Quantcast
Channel: ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。
Viewing all articles
Browse latest Browse all 885

江戸時代の信仰 千社詣と筑波山神社の千社札

$
0
0

江戸時代の信仰 千社詣と千社札


講の結成
 江戸の人々は、現世利益を願って、それぞれの信仰に応じて社寺や霊場などに出かけた。富士講、えびす講などが江戸の庶民たちの間で広く参拝されていた。
 特に職人たちの間では、元禄期(1688~1703)の終わり頃から以降、同職の者同士で、講の結成が盛んに行われた。講とは、もともと僧侶が仏典の講読や説法を行った仏教集会のことであったが、転じて、仏事や神事を行うための結社(団体)のことを言うようになった。

  講は宗教的な親睦団体の様式ではあったが、職人たちの間で組まれていたものは、実のところは同業者同士の仲間組織であり、その運営のための利益団体であった。 彼らは仲間にかかる費用の一部を仏事や神事を名目に集めた。また、様々な決め事が多い仲間同士、心を一つにするためにも、職業神の信仰は欠かせなかった。

                
                      筑波山神社 隋神門

信仰の証: 千社札
 信仰のため各地の零所を巡拝する風は早く平安時代末期の貴族社会に見られ、室町時代には一般庶民の間にも盛んになった。
 江戸時代中期から千社札の納札をともなう千社詣が江戸を中心に流行した。千社詣でとは有各な神杜仏閣を巡拝して、その数の1000に達することを期する習俗のことで、通常参拝の証として自己の住所、職業、氏名などを書いた紙札を参拝した神殿や仏堂の柱や梁(はり)に貼り付けた。これをを千社札と称した。   

           
 
 千社札には江戸文字が用いられ、デザイン的にもそれぞれ趣向が凝らされていた。やがて、千社札の交換会が開かれるようになって、参加者たちはますますその見栄えを競ったという。

 そのはじめは多少とも信仰にもとづき、その札もいちいち、手書したものであったが、後しだいに趣味的流行となり、札も種々意匠をこらしたものを木版刷とし、同好者の間で月々交換の会が開かれるまでになった。  

 千社札は貴族が書写して納めた納経が巡礼の風とともに大衆的に簡易化したといわれているが、拝礼の数を競い、それを神仏に印象づけることと、自己の記録を残し衆に誇示する意図もあった。
 千社札は印刷し彩色して、人目につく奇抜な場所に争ってはりつけるようになった。

          

         
              筑波山神社 隋神門 
  
 干社札の張付は建物をはなはだしく汚損するので、天保年間(1830~44)幕府は一時これを禁止したが、守られることなく、幕末にいたっていっそうさかんとなり、その風習は明治・大正ころまでつづいた。 
  今でも、時々、専用の棒状の道具を使って高いところに貼り付ける人を見かける。人が簡単に貼れないところに貼るのが楽しいようです。

千社札を見る楽しみ方
 千社札は紙に墨で手書きをしたり、紙に墨で木版印刷されたもので、その都度糊で貼りつけられ、その後風雨にさらされ紙が朽ちてなくなり文字だけが残るのを「抜け」という。その状態の美しいものを「抜け」がいいなどといって賛美された。 

 

 もう一つの見方。そのデザインや文字・・・・歌舞伎で使われる勘亭流や、寄席で使われる寄席文字、相撲の番付表の相撲文字などに使われる文字を江戸文字という・・・・・千社札には力文字または籠文字と呼ばれる力強い文字がよく用いられ、迫力がある。これも見ものである。





Viewing all articles
Browse latest Browse all 885

Trending Articles