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筑波挙兵の天狗党 名前の由来と気質

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天狗党の由来  

〔天狗の乱〕
 桜田門外の変以来、文久年間にわたって、いっそう活発になった水戸浪士らの尊擦運動は、元治元年(1864)3月27日、藤田小四郎らによる筑波山挙兵でその頂点に達した。この挙兵にはじまる数ヵ月にわたる常総地方ばかりでなく、下野にもおよぶ大争乱は、世に“天狗党の乱”と呼ばれ、いろいろの意味で、多くの人びとの注目を浴びてきた。

 この争乱を“天狗党の乱”というのは、小四郎らその主力が、水戸藩の天狗派だったからである。いったい“天狗”というのはなにを意味したのか。
 それは天保改革のときにさかのぼる。門閥保守派は、藩主斉昭に登用された藤田東湖・会沢正志斎のような、学者で身分の低い新参者の多かった改革派を、学問を鼻にかける成上りの高慢ちきな奴らという意味で、軽蔑して呼んだことから起こったらしい。

〔正論、正義派と ”奸物”“俗論派”〕
 斉昭は天狗というのは義勇のかえ名で、人のできない立派な行動をする者を指すと自慢して使っているが、その“天狗”派は正論、正義派と自任し、改革を喜ばぬ相手を "奸物”“俗論派”などと呼んで対抗した。
 “奸物”と罵られた保守門閥派には、門閥派でないが、天狗の行動を喜ばぬ者も加わり、やがて前述のように、あるときは分裂した尊攘派、鎮派も加わったり、農村にも多くの同調者があったりして、文久から元治にかけては、大きな勢力となっていた。

〔諸生党〕
 やがてこれらの勢カをまとめて諸生党と呼ぶのは、天狗党の乱で天狗党に対抗して、水戸藩の伝統を守るため、天狗征伐に活躍するようになった大きな力が、弘道館の文武の学生(諸生)であったので、天狗に対する諸生ということで、天狗・諸生の争乱などとも称するようになり、さかのぼって諾生党などという言葉を用いるようにもなった。
 それはあるときは保守門閥派の別名であり、あるときは反天狗党の総称であったり、あいまいな使い方ではある。

〔藤田小四郎〕
 小四郎は水戸学者として有名な、町家出の藤田幽谷の孫、すなわち天保から安政にかけて、尊攘改革派、天狗派の指導者として、藩政のうえで、学問教育の面で活躍した東湖の第四子であった。
 兄の健は藤田家を継いで要職にあった。
 
 小四郎は当時23歳、かれを功助けてともに三総裁といわれた者には、安食村(新治郡出島村安食)の豪農で、文政年間の水戸藩の献金郷士の子孫、竹内百太郎や宍倉村(出島村宍倉)の修験(山伏)の岩谷敬一郎がおり、2人は東湖や正志斎らに水戸学を学んだ農村の天狗の代表であった。

  

〔筑波へ〕
 彼等が主体となり、天狗派の重鎮水戸藩町奉行田丸稲之衛門を大将に戴き、関東の名山筑波に登った。その中には郷校で生活をともにしながら尊攘活動をつづけていた農村有志も多かった。

 かれらは「水戸風聞」によれば、富農富商から軍資金を徴発し、攘夷の実現というので、横浜の外人を襲撃する計画を立て、銃砲・剣術などの軍事訓練をおこなっていたが、主体である天狗党には、水戸家中の次、三男が多く、“ふくめん頭巾”で顔を隠して行動していたという。 こうした活動家をそのころ、“壮士”などと呼んでいたが、壮士らの活動には、変革ムードがみなぎっていた。

 はじめ筑波に登った同志はわずか百数十名にすぎなかったが、小四郎らは、変革ムードに酔っていたこと、長州の桂小五郎らを通じて軍資金を得たばかりでなく、東西呼応して尊擦の兵を挙げる計画が背景にあったことなどで、挙兵の成功を信じ、慕府をして捜夷を実行させることができるものと確信していたらしい。 
       〔以上、瀬谷義彦・豊崎 卓著「茨城県の歴史」山川出版 181頁~182頁〕  

天狗党の気質  
 〔島崎藤村が『夜明け前』で描いた天狗党〕
 幕府倒壊という巨大な政治変革を引きおこした幕末期では政治舞台の前面に登場するのは支配階級である侍が中心となり、侍なしの幕末維変革の流れは一般的には描き出せない。だが例外的に島崎藤村の歴史小説『夜明け前』は、侍の幕末維新の状況を一般民衆の立場から描かれている。

 著者藤村白身が信州中山遣馬籠本陣の庄屋島崎重寛(正樹)の息子であり、重寛は誠実な平田国学者として、深い挫折ののち、明治19(1886)年、自宅に設けられた座敷牢の中で、小説に描かれているごとく狂死している。
 登場人物の青山半蔵、蜂谷香蔵及び浅見景蔵のモデルとなったのは、藤村の父親の島崎正樹、中津川宿酒造家で問屋の間半兵衛(秀矩)及び中津川宿本陣市岡長右衛門(政)である。

 藤村の『夜明け前』の冒頭、第一部「序の章」は、「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の津であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。
 一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、木曽十一宿はこの街道に添うて、22里余にわたる長い鶏谷の間に散在していた。(中略)

 この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の坂締りを厳重にした時代に、これほど好い要害の地勢もないからである。この渓谷の最も深いところには木曽福島の関所も隠れていた。東山道とも言い、木曽街道六十九次とも言った駅路の一部がここだ。

 この道は東は板橋を経て江戸に続き、西は大津を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を廻らないほどの旅人は、否でも応でもこの道を踏まねぬ。」 ではじまるが、参勤交代の行列でにぎわったところであった。

 『夜明け前』には、一般庶民の世界からとらえられた幕末維新の政治的、社会的変革の動きの中で水戸天狗党の動向が随所に描かれている。

 藤村・・・・・この地域の人々の見かたと解釈としても差し支えない・・・・・が捉えた水戸天狗党は、「夜明け前」第九章の「四」の終わりの部分に、「水戸浪土の運命をたどるには、一応彼らの気質を知らねばならない」として以下のように記載されている。

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〔有為な人物集団、水戸天狗党〕
 水戸天狗党の一団はある一派を代表するというよりも、有為な人物を集めた点で、ほとんど水戸志士の最後のものであった。その人数は、すくなくも九百人の余であった。水戸領内の郷校に学んだ子弟が、何と言ってもその中堅を成す人たちであったのだ。名高い水戸の御隠居(烈公)が在世の日、領内の各地に郷校を設けて武士庶民の子弟に文武を習わせた学館の組織はやや鹿児島の私学校に似ている。

水戸浪土の運命をたどるには、一応彼らの気質を知らねばならない。

 寺がある。附近は子供らの遊び場処である。寺には閻魔大王の木像が置いてある。その大王の眼がぎらぎら光るので、子供心にもそれを水晶であると考え、得がたい宝石を欲しさのあまり盗み取るつもりで、昼でも寂しいその古寺の内へ忍び込んだ一人の子供がある。木像に近よると、子供のことで手が届かない。

 閻魔大王の膝に上り、短刀を抜いてその眼を抉り取り、莫大な分捕り品でもしたつもりで、よろこんで持ち帰った。後になってガラスだと知れた時は、いまいましくなってその大王の眼を捨ててしまったという。これが9歳にしかならない当時の水戸の子供だ。

                                     閻魔大王 (牛久市 稲荷山得月院 蔵)              

 森がある。神社の鳥居がある。昼でも暗い社頭の境内がある。何気なくその境内を行き過ぎようとして、小僧待て、と声をかけられた一人の少年がある。見ると、神杜の祭礼の折りに、服装のみすぼらしい浪人とあなどり、腕白盛りの悪戯から多勢を頼みに悪口を浴びせかけた背の高い男がそこに佇んでいる。
 浪人は一人ぼっちの旅烏なので、祭の折りには知らぬ顔で通り過ぎたが、その時は少年の素通りを許さなかった。 

 よくも悪口雑言を吐いて祭の日に自分を辱めたと言って、一人と一人で勝負をするから、その覚悟をしろと言いながら、刀の柄に手をかけた。少年も負けてはいない。かねてから勝負の時には第一撃に敵を斬ってしまわねば勝てるものではない、それには互いに抜き合って身構えてからでは遅い、抜き打ちに斬りつけて先手を打つのが肝要だとは、日ごろ親から言われていた少年のことだ。居合の心得はさ十分にある。

 よし、とばかり刀の下げ緒をとって襷がけに袴の股立ちを取りながら先方の浪人を見ると、その身構がまるで素人だ。かけ声勇ましくこちらは飛び込んで行った。抜き打ちに敵の小手に斬りつけた。あいにくと少年のことで、一尺八寸ばかりの小脇差しかさしていない。

 その先端が相手に触れたか触れないくらいのことに先方の浪人は踵(きびす)を反して、一目散に逃げ出した。こちらもびっくりして、抜き身の刀を肩にかつぎながら、後も見ずに逃げ出して帰ったという。
 これがわずかに16歳ばかりの当時の水戸の少年だ。

 二階がある。座敷がある。酒が置いてある。その酒楼の二階座敷の手摺には、鎗ぶすまを造って下からずらりと突き出した数十本の抜き身の槍がある。町奉行のために、不逞の徒の集まるものと睨まれて、包囲せられた2人の侍がそこにある。何らの罪を犯した覚もないのに、これは何事だ、と一人の侍が捕縛に向って来た者に尋ねると、それは自分らの知ったことではない、足下らを引致するのが役目であるとの答えだ。

 しからば同行しようと言って、数人に護られながら厠に入った時、一人の侍は懐中の書類をことごとく壷の中に捨て、刀を抜いてそれを深く汚水の中に押し入れ、それから連れの侍とともに引き立てられた。罪人を乗せる網の乗物に乗せられて行った先は、町奉行所だ。厳重な取調べがあった。証拠となるべきものはなかったが、2人とも小人目付に引き渡された。

 ちょうど水戸藩では佐幕派の領袖市川三左衛門が得意の時代で、尊攘派征伐のために筑波出陣の日を迎えた。邸内は雑踏して、侍たちについた番兵もわずかに2人のみであった。夕方が来た。囚われた連れの侍は仲間にささやいて言う。

 自分はかの反対党に敵視せらるること久しいもので、もしこのままにいたら斬られることは確かである、彼らのためになお死ぬよりもむしろ番兵を斬り斃(たお)して逃げられるだけ逃げて見ようと思うが、どうだと。

  それを聞いた一人の方の侍はそれほど反対党から憎まれてもいなかったが、同じ囚われの身でありながら、行動をともにしないのは武土のなすべきことでないとの考えから、その夜の月の出ないうちに脱出しようと約束した。
 待て、番士に何の罪もない、これを斬るはよろしくない、一つ説いて見ようとその侍が言って、番士を一室に呼び入れた。

 聞くところによると水府は今非常に混乱に陥っている、これは国家危急の秋で.武土の坐視すべきでない、よって今からここを退去する、幸いに見逃してくれるならあえてかまわないが万一職務上見逃すことはならないとあるなら止むを得ない、自分らの刀の切れ味を試みることにするが、どうだと言って、刀を引き寄せ、鯉口を切って見せた。

 2人の番士はハッと答えて、平伏したまま仰ぎ見もしない。しからば御無礼する、後のことはよろしく頼む、そういい捨てて、侍は2人ともそこを立ち去り、庭から庭から垣を乗り越えて、その夜のうちに身を匿したという。これが当時の天狗連だ。  

 水戸人の持つこの逞しい攻撃力は敵としてその前にあらわれたすべてのものに向けられた。かつては横浜在留の外国人にも。井伊大老もしくは安藤老中のような幕府当局の大官にも。これほど敵を攻撃することにかけては身命をも賭してかかるような気性の人たちが、もしその正反対を江戸にある藩主の側にも、郷里なる水戸城の内にも見いだしたとしたら。水戸ほど苦しい抗争を続けた藩もない。


〔藩論の分裂〕
 それは実に藩論分裂の形であらわれて来た。もとより、一般の人心は動揺し、新しい世紀もようやくめぐって来て、誰もが右すべきか左すべきかと狼狽する時に当っては、二百何十年来の旧を守って来た請藩のうちで藩論の分裂しないところはなかった。

 水戸はことにそれが激しかったのだ。『大日本史』の大業を成就して、大義名分を明らかにし、学問を曲げてまで世に阿るものもある徳川時代にあってとにもかくにも歴史の精神を樹立したのは水戸であった。彰考館の修史、弘道館の学間は、諸藩の学風を指導する役目を勤めた。当時における青年で多少たりとも水戸の影響を受けないものはなかったくらいである。 

 いかんせん、水戸はこの熱意をもって尊王佐幕の一大矛盾に衝き当った。あの波瀾の多い御隠居の生涯がそれだ。遠く西山公以来の遺志を受けつぎ王室尊崇の念の篤かった御隠居は、紀州や尾州の藩主と並んで幕府を輔佐する上にも人一倍責任を感ずる位置に立たせられた。
 この水戸の苦悶は一方に誠党と称する勤王派の人たちを生み、一方に奸党と呼ばれる佐幕派の人たちを生んだ。一つの藩は裂けて闘った。

 当時諸藩に党派争いはあっても、水戸のように惨酷を極めたところはない。誠党が奸党を見るのは極悪の人間と心の底から信じたのであって、奸党が誠党を見るのもまたお家の大事も思わず御本家大事ということも知らない不忠の臣と思い込んだのであった。

 水戸の党派争いは ほとんど宗教戦争に似ていて、成敗利害の外にあるものだと言った人もある。いわゆる誠党は天狗連とも呼び、いわゆる奸党は諸生党とも言った。当時の水戸藩にある才能の士で、誠でないものは奸、奸でないものは誠、両派全く分れて相鬩ぎ(あいせめぎ)、その中間にあるものをば柳と呼んだ。 市川三左衛門をはじめ請生党の領袖が国政を左右する時を迦えて見ると、天狗連の一派は筑波山の方に立て籠り、田丸稲右衛門を主将に推し、亡き御隠居の御霊代を奉じて、尊攘の志を致そうとしていた。

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