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春の筑波山神社御座替祭 4月1日(火曜日)開催 

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御山そのものが ご神体 
 筑波山は霊峰として古くから山岳信仰の中心となり、修験場でもあった。そのため御山(おやま)と尊崇の念をもって呼ばれてきた。

 筑波山神社はこの御山そのものをご神体としており、男体山には伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、女体山には伊弉冊尊(いざなみのみこと)を祀っている。

 筑波山神社の場所には拝殿しかなく、ご神体を祭る本殿は筑波山の2峰にある。男女神を祭ることから縁結びと夫婦仲を取り持つ神社として知られている。筑波山神社御座替祭は4月1日と11月1日に開催される。

春と秋の到来を告げる神事 
 春には御山の神が里に下り、農作を見守る。秋には再び御山に帰る。このときに行われる神事が御座替祭(おざがわりさい)である。男女2柱の神を山の2峰にある筑波山神社奥の院(山宮)と、麓にあった六所神社(里宮)との間で御座を移したことから御座替祭と呼ばれるようになった。  

神橋
 神橋は、切妻造小羽葺屋根付、間口1間、奥行4間で、安土桃山時代の様式の反橋(そりはし)である。寛永10年(1633年)の3代将軍徳川家光による寄進とされ、元禄15年(1702年)に5代将軍徳川綱吉により改修された。

 春秋の御座替祭の際には、神輿と従者がここを渡る。参拝者の渡橋は通常禁止されており、春秋の御座替祭と2月の年越祭の時のみ許される。  この神橋は茨城県の文化財に指定されている。



随神門 
 拝殿前に立つ随神門は、間口5間2尺、奥行3間の楼門で、茨城県内では随一の規模である。古くは寛永10年(1633年)に3代将軍徳川家光により寄進されたが、宝暦4年(1754年)に焼失、再建されるも明和4年(1767年)に再度焼失した。現在の楼門は、その後の文化8年(1811年)の再建によるものである。
 
 神仏習合時代には「仁王門」として仁王像を安置したが、分離後は「随神門」とされ、拝殿向かって左側に倭健命(やまとたけるのみこと)、右側に豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)の随神像を安置する。 



拝殿 
 筑波山は山そのものがご神体で、中腹にあるのが拝殿である。筑波山神社は、筑波山頂の男体山に筑波男大神(つくばおのおおかみ)として伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、女体山に筑波女大神(つくばめのおおかみ)として伊弉冊尊(いざなみのみこと)を祀っています。また山中の摂社をはじめ境内社など数多くの神々を祀っている。



       家光が建てた中禅寺の見取図 

              木村繁著 『筑波山』 崙書房 

寺院等の整備と筑波町の盛衰 
 (徳川3代の寺院整備)
 江戸時代、筑波山はひとつの転換期を迎えた。慶長7年(1602年)、徳川家康は筑波山知足院に寺領500石を寄進している。それは筑波山が江戸白の北東の鬼門にあたり、護国の霊山と認識されたための貴信である。2代将軍秀忠も筑波山南麓の地500石を寺領として認め、黒印状を与えている。

 徳川家康から始まった筑波山の知足院中禅寺の整備は、三代将軍、家光の時代にもっとも盛んに行われた。家光は寛永3年(1626)から10年間を費やして、筑波山諸堂を新築・再建している。家光は「この山をにぎやかな町にしなければならぬ」と考え、そのため材木運搬用の新道に石段と石ガキを築かれ、その両側にどんどん家を建てさせた。
 数多くの堂宇伽藍の建築のための木材は、新たに造られた「つくば道」・・・・江戸時代の参詣道・・・・・で運搬された。中禅寺の中心の大御堂には千手観音が安置され、門前に宿坊や旅籠、茶屋が立ち並び、江戸からほどよい距離にある筑波山は、身近な物見遊山の場として賑わった。

 また、家光は、「早く移住すれば、土地と家をただで与える」とお布令を出したので、工事に来ていた大工や石工たちは、われ先にと新築の家に入り、付近の村からも希望者が続々名乗り出て、新道の両側はすぐいっぱいになった。

 知足院の二世光誉は慶長15年に江戸において寺地を与えられている。光誉はここに江戸知足院を建立して移り住み、筑波山知足院へは院代を置くようになった。
 後年、江戸知足院の住職であった隆光は、5代将軍綱吉およびその母桂昌院の信任を得、知足院は護持院と改められ隆光は大僧正となっている。また、綱吉は朱院地の加増も行なっており、寺領は筑波町500石、沼田村320石、臼井村680石、計1500石となっている。

 護持院、知足院による寺領支配は江戸と筑波山に設けられた役所によって行なわれた。筑波山役所には代官が置かれ、筑波、沼田、臼井村の庄屋(村役人)を介して農民たちを掌握した。筑波町からは田畑に賦課される年貢のほか、小問物店や茶屋などの営業者に課された店年貢、山内の末社や諸堂から徴収した宮年貢があったという。

(町の賑わい)
 3代将軍家光の寺院の増築にともなって、江戸時代中期になると、参拝客や登山者が、にわかに増え、新道ぞいの宿屋、みやげ屋、遊女などは、にわか景気でわいた。その後、筑波山は、仏教の修行とし名高くなり、坊さんもしだいに増え、中腹には日輪院、月輪院、華厳院、大慈院など三十数軒の僧房が建てられた。

 その上、中禅寺は坂東三十三カ所の巡礼地のうち第二十五番の札所(ふだしょ)になったので、白装束の巡礼が毎日ひきもぎらずに山を訪れた。巡礼というのは、あちこちのお寺につぎつぎに参拝し、自分の名を書いた札を御堂にはりつける人たちのことで、こうすることによって極楽往生をとげたり、ご利益にあずかったり出来ると信じられていた。

            随神門に貼られた千社札


 筑波町は門前町ではあったが、住民のほとんどは半農半商であり、旅籠屋、飲食店、小間物雑貨商、諸職人などの余業がみられ、同町の「田畑山畑屋敷帳」には、菓子屋・紙屋・綿屋-大工・石工・石切・湯屋・匠・鍛冶・鍋屋・木挽・挽地・塗師・紺屋・御師・店屋・前栽・猿引などの肩書がみられる。諸職人のなかでは屋根葦職・大工が多く、屋根葦職は集団を作って下野や下総国へも出かけて仕事をしたという。

 山麓には旅籠屋が軒を連ねた。江戸時代後期の旅籠屋の数は30軒前後であったが、元禄から享保期にかけては倍以上の旅籠屋が存在したことが確認できる。門前町は観光地としての性格ももっていたため、遊女の存在も黙認されていたという。

 町は、地足院を中心として12か町がみられ、1丁目から6丁目までの6町とも門前町、横道町、西山町、西山新田町、東山町。東山新田町の12か町である。

 享保5年(1720)の戸数は12か町合計で282戸、天保15年(1844)には218戸であった。江戸時代後期になると、災害や飢饉で農村の荒廃化現象がみられ、戸数が減少した。安政4年(1857)と慶応2年(1866)には山津波に襲われて荒廃に拍車がかかった。嘉永4年(1851)には山火事で町が全焼し、以後、江戸時代中期の賑わいを取り戻すことはできなかった。

(明治維新の廃仏股釈)
 明治以前のこの地一帯は中禅寺を主とした仏教中心の霊地であったが、明治時代初めの「神仏判然令」を契機に起こった廃仏股釈(はさいぶつきしゃく)により、中禅寺が廃され、跡地に明治8年(1875年)、神社が造営され復興した。

 拝殿となった場所は明治以前には中禅寺の本堂(大御堂)があったので、拝殿前には礎石が残り、中禅寺の寺勢をしのばせている。

 仏教寺院のほとんどは姿を消したが、大御堂は拝殿の南西方に真言宗豊山派大御堂教会として再建され千手観音をいまに伝えている。


参考文献
 『筑波町史 上巻』
 佐久間好雄監修『土浦・石岡・筑波の歴史』郷土出版社 
 木村繁著『筑波山』崙書房
 つくばエキスプレス『筑波山MAP』

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