(天和元)年、城下の上町・下町の区画整理を行ない、町名を改正したので、この時から城下町の区画が整った。また1683(天和3)年、城下の藤柄と那珂川の枝川河岸の遊女茶屋を停止したことは、町の風俗粛清のためであった。
光圀の治政30年間の間、就藩は11回、2年半に1回あったが、水戸藩の支配体制、水戸の士民の生活を見れば、それらの基礎、骨組みの成立、たとえば検地、知行割、家臣団編制、城郭と城下町の拡張などは、初代頼房の時に始められたものであり、光圀はその基礎、骨組みを一段と整備したのであって基礎工事・骨組工事を新規にやり直すというようなものはない。
最大の功績、文化の振興
光圀は歴史に対する関心が強く、駒込邸内にあった史局を、小石川邸内に移し、「彰考館」と名付けた。後にこれを水戸へ移転させ、朱舜水をはじめ多士済々の学者を招き史館は隆盛を誇った。紀伝の改訂、史料の採取、百王本紀や正徳大日本史の完成、万葉集の研究、和文と漢詩文の集成、禮儀類典、神道集成など文教政策はもとより科学においては医学、救民妙薬、天文・暦学および和算など多岐に渡る学術の振興は光圀の最大の功績である。特に大日本史の南朝正統論や尊王敬幕の思想と武家の政治観は、幕末の朝野に大きな影響を与えた。
史料調査では、訪問先の神社仏閣や通過、滞在する藩や旗本領などの協力が必要であったが、どの領主も派遣員を歓迎し手厚く接待したと伝えられている。これが、後世、諸国漫遊譚形成の一因になったのであろう。
また、宗教政策においてはキリシタン対策のための宗門改、宗門手形など宗教の統制、寺社奉行の設置、開基帳の作成と領内寺院を整理し寺院の保護、檀林の設立、檀家制度をもうけるとともに、神社を整理、葬祭儀礼の改正など神社の改革に取り組み社寺の崇敬に勤めている。
湊川碑 拓本
茨城県立歴史館「頼重と光圀」平成23年2月
産業振興
光圀の治政の寛永から元禄の時代、百姓の生活は農作業はもとより衣食住など私生活のすべてにわたってこと細かく統制されていた。寛永10年代の飢饉を契機にして 寛永19年に「覚(おぼえ)」、寛永20年に「土民仕置覚」がだされた。その条文には「慶安御触書」に類似したものが含まれている。
1649(慶安2年2月)年、幕府は「慶安の御触書」を出した。そこには領主の側からの「期待される百姓像」と百姓の生活の実際や願望の両面を示している。この「御触書」の狙いは、質素倹約を徹底させ年貢の徴収を確実なものにすることにあった。
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慶安の御触書
一、公儀御法度を怠り、地頭代官の事をおろかに存ぜず、扱又(さてまた)名主、組頭をば真の親とおもふべき事。
(一、幕府の法令を守らなかったり、領主の旗本や天領の代官のことをなおざりにせず、なおまた村の名主や組頭を真の親と思うようにせよ。)
一、朝おきをいたし、朝草を苅、昼は田畑耕作にかかり、晩ニハ縄をなひ、たハらをあミ、何ニてもそれぞれの仕事油断無く仕(つかまつ)るべき事。
(一、朝、早起きをして草を刈り、昼は田畑の耕作をし、夜は縄をない、俵を編み、どんな仕事でも手を抜かないようにせよ。)
一、酒・茶を買のミ申間敷候。妻子同前の事。
(一、酒・茶を買って飲んではならない。妻子も同様である。)
一、百姓ハ分別もなく末の考もなき者ニ候故、秋二成候へハ、米雑穀をむざと妻子ニもくハせ侯、いつも正月2月3月時分の心をもち、食物を大切ニ仕るべく候ニ付、雑穀専一ニ侯間、麦、粟、稗、菜、大根、其外何ニても雑穀を作り、米を多く喰つぶし候ハぬやうニ仕るべく候。
飢饉の時を存じ出し候ヘハ、大豆の葉、あづきの葉、ささげの葉、いもの落葉など、むざとすて候儀は、もつたいなき事二候。
(一、百姓は分別がなく、先のことも考えない者であるから、秋になると米・雑穀をおしげもなく妻子へ食わせてしまうことになる。常に正月・二月・三月の頃(食物が少たいとき)の気持を持って、食物を大切にすべきだ。ついては、雑穀が第一であるから、麦・粟・稗・菜・大根、その他何でも雑穀をつくり、米を多く食べないようにしたければならない。飢饉の時を考えれば、大豆の葉・小豆の葉・ささげの葉・いもの落葉などをおしげもなく捨てることは、もったいないことである。)
一、男ハ作をかせぎ、女房ハおはたをかせぎ、.夕なべを仕り、夫帰ともにかせぎ申すべし。然ばぼミめかたちよき女房成共、夫の事をおろかに存じ、大茶をのミ、物まいり遊山ずきする女房を離別すべし、去ながら子供多く之有りて、前簾(まえかど)恩をも得たる女房ならば各別なり。
又、ミめさま悪侯共、夫の所帯を大切ニいたす女房をハ、いかにも懇に仕るべき事。
(一、男は田畑の耕作に精をだし、女房は苧の機織(注、苧:「お」、麻の一種、麻糸で機を織ること)で稼ぎ、夜なべをして、夫婦共に稼ぐようにせよ。したがって、見てくれの良い女房でも、夫のことをないがしろにし、茶のみ話が大好きで、杜寺への参詣や行楽を好む女房は離婚せよ。しかし、子供が多くいて、前々から世話になっている女房ならば別である。また、見た目は悪くても、夫の家庭を大切にする女房は、とにかく大切にすること。)
一、百姓は、衣類の儀、布、木綿より外は帯・衣裏ニも仕る間敷候。
(一、百姓は、衣類については麻布・木綿の外は帯や衣の裏にも使ってはならない。)
一、少しハ、商心も之ありて、身上持上ケ候様ニ仕るべく候。
其子細ハ、年貢の為ニ雑穀を売り候事も、又ハ買候ニも、商心なく候得ば、人ニぬかる上ものニ候事。
(一、少しは商売の心構えをもって、財産を増やすようにせよ。その理由は、年貢を納めるために雑穀を売るときに、または買う時にも、商売の心がなかったなら人に出し抜かれるからである。)
一、たばこのミ申間敷候。是ハ食にも成らず、結句(けつく)以来煩ニ成ものニ侯。其上隙(ひま)もかけ代物も入(いり)、火の用心も悪候。万事に損成ものニ候事。
右の如くニ物毎(ものごと)念を入れ、身持をかせぎ申べく候。
・・・・・・年貢さへすまし候得ば、百姓程心易きものハ之無く、よくよく此趣を心がけ、子々孫々申伝へ、能々身持をかセぎ申すべきもの也。
(一、たばこをのんではならない。これは食のたしにもならず、結局のちに厄介なことになるものである。その上、時間もかかり、代金もいり、火の用心にも悪い。すべて、損になるものである。
右のように物ごとに念を入れ、家計が楽になるように稼ぐようにせよ。
・・・・・・・年貢さえ納めてしまえば、百姓ほど気楽なものはない。よくよくこの趣旨を心がけ、子孫代々にまでも語り継ぎ、一生懸命稼ぐようにすべきである。)
慶安2年丑(うし)二月廿六日
(慶安2(1649)年2月26六日)
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幕藩体制を維持する基盤をなす本百姓を統制するため幕府は、1642(寛永20)年、田畑永代売買禁止令を出した。これは農民の農地の売買を禁止し、売り主、買い主ともに罰するもので、その狙いとするものは、田畑の売買により貧富の差が決定的になり、本百姓が没落することを防止することであった。幕府の土地政策に水戸藩はその趣旨を生かした政治を行った。水戸藩では田畑の売買を許しても、田畑の異動を明確に把握しておけばなんらの問題はなかった。大名にはそれぞれ独自の伝統があり、領民にも独自の生活習慣があった。従って幕法を逐一遵守するより、その土地の伝統、習慣、環境に適した方法で政治をするほうが賢明であり、そのように行われた(青野春水著「大名と領民」)。
農民に対する統制は土地にとどまるものではない。農民の日常生活のすみずみまでこと細かく規制し、植えつける作物にも厳しい制限を設けた。
藩主・光圀の施策は百姓の暮らしを向上させることではなく、年貢の増収を極大化させるためであったことを理解する必要がある。
(貨幣経済の浸透、年貢の徴収)
光圀の善政にもかかわらず、農村に貨幣経済が浸透して来て、富農や町の富商が高利の金を貸して、抵当に土地を取り上げ、そのため貧農はますます困窮するようになった。光圀は1688(元禄元)年、その対策として厳しく高利貸を取締まり、貸付の利子を一割以下に公定した。更に翌年、郡奉行らが農民の困窮を知りながら、それを隠して領内には一人も貧窮者がいないと言上したことを怠慢として、強く叱責した。
その上、1690(元禄3)年には農民のため検見制度に大きな改革を加えた。検見とは毎年の周畑の作柄の良否を村ごとに検査して、年貢徴収の基準とするものであるから、領主にとっても、農民にとっても、実に重要な制度である。この検見は他の藩と同様、水戸でも役人が巡回して実施したのであるが、光圀は郡奉行らの反対を押し切って、検見を村々の庄屋・組頭に一任することに改めた。領民を信用する大英断であった。彼の英断をもって実施した新検見制度はその後、永くは守られず、元の制度に戻った。
光圀は年貢を百姓から取り立てる心がけとして「女を御するようにし、少年を御するようにしてはならない。女の場合は双方とも喜ぶが、少年の場合は一方が喜んでも少年には苦痛である」と言ったという。「少年には苦痛」とは、男色のことであるが、「女を御するように」、百姓を喜悦させ気づかぬうちに搾り取れということである。さすがに天下の副将軍、“名君”の誉れ高い水戸黄門様の善政は見事である。
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田畑勝手作りの禁
一、来年より御料・私領共に、本田にたばこ作り申間敷旨、仰せ出され候。
一、田方に木綿作り申間敷(注:もうすまじき、以下同じ)事。
一、田畑ともに油の用として菜種作り申間敷侯事。
寛永二十年未(ひつじ)八月廿六日仰せ出さる
土民仕置覚
一、百姓の衣類、此以前より御法度の如く、庄屋は妻子共絹、紬、布、木綿、脇百姓は布、木綿計之を着るべし、此外はゑり、帯等にもいたし申間敷事。
百姓の食物、常々雑穀を用べし。
八木は猥(みだり)に食はざる様に申し聞かすベき事。
一、在々所々にて、饂飩(うどん)、切麦(ひやむぎ)、素麺(そうめん)、蕎麦切、饅頭、豆腐以下五穀の費ニ成侯間、商売無用の事。
一、壱人身(ひとりみ)の百姓煩い紛れ無く、耕作成兼侯時は、五人組は申すに及ばず、其一村として、相互に助会(たすけあい)、田畑仕付、収納せしめ候様ニ仕るべき事。
一、五穀の費ニ成候間、たばこの儀、当年より本田畑新田畠共一切つくる間敷事。
寛永二拾年未(ひつじ)三月十一日
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「田畑勝手作りの禁」は、郷村への御触22条のうちの規定。「来年より」とは、1644(正徳元)年をさす。「御領」とは天領、「田方」は「水田」のこと。「菜種作り」とは、油菜の種子で、灯油用の油をとるもの。
「土民仕置覚」は寛永20年の通達である。全文17条からなっている。文中、「八木は猥(みだり)は」とあるが、「八」と「木」の文字を重ねると「米」となる。米はみだりに食べるなということ。
幕府のこのような御触れで、農民の日常生活はこと細かく統制されていた。たばこ、木綿、菜種など商品作物の栽培も農民が勝手にできるものではない。
(産業経済)
産業経済策としては、紙・煙草・漆・蟻・養蚕・海草・貝類・人参その他の薬草など、目常生活に役立つ物産を奨励し、長崎から唐・和蘭の産物を取り寄せ、他の諾国から常陸にない禽獣・魚貝・草木を移して、繁殖を計った。そのうちには阿蘭陀茄子(オランダナス=トマトか?)、じゃがたらみかん、山羊、緬羊など数10種が含まれている。
特に1688(元禄元)年紙の専売制の創始、多賀郡大能の馬の放牧、木葉下金山その他諸鉱山の採掘などが知られている。更に1668(寛文8)年、江戸の町人が藩の許可を得て南郡紅葉村の運河の開削を行なったことがある。これは水戸と江戸との運送路の短縮を図る事業であったが、工事難のため挫折した。なお1675(延宝3)年、蝦夷地(北海道)に快風丸を遣わして物産を交易したことも、積極政策として新しい意義を持つものである。
また江戸街遺に松並木を植え立て、旅路の便利を計った。この時代は一般に物産の知識が開けはじめた時であり、また海陸交通も盛んとなった時代であるが、光圀の施策は、このような新気運の先頭に立つものであった。
寛文から元禄に至る時代は、土地経済のほかに貨幣経済が発達し、商業活動が高まり、町人の勢力が盛り上がって来た時である。他方、農村でも、新田開発・治水技術・耕作技術の進歩などで生活が向上すると共に、貨幣経済に捲き込まれて、貧富の差が拡大しはじめた時である。江戸に近い常陸でも、この流れから無縁ではなかった。
光圀の殖産政策はこの情勢に対応するものであったが、藩の経済開発を高めることに大きな成果を収めたわけではない。また農村問題、特に富農・富商などの土地兼併、貧農の増加は、封建経済の発展に基づく自然の成り行きであり、その上、度々災害が農村の生活を襲ったので光圀の仁政も、この杜会経済の変化を防止することはできなかった。
(民政)
民政では、帰国のたびに領内を巡見し、掛役人を督励して領民の生活を保護し、浮役(物産に対する雑税)の免除、不作の年の年貢軽減、町人・百姓へ生活資金や種紋の貸出などを行った。また身寄りのない老人、孤児、男やもめ、女やもめ、廃疾者などの救済を計ると共に、法制を厳重にして風俗を粛清し、更に善行者、孝子、節帰などを表彰して道義を高めようとした。
善行者の表彰はそののち歴代続けられた。備荒貯蓄のため領内諾所に稗蔵を建てたことも、そののち永く水戸藩の制度となり、凶作飢饉の時、領民の救済に役立った。これらの施策と史料調査で訪問先の神社仏閣や通過、滞在する藩や旗本領などの協力を得たと言い伝えられている。
光圀の仁政と高く評価される施策も、同時代の他の諾藩の名君、賢相といわれる人々の治績にも見受けられるもので、光圀.の施策だけが時流を抜いているのではない。ただ、光圀の偉大な人格と識見とが、よく藩政に浸透したので、士民の信頼を得、他領の百姓らが「あわれ水戸様の百姓ならましかば」と羨むほど、善政振りを世に喧伝されたのである。これも後の諸国漫遊譚形成の一因になったと考えられる。
"名君"といわれた黄門様の限界
光圀の諸政策をみると仁政といえるものが多く、それを貫くものは光圀の合理性、人格識見とともに、交通運輸政策、蝦夷地貿易、殖産政策などの産業経済にみられる開明性・進敢性である。元来、光圀の思想は、儒教の朱子学に基づく合理的思考があり、その合理性が、時勢の進歩を洞察する開明、進敢の気風と合ってあったのであろう。このような精神が藩政の諸施策に実現したといえる。
光圀が大日本史の編纂に着手し、集まった学者が打ち立てた水戸学は、諸藩の改革派に大きな影響を与えたのは、封建制建て直しの企図に理論的支柱を与えたからであるが、尊皇敬幕の枠を脱し切れなかったので、文久期(1861〜64)以降は政治的指導力を失った。幕末に水戸藩では門閥派と改革派の抗争が激化し、尊皇攘夷の旗を挙げ筑波山で挙兵した筑波勢の下に集まった他藩の者がやがて離れていったが、ここに水戸学の限界がよく現れている。
『水戸黄門漫遊記』は、人気の衰えない時代物であるが2代藩主光圀がモデルになっているが、近世後期の人々の夢想で仕立てられたものである。そのため現代の人々を惑わせる点が二つある。その一つは、水戸の徳川家が天下の副将軍と称することで、あたかも将軍につぐ 地位にあるような印象を与えることである。水戸藩は尾張、紀伊についで御三家の中では最も格下であった。
二つ目は、江戸維持代は、いきなり「葵の御紋が見えぬか!」と振りかざし事の決着を図ることができるような社会ではなかったということである。身分を問わず訴訟が行われ公然の対決や扱い人を入れての内済、和談というのが公事の処理であり、犯罪であれば、武士は目付け、町人は町奉行、寺社関係者は寺社奉行が、それぞれ身分に応じた司直の機構があった。
こういう機構の縄張りを無視できなくなったのが世相に応じて出てきたのが『漫遊記』である。『漫遊記』の登場そのものが、規則ずくめの非効率に対する反発という側面を持っている。
“名君”光圀の政治は、善政といわれても領民が封建領主制の抑圧から逃れられるわけではない。時期が立つにつれ藩の財政が苦しくなったため史実以上に誇張された名君像が作られたという事情がある。
“黄門様”や役人がどれほど領民の保護救済に心を砕いても、領民の暮らしが楽になったわけではない。幕府や藩にとって、領民の勤労の上に成り立つ藩制を廃止し、武士階級を無くすわけにはいかないからである。藩制の本質、すなわち28万石の土地から年貢を取り立てて暮らす大名とその家臣団、土地を耕して年貢を差出し、その残りで暮らす百姓、この支配体制に由来する根本的な矛盾が財政難、領民の生活難となって現れたのである。 “名君”の誉れ高い黄門様も、幕藩体制が抱える矛盾を解決することはできなかった。
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【参考文献】
笹山晴生・五味文彦・吉田伸之・島海靖編『詳説日本史資料集』
山川出版社1992年1月
『水戸市史 中巻(一)』 平成3年12月
瀬谷義彦・豊崎卓著『茨城県の歴史』 山川出版社 昭和62年8月
青野春水著『大名と領民』 教育社 1987年7月
『世界大百科事典 21』 平凡社1968年9月
深谷克己著『大系 日本の歴史? 士農工商の世』 小学館1993年4月
茨城県立歴史館『頼重と光圀』 平成23年2月