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つくば市の「小田城」、落城と奪還を繰り返した防御上の弱点は何か?

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小田城は軍事的拠点には不適、政治力のシンボル          
 小田城は建久3年(1192)八田知家によって築城された。筑波山に続く宝筺山(ほうきょうざん)、俗に小田山と呼ばれている南麓の地にあり、約1キロ四方に及び、四重の土塁と四重の堀をめぐらした大規模な城であった。
 つくば市の小田集落の全域は昔の城跡である。小田城は北畠親房の『神皇正統記』起稿の地として有名であり、昭和10年6月文都省の史跡指定を受けている。つくば市は平成21年度から中世の小田城を体感できる歴史ひろばとして整備するため工事を行なっている。

 小田城は戦国時代の戦乱で数回にわたり敵に奪われたり、奪還を繰り返した城である。落城と奪還を繰り返した原因の一端を考えるため本丸跡の景況を観察した。

 本丸跡の土塁は自転車道から高さが約3m程度、自転車道の下の堀の底までの高さは1.8m程度である。堀の跡は田んぼとして利用されていたから、泥の底が軟弱であっても膝関節くらいまで泥土に食い込む程度であろう。足が立つ泥の堀底から自転車道までの高さは2m程度と観察される。

 また、堀跡周辺の景況から堀に水を溜めても、満水時でも、水深1.5m程度になればあふれ出ると観察される。渇水期であれば水位はさらに低くなる。また堀の幅は狭いところで10mくらい、広いところでも30mに満たない。 
 
 小田城周辺から土浦、つくば市街地方面は起伏が乏しい平坦な平野が展開している。草木が生い茂る時期、月が出ない漆黒の夜や風雨の強い時には、徒歩で草むらに隠れながら接近することは容易である。総じて、小田城に対しては東西南北どの方向からも徒歩部隊の接近が可能である。
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 篭城と包囲 
 篭城は兵器、食料、水などの備蓄が不十分であれば「城を枕に討ち死に」となる。壕を掘り塀、櫓をたて、堀などに障害物を設置する。攻める側は敵の糧道を絶ち、矢や弾を避けるための塹壕や城内へ侵入する坑道を掘り、焼け草を積んで城内を燃やし、土や草木を堀に埋めて城を攻めた。
 戦いは篭城する側、攻撃する側ともに膨大な人員と器材を要し、経済的にも莫大な費用を投じる消耗戦となる。   

 
 兵糧攻 
 食(じき)攻ともいい、敬が籠城した場含に攻める側が城を囲んで、食糧の補給を断つ。籠城側はやがて飢えに苦しんで降参し、開城する。この戦術は攻める方が優勢の場合にはしばしば行なわれた。 


 逆茂木(さかもぎ) 
 逆茂木とは樹を切り倒して、枝の方を敵に向けて、敵の来そうな地域に一面に並べる。献が突撃して来ると、これに引っかかって前進出来ない。底を狙って矢や弾で倒すための障害物である。 


  乱杭(らんくい)、菱(ひし)     
 乱杭は丸太の棒を地中に埋め、それに不規則に縄を張りめぐらしたものである。敵の渡河しそうな岸の水辺にも乱杭を打った。中には水面下に配列して、敵は知らずに渡河し、これに引っかかる所を矢弾で倒すしたりする。防禦陣地の前に設置した。
 菱は古くは菱の実を用いたが、両端を鋭く尖らせた竹の数片の中央を縛って立体的にしたり、あるいは鉄で作って、敵のきそうな所に無数撒いて、木の葉を散らしてわからないようにしておく。敵が来るとこれで足の裏を踏み抜き前進出来なくなる。
   
 虎落(もがり)おとしの備   
 敵が小高い所から侵入しそうな低地とか通り道に落し穴を掘って鋭い竹や鉄を無数植え、木の枝・葉や落ち葉で穴を隠し、穴に落ちたら貫き刺さるようにした仕掛けである。古くは中国で虎の襲来による被害を防ぐための罠であったが防禦に利用された。
   

      笹間良彦著「図説 日本戦陣作法辞典」柏書房 2000年

 たとえ堀が2重、3重に設けられていても、堀の中に水に隠れるように障害物を設置しなければ、防御力は低い。堀に水が蓄えられていても水位が低い時には歩いて渡れたのではないか。堀に水が満々と溜められていたとしても首から上を水面から出して歩いて渡ることが可能であるし、歩いて渡れなければ、小船のような箱や板に装具を載せ曳航しながら泳いで渡ってもいい。樹木や泥で堀を埋めてもいい。
 どの堀も浅く狭いだけでなく土塁も石垣ではなく文字通り”土”であり、その傾斜も緩いので防御陣地の構築物としては中途半端である。

 また、小田山側に観測所を設ければ城内の様子、城へ出入りする人や物の動きが把握できる。従って、戦勝のためには小田の街の住民を見方につけたることが必須の条件となる。小田氏が善政をしいた事を示唆する記事が文献に見えるのもそのためであろう。

 更に、小田氏側も敵側も小銃を装備していたが、文献には、3ないし,4丁程度で敵兵を討ち取ったという記述が目に付く。織田信長軍のように鉄砲隊を設け大規模に使用したという記述が見当たらない。当時の小銃の有効射程は精々100m程度未満、しかも単発で速射性が低いため、大群で攻撃する側にとっては、多少の戦死者が出たとしても、それほど脅威ではない。小田城は戦闘のための拠点には不向きであることが明らかである。

 筑波山を背にして広い平野に屹立していた小田城は、戦国大名の権威を天下に誇示するために相応しい政治力のシンボルであったものと推察される。 


     
    
   小田城跡航空写真 
   (平成22年2月 つくば市教育委員会「国指定史跡 小田城跡」) 
  1から13の数字は撮影地点、本丸跡を反時計周りに歩いて撮影した。
 


     工事の看板  1の地点

 
 
   1の地点の看板からみた土浦方向に走る線路跡  

       
            
   本丸跡の土塁 地点1から2、3の地点の方向  
 
      
         
   右側の堀は浅く幅が狭い
  
    
    
   2の地点から12の地点の方向  
  前方の山に見張りを配置すれば小田の街や城内が見える

  

 


 
   2の地点から3の地点の方向 
 

  
   3の地点から小田の街の方向  

  

 
        
        
   6の地点から7の地点の方向   
 
                  
               
   6の地点から小田の街の方向  
    前方の山に見張りを配置すれば小田の街や城内が見える 
   無線通信が無くても、昼夜の連絡手段はある 
 
                     
                 
   3と4の地点の中間付近から対岸の5の地点へ架かる橋  
 左の木の階段は一段の高さ15cm程度、ブルーシートまで15段、土塁の高さは自転車道から約3m、右手に一眼レフカメラを持ち、左手で土塁に手を着けながら駆け登ることができた。防御力は乏しい。
 
                 
               
   堀は浅く狭い、土塁の傾斜も緩い    
   
                              
                          
   5の地点  
  堀の底は保水のため固めてあるが、元々の堀は足が深く食い込むような堀底ではないと思われる。
 
                             
                          
   5の地点、 台上から土浦方向 
 
                  


                       
                     
   6の地点から8の地点の方向
 左側の林の中に「小田城跡の碑」が立っている    

                     
                   
   7の地点 「小田城跡の碑」   

 


                       
                

                            
                                   
   8の地点の堀  
  水を溜めても水深が浅いので、徒渉は比較的容易 

                         
                           

                          
                            
   9の地点から1の地点の方向、鉄道線路跡  

                         
                         
   10の地点から11、12の地点の方向  
  この付近の堀は幅が広いが、それでも堀底の幅は25mくらい    
 
                           
                         
   11の地点から土浦方向   

                               
                            
   12の地点から13、1の地点の方向  

                            
                           
   13の地点から12の地点の方向  

                           
                            
   1の地点の看板の脇から12の地点の方向   
  
                                 
                                
   小田城本丸跡  
   整備事業が始まる前の状況 
  (瀬谷義彦・豊崎卓著「茨城の歴史」山川出版社 昭和62年)   

                               
                             
   小田城跡 城跡の全体像  
 小田氏は戦乱に明け暮れ、財力、人材も逐次消耗したため、土塁や堀を強化できなかった。小田氏滅亡後、佐竹氏が城主になった時代に堀が増築され防御力が向上した。
  防御に適さない土地に”防御陣地”をつくるから、堀をたくさん作らざるを得なくなる。小田城に対してはどの方向からも接近可能であるから、敵に包囲された場合、堀や土塁で小分けされた狭い区画に守備兵を分散配置して守ることになる。

 戦力の集中ができないので、戦闘は大規模な合戦で乾坤一滴、決着を付けることができない。戦いは小部隊、中小規模の人数の戦闘となり、しかも堀があるため彼我ともに自由な移動ができない。武士は生きるか死ぬか、その様相は彼我の消耗戦である。

 したがって、戦いは敵を圧倒する兵力を動員することが可能な側の勝利に帰結する。この城をめぐって小田氏が落城、奪還を繰り返した一因はそこにある。 





   小田の案内図  
 

【関連記事】
筑波山麓 国指定史跡 「小田城跡」   

国指定史跡「小田城跡」と周辺の遺跡 

【参照資料】 
つくば市教育委員会「国指定史跡 小田城跡」平成22年2月 

 

 


水戸天狗党 筑波勢・田中愿藏隊の戦いと末路、天狗塚の話

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 水戸天狗党筑波勢の戦いの経過と末期ついて、明治時代に作家・横瀬夜雨(よこせやう)が『雪明り』(書物展望社)で描写している。

 横瀬夜雨は1878(明治11年)1月1日、茨城県真壁郡横根村(現・下妻市)に生まれた。本名・虎寿(とらじゅ)。別号に利根丸、宝湖。幼時、くる病に冒されて生涯苦しんだ。『文庫』に民謡調の詩を発表し、1905年詩集『花守』を刊行して、浪漫的な色彩で人気を博し、1907年河井酔茗主催の詩草社に参加した。昭和期には幕末・明治初期の歴史について研究した。1934年、急性肺炎により56歳で死去した。
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  戦場から避難する時の庶民の知恵 
 戦場となる土地では田畑を荒され、家屋敷内の物資を奪われ、建物は壊され焼かれ、時には捕虜にされたり殺傷の憂き目に遭う。そのため戦が始まればいち早く戦場以外の土地や山に避難するが、家財・衣服等は急場にはなかなか持って行けない。そこで応急の処置として土中に埋めて、敵にわからないようにして逃げた。
 家の床下や上間に埋めると、放火されたときに火熱で役に立たなくなるから、大切なものは殆んど屋外の木蔭に埋めるのが常識であった。こうした避難民の侵略者に対する唯一の復讐は井戸に人糞を投人することで、この井戸水を使えば痢病にかかる。だから兵は敵地の井戸水は飲まず、「川水を飲むべいぞ、それも国が変れば、水があたるもんだ」と警戒するが、川水だって大小便や屍骸が流れて不潔である。

 
    焼働(やきばたら)き  
  敵陣や敵城を攻める時、その付近の村落・街屋(まちや)が邪魔であった り、敵の防禦拠点になる恐れのある時、ここを焼火させることを焼働きといった。暗い夜に不意の放火で、将士に狼狽不安を与え、それに乗じて一挙に敵を減ぼすことが狙いであったから、戦術としてしばしば用いられた。その一方、敗軍が自滅する時に自ら火を放って灰燼の中で亡ぶこともあった。しかし一番迷惑するのは民衆で、戦閾員でもないのに延焼して家を焼かれて被害を蒙った。

       笹間良彦著「図説日本戦陣作法辞典」柏書房 2000年  

   以下、『雪明り』に描かれた水戸天狗党の戦いと末期である。
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   血盟団、五・一五事件の公判の初められようとする頃、筑波天狗党の遺族は山上に集まって七十年祭を挙行した。警察がやかましかったので、來会者は40人に過ぎず、天狗塚はいくつあるだろうという話が出た。

 当時囚へられた天狗は、例外なしに各部落の馬捨場で首を刎ねられている。正五位飯田軍造、天狗軍中強豪を以て聞えた木戸の軍造も、下妻の町外れで死骸を張付にかけられ、馬骨とおなじ穴に埋められている。

 押借と放火と殺傷とで遠近を脅かしてから、尊王攘夷は名ばかりに取られ、逃げる者は出ても、加はる者は無く、若年寄田沼玄蕃頭を目代として、十二諸侯(松平下総守鳥居丹波守、水野日向守、松平右京亮、土屋采女正、細川玄蕃頭、松平播磨守、堀内藏頭、井上伊豫守、松平周防守、丹羽左京太夫、板倉内膳正)の兵およそ1万3千人がひしひしと筑波をとり卷いた。

      藤田小四郎らは7月、筑波を下った・・・・・
 
           筑波山神社のロータリ−石段上

 7月藤田小四郎等まず山を下り、西岡邦之介等水戸に縁なき浪士は8月山を去った。

 藤田等は10月那珂湊を脱して下野に入り、上野信濃を経て、飛騨より越前に越え、木の芽峠の雪に阻まれて、一行800人加賀藩の手に落ちた。東山道百里を無人の境を行くが如く押し通ったが、所在に残した天狗塚は、探しようが無い。奮戰もつとも努めて今なお勇名を信濃路にうたはるる赤入道は誰だったか、赤入道の首は何処に埋められたか亦知るよしもない。 
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 兵の乱暴狼藉
 戦においてはとにかく勝つことが目的であるから、数を多くするために家の子郎党や領内の農民を集める時には乱暴狼雑も働くような暴力専門のあぶれ者をも動員することがある。いわゆる悪党と言われる連中で、山賊・海賊・追落し(追剥・劫掠)を行なう輩である。勝つことに手段を選ばぬ場合には主将が彼等を利用したし、彼等も戦場での殺戮という最大の悪業を許された状態の中で、あらゆる悪業を黙認されるのを良いことに暴れまわった。
 もし規律を厳しくすれば、敵方に寝返って逆に不利となるから、勝つために許容せざるを得なかった。戦いによって戦場およびその付近や街道筋の住民に危難が及ぶのは当然であるが、こうした無頼の者の行為によって更に無辜の人に害を及ぼし、寺杜に乱入して仏像・神像を破却し建物を焼失させた。




      笹間良彦著「図説日本戦陣作法辞典」柏書房 2000年 

 私の語ろうとするのは、元治元年8月23日筑波に見切をつけて山を下り、潮來鹿島に押し渡った天狗党の始末である。勝に乘じた幕府が常陸下総の農兵を挙げて、これを狩り、これを鏖にして、所在に築いた天狗塚の由來である。  

 水戸領でも天狗は同じ手段を用いたろうと思う。筑波の根まはりでは一ヶ村に一人位づつの物持に差紙をつけて、山へ呼びつけ、「横浜征伐に先掛致しくれと申す訳にはこれ無く此(この)方共身命を拠ちて征伐致候間、かはりに其方共二枚着る着物も一枚着て、金子用立てよ」といひつける。いやとはいえない。出張して來るのは少し荒っぽい。  

 「27日高橋上総大將にて2、30人石下(いしげ)村へ參り、ひの屋竹村茂右衛門方へ入込、土藏を改め、300百俵有之、100俵は飯米に残し200百俵献納すべき旨申聞、それより鈴木平右衛門方へ參り候處、主人留守にて分り兼候趣申立、手代並妻女を縛りあげ大道にひき据ゑ放火すべく、鉄砲の火繩にて古傘10本ばかりとり寄せ火をふきつけ、今にも焼棄になるべき樣子に驚き、300両献納。」焼かれようとした鈴木氏は今町長、現主は私の従弟に当たる。  

 高橋上総は前に私の家に居たことあり、筑波の近間(ちかま)では何村の誰が金持か位は知っていたので、出かけて來たのであろう。下総國沼森八幡の別當だつたが、素行はよくなかつた。鬼怒川西の川尻では中山忠藏方におし入り拔身を下げてこは談判中、壬生の勢が來ると聞いては、曳いて來た馬にも乘らずにころびころび長塚の渡しまで來ると船が無い。うしろには聲(とき)、前は川。夕暗迫る河原の上を犬のように這って脱れた。壬生鳥居氏の手兵は閧の天狗のにがてだった。
 鯉淵(こひぶち)勢には一度も勝てなかった天狗だが、壬生にも始終痛めつけられた。

 徴発され強奪された金額は、酒井清兵衛の1400両を最とし、酒井長右衛門の700両、五木田利兵衛の270両、横瀬忠右衛門の200両等等、山南山北、凡そ名ある豪農富商にしていたぶられざるはなく、殊に酒井氏は邸宅まで灰にされて、また起つ能はず、今は家人のありかを知る者すら無い。

 筑波軍の金策は6月末から、野火の燃えるやうに廣がって行った。筑波近くは勿論、下総は豊田、岡田、相馬、埴生の各郡から、常陸は土浦、石岡、鹿島、行方から、飛んで佐原銚子の邊まで、村村(むらむら)、町町(まちまち)、土地によりては同じ村の同じ人に、二所から呼出しのかかることあり。信(し)太郎木原へ、吉田と名のって乘込んだ天狗は2000両ほど掻き集めた処へ、水戸領田伏の浪人宿から呼出しあり、吉田は似せ者と分った。似せ天か本天かわからぬやつにまで引ったくられるのだからいい面の皮だ。天狗の中で一番暴(あば)れたのは田中愿藏だ。

 田中は太平山からの帰りに、6月6日栃木を通りかかって、戸田家の陣屋へ壱万五千両の借用を申込、金が無ければ武器を出せと談じたが、流石にきかれず。田中は油樽を割りて火を30数ヶ所に放ち、野州第一の町を灰にした。
 結城を脅かしては町かどに小麥藁、朝鮮からを積みあげ、家老水野主馬を人質にとって筑波へ戻った。6月21日には眞鍋を焼いて、「眞なべ丸やけまつかんだの唄」を残した。一行200人、同じ紫のつつぽをはおっていた。

  田中愿藏隊が占拠した つくば市神郡の普門寺 
   普門寺は常陸の豪族小田氏の祈願寺である。  


 【関連記事】 国指定史跡「小田城跡」と周辺の遺跡

 
        二 

 田中愿藏は6月25日には那珂郡野口村にいたが、土兵に追はれて寶憧院に入り、また追はれて宍戸に逃げ、8月1日土師村に闖入して放火し、15日小吹平須を掠め、鯉淵勢に遭(あ)ひて秋葉に逃れた。鯉淵勢は田中の狼藉を防ぐために組織した鯉淵村の自衛団で、無頼漢の多い村だけに極めて強く、流石の田中も何べんとなく敗けた。初めは誰大將といふでもなかったが、9月の末には湊で勇三軍に冠たりといふ働をしたので、別手組多賀谷外記が頭取を命ぜられた。 

 以書附申進候爰許其後指たる義は無之候得共去朔日府中勢田中愿藏は多人数繰出候由鯉淵村より注進有之土師村地内に於て田中勢と右村近郷御領地村々の百姓共と多人数打合双方即死手負人出來田中勢土師村放火家数二十軒及焼失  

 結束すれば百姓も役に立つ。重たい鎧を着かざったさむらひ共よりは強いことが分って真剣にあらがふ氣になったらしい。

  太田市中警衛のため当村百姓共1000人許手分入口入口を固め候處人足の者共申合問屋雄介宅を初め10軒余押込道具畳建物に至る迄悉く打破右10軒の者は野口館小菅館に籠り居候者共(注、天狗を指す) 先日中金子押掠の節手引致し候者の由

 去月晦日額田三郷の者共大勢申合竹槍を携へ同村百姓彌兵次宅へ踏込及乱暴居宅及所持の板倉打破役人下知をも不相用 加合村の者共荷担いたし落合村庄屋周吾宅へも仕掛同樣の仕業に及

 去朔日朝六頃大宮に而早鐘を搗百姓大勢集り大宮彌三郎を打破夫より鷹巣村神宮を打破二手に分れ一手は八田村庄屋を打破東野村庄屋綿引勘兵衛同所神官 ●(土へん(鹵/皿)、鹽の俗字、192-8) 子村大貫新介門井村神職大越伊豫小瀬村庄屋井樋政之亟那珂村長山伊介野口平諸澤健之介野口村長役關澤源兵衛夫より長倉へ赴候との風聞  

 文献歴々。天狗がようやく足もとを見透かされ初めたあかしである。庄屋の打こはしは天狗の宿をしたせいであらう。神官がやっけられているのは天狗党に加はった神職の多いことを暗示する。  

 河内郡(今稻敷)の各村では、天狗が押借に來れば、駒塚昆沙門堂の鐘をついて、竹槍鉄砲で征伐することを申合せたが、福田村名主金藏方へ金策に來た天狗は、かくと聞いて安中へ逃げ出した。皆は其後へ押込んで金藏方居宅文庫藏酒倉等を灰にし、金藏の逃げ込んだ徳龍寺まで焼いた。   

 筑波山集屯の賊徒共悉御誅伐可有之旨其筋より御達に付村々に於ても其旨相心得賊徒共金銀押借に罷越候はば勿論潜伏又は徘徊致候はば竹槍其他得物を以無二念打殺可申候依て一村限り小前末々迄相互に申合置賊徒共へ同意内通致候者候はば假令親類懇意たり共聊無容赦取押最寄同村先へ早々可申出若見遁置追て相知候に於ては嚴重取糺候條難有差心得組合限申合萬行屆候樣大小惣代並寄場役人共精々世話可致

  八月十八日   關東御取締 

 筑波の天狗が散り初めたので、百姓の手を借りて押へよう。天狗と見たら二念無く打殺せといふのだ。あぶなくて仕方がない。のみならず壬生藩の軍令には、天狗打取候はば身に附候品々被下之とあり、もっともこんな軍令がなかったとしても、分捕らずにおく正直者もあるまい。 
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  戦場荒らし       
 戦場となる地域では、その被害を避けるために庶民は皆避難する。合戦が終って軍がその地に滞陣すれば、兵士たちは戦場掃除と称して、戦場の死傷者を片付けたり、武器・武具を戦利品として取り上げる。 
 しかし勝った方が追撃戦に移って、戦場が移動すると、避難していた庶民も、戻って来るが、彼らはその被害の埋め合わせ、戦場の死傷者から金銭・武器・武具類を奪い、それぞれの専門の商人・職人に売って、損害の理め合わせとする。
 合戦場になった土地で一方が敗けたことが伝わると、その噂はあっという間に土民の間に拡がって、受けた被害の復讐にたちまち武装して落人狩を行なった。
  

  落人狩 
 戦に敗けて戦場より逃走する武者を待ち構えていて、殺傷したり、身ぐるみ剥いだりする敵方の雑兵や、庶民・農民の行為をいう。元和元年(1615)の大坂夏の陣の折、徳川方より「落人改」の令が公布され、大坂方の残党に対する追捕取締が厳しかったが、大抵勝者方が敗者とその一族・家族を追捕した。しかしこのほかに一方が破れたのを知ると、戦った敵だけでなく、土民、時には僧兵までもが落武者一行を襲撃した。

       笹間良彦著「図説日本戦陣作法辞典」柏書房 2000年  

                三 

 天狗狩の中で哀れを止めたのは西岡邦之助等の客分だった。元來諸国から馳せ參じた有志で、水戸の内紛に腕貸する程馬鹿ではないから、藤田等が筑波を去つた後1月近く山にゐた。8月22日壬生勢に追はれて、鹿島に入つたが、佐倉棚倉の兵と神保山城守に追ひ廻され、10人20人づつ毎日のように殺され、霞ヶ浦のまはりを逃げ歩き、元いた筑波の西まで落ちのびながら、落ち切れず、所在の部落に天狗塚を残して全滅した。

 神保山城守は下妻では天狗に焼打されて逃れ去った大將だが、湊の包囲戰では手兵を失ひながら一歩も引かず、近習二三人と床几に凭りて陣地を守った旗下だ。

 8月18日、上野の人千種太郎、鬼澤幸介、眞家(まい)の眞家源左衛門にまず殺された。白縮緬筒袖胴着、小柳萬節襠高袴、琉球立縞帶、黄八丈脚半、紺足袋、白羽二重下帶、白縮緬鉢卷、太刀拵熊毛尻鞘かけ、短刀。
 金子は一朱銀一分二朱を持つていた。大將分のふところにしては。 

          四  

 次いで力丸(りきまる)君次、瓦谷(かはらや)にて捕へらる。千種は500人がかりで殺したが、力丸は何人がかりで捕へたか。「国のため捨る命はをしまねど路の葎となるぞ悲しき」「寥々月色斷頭場」の絶命の辞を残ししたのを見ると、月下に斬ったものらしい。

 「筑波山下柿岡53ヶ村の百姓共鉄砲槍を持ち染谷村鬼越山へ屯集山上にて毎夜篝をたき罷在山上へ陣取候樣子中々一揆原の振舞とは相見不申專風聞」千種太郎を仕留めたので、意氣衝天の勢で、山上に旗さし物をひるがへしたのだ。が天狗は一人も山にいなかった。

 8月29日よりは捕へらるる者、殺さるる者、獄死する者、数ふるに暇なく、9月1日には西岡邦之助、昌木晴雄、水野主馬、高橋上總、伊藤益良等小川を逃げて鹿島に行き、黒澤八郎、川又茂七郎、櫻山三郎、熊谷精一郎、林庄七郎、渡邊剛藏等と合した。みな筑波の客將である。 

 9月3日、棚倉の兵迫り來り、佐倉、宇都宮、麻生、小見川其他幕府直属の兵続々來り会し、船亦奪はる。6日西岡等400人は大船戸から田船はんきりに乘りて延方にのがれ出た。この間水路七八町に足らず、泳いでも渡り得る程だつたが、追討軍に連絡が無かったので、うまうまと脱出した。 

 400人は霞ヶ浦を横断する船が無いので、岸伝えに敵地を踏まねばならず、鼎の軽重はすでに問はれている。6日から7日8日9日と、鹿島行方2郡の農民は残党を狩り立つる犬となつて、詰り詰りへ槍を入れ鉄砲を打込み、いやしくも生けるは捕へて、下生村石橋の杭打場にて斬殺し、首は悉く野捨にした。

  400人の内、川俣茂七郎等80人はおくれて鹿島を出たが、海陸すでに道なく、或は水に入りて死し、或は自刄し、運のいい者だけが潮來にのがれた。

 7日朝五、行方の船子(ふなこ)村へ逃げこんだ11人は、忠兵衞といふ百姓を脅迫して五丁田から田舟(たぶね)を出させ、霞ヶ浦も三又近くのがれた処へ、小笠原某小舟数艘にて追いかけ、鉄砲をぶちかけた。11人はまず忠兵衛を切殺して後水に入る者9人、甲冑の士2人は舟に残りて刺し違いちがひて果てた。ほのぼのと明け渡る湖上の悲劇である。映画にもって來いの場面ではないか。

 8日、あと一足で下野に入ろうとする処で、片倉を燒いた伊藤益良は〇(土へん+(鹵/皿)、鹽の俗字、197-1) 子に至りて自殺し、川俣茂七郎は朝房山から大橋に逃げ、土兵に迫られて戰ひ死し、残党40人羽衣に入りて悉く土民の手に落ちた。  

 水野主馬はもと結城藩老、天狗の携ふる所となれる者、土浦より結城を志し、行々土兵に苦しめられつつ、10夜九つ時、猿島郡新和田にて捕へらる。7日府中にて左の腕を傷つけ、9日には左の顎を槍で刺されたといふ。今一あしで結城へ入れたのだ。水海道で斬られた。年25。白面の貴公子、秋冷の林中に夜をあかしかねて、如何ばかり長嘆したろうと思ふとあはれである。 

 腰ぬけ林と呼ばれた薩摩の林庄七郎は谷田部で捕へられた。梅村眞一郎は島原藩士、其友伊藤益良の死を聞き、潮來にひきかへして自殺した。古の風になしてよ大みいつふるひて今の乱れたる世を。  

 8日大山崎と申所へ浪人2人上陸1人無刀にて船頭の裝をなし人家有之処へ出かく金鼓のあひづにて村々百姓共駈集り捕へ申候1人山上に居候由山を卷候處此浪人年19計支度も相應襷をかけ数人を相手に防ぎ戦い中々手利云々終槍にて刺殺申候大將らしき身なりの由に候 

 水海道から鬼怒川すりあひの渡しを西へ越えた21人は、飯沼の弘經寺へ押入、古間木(ふるまぎ)へ通り、倉持の杉山を經て鴻山で二手に別れ、11人は芦ヶ谷を焼いて平塚に移り、又々放火、沼を渡つてから行方不明となった。一組は国生に出たが、亦林中に沒し去つた。

 昨9日昼頃火急の義にて手配不行屆旁漸く一人突殺申候門前を通行致候浪賊10人位山林へ逃込候を村々人足繰出し山搜し致候得共見當り不申昨10日沓掛辺より沼縁不殘村人足罷出山林を押し清水頭と申山にて1人突留昨日小堤にて7人生捕稻尾にて1人突殺し當村にて2人突殺し蛇池にて1人生捕逆井村にて1人突留仁連村にて1人生捕都合14人御地の振合に引比候而はまだまだ愚かの事に候 
   右書面認候内又々一人召捕候  

 突留突殺しが大概竹槍である。嘗って民間の財物を強奪し、又筑波山集屯の党に加はりし者は、允許を待たずして死罪に処すべしとの命令だから、見ず知らずの旅人や、道具の新らしい棒天振などは、容赦なく斬られ殺されている。 

          五 

 西岡邦之介は鉾田から小川に脱したが、9月7日雨に遭ひて夜鶴田の原に宿つた者は60人に足らなかった。8日府中の城下を焼いて、栗原越にかかった時、土浦藩士に要撃せられ死する者12人。酒丸に到りて5人、刈間にて2人。  

 酒丸安樂寺境内裏の笹山にて緋毛氈敷2人自害1人は宇都宮左衛門 傍に肩先鉄砲受候者1人居候を生捕斬首
 
 宇都宮は紫緘の革の鎧陣羽織を着其上ござ着て打たれ申候大小一腰金子二十兩有之 

 西岡自殺鎧傍に捨あり金銀糸にて縫候もの着用外3人亦綸子金銀の縫也 

 栗原にてきり取候12の首は俵に詰め馬につけ土浦へ送申候 

 話続々、ひろうに堪へぬ。

 西岡宇都宮等の遺骸は安樂寺に葬つたらしい。栗原越で死んだ12人は今でも「天狗塚」として残っている。槍原の金もちの爺さんが天狗來ると聞いて槍を担いで往來へ飛出したところを、いきなり斬り倒された。村の人達は笑止がって天狗塚へ花を捧ぐる人もなかったが、去る大演習の年、陛下栗原をお通りになるといふので、塚を改め築いて、はじめて「天狗塚」の高札をかかげた。改葬した時、拾ひ出した骨は19人分あつたといふ。素人ばかりでしらべたのであらうから信否は保留したい。若しかしたら古い塚か墓の中へ12人を投げこんだのではあるまいか。  

 宇都宮左衛門は戸田彈正ともいった。宇都宮藩主戸田侯の一族で、水野主馬同樣人質としてとりこめられていたのだとも伝える。とにかく筑波客將の末路は俵に首を詰めた悲劇が大團圓である。 

 珂北を荒し廻って、鯉淵農兵に狩り立てられ、逃げて八溝山中に入った田中愿藏の一隊は、食物のありよう筈はないから、1人2人と山を下りて捕へられ、愿藏亦捕へられた。女の着物を着ていた。部下60人、中には13、14の少年もいた。後手に縛られたまま倉へ押籠められ、水もめしもくれず。ひよろひよろになるのを待って斬った。磐城國塙での事だ。 

 愿藏は辞世を書く間手を緩めてくれと願ったが、きかれない。よんどころなく筆を口にくはへて絶命の辞を残した。愿藏等60人を斬った男は死體を懇ろに葬ってささやかな石を建てた。二三年前、史蹟保存の意味で其事を書いて大きな石を建てた特志の人がある。名は金澤春友。 

 私の知る限りでは天狗は例外なしに馬捨場へ捨てられている。棺も無く槨も無い。大勢だと大きな穴を掘って、蓆に卷いたままの尸を転がしこんだ。

 死囚の罪人はひとり天狗といはず、すべて馬捨場へ埋めたものらしい。私は幼時母と車で下妻の石堂を通ったことあり、塔婆二三本倒れたのもあり、かしいだのもあった。あすこには木戸の軍藏が埋められているんだよと教へられた。石堂は馬捨場である。下妻で斬った天狗の遺骸は皆此処に残っている筈だ。荒草離々、虫、秋に啼いてさびしき霊をなぐさめるであろう。

         田中愿藏隊陣営跡の碑 (普門寺の赤門前)  

【関連記事】 
「つくば道」の神郡と普門寺の水戸天狗党の碑  



小田城主・八田知家の策略にはまり没落した多気城

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                 つくば市北条の城山(多気城跡)  
 
                北条マップ (城山付近)  


北条の多気城跡  
 城山(じょうやま)と通称される多気山(たけやま、標高約129.4m)に築かれた山城の跡で、4つの曲輪があり、それらを堀や土塁が囲んでいる。その外側には大きな堀の跡があり、南には土橋の跡も見つかっている。4つの曲輪のうち?〜?曲輪は連なりあって多気山の山頂から中腹にかけて広がり、?曲輪は少し離れて多気山と西隣の道場山との間にある。

 平安時代中期に常陸平氏の宗家である大掾の平維幹が常陸国筑波郡水守から多気の地に移り築いた城とする説がある。大規模な城郭遺構は戦国時代、特に永禄から慶長にかけて平安時代の城跡に大改修を施したものであろう、とされている。    

  村田修三編著「図説 中世城郭辞典 ? 第1巻」 株式会社人物往来社   
 
 現地は山林になっている。多気山では採石が行われていたため、城郭の南西部の地形は往時に比べ大きく変形している。  

 
  
 日向廃寺跡    



多気太郎義幹之墓 






 (碑文)
 多気太郎義幹は桓武平氏の流れを汲み、桓武天皇の子葛原親王より数えて11代に当たる。3代高望王より平氏を称し、4代良望は常陸大掾に任ぜられ、平国香と名乗る。

  6代維幹は水守より多気城(現北条城山)に移り初代城主となるが、直系子孫は常陸常平氏の本家とされる。維幹より6代目の城主が多気太郎義幹である。名君の誉れ高く領民のため無量院裏池及び現在地を流れる通称裏堀を開削し、水利に多大の貢献を果たしている。 

 しかるに源頼朝の全国支配が進展するにつれ、義幹の支配下にある小田の地に八田知家が進出するにつれ、両者の確執が惹起、建久4年頼朝の富士巻狩りにかかわる曽我兄弟の討ち入りに関し、義幹は知家の讒にあい領地はただち没収され、身を駿河国に預けられ当地にて没した。没日は7月6日と15日の2説がある。 遺臣等義幹の遺徳を偲び霊骸を迎えて当地に葬り以って英魂の安慰を奉り今日に至っている。 

 なお無量院は義幹の建立になり、のち時宗4代呑海和尚上人が当地を遊行のみぎり、無量院殿等阿弥陀佛の戒名を追贈している。

北条の街を流れる裏堀      
 現在は護岸工事が施され、幅が狭くなっている。




無量院裏の池   

 無量院裏から漆所方向へ登る道があったが、現在は草木が繁茂しているため登れない。 


無量院本堂      


再建記念碑 


 (碑文) 
 そもそも無量院の濫觴をたずぬるに、当山は建久元(1190)年11月多気山城主常陸大掾多気太郎平義幹公、鎌倉右大将上洛に際し随兵として京都を観して後、祖宗報恩のため一寺を道場山に建立し、西山の道場梅松山無量寿院光明寺と号し、寺領一千貫を寄せ、以って報恩の城を致せるものなり。

 然るに、建久4年義幹公かって庶民のために図り給いし水利土木のことをもって、隣接の小田城主八田知家のために讒せられ(注、そしられ)て、身を岡部権守泰綱に預けられ、その領常陸六郡の地を馬場資幹に改付せらる。このとき再三身の公明を申し述べられしが、遂に入れられずして駿河の地に憤死せらる。遺臣等、公の遺徳を偲び奉りて、零骸を迎えて、当山に葬り、もって霊魂を安慰し奉る。 

 越えて正中年中(1324〜25)、当宗4代呑海和尚、当国御修行のみぎり、○(判読できず)光の前に現れ来り、得度し給うと。ここにおいて、旧恩の領民等相集いて公が英霊を慰めんがため、無量院殿等阿弥陀佛の法号を追贈し奉り、天台宗を時宗となし、千日の念仏をなすと。

 次いで嘉暦年中(1326〜28)、当山を現今の地に遷し、なお義幹公生前崇敬し奉るところの天満大自在天神・稲荷尊・大弁財天・熊野権現を勧請して、以って当山の鎮守となし、かつ塔頭甘露院のほか末寺一寺を建立しその恩に報ゆと。然れば山門の勢観、四方の清景とともに栄えて、自ずより衆生摂取念仏通の霊場となれり。

 旧本堂
 再建発願 当山三十二世東国和尚  
 建立成就 当山三十三世察道和尚  
        享保11(1726)年2月29日

  当山五十一世敬道和尚の記録
       大正6(1917)年茅葺本堂屋根を瓦葺きとす。
       昭和13(1938)年6月大豪雨 同年9月大台風より
       本堂を大破のため修復工事。 

  昭和40年代以後幾度か補修を加えしも老朽化の防止は困難と
  判断 平成12(2000)年10月、建立以来270余年の風雪に
  耐えし堂宇の再建を決議す。
  完成まで満4年の歳月を要せり。 

 新本堂 
   建立成就 当山五十三世別海和尚 
   平成16(2004)年11月6日落慶

石造多層塔 


 この塔の正面下段には延文6(1361)年4月22日と刻まれている。
 中久木家の家伝によれば、中久木家は小田筑波守を祖とし、興国2(1341)年7代治久は足利尊氏の家臣高師冬と戦い、20年後小田一族の供養のため下大島の地にこの塔を建立した。下って16代氏治の時世に中久木家の姓を名乗ったが、天正初期小田城陥落に際し、中久木一族は小田氏と多賀氏に分かれて抗争したと伝えている。

 この塔は永く下大島の墓地にあったが、中久木家は祖先の墓として墓守を続けてきた。然るに昭和38年当時の当主常一郎氏が塔の大部分を当家の当家の墓地に移転、このたび当主芳保氏の努力により当地を発掘し不足部分を補うとともに山内の威容を一段と整えんがため この地に再建したものである。

 多層塔の下にはこのときに収拾された多数の遺骨が安置されている。また左の層塔は同時に発掘されたものを再建したものである。  

 熊野神社   

   
  長い石段   
  
     
 熊野神社本殿     
 
          
 熊野神社から北条の街方向を見る     

 

  

 

  

 

よみがえる「古代つくばの郡役所」 官衙遺跡の企画展

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風出記を体感! 平沢官衙遺跡歴史ひろば  
 奈良・平安時代の筑波郡役所跡と考えられる平沢官衙遺跡は、昭和38年に筑波研究学園都市建設の閣議了解を受けて計画された住宅地の供給に伴って、昭和50年に発掘調査された。この調査で遺跡の重要性が判明、昭和55年には国指定史跡となった。平成9年度からは復元建物3棟を主に整備し、平成15年に当時を体感できる「平沢官衙遺跡歴史ひろば」として開園した。

 今年度は開園10周年にあたり、常陸国風土記の編纂開始から1300周年である。この機会に多くの方が風土記や万葉集にも登場する古代つくばに関心と愛着を持てるよう、官衙遺跡についての巡回企画展が開催されている。 
   
   平沢官衙遺跡発掘調査風景(左) 平沢官衙遺跡発出土遺物(右)  

常陸風土記と筑波国造  
 奈良時代に全国60余カ国で編纂された風土記のうち、現在に伝わるのは5カ国のみで、その一つが常陸風土記である。常陸風土記は、律令制度の成立以前はに各地域を治めていた国造やその活動を伝えており、地名の由来となった筑簟命(つくばのみこと)が筑波国造として登場する。
    
    北条中台1号墳横穴石室(左) 平沢3号墳土器出土状況(右)
 
つくばが誇る2つの官衙  
 平沢官衙遺跡の「衙」は、役所を示す漢字である。つくば市には平沢官衙遺跡のほか、古代河内郡衙跡と考えられる金田官衙遺跡という、もう一つの官衙遺跡がある。
 2つの官衙遺跡とその周辺での発掘調査で、整然と立ち並ぶ建物群や文字・官人の装束に関する遺物、遠方の貴重品の出土といった特徴が分ってきている。また、官衙遺跡の近くの前代の大きな古墳や地域最古の寺院が作られたことも共通しており、重要な施設が集中する地域の中心であった。  

 つくばの官衙遺跡と周辺の重要な遺跡は、地方行政組織である郡の成立事情をしる手がかりとして多くの研究者に注目されている。  
    
    金田官衙遺跡出土瓦(左) 金田官衙遺跡出土「厨」墨書土器(右) 



出土文化財管理センター    
    (休催日: 10/28・11/5・11/11・11/18 )

     【交通】  つくばエクスプレス「つくば駅」から  
          つくバス小田シャトル乗車、約44分  
          「大池・官衙入口」下車、徒歩約15分  

桜歴史民俗資料館  
   (休催日: 12/2・12/9・12/16 )  

    【交通】  つくばエクスプレス「つくば駅」から  
          つくバス小田シャトル乗車、約8分   
          「桜窓口センター」下車、徒歩約1分  
 
  時間:  午前9時00分〜午後4時30分  
  入場無料   

【関連記事】 
筑波の正倉院跡 平沢官衙遺跡の出土遺物   

常陸の国は筑波の郡、歴史は古い筑波の正倉院 「国指定 平沢官衙遺跡」



 

 

 

筑波山も紅葉の季節がやってきた 11月2日の筑波山神社 

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 11月2日(土曜日)の筑波山神社周辺の景色です。 
    撮影: 午後1時ころ    
    天候: 曇り  

 ケーブルカー宮脇駅周辺   
   
     
      
                

      




    



     


 
  
 
   もみじ祭り (ポスター)   
 
   
  
   絶景の筑波山 (ポスター)   

  
 

  宮脇駅から山頂を望む

 

  宮脇駅から東京方向  
   曇り空なのでスカイツリーは見えない。  
 
 

  筑波山神社   
 七五三のお参りに来る家族が多かった。      

   
   

    

    

    

   

     

      

     


  
    
    
            



 

 

紅葉の筑波山 曇り空で肌寒い一日であったが登山客は多かった 11月9日

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 筑波山にも紅葉の季節がやってきた。
11月9日(土曜日)は終日、曇り空で肌寒かったが登山客は多かった。

  神社前から東京方向 午前8時30分頃 

  
 神社前    

  
 隋神門脇のイチョウの木      

   
  イチョウ 

     
 
  
  登山前に参拝する人  午前9時頃   

  
   参拝する人   
 

  パワースポット 樹齢800年の大杉

  
 
   ガマの油売り口上  
 
  
   口上   
 
  
   口上      

   



  
  隋神門脇の大杉    
  
   ケーブルカー・宮脇駅周辺   

   
     紅葉    

    
    紅葉    
 
    
    宮脇駅近くの土産店 
 
     
   宮脇駅から東京方向 午後6時頃
 
   
    宮脇駅周辺  
 
    
     ライトアップ  
 

 

 

水戸学の尊王攘夷思想と天狗党の乱及び勤皇志士の動向 (1)

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149年前の今頃、天狗党は京を目指して進軍中だった  
 今年は水戸藩の尊王攘夷派による天狗党の乱が起こってから149年である。
 武田耕雲斎を中心に元治元(1864)年3月27日筑波山で挙兵して幕府軍と戦ったが敗退したが、結局、京都にいる一橋慶喜に直訴しようと耕雲斎を総大将として約900名が、元治元(1864)年10月23日、那珂湊を出発し京を目指した。一隊は11月15日、下仁田で高崎藩を破り、11月19日、20日に和田峠で松本・諏訪両藩を破り進軍を続けた。12月1日、美濃国揖斐宿で一橋慶喜が天狗党討伐の総大将になっていることを知ると、京都への進軍をあきらめ越前に向かった。12月11日新保宿で幕府軍、諸藩兵約3万に包囲され、12月17日払暁とともに動き出した鯖江、府中の兵が後方から殺到すると、天狗党員828名は加賀藩に投降した。以上が水戸天狗党の乱の概要である。  

 水戸藩尊攘派の筑波山挙兵、一橋慶喜が天狗党討伐の総大将、その後の大政奉還、江戸幕府の終焉や幕末の勤皇志士の国体観の形成に大きく影響したのが水戸学の「尊王攘夷」思想であった。 

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 藤田東湖、小四郎父子と茨城県の県民性「三ぽい」  

 
島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (1) 

北畠親房の「神皇正統記」 
(南北朝時代)
 鎌倉幕府は1192年、源頼朝が創設したが、頼朝直系の血は早々に途絶えたため4代将軍以降は藤原家や宮家から名目上の将軍を立て、実際の権限は執権の北条家が行使するという二重体制のもとで続いていた。文永11(1274)年と弘安4(1281)年の元寇は執権北条時宗(1251〜1284)の力で乗り切ったが、時宗が34歳の若さで死去すると元寇のため幕府の財政が極端に悪化したこともあって幕府の支配体制にゆるみが出てきた。 

 京方面においては後醍醐天皇が中心となった動きが激しさを増し、関東においても、北條氏の運命は尽きていた。先に、千早の攻囲軍中にあって、護良親王の令旨を戴いて東国へ帰っていた新田義貞は、義兵を起して鎌倉に攻め入り、北條氏一族を討滅した。時に元弘3(正慶2、1333)年5月22日、鎌倉幕府は終わった。 

 その後、足利尊氏の北朝と後醍醐天皇の南朝に分かれて激しい戦いが続いた(南北朝時代)。この時代の変乱は、足利尊氏が、後醍醐天皇の親政に背き、武家政治の復興を計ったことに起因しているが、当時武士階級に大義名分を解するもの甚だ少く、多くの武士は利害情実によって動き、昨日の宮方は今日の武家方となり、今日の武家方は明日の宮方となるというように、付いたり離れたりの動きが多かった。足利氏をして野心を遂げさせた背景には、このような武士の動きがあった。 

 南朝勢力の参謀役であった北畠親房は、天皇領の庄園で小田氏の支配下にあった信太荘に海路上陸し、常南地方の南朝の中心であった小田城に在城して東国の勢力挽回に努めた。 

 北畠親房は小田城に在城していた延元4(1339)年の秋ごろ、人心の頽廃を嘆じ、日本の国体を明らかにするため「神皇正統記」を執筆した。後村上天皇に献上するためといわれている。

 その冒頭で「大日本は神国なり。天祖始めて基を開き、日神 長く統を伝へ給ふ。我が国のみこの事あり。異朝にはその類なし。この故に神国といふなり」と、国体の真髄を明らかにしている。

 また、「凡そ王土に孕(はら)まれて、忠を致し命を捨つるは人臣の道なり。必ず之これを身の高名と思ふべきにあらず」と喝破して、当時の武士の通弊たる恩賞目当ての進退に対して、鉄槌を下している。

「大日本史」「日本外史」の勤皇思想も、「神皇正統記」にその源を発している。「神皇正統記」は明治維新の思想的基盤をなした著述である。北畠親房は老躯をもって朝廷に尽くし、その子顕家、顕信を君国に捧げた。このため戦前、北畠親房を、日本無双の忠臣だと言われていた。 

【関連記事】
 大町桂月 『秋の筑波山』、自動車のない時代の登山は大変だった!

尊皇思想の勃興  
 家康、秀忠、家光と、江戸幕府3代の将軍は、朝幕問題、諸大名問題、切支丹キリシタン問題、外国との通商問題、その他法制、経済、教化などに腐心していたが、彼等は幕府の政権の永続化を図る以外、何ら高遠な理想を持っていなかった。そのために日本の民族的発展の機運を阻害した点が少なくない。 

 また、織田信長、豊臣秀吉は皇室に対する純粋な敬意を持っていたが、徳川家康、秀忠は皇室に対して終始政略的であり、江戸幕府の朝廷に対する態度は、勤皇の志士によって痛憤を感じさせることが多かった。 

 後水尾天皇の
   葦原やしげらばしげれおのがまゝ
     とても道ある世とは思はず 
 の御製によっても、幕府の横暴が察せられる。

 しかし、天下の政権を握った徳川家康が、治国の道徳的基礎として従来の戦国武士道を学問によって新しい君臣道徳に体系づけようとしたことは、やがて天下の武士に君臣の大義名分を知らせることに役立った。

 彼等は自分と主君との名分を知ると共に、主君と将軍との名分を知り、それと同時に将軍と朝廷との間に、より一層大なる名分の存在することに気づいた。

 幕府の学問奨励によって輩出した江戸時代初期の大儒者である山鹿素行、熊沢蕃山、山崎闇斎等は、漢学に伴うシナ中心の思想を清算し、日本の学者であるとの自覚を持つに至ったことと共に、日本主義に徹し、日本の国体の尊厳なる所以は、尊崇すべき皇室あるがためだという結論に達していた。

 聖徳太子が「日出処ひいづるところの天子」と書いた国体精神が、北畠親房の「大日本は神国なり」の神皇正統記となり、尊王思想は後々の学者に承け継がれていたのである。幕府が、御用倫理学と頼んでいた朱子学派の山崎闇斎が、尊皇賤覇思想の一つの源とさえなっている。
 
          弘道館記碑修復祝う    


(水戸学) 
 こうして江戸幕府が、自家の道徳的立場を擁護するため奨励した学問は、国体観念を勃興させ、それと不可分である尊皇思想の台頭を促がすことになった。

 しかも、徳川の御三家として、その藩屏である水戸の徳川光圀は、彰光館を開き「大日本史」を編修した。「大日本史」は、南朝正統論を唱えたていたので後世に大きな影響を与えることになった。実際に編集員を各地に派遣して考証し、引用した出展の明記、史料・遺物の保存に努めている。また和文・和歌などの国文学、天文、暦学、算数、地理、神道、古文書、兵学などの学問を奨励した。
 代表的な学者に中村願言、佐々宗淳、安積澹泊、栗山潜鋒等が居る。元文2(1737)年、安積澹泊の死後、修史事業は停滞した。

 だが、その修史の事業は、当時における国史の定本を提供したというだけではなく、水戸35万石の財力を傾注したといわれる編史事業そのものが、学問の奨励となり、学者の優遇となり、国史の研究を促し、国学勃興の原因となり、尊皇精神の昂揚に多大な貢献をした。
また徳川光圀は、寛文5(1665)年、亡命中の明の遺臣朱舜水を招聘した。朱舜水は、陽明学を取り入れた実学派であった。

 第6代藩主徳川治保の時代になると蝦夷地にロシア船が出没したことがあって、彰光館総裁立原翠軒を中心として修史事業の復興に努めただけでなく、農政改革や対ロシア外交など具体的な藩内外の問題に意見を出すようになった。

 立原翠軒の弟子の幽谷は寛政3(1791)年、「正名論」を著し、寛政9(1797)年に藩主治保に上程したが、藩政を批判する過激な内容であったので編修の職を免ぜられ左遷された。大日本史編纂の方針を巡り翠軒と幽谷は対立を深めるようになったが、幽谷は、文化4(1807)年総裁に就任した。幽谷の門下、会沢正志斎、藤田東湖、豊田天功らが水戸学派の中心となった。
 義公以来連綿として続いた水戸の藩学は、会沢正志斎、藤田東湖の2人の碩学の出現により、後世、水戸学と称されて尊皇論の中核となった。  

 水戸学の定義を強いて言えば、大義名分の学であり、皇道第一主義の思想である。その背後には、「大日本史」という史論を持ち、その実践方法においては、あくまでも実行第一を主としている。この点では、陽明学の実践主義も遥かに及ばない。

 その思想の中心が国体明徴であるため、勢い覇者である幕府否認に傾き、それを実行したため幕府にとっては、これ程恐ろしいことはなかった。
 井伊直弼が安政の大獄で狂気じみたテロリズムを行ったのも、この勤皇思想の中核水戸学の総主たる斉昭を抑えるためだった。

 水戸学の基礎を大体築いたのは藤田幽谷であるが、これを体系ある思想として完成させたのは、その高弟である会沢伯民と、その子である藤田東湖である。 
 会沢伯民は、諱(いみな)は安(やすし)、通称正志斎とも言われた。東湖その他の水戸学者の稜々たる野性ぶりとは違って、温厚篤実、心の底からの学者肌の人であった。
 後進を戒めて、常に、
  「口を以て書を読むことなく、心を以て読め。」
  「士は弘毅でなければならぬ。弘なるが故に之に安んじ、毅なるが故に少しも撓たわまない。」
  などの言葉を遺している。

 然し、何といっても彼の名を不朽にしたのは、44歳の時に著した「新論」である。文政7(1824)年水戸藩内大津村に、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求めて上陸するという事件が起こった。幕府の対応は上陸したイギリス人の要求をそのまま受け容れるもであったため、幽谷らは幕府の対応は弱腰であるととらえ、水戸藩内で攘夷論が広まることになった。事件の翌年、会沢正志斎は尊皇攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著述した。 

 その冒頭で、「日本国民のすべては、何を措いても、日本国体の自覚の上に立て。」と正志斎が絶叫したのが「新論」の趣旨である。
 その巻一の初めには、
 「謹みて按ずるに、神州は太陽の出いづる所、元気の始まる所にして、天つ日嗣ひつぎ、世々、宸極しんきよくを御し、終古易かはらず。固もとよりに大地の元首にして、万国の綱紀なり。誠に宜しく宇内(うだい)に照臨し、皇化の曁(およぶ)所、遠邇(えんじ)あることなかるべし。」  
 と、日本国の優越を宣言している。
「新論」は、熱血溢れる幕末の勤皇の志士達には、経典の如く読まれ、奮起の原動力となった。

 吉田松陰は、肥後の宮部鼎蔵(ていぞう)と手を携へて上京する船中でも、この「新論」を読んで深く感激したと言い伝えられている。そして、会沢に会いたくてたまらず、遂に水戸の寓居を訪れて、尊敬する会沢から直接、話を直接聞くと、「吾れ今にして皇国の大道を知れり。」と述懐し、「会沢先生は、人中の虎なり。」と、死ぬまで敬慕の念を寄せていた。 

 高杉晋作は「新論」を読むと、すぐ藩公の世子に献上しているし、真木和泉は、「新論」を読むと、矢も楯もたまらず水戸へ出掛けて会沢門下に加わっている。
 「新論」の名声は天下を風靡して、「新論」を読まざる志士はなく、「新論」を読んで勤皇志士たらざるなし、といった有様であった。

 天保8(1837)年、第9代藩主の徳川斉昭は藩校・弘道館を設立し、総裁の会沢正志斎を教授教頭とした。藤田東湖は古事記、日本書紀などの建国の神話を基に「道徳」を説き、そこから日本固有の秩序を明らかにしようとした。中でも弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」である。東湖は「弘道館記」とこの解説書の中で、尊王思想を明らかにしている。これらは、水戸学の思想を簡潔に表現しており、その中で「尊王攘夷」の語がはじめて用いられている。 

 会沢正志斎は、水戸の南街塾で、諸国から集った好学の志士を教導しながらも、万巻の書に埋り、清貧の中に、文久3(1863)年83歳の天寿を全うし生涯を終えた。

 会沢正志斎が学者肌であったが、藤田東潮は、むしろ、悲憤慷慨する気骨のある政治家肌の男であった。東湖は、天下の諸侯有志と交わって積極的に水戸学を鼓吹した。西郷隆盛は、大先輩として東湖を敬い、「天下真に畏敬すべきは、東湖先生である。」と晩年に至るまで語っている。

 また、東湖は土佐の豪傑殿様山内容堂とは非常に親密で、酒宴では盛んに時勢を語り明したが、ある時、「水戸は親藩でダメだが、山内侯一つ幕府に対して御謀叛なさつては如何でござる。」と言って、きもっ玉の大きい容堂を驚かしている。
 東湖の著書で、有名なものは、「常陸帯」「囘天詩史」「弘道館述義」「正気歌」などである。中にも、「囘天詩史」「正気歌」は、維新の志士に愛誦好吟された。

 東湖の活動には、藩主、烈公斉昭のバックアップがあったので水戸学は会沢正志斎、藤田東湖に至って大成した。しかも、水戸藩は、諸侯中の最高位にあった烈公斉昭以下藩をあげて鬱蒼と生い茂る林のように反幕府勢力の一大中心となっていた。

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国学の興隆  
 江戸時代に勃興した思想で、明治維新以後、戦前の日本社会に最も大きな影響を与えたものは、第一に国学であり、第二に洋学である。この国学の興隆に直接有力な刺戟を与へて国学復古の気運を創ったのは、水戸光圀の修史事業であった。

 光圀は大日本史の編纂に当って、和文の本原をたずねて古語を研究する必要を感じて、日本全国にその史料を探し求め、それを整理した。すなはち、扶桑拾葉集や、礼儀類典や、神道集成を編纂し、さらに万葉集の研究に手をつけた。

 このことは、日本の法典、法や儀式などの研究に大きな影響を与へ、難解とされていた国学書、中でも国文学書の一般的研究に、一筋の道を開いたのである。

 当時、大坂に下河辺長流(しもかうべながる)、釈契沖(しやくけいちゆう)のような古典古語に通じた篤学の人々がいて、光圀は多くの中から適当な人や物を探し出すことができた。その上、漢学者も刺戟されて国学の必要を感じ、古典研究に余力を用いるものが多くなったが、新井白石や伊藤仁斎、貝原益軒は、その代表である。

 下河辺長流、釈契沖についで現はれた専門の国学者に荷田春満がある。春満の家は代々京都伏見稲荷山の祠官である。彼は家を弟に家を継がせ、自らは国学の復古をもって任とし、国史、律令、古文、古歌および諸家の記伝に至るまで渉猟した。

 当時は支那かぶれの荻生徂徠が、日本を東夷と称していた時代であったが、春満の「ふみ分けよ、大和にはあらぬから鳥の、跡を見るのみ人の道かは」の一首は、彼の一生の抱負であるばかりでなく、門下から門下へと伝承された建学の精神であった。

 彼は釈契沖のような後援者を持たない一介の町学者であったが、独力で契沖とは別の方面において古学を開拓した功労者である。そして彼が遺した最大の功績は、彼が起こした学統から賀茂真淵や本居宣長のような偉大な復古学者を輩出させたことである。

 賀茂真淵は遠江・浜松の新宮の禰宜・岡部定信の二男で、享保18(1733)年37歳で京都に出て、荷田春満の門に入った。足かけ4年で師の春満は死んだが、平田篤胤は、荷田の多くの門人中で一人傑出していた。真淵の学統を真に受け継いだ者は、本居宣長で、国学の真の精神を明らかにしている。

 彼の著書「玉くしげ」に、
 「凡て天下の大名たちの、朝廷を深く畏れ、厚く崇敬し奉り玉うべき筋は、公儀の御定めの通りを、守り玉う御事勿論也。然るに朝廷は、今は天下の御政を、きこしめすことなく、おのづから世間に、遠くましますが故に、誰も心には、尊き御事は存じながらも、事にふれて、自然と敬畏の筋、等閑なおざりなる事も、無きにあらず。

 抑そもそも本朝の朝廷は、神代の初めより、殊なる御子細まします御事にて、異国の王の比類にあらず。下万民に至るまで、格別に有りがたき道理あり。(中略)されば一国一郡をも治め玉はん御方々は、殊更に此子細を御心にしめて、忘れ玉う間敷(まじき)御事也。是即ち大将軍家への、第一の御忠勤也。 

 いかにと申すに、先ず大将軍と申奉まをしたてまつるは、天下に朝廷を軽しめ奉る者を、征伐せさせ玉う御職にましまして、此ぞ東照神御祖命(あづまてるかむみおやのみこと)の御成業の大義なればなり。」 
 と、いっている。  

 宣長は自分が仕へている紀州侯に向って、朝廷尊崇は幕府に対する第一の忠勤であると説いている。彼は将軍職というのは、朝廷のために不義不逞の徒を討伐するのが役目で幕府は独立して存在するのではなく、朝廷のために存在するのである、と大義を説いているのである。彼が師の真淵を超えて、国学者の魁首とされたゆえんである。  

 秋田の人平田篤胤は、宣長の門に入って2ヶ月後に宣長が歿し、親しく教へを受けることができなかったが、宣長を先師と尊んで、その遺著によって国学を励み、さかんに尊皇愛国の精神を鼓吹した。

 篤胤は、春満、真淵、宣長と共に国学の四大人と呼ばれているが、その尊皇愛国主義の主張は実行的であったために、幕府に忌憚され、天保12(1841)年江戸を逐はれ、秋田に帰郷を命ぜられた。彼の著「扶桑国号考」は絶版となった。 

  ふみわけよ大和にはあらぬ唐鳥の  
   跡を見るのみ人の道かは   荷田春満  

  みたみわれ生れけるかひありて刺竹さすたけの 
   君がみ言を今日きけるかも  賀茂真淵 

  さしいづるこの日の本のひかりより 
   高麗もろこしも春をしるらん 本居宣長  

  人はよしからにつくとも我が杖は 
   やまと島根にたてんとぞ思ふ 平田篤胤  

 国学の研究は直接的には江戸幕府の脅威ではなかった。多くの国学者も幕府には何等の反抗的思想を懐いてはいなかった。だから幕府は国学に対して幾分の保護を加へているほどである。併し、国学の究極の観念は、皇室中心主義である。幕府絶対中心主義とは根本的に相反するのである。

 この尊皇思想は、江戸幕府の内部的な矛盾が大きくなる伴って、国学の大先輩たちも予期しなかったほどの国民的な力と化した。
700年も続いた武家政治を根柢から覆すような偉力を発揮したのである。 

【続く】水戸学の尊王攘夷思想と天狗党の乱及び勤皇志士の動向 (2)

  

 

 


水戸学の尊王攘夷思想と天狗党の乱及び勤皇志士の動向 (2)

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水戸学の尊王攘夷思想と天狗党の乱及び勤皇志士の動向 (1) の続き

江戸幕府の衰亡 
 江戸幕府は、3代将軍家光に至って、あらゆる機構が整い、武家政治は完成された形を示したが、5代将軍綱吉に至って、幕府の太平が謳歌される傍ら、綱吉の偏執的な性格や、生類憐愍令や、悪貨鋳造などからの影響もあって、太平の余弊たる享楽主義が天下を風靡した。もっとも、そのために学問、文芸、演劇、美術、商業など、文化的な方面は発達したが、戦国伝来の律義な武家精神は凋落した。

 その後も庸主が続いたので幕府の政治的機構は、生気を失った。たまたま8代将軍吉宗は、紀州侯頼宣の孫ではあるが、わずか3万石の領主から、宗家を嗣ぎ、更に将軍になっただけに、天成の英才であると共に、下情に通じ、家康創業の精神をもって、幕政の改革、風俗の矯正に努力し、足高の制(従来は、千石の者が、三千石の役高の職に就くと、永久に三千石になるのを、吉宗は、在職中だけ差額二千石を給することにした。幕府の財政の膨脹を防ぐと共に、少禄の者を抜擢するためである。)目安箱(投書箱)の設置など、大いに善政を敷いた。
 江戸幕府の命脈は、彼によって、延長されたに違いないが、幕府制度の本質内に含まれている欠陥は、如何ともすることが出来なかった。
 江戸幕府の中心思想は、封建的農業主義である。が、日本の土地の広さは一定しているし、農事の技術も百年一日の如しであるから、農産額などは、殆んど増さないのである。これに反して、都市の発達に伴う近世的な商業は、発達して行く一方である。

 これでは、土地所有を基礎とする武士階級の経済力が、商業、すなわち町人に支配され、その政治的位置までが動揺を来すことは当然である。幕府創設以来百年に足らずして、熊沢蕃山は、「今は、大小名とも借銀が多からざるは稀なり。」といっている。その借銀は、主として大坂の町人から借りたのである。

 むろん、町人に借りる前に、家臣達の知行米を借りたから、小身の武士は、仲間(ちゆうげん)も置けないし、種々の内職さえもした。旗本の間では、町人から持参金のある養子を貰ったりした。

  昔の武士は、千石について約30人の兵を連れなければならない。平生から、それだけの人数とそれに必要な武器とを用意しなければならない。が武士が貧乏してしまうと、人を養うことが出来なくなるし、持っている武器も手放すわけである。役儀上、ぜひとも人数を揃へなければならない場合は、傭人足を頼むわけである。

 恩顧譜代の家の子郎党に取り囲まれた鎌倉時代の武士と比べると、幕末の武士達は、武士とは言えない状況にあった。それに、武士は農民が発達したものだ。土地に固着して、半兵半農で武を兼ねたところに、武士の本領があったのである。 

  土地を離れ、都会に定住し、柔弱な側用人や腰元などに取りまかれていたのでは、知行取りで、サラリーマンと同じで、武士ではないのである。だから、律義一徹な三河武士の子孫たる旗本8万騎も、単なる消費階級として幕府の足手まといになるだけで、軍隊ではなくなっているのである。これでは、幕府の威信は地に墜ちるばかりである。

勤皇思想の勃興
 そこへ持って来て、勤皇思想の勃興と外交問題が、時代の激浪として幕府に迫って来た。結局これが幕府の命取りになったが、三代の家光の鎖国以来150年の間に、世界の形勢は一変していた。 

 鎖国当時、ヨーロッパ資本主義は、ポルトガル人を先駆として東洋のインドや支那や日本に力を伸して来たが、今はすでに英国がポルトガルをしりぞけ、オランダを圧して、東洋貿易を独占しようとして、支那と交易し、南方から日本に迫ろうとしている。ロシアは五代綱吉時代にカムチャツカを支配下に置いたが、ついに我が千島列島を侵し、女帝エカテリナは日本語の研究をやらせていたというくらいだから、北海道を手に入れようと窺っていたのである。

   フランス革命も、イギリスの産業革命も、アメリカのフルトンの蒸汽船の発明も、11代家斉の寛政、享和、文化の頃である。世界の交通が大規模となつて、ヨーロッパ人の東洋経営が猛烈化し、フランスの安南占領、イギリスの印度インド攻略、阿片戦争、ロシアの黒龍江地方の経営等が行われた。こうして世界資本主義の波は、東洋の一隅で鎖国の惰眠を貪っている日本の周囲に、ひたひたと押し寄せたのである。

 幕府体制を維持する上で最も重要なことは、幕府中心主義と日本孤立主義である。幕府中心、将軍絶対主義は、勤皇思想の勃興によって動揺しようとしているし、農業的鎖国の徹底によって維持しようとした封建的大土地所有制度は、欧米の商業資本主義流入の急潮によって脅かされている。

 元来、勤皇思想は国体観念と連繋しているが、諸外国との関係は、当然国家意識を喚起させた。そのため国防思想は勤皇思想と融合し、国防論と尊皇論とは抱合して尊皇攘夷論となり、やがては討幕の大運動となって展開したのである。

 大名の中での攘夷論の第一人者は、水戸の徳川斉昭である。彼は嘉永6(1853)年6月にアメリカの提督ペルリが軍艦4隻を率いて浦賀に入港し、国論が沸騰したときに、大砲74門を幕府に献じて世人を驚かせている。そのため水戸は尊皇攘夷論の中心地になった。
 ペルリの軍艦は、2隻は帆船で2隻は風力と気力兼用だった。いわゆる黒船の砲声や黒煙は、手槍や火縄銃を持つ沿岸警備の武士達を驚かせた。
 洋学によって海外の事情を学んでいた渡辺崋山や高野長英等は、攘夷が無謀であることを説いた。日米間に神奈川条約が締結され、下田及び函館の2港が開かれた。
  安政3(1856)年には米国領事ハリスが、米国旗を掲揚して下田に駐在した。同4年には江戸、大坂、兵庫、新潟の4港を開くことが決まり、同5(1858)年には、イギリス、ロシア、オランダ、フランスとの通商条約が結ばれた。翌6(1859)年には横浜、神奈川、函館の3港が開かれた。

 こうして、外国を恐れた幕府は、鎖国主義の本家でありながら、事なかれ政策のために開国した。このため外交問題は幕府にとって致命傷とり、国内は開国論と攘夷論で沸騰した。

 しかし、開国論者といえども、幕府の態度を支持したのではなくして、当初から進歩的な鎖国排撃論者であった。又攘夷論者も、鎖国主義的攘夷論でなくて、国家の面目を傷つけず、国体の尊厳を毀損し、国民の意気を挫く外国の脅迫的な開国の要求や城下の盟約開国に悲憤慷慨したのでえあって尊皇愛国的な攘夷論者であった。 

  開国論の大先達と言われる横井小楠も、その一人であった。もっとも、中には到底不可能な攘夷の実行を迫って、幕府を窮地に追い詰め詰腹を切らせようとする倒幕戦術としての攘夷論者もいたことも否定できない。

 そして、その間、島津久光の家来が横浜郊外の生麦でイギリス人を斬ったり、浪士たちが品川御殿山の外国公使館を焼いたり、イギリス船が下関や鹿児島を砲撃したような事件も起った。
 また、梅田雲浜、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎を始め多くの勤皇家が惨殺された安政の大獄や、その報復としての桜田門外の井伊大老襲殺があり、やがて薩長の連合によって倒幕が実現した。

 幕府が、150年にわたって厳守して来た鎖国政策を、案外容易に放棄した原因は、幕府絶対中心主義であった江戸時代の社会が、経済的には商業資本主義による町人の興起とこれとは対称的に武士階級が財政難に陥ったこと、思想的には尊皇思想が全面的に勃興したこと、この2つによって幕藩体制が動揺し出したため、外国との貿易も進展しつつあり鎖国が意味を持たなくなって来たからである。

 さらに外交問題が、幕府倒壊の転機となった。江戸幕府を直接転覆したものは、創業の家康が極度に恐れた外様の雄藩、強藩ではなく、志士と呼ばれる下級武士の活躍であり、鯨を追って来た捕鯨船を保護するためにアメリカ政府が持ち込んだ強(こわ)談判であった。倒幕と開国によって日本が列国の発展から取り残される危機は解消されると同時に、天皇親政は、頼朝以来実に676年にして、本来の姿で再現するに至ったのである。

  剛直漢の掃部頭(かもんのかみ)井伊直弼は、安政5(1858)年4月、大老職に就くや、矢継早に、反動的な改革を強行して、殊に、井伊直弼の傲岸不遜は勤皇の志士の憤激を買った。将軍継嗣問題では、当時の輿論であった、一橋慶喜よしのぶを将軍世子に就けることに反対して紀州慶福(よしとみ)を推したこと、通商条約問題とでは勅許を待たずして日米条約に調印したことである。この動きは勤皇派らからみれば、それは言語に絶したものであった。
 孝明天皇はその非礼に激しく憤られ、各地の志士の間に井伊弾劾の叫びが嵐の如く捲き上った。

 この時、井伊の輩下であった間部詮勝(まなべあきかつ)と長野主膳は志士の裏を掻いて、京都の反井伊の主魁と目された頼三樹三郎・山岡慎太郎・梅田雲浜等を捉えた。

  次いで、志士追及の疾風は、枯葉を捲くように、京洛の地を払った。六角の獄舎は、志士達で埋まってしまった。捕えられた人々の中には、公卿の諸大夫、宮方の青侍、処士、町人、画家、近衛家の老女村岡もいた。越前の橋本左内も、六角牢へ投げ込まれた。

 検挙の手は、堂上公卿の上にものびた。青蓮院(しょうれんいん)の宮、鷹司太閤、近衛左府、一條、二條、徳大寺その他数十家へ、慎み、落飾、辞官、出仕止めなどの横暴な断罪が下された。

 追捕の手は、京都江戸のみにとどまらなかった。第二次、第三次と、全国に亙る検挙網は布かれて、多数の志士が捕縛された。事件に直接関係なく、長州の野山獄につながれていた吉田松陰も江戸へ送られた。

 江戸に集められた志士を裁くに、井伊直弼は、閣老松平乗全(のりやす)を裁判長として、「五手掛(ごてがかり)の調」にとりかかった。これは、寺社奉行、勘定奉行、町奉行、大目附、目附を掛員として、評定所に設置された一種の特別裁判であった。
   その時の拷問のひどさと断罪の不合理さは、言語に絶するものであった。断罪に先立つて、梅田雲浜は病死し、日下部伊三次(くさかべいそうじ)は拷問のため死んだ。評定所組頭木村敬蔵が、「この度の吟味は、人間の皮をかぶり候さふらふ者にては出来申さず……」と書いている位ひどかった。

 安政大獄の第一回の処断は、主として水戸派、即ち、安島帯刀(あじまたてはき)、鵜飼吉左衛門、幸吉父子が、死刑を執行された。

 第二回は、頼三樹三郎、橋本左内、飯泉喜内の3人である。

 頼三樹三郎は、井伊派から、梁川星巌(やながはせいがん)、池内大学、梅田雲浜等と共に「悪逆四天王」といわれて憎まれていた程の硬派だから、死罪は覚悟の上であった。しかも、関東へ送られる途中、彼は少しも恐れる色なく、「日毎に軍鶏籠(とうまるかご)の中から酒を乞い酔眠すること平日と異らず」という程、腹の出来た人間だった。さすがに頼山陽の子に恥じなかった。

 橋本左内は、攘夷令降勅の件には関係なかったので微罪になると思はれていたが、彼は、堂々と裁判官に所信を披瀝して退かなかった。26歳の橋本左内は、裁判官に大義名分を述べ「貴公達もそう考えないか」と説教したのである。

  幕末の能吏、水野忠徳は、「井伊大老が橋本左内を殺したるの一事、以て徳川氏を亡ぼすに足れり」と喝破している。

 吉田松陰の処刑は第3回目である。
「奉行死罪のよしを読聞せし後、畏り候よし恭しく御答申し、平日庁に出る時に介添せる吏人に久しく労をかけ候よしを言葉やさしくのべ」、正午、伝馬町の獄に帰った。それから、裃(かみしも)紋附の上に荒縄をかけられ、刑場へ引かれたが、この時、松陰は同囚等への告別のつもりで、自筆の「留魂録」の冒頭の歌、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」と、

  次の辞世の詩、「吾今為レ国死。死不レ負二君臣一。悠々天地事。鑑照在二明神一。」を吟唱した。

 刀を振った浅右衛門は、「多くの罪人を切ったが、吉田松陰の最期程、堂々として立派なのは他になかった。」と言っている。

安政の大獄は、安政5(1858)年9月から志士の逮捕を始め、6(1859)年12月に一段落した。 
その範囲は、上は親王、五摂家、親藩、大名から下は各藩の下士、浪人にまで及んだ大規模なものであった。井伊の目標とする所は、勤皇志士を根絶し、水戸斉昭を屈服させることであった。勤皇運動の総帥斉昭を抑えれば、朝廷や尊皇攘夷論者は降参すると考えたのである。

  しかし、尊皇攘夷思想は、そんな簡単なことで止まるべくもなく、却って、益々、熾烈となり、井伊は、桜田事変で水戸藩の志士に復讐されたのである。 

勤皇志士と薩長同盟 
 明治維新に活躍した勤皇の志士の中でも、その忠誠や志操が、何等報いられずに中途で斃れた人が多い。吉田松陰、久坂玄瑞、田中河内介、真木和泉、梅田雲浜、頼三樹三郎、有馬新七、松本奎堂(けいどう)、河上弥市、吉田稔麿(としまろ)、藤田小四郎、武田伊賀、入江九一、坂本龍馬、中岡慎太郎、その他無数である。

  これらの人々は、生き延びていたならば、その人物において、その功業において、伯爵や侯爵を授けられた維新の功臣達と、何の遜色もなかったといわれている。

  殊に、これ等の人の中でも、藩論に背いて行動した人や、徒手空拳で奮起した人や、神官や処士などで大事のために奔走した人達は、何の政略味もない純忠至誠の人々である。50有余歳の高齢で、いわゆる天誅組に参加し、戦敗れて刑死した国学者伴林光平(ともばやしみつひら)などは、忠誠が殆んど報いられていない。しかし、これらの人々こそ、真に明治維新の大業の礎石となった人々である。

 こういう人達に比べれば、尊皇討幕の大義名分が、全国を風靡した後、各藩の方針も定まり、それによって行動した人達などは、仕事も楽であり、一身の栄達も思いのままだったのだから、功臣であると同時に成功者になれたわけである。

 明治維新の初期を彩った各地の討幕反幕の行動を挙げると、井伊直弼の首を挙げた桜田事件、閣老安藤対馬を要撃して傷つけた坂下門事件、薩藩内部の同士討であるが、京都に、武装蜂起を企てた伏見寺田屋事件、中山忠光の大和義挙、澤宣嘉(さはのぶよし)、平野国臣らの生野義挙、そして元治元年の禁門戦争(蛤御門の変)などがある。

 これらの反幕府運動の結果、果して彼等の期待したように幕府の勢力は地を払ったであろうか。幕府の声威は日々に衰勢を見せてはいたが、表面に現はれたこれらの事件の結果は、必ずしも勤皇運動の伸張を意味してはいなかった。

 元治元(1864)年の禁門戦争の結果は、この反動的な時勢の動きを、露骨に示している。無分別な長州勢の皇居に対する発砲は、今まで勤皇運動の総本山とも目されていた長州藩に対して、ハツキリと朝敵の烙印を押しつけることになった。勤皇側の公卿の参朝停止、これは有名な七卿落ちとなって、惨憺たる急進派は敗北したといえる。この時、京都の市中では、勤皇の志士は息を殺してじっとしていた。所司代の役人や、会津桑名の藩士、そして新選組の浪士たちが、肩で風をきって闊歩していた。   

 更に、幕府は朝廷に請うて長州征伐の師を起し、藩主毛利父子を謹慎させ、その封土から10万石を削ろうとしている。

 これらのことを大観すると、明らかに幕府勢力の復活と言える。尊皇攘夷の代りに、今や公武合体といふスローガンがもっともらしく振りまはされ、幕府は朝廷を擁して、天下の諸侯に昔日の威をもって臨もうとしている。明らかに、頽勢挽回である。

 これは一体どうしたのであろう。これでは今まで、おびただしく流された勤皇志士の犠牲の血は、全く無駄ではなかろうか。各藩の志士の中で英明なは、こうした逆効果に反省して、今までのやり方の失敗に漸次気がつく者が出てきた。桜田事件、寺田屋事件、大和、生野義挙、蛤御門の変、水戸天狗党の擾乱・・・・こう並べて考へてみると、それらの討幕テロの企てには共通した誤りがあった。

  つまり、彼等は有志として蜂起し、擾乱を企てただけで、その背後に、少くともその成功を確信させるだけの実力を持たなかったことである。自分たち同志だけで、先ず事を起せば、天下は自然に動いて、討幕が出来ると、簡単に考えていたことである。やせてもかれても、幕府はそんなに脆く崩壊しはしない。

  この誤りを再びくり返さず、討幕の大理想を実現する方法は、たつた一つしかないのである。それは、もっと実力ある者が一致して、幕府に当ることである。ばらばらではダメなのである。つまり志しを同じくする雄藩が、今までの種々の行きがかりを水に流して、この際大同団結し、同盟を結ぶことである。もつと簡単にいうならば、薩藩と長藩の同盟である。

 なるほど、今や薩長は仇敵の間柄と云つてもよい。長州兵の精鋭は、蛤御門の戦いで、薩摩軍の銃火にあって沢山死んでいる。薩奸会賊と云うのは、当時の志士の標語であって、薩摩は会津と同じく、佐幕の張本人と目され、その評判のわるいこと甚だしかった。

 薩藩はしかし、果して佐幕であろうか。断じて否だ。ただ長州や勤皇急進論者のように過激でなかっただけだ。その耿々たる勤皇精神においては、一歩も譲るものではなかつた。目的は同じであるが、その手段において異っていただけなのである。それから封建の世であったために、藩と藩との間の対立嫉視もあった。彼等は一藩をもって一国とし、互いに対峙していたのである。

 しかし、大体のコースとして、薩摩と長州とは、それ程深刻に憎み合はなければならぬ理由はないのだ。西国の雄鎮として、共に率先して勤皇の大義を唱へた両藩の先覚者の間に、それほど深刻な敵愾心があるとは思えない。話せば分るのである。

ここ4、5年の間の不幸な行きがかりを捨ててしまえば、両藩の妥協は可能だし、提携も出来る。 ただ、薩摩でも長州でも、こう気づいていたが、責任ある当局者は、自分で先に言い出すわけにはゆかないのだ。

 この時、両藩の間に橋渡しをして、その提携の糸口を開いてやったのが、土佐勤皇党の俊英、坂本龍馬と中岡慎太郎であった。
 慶応元(1865)年5月6日、馬関へ長藩の巨頭桂小五郎(木戸孝允)を引っ張り出し、薩摩藩の代表、西郷隆盛に会わした。

 そして、薩長が互に肚の探り会ひをして、なかなか木戸、西郷の会見がまとまらないと、彼はこう言って怒鳴った。

 「何がわが藩の面目、体面、名誉だ。もういい加減にしないか。あんた等は、まだ封建制度の幽霊を背負っているか。この大きな日本を何故忘れているか。同じ日本の土地の上に、位牌知行を立て合いい、わが藩、わが主人と、区別を立てて何になる。西郷も桂も、これ程、馬鹿とは思っていなかったよ。」
 そう言って、西郷に直談判をして、この薩長秘密攻守同盟を締結させたのである。慶応2年1月21日のことである。

 しかもこの秘密同盟は、77万石と36万石の大藩が、漫然と一緒になったのではない。この両藩を代表するに足る西郷と木戸が、腹心を披瀝しあって討幕の役割を分担することを決めたのだ。
 その他に、土佐藩、越前藩、宇和島藩等の各藩も、これを機に一つに固まろうとしている。

 坂本龍馬を仲介とする、西郷吉之助、桂小五郎両人の晴れやかな握手は、正に維新大業の出発点といってよい。皇政復古運動の進展は、ここに一段と拍車をかけられたのである。

明治維新と国体観念 
 慶応3(1867、即ち明治元)年12月9日、明治天皇は小御所に出られ、諸卿諸侯を呼び寄せてられて、皇政復古を諭告された。ここにおいて、明治維新は、ひとまず形の上では成ったのである。 

   この復古の大号令に先立つこと2ヶ月、徳川慶喜は土佐の山内容堂の建白により、10月14日に、政権奉還の書を提出している。薩長の攻勢がいよいよ激しさを増し、このままでは幕府の瓦解は免れなくなってきた。この状況下、慶喜将軍は土佐派の公武合体や公議政治論を採って大政奉還という先手を打って出たのである。これでは如何に幕府打倒といきり立っていた薩長といえども文句がつけられなかった。 

 しかし、薩長派の西郷、大久保、木戸たちは、大政奉還だけでは、不十分、200有余年の旧習に汚染した人心を振起するためにも、幕府に対し武力をもって一撃を加へ、天下の人心を一新しなければ、新時代は来ないと見ていた。

 板垣退助は「馬上でとった徳川の天下だから、馬上でなければ奪とれぬ」と手きびしく言っていた程である。そのため彼等は、江戸薩摩邸の焼打など、いろいろな挑発的行動をとって幕府側を怒らせようとした。  

  これに対し、衰えたりといえども幕府は依然として幕府である。大坂に退いて謹慎している慶喜を巡って幕臣の激昂は渦をまき、伏見鳥羽の一戦となって爆発、その後1ヵ年余にわたる戊辰戦争の幕は切って落されたわけである。

 この薩長主戦派のやり方は、十分に理由はあったが、随分危険な道だったともいえる。若もし慶喜が本当に肚を据えて佐幕派の藩士を集めて、反薩長の旗幟きしを掲げて起たった場合、事態はどのように進展しただろうか。 

 当時フランスは、ナポレオン3世の命を承けた公使ロセスが、積極的に幕府援助に乗り出していた。金も600万弗ドル貸そう、軍事顧問も派遣すると言ったハリ切り方である。
  だから慶喜が、突如として大政奉還の挙に出ると、公使ロセスはすっかり呆れ、また驚いてしまつた。

「300年も天下太平をもたらした徳川家が、兵戈(へいか)も交へずして、こんなに簡単に政権をなげ出すとは、不思議千万である。ヨーロツパには、こんなバカバカしい政変はかってない。」と、福沢諭吉に語ったという。

 しかし、慶喜は、フランスの援助を拒絶したし、血気に逸る旗本の将士を慰撫し、あくまでも絶対無抵抗主義をとって、慶応4年(明治元年)4月11日には、本拠江戸城をも官軍に引渡し、郷国水戸に退いて、弘道館の一室に退隠した。

 慶喜は烈公斉昭の子で、水戸学の精神で幼時から育て上げられてきた人である。皇政復古は皇国本来の姿で、これは歴史の必然だと観ていた。薩長の専恣は、固より好むところではなかったが、わが皇室が中心となって、これからの日本は世界に乗り出してゆかねばならぬと信じていたことは、決して勤皇の有志と違うものではなかった。ただ将軍という立場が、今まで歴史を逆行させる役目を担はせていたのである。
  水戸に退いて、はじめて、慶喜は、一日本人としての自分と、そしてその立場を得て、静かに時勢を眺め得るに至ったと言えよう。

 攻められる慶喜の心にこの思いがあったとすれば、攻める薩長側にも称揚さるべき佳行があった。

 フランスが幕府に力を貸したのと同じやり方で、英国の薩長に対する援助は公然の秘密であった。英国公使パークスは、機会ある毎に薩摩に説いて幕府及びその背後にあるフランスを打倒すべくすすめ、そのためにはどんな援助でもするからともちかけている。

  これに対して、薩長の領袖、西郷吉之助は何と答えたか。
「戦争のことはとに角、日本の政体変革のことは、われわれ日本人だけで考へるべき問題である。外国の援助を受けるは面目ない。」とキッパリと断っているのである。

  慶喜といい、西郷といい、わが国体という点にいたっては、その両極端の立場にも拘はらず、期せずして一致したわけである。外国をある程度まで利用しようと考えたであらうが、その国政干渉は一歩たりとも許さなかったし、近づけもしなかった。そこに維新史を流れる、日本人独得の力強い信念の流れを見ることができえる。以夷制夷(いいせいい)など、所詮、日本人には出来ない芸当である。

 あれほどに激湍(げきたん)渦を捲いた維新の政治において、このような日本歴史に特有な美談を探そうとするならば、他にもいくつも挙げられる。

 伏見鳥羽の戦争がまさに一触即発といふ時、大坂城に在る慶喜のもとへ、岩倉卿から一使者が遣わされた。孝明天皇御一年忌に際し、慶喜に対して献金のことをもうしでた。恐懼した慶喜は、勘定奉行に命じて、直ちに5万両を朝廷に奉っているのである。

  この時、京都は薩長の精兵によって充満し、幕兵一掃といきり立っていた。大坂城は、江戸から上った竹中陸軍奉行の大軍によって守られ、京都に対して、一戦に及ばんと、陣容を整えている最中である。これらの物々しい空気の中にあって大坂城と京都御所を結んで、一脈清冽の気のあい連なっているのを見ことができる。

 伏見鳥羽の一戦に朝廷の汚名を着た徳川慶喜に対する処断は、当時諸説紛々で、初めの中は死刑論が圧倒的に多かった。薩長の諸将は慶喜を憎むこと甚だしく、ぜひこれを誅戮(ちゅうりく)して、刑典を正さねばならぬと主張する者が多かった。この時において、明治天皇は三條実美を召されて、徳川家の旧勲を失わないように処置せよ、との有難き宸翰(しんかん)を賜うている。

  明治天皇の配慮は、ただに徳川氏をしてその家祀を全うせしめたばかりでなく、明治維新の大業をして容易に成就せしめた所以である。戊辰奥羽諸藩の処断においても、詔(みことのり)して今日の乱は900年来の弊習の結果であるとの思いから、藩主等の罪を許し、今後親しく教化を国内に布き、徳威を海外に輝かさんことを欲する旨を告げられたのである。

  慶喜、西郷などの立派な国体観もさることながら、明治天皇の心配りがあたことも明治維新の戦乱が容易に鎮定された一因といえる。  

【関連記事】
江戸時代 水戸藩は百姓一揆に強硬な姿勢で臨み刑は過酷であった 

 

 

 

 


筑波山は紅葉が真っ盛り  11月23日

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  11月23日(土曜日)快晴 
 筑波山は紅葉が真っ盛り、大勢の観光客が紅葉を楽しんでいました。

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 16時頃 スカイツリーは見えたが写真では見えない。
 富士山が3本の杉の右側に見えた。写真では薄くぼやけて見えるか、見えないか・・・・・・。




 

 

筑波山の祭りカレンダー

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      筑波山神社 御神橋 2013年11月23日(土曜日)

1月
 ●筑波山神社元旦祭 (1日)
 ●筑波山大御堂初護摩会 (1日)
 ●筑波山大御堂初観音 (18日)


2月 
 ●飯名神牡祭例 (旧正月の初巳)

 ●泉子育観音年越大祭 (11日) 
 ●筑波山神牡年越祭 (10〜11日)
 ●筑波山大御堂追難会 (18日)
 ●筑波山福寿草まつり (1日〜28日)
 ●筑波山梅まつり (16日〜3月24日) 
 
        (2013年3月16日撮影) 
   【関連記事】
   筑波山の梅の状況 満開 3月16日 (土曜日) 

3月
 ●飯名神社祭礼 (旧正月の初巳)
 ●蚕影神社蚕糸祭 (28日)


     2013年4月6日(土曜日)常陽リビング12ページ 



4月
 ●筑波山頂カタクリの花まつり (1日〜20日)

     期間: 2013年4月1日(月)〜20日(土)  
   見所: 筑波山頂カタクリの里  
     広さ約2ヘクタールの敷地内には薄紫色のカタクリの花が
     群生している。       
   筑波山ケーブルカー筑波山頂駅から徒歩3分  
   筑波山ロープウェイ女体山駅から徒歩10分  
                         
 カタクリ   
  丘陵地や山地の落葉樹林内に生じ、早春、ユリに似ているがやや小形で帯紅紫色の花を開く柔らかい球根性多年草。ユリ科。

  鱗茎は柱状披針形で、長さ5〜6?、径約1?。花茎は高さ20〜40?で、中央下部に1対の長楕円形で紫かっ色班のある葉をつける。花は径4〜5?で、うなだれて咲く。

  6個の花被片は同形で披針形、長さ5〜6cm、外巻し、紅紫色で基部内側に3裂する暗紫色の部分がある。内側には6個の雄しべと1個の雌しベがある。

  鱗茎は殿粉を含み、昔は採って煮食したりカタクリ粉を作った。若葉はゆでて食べることができる。 カタクリの根からとった殿粉を片栗粉という。白色の光沢ある粉末で、美味なため、昔は料理や片栗落雁(らくがん)など菓子の材料として用いられた。

  現在、カタクリ粉として市販されているものは、ジャガイモの殿粉である。 また食用の殿粉全体をカタクリ粉といっている。用途はクズ粉の代用として、くず湯にしたり、また “あんかけ”などに用いられる。
                                        
         登山ガイド  
  
                   筑波山ガイド「紫季彩」   

 ●筑波山神社春の御座替祭 (1日)
             
           2013年4月6日(土曜日)常陽リビンク 12ページ  
 ●北条大池の桜まつり
 ●筑波山つつじまつり (4月下旬〜5月中旬) 

           つつじヶ丘   
    梅林のアジサイの花
 
   撮影: 2013年6月22日(土曜日)15時頃、曇り  

7月 
 ●小田八坂神牡祇園祭 (第三土曜日)
 ●北条祇園祭り (下旬) 
 ●筑波山七夕まつり (下旬〜8月上旬) 

8月 
 ●筑波山大御堂万灯会 (18日) 
 ●平沢の万灯まつり(24日)
 
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   筑波の正倉院 「国指定 平沢官衙遺跡」の万灯まつり    
   常陸の国は筑波の郡、歴史は古い筑波の正倉院 「国指定 平沢官衙遺跡」   

9月
 ●普門寺施餓鬼会 (彼岸中日) 

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  「つくば道」の神郡と普門寺の水戸天狗党の碑  

  ●筑波山ガマまつり (28日午後、土曜日)

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  9月28日開催の筑波山ガマまつりが近づいてきた!

  がま祭り 神事 9月28日 13時〜14時 
    

 
                          つくば市 「まるごと 筑波山」

10月
 ●蚕影神社秋の大祭 (23日)

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   筑波山神社と姉妹の関係にある神郡の蚕影(こかげ)神社    

11月
 ●筑波山神社秋の御座替祭 (1日)
 ●つくば物語 (3日) 
 ●筑波山麓秋祭り (3日〜11日) 
 ●筑波山紅葉まつり(1〜30日)  


 
     筑波山ロープウエイ宮脇駅付近(2013年11月23日15時頃撮影)  
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  筑波山は紅葉が真っ盛り  11月23日
  筑波山ロープウェイ女体山駅 スターダストクルージング 夜の筑波山空中散歩 


         つくば市 「まるごと 筑波山」  

12月 
 ●筑波山大御堂納観音 (18日)  

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    筑波山神社や筑波山麓の見所  

 

  

筑波山 紅葉はそろそろ終わり、朝は富士山がくっきり見えた 11月30日

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11月30日(土曜日)、快晴  
筑波山の紅葉は終わりを迎えましたが、朝は富士山がくっきり見えるようになりました。

   8時ころ、神社前の土産物屋の展望台から富士山が見えた。 

    
  藤田小五郎像の周りの木々の葉は落ちている。 

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  8時すぎ、宮脇駅展望台から、富士山が見えた 

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  10時頃、神社前 

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  15時少し前、ケーブルカー駅方向に向かう 

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   15時ころ、東京の上空がかすんでいる。富士山も見えない。 

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  宮脇駅展望台から山頂を見る   

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  ケーブルカー駅へ向かう人 15時ころ 

   
  これから登る人 15時ころ 

     

 

    

ガマの油売り口上 まずは、自分の得意なパターンを作り上げる 

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ガマの油売り口上 まずは、自分の得意なパターンを作り上げる 
 
得意なパターンをつくる
 ガマの油売り口上は、いくつかの話材が有機的に結びついて、一つのはっきりしたまとまりのある“図式”になっているから、口上を実演する場合、どのように口上を述べ、演技をするか頭がまとまっていなければならない。観客に納得してもらうためには自分なりの得意なパターンを作り上げることが早道である。  
     まず自分の得意なパターンを作り上げて 
     応用をきかせる
 
   同じことをやっても、人にはそれぞれのパターンがある
 

 

 





無意識の心理 
  われわれの日常生活におけるさまざまの動作は、あらかた固有化されている。たとえば、自転車に乗るにしても、「これから自転車に乗るのだ」という、明瞭な意識をもって乗るわけではない。箸をとって食事するなどは、なおさらのことである。 

 つまり、日常さまざまの動作は、幼少のころから、何1000回、何万回と同じ動作を繰り返すことにより、いまでは、その動作を行なう場合、特に意識しないで行っているのである。いわゆる、無意識的にこれを行なっている。しかも、それで決して目的に反して行動をすることはない。否、完全に目的にそい、ムダな動作は省略されている。

 反対に、たとえば自転車に乗りはじめのころの体験を思い出してみると、まだ自信がなく、むこうから通行人が来たと、思えば思うほど、それがかえって悪い暗示となって、その人の方へ進み、はてはぶつけてしまうこともある。

 すなわち、いろいろの動作や行動などは、最初のうちは意識的に行なわれるが、反復されることによって、次第に意識にのぼらなくなってくる。いわゆる、無意識的に行なわれるようになる。

 柔道、剣道や居合いでも繰り返し稽古すると技術に対して自信がつき、毎日の椿古を楽しむようになると、努力の意識はだんだんと稀薄となり、努力しても努力と感じない状態になる。宮本武蔵の「心常に兵法の道を離れず」といった心境になる。  
  こうして、技術は完全に固有化され、いわゆるイタについてきて、見た目に余裕を感じるようになってくる。

場数を踏んで自分を知り、自分を変える  
 我々の個人的・杜会的な活動は、その大部分が習慣的活動となり、明瞭に意識されない無意識状態にまで進捗している。今、このブログ記事を読む場合、これを理解することを可能にしているのは、眼をはじめとするさまざまな働きが関係している。何気なく、読んで理解しているが、この背後には意識していないさまざまな働きがあるからこそ、読んで理解できるのである。

 無意識というのは、われわれが生きるうえで当然必要な部分・機能であり、われわれの中には、自分自身が知らない「もうひとりの自分」がいるようなものである。
 どうすればこの「もうひとりの自分」を知ることができるのか?それを知るカギは……それは行動であり、身体の反応である。

 自分がどんな口上の演技をすべきかと、あれこれ考えて、いいやり方をリストアップするよりも、実際に演技を繰り返し、そこで起こる感情、身体の反応から、「本当」の自分の好みや、こうしたいとう願いがわかってくる。

 自分の意識で考えたところで、意識できないことがかなりの部分を占めているから、自分について考えすぎずに、自分の行動を変化させるよう試みるべきなのだ。
 行動もせずに、「自分のやりたいことは?」「本当の自分のやりかたは?」と考えるより、動いてみて、自分がどんな行動、振る舞いをするのか、どんな感情、身体の反応が起きるか観察することである。
 そしてもし、自分がやりたいことがあるのなら、まずはやってみることであり、なりたい自分があるのであれば、そのように振舞ってみることである。

 満足のいく、うまく機能する自己の“物語”を創り出し、習慣的で意識的ではない望ましい反応のパターンを作り上げる。このためには、繰り返し、また繰り返して場数を踏むことが必要である。 

【関連記事】 「ガマの油売り口上」はプレゼンテーションである  



  

筑波山 今年は12月中旬になっても相変わらず登山客が多い (12月14日)

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         筑波山 午前8時30分頃撮影

平成25年12月14日、土曜日、快晴
昨年同期に比べ、今年は登山客が多い。快晴であったがスカイツリー、富士山がぼんやり見えた。

     石垣の上、駐車場 500円 

 
  藤田小四郎の像 木々の葉は落ちている  

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  ケーブルカー、宮脇駅付近 

     
  水平線中央部にスカイツリーがかすかに見えた。
  午前8時40分頃 宮脇駅展望台

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   富士山もぼんやり見えたがみえたが・・・・・・。

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  筑波山神社裏、万葉の小径 

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  筑波山 16時頃     

 
    
 

   

3連連休初日で快晴、昨年同期より登山客が多い師走の筑波山 (12月21日)

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                 8時30分頃撮影 

 12月21日(土曜日)、3連休の初日で快晴、
 筑波山の登山客は年同期より師走にもかかわらず多かった。

  8時30分頃  神社前  


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  神社駐車場から富士山が見えた     
 
  
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  正月を迎える準備 赤白の玉    


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   神社前 9時頃    


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   9時30分頃 富士山は霞んでぼんやり見えたが写っていない   


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   12月21日は大安 婚礼3組    


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   隋神門脇の広場    


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   撮影 :15時30分頃     

  


 

    

ガマの油売り口上 視線が気になる

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ガマの油売り口上 視線が気になる 
 ガマの油売り口上を演ずると、観客の視線が気になるものである。聞いているのか、上の空、聞かないでこの場から去っていこうとしているのかと、脳裏を去来する。反対に、口上を演ずる者だけでなく、観客の側にたって考えれば、自分に語りかけているのか、気に入った人にだけ語りかけていないか、視線が気になだろうなと思う。

しっかりと、相手の目を見る
 誰と誰の会話であっても、関心をもって相手の話に耳を傾けようとしている人は、必ず話し手の方を向き、じっと相手の目を見て聞くものである。関心の度合いが目の向きや目の力に表れる。
 店の販売員と客、駅員と乗客、医者と患者、学校の先生と生徒や父兄など、会話が行き交う場で見られる光景である。 

 たとえば医者が、いくら忙しくても患者の訴えはちゃんと向き合い「ハイ!、〇〇が具合が悪いのですね! 熱がありますか? 痛みはありますか?」と目を開いて、患者の目を見ながら話を聞いてくれると患者は安心する。
 医者が上の空、胡散臭そうな応答をすると腹が立つ。「ちゃんとこっちの話を聞けよ!」と不満が残る。

 目をしっかり開け、観客の一人ひとりの目を見ながら口上を演ずる。 これによって口上を演ずる者と見る観客に共感が生まれる。目を見て受けとめる威力も、目で発信する威力も大きい。  

ときには視線をはずす気配りも
 買い物に行った時の経験。受けとったお釣りやレシートを、財布にしまうとき。支払で、1円また1円と、1円玉をつまんで出すとき。こんなとき、客は心の中で「ちょっと待ってー、すまん、1円玉が・・・・」と焦ってしまうことがある。後ろで待っているお客さんの視線も気になる。 
 店員がジーツと無言でこちらの手元を見つめていると、緊張感が漂ってくる。まるで監視されているような嫌な気分になる。これとは反対に、気配りのいい店員は、上手く目をそらしてくれる。このようなときはホッとする。

 役場で書類を提出する。記載事項に誤りがあったときのこと。 係りの職員から訂正を求められ 「ここで、直していただいて結構ですよ」と 言われても、ヘタクソの字をジロジロ見ないでよと思う場合がるかと思えば、あえて見ないように机の周辺の書類を整理したり、他の職員の動きに注意を向けたふりをしてくれた係りもいる。

 その場、その時の人間の視線の置き方ひとつで、相手はリラックスできたり、逆にストレスを感じる。 “企業秘密”だから明かせないが、口上を演じていると、相手に凝視されたくない場もあるが、この場を上手く切り抜けて行けるように工夫、練習を重ねないといけない。

 相手がなにかしている手元や見られて都合の悪いところを凝視せず、軽く視線をはずす、この気配りが大切である。 

アイコンタクトに心がける  
 最初に行き交う人と目が合ったとき、ニコッと会釈する。たとえ口上を見ない、聞かない人であってもである。口上演技の場に集まった人だけでなく、遠くを行き交う人にもアイコンタクト。 いつか聞いてくれるかもしれない、見てくれるかもしれない。少なくとも筑波山に来たことに対してマイナスのイメージを与えない。

 遠方で声が届かなくてもいい、大きく頭を下げる挨拶も必要ない。とにかく目と目が出会ったら、心の中で「おはようございます」「気をつけてお帰りください」とつぶやきながら、笑顔で会釈をすることだ。

 店頭で店員に「無視された」とか、「この店の店員、挨拶も満足にできないのか!」と文句を言いたくなる時がある。これは、客として店に入り店員と最初に出会った瞬間のアイコンタクトのとき、無視された、会釈してもらえなかったとの印象による場合が多い。

 頭を下げて、角度をとることばかりが挨拶ではない。相手は、関心があるからこちらを振り向いたのだ。何か他のことをしていても、通り過ぎていく人に対しても目が合ったら、瞬時に心をかたむけて軽く頭を下げると、いつか口上を聞いてくれるかもしれない、見てくれるかもしれない。



         筑波山神社隋神門の階段 
    急な階段をのぼることにより、健康であることを知る。
          

たとえアイコンタクトができなくても   
  背中に向かって声をかける 
 レストランに入って食べるものを注文する。店の中は客で混んでいる。店員は忙しそうにメニューをテーブルに運び、食べ終わった食器を片付けている。こちらは食べるものを注文したいが、そのときを待っている。手前は客だよ、ちょっとこちらを向いてくれたらと思う。素知らぬフリされると、チェ! いつまで待たせるのかと苛立ってくる。

 どんなに忙しくても、ふり返って笑顔を見せながら「はい! 少々お待ちください」と反応してくれるとホッにとする。人に背を見せたとき、自分は何をしたいのか、相手は何を感じるかという点に留意しなければならない。 

 筑波山神社に参拝する人は老若男女、職業もいろいろ、人さまざである。神社に参拝したり、山頂へ行く人、これを終えて帰る人、これまたいろいろである。  
 神社前の急な階段を上り下りする高齢の人の後ろ姿に向かって「お気をつけ下さいね!」とか「こんなに急な階段を登れるのですから、健康な証拠ですよ!」と声をかけると、例外なく「そうだね!」と返事が返ってくる。
 幼稚園、小学校の小さい子供さんも皆同じ。「ぼく、階段上ったの、元気だね!」「気をつけて降りてね!」と声をかければ手を引く母親も笑顔で振り返る。 

 また、感じの良い店は、買い物を終って店を出て行くお客様の後ろ姿に向って「有り難うございます!」と声をかける。たとえアイコンタクトができなくてもの背中に向かって声をかける。わずかな気配りで共感が生まれる。

  背中は、その人を語る。
  人の後姿に関心を持つ、これも大切! 

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ガマの油売り口上、相手との強力な共感を作るアイコンタクトが大事   






ガマの油売り口上は、付かず離れず「間(ま)」が大切! 

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ガマの油売り口上は、「間(ま)」が大切!  
 話を聞いたから聞いた人が納得したり、聞いたことに基づいて行動に移すとは限らない。話を聞いた相手に何らかの行動を期待するためには、単に、話をするというだけでは十分ではない。
 あなたが社会人で、上司に何かを報告するとき、部下に何かを指示するときに、どんな伝え方をしているのだろうか。一方的にしゃべって空回りをしていないだろうか。伝えたいことを一方的に話しても、相手にはうまく伝わらない。むしろ、相手の理解を確認しながら、ゆっくりと伝えるように話したほうが、結果的に効率的なコミュニケーションがとれるものである。

 短い時間の中で伝わりやすくするには、テクニックが必要である。まず、声のトーンを落ち着かせること。高すぎず、低すぎず、やや低めのトーンで話し始めるだけでも、伝達力は違ってくる。また、話し始める前にひと呼吸、「間」をとることも大切である。



 丹田に意識を集中させ、そこに空気をためてから話しを始めてみる。上司などの前に行ったら、深くお辞儀をする。そのときに空気を腹にためて、ひと呼吸置いてみる。「間」ができ、上司はこちらの話を聞こうという態勢を整えることができる。
 
 ひと呼吸置いてから、相手の目を見れば、何も話さなくてもかなりのニュアンスが相手に伝わる。そのうえで、ゆっくりとした口調で手短に話せば、かなりの内容を理解してもらえるだろう。
 所用から帰ってくるなり、いきなり上司のところへ行って、「こうこうで、こうなりました」と説明しても、相子の側には受け入れる準備がまったくできていない。たとえ回り道のようでも、ひと呼吸入れて「間」をつくったほうが、相子に受け入れる準備をさせることができ、短い説明で理解してもらえることになる。

 また、「一瞬の沈黙」は、聞き手の注目を引き付ける効果がある。歌舞伎の『忠臣蔵』で斧定九郎が与一兵衛を殺害して、財布を奪い取り、封印したままで、中の金額を勘定する場面がある。歌舞伎役者は、「・・・・・四十五両、四十六両、四十七両、四十八両、四十九両」と口の中でブツブツ数え、最後の五十両だけを口から吐き出す。この間、観衆はしだいに静かになり「五十両」と声を出すときは、咳一つ聞こえない静けさになっている。このときの凄みのある声で「五十両!」と口から吐き出すとので観客をハッとさせる効果がある。 この「一瞬の沈黙の効用」を生かしたいものである。急がば回れ、「間」の効果は大である。

    付かず離れず程よい距離を保つ  
 
        藤原千恵子編 「図説 江戸っ子のたしなみ」 河出書房新社  

 「ガマの油売り口上」は、本来はガマの油を売るため刀を使った派手な演技を伴う、今で言うところの「プレゼンテーション」だった。そこには合目的的に、より効率的に行うための基本的技術が必要である。
 プレゼンテーションの基本的技術を習得し、それをベースに各人のパーソナリティやノウハウを積み重ねていくと よりよい口上の演技が出来る。 

漢和辞典(旺文社「漢和辞典改定新版」大活字版)によると「間」は、下記の通り色々ある。これを見ると人間関係を律する上では、空間的、時間的、心理的な「間」のとり方が大切であることが分かる。 

 間 カン、ケン、あいだ、ま  
【解字】門のあいだから月の見えるさまで、門のすきま、ひいて「あいだ」の意を表す。「間」は俗字による。 

【意味】の一 
?すきま。すき。「問隙」 
?あいだ   
  (ア)二つのもののあいま。「間隔」  
  (イ)両者のなか。中央。「中間」   
  (ウ)へだたり。時のへだたり。「時間」   
  (エ)ところ。「空間」    
  (オ)ころ(頃)。ころあい。「七八月之間」  
  (カ)あいだがら。関係。  
?ひま。
  (ア)いとま。「間居」  
  (イ)仲たがい。   
?ちかごろ。このごろ。「間者」  
?ま。(ア)へや。 (イ)へやを数える語。  
?まじる。「間色」  
?しずか (静)。 やすらか=「閑」。 
?ひそかに。ひそか。おもてむきでない。「間道」  
?うかがう。ねらう。  
?まわしもの。スパイ。「間諜」  
?なおざり。「等間」  
?まま。ときどき。  

【意味】の二 
?へだてる(―つ)。へだたる。 
  (ア)間をおく。 
  (イ)さえぎる。遠ざける。「離間」  
?そしる。非難する。  
?まじる。まじわる。 
?いえる。病気がよくなる  

国訓及び国語読み 
?あいだ(あひだ)   
  (ア)仲。「間柄」   
  (イ)・・・なので。・・・から。「…に候間」  
?ま。ぐあい。ばつ。「間が悪い」   
  ・・・・・・・・・・・以上、漢和辞典(旺文社「漢和辞典改定新版」大活字版)から・・・・・・・・・・・・・  

口上演技における「間」  

間がいい 
 都合がいい。時機が合っている。運がいい。 その反対が「間が悪い」 
●お立会いに本物の口上を分かっていただくという心があれば、いつでも、どこでも都合がいいはずである。お立会いに自己顕示をするのか、ガマの油売り 口上を “提供” するのかという違いで「間がいい」となったり、悪いかったりする。要は、”自己中” の心を排すればいいのだ。

間が抜ける 
?音楽で、リズムやテンポ、タイミングなどが狂う。
?大事なところに、落ちがある。
●ガマの油売り口上を演じていながら、いつしか口上に関係ない話題をしゃべり悦になると、お立会いはうんざり、退屈感を覚える。おかしなアドリブ、“脱線”は不要である。 

間が伸びる 
 しまりが無い。緊張感に欠ける。 
●間延びしたガマ口上の演技をしていると、お立会いは一人二人とその場を去っていく。メリハリある演技をするためには、所要時間15分から16分で程度で口上を演じるとちょうどいいようだ。

間が持てない  
?あいた時間にすることが無く、退屈でどうしたらよいか分からない。 
?気づまりな相手だったり、話題に窮したりして、どうやって一緒にすごしたらいいか分からない。
●一般的に言って、口上の演技では口上を覚えていれば、「間が持てない」ということはない。口上を覚えて人前で演技する初期段階では、あがったり、満足に覚えていないため言葉が出てこないことがあるが、しばらくして慣れてなれてくると、お立会の受けを狙った意味の無いアドリブを加えたり、脱線することがある。これは厳に注意しなければならない。  

●万が一。次の言葉が思い出せない場合には、「別嬪さん(お立会い)がジーと見つめるから、あがっちゃーったぁ。何を言うか忘れちゃったーよ!」とか言いつつ思い出すか、省略して次に進むのも便法である。要は、しっかり口上を覚え、繰り返し繰り返し練習することが大事である。 

間が悪い 
 なんとなく恥ずかしい。決まりが悪い。巡り会わせが悪い。運が悪い。
●気取ったり、いいところを見せようなどという、へんな下心があるから「間が悪い」となる。お立会いに、本物のガマの油売り口上を分かって頂くという気持ちがあれば、「間が悪い」ということはない。「心」が伝わるように誠意をもって演じればいいのだ。

間口を広げる 
 仕事や研究などについて、そのかかわる分野・領域を広げる。 
●ガマの油、口上の演技、筑波山や神社、伝承芸能はもとより、これらに関連する諸々のことについて常日頃、勉強し、血ととなり肉となることが大事である。 
●18代、19代名人の口上演技は、聞く者に、“これが本物の口上だ”と納得させるものがある。18代は教職を勤め上げた人、19代は60年以上も老舗旅館の女将としてやってきた人である。
 老舗旅館のお女将は、マニュアルを見なくて臨機応変、どのようなお客様にも喜んでいただけるような応対が自然とできる。もてなしの”心”を伝えることができる。
 2人の口上演技には、人生を精一杯生きてこられたという経験や自信などが“隠れ味”となっている。これが、見る人に感銘を覚えさせるのであろう。 口上は”人”を表すもの、”心”を伝えるものである。

間を置く  
 時間を隔てる。また、間隔をあける。

間を持たす  
 次のことに移るまでの間、手もちぶたさで やりきれないといった状態にならないようにすること。会話が途切れたときなどに、何か話題を持ち出して、その場を退屈にさせないようにすること。 
●間をおきすぎて、スローテンポな口上は退屈感を覚える。適度な「間」を保つためには、お立会いとの共感作りのため目線(アイコンタクト)に心がけること。これによってお立会いをひきつけ、その反応を探り、また何かを伝えることが出来る。  
 また、手、体などの表現などによって自分の考え方を豊かに伝えることが可能になる。上下左右、大小、長短、ものの大小、数や量をゼスチャーで表現し、緩急、軽重、長短などを工夫すればよい。 

間を合わせる 
 音曲に合わせて拍子をとる。間に合わせに、その場に調子を合わせたことを言う。 
●口上を聞くため集まってきた人数はどのくらいか、その人たちは神社にお参りに来た人か、観光客か、登山客か、老若男女どのような年代か、お立会いは千差万別である。
 季節は春夏秋冬いつごろか、天気は暑いか寒いか、晴れか曇天か、風があるのか無いのか、強い風かそよ風か、何もかもが千差万別である。 
●その日、その場の環境に合わせて口上を演ずるためには、常に“本物の口上はこれです”という原点に立ち、お立会いの心の動きをよく観察しながら、緩急・軽重、長短よろしく按配し口上を演ずることに心がけるべきであろう。

「蝦蟇は日夜鳴けども人聴かず」 
  ガマガエルは日夜やかましく鳴くけれども、これを聴いて楽しむ人はいない。おしゃべりは世渡りに益はないように、ガマの口上を演技する時も、言わなくてもいいアドリブを排し、「間」をわきまえることが大事である。


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第19代 永井兵助 吉岡名人の口上演技に学ぶ


 

 

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伝説 筑波山と富士山の“競争”

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日本の伝説
  日本は伝説の驚くほど多い国であります。以前はそれをよく覚えていて、話して聴かせようとする人がどの土地にも、五人も十人も有りました。ただ近頃は他に色々の新に考えなければならぬことが始まって、よろこんでこういう話を聴く者が少なくなった為に、次第に思い出す折が無く、忘れたりまちがえたりして行くのであります。

  伝説と昔話とはどう違うか。それに答えるならば、昔話は動物の如く、伝説は植物のようなものであります。昔話は方々を飛びあるくから、どこに行っても同じ姿を見かけることが出来ますが、伝説はある一つの土地に根を生やしていて、そうして常に成長して行くのであります。  

 雀や頬白(ほおじろ)は皆同じ顔をしていますが、梅や椿は一本々々に枝振りが変っているので、見覚えがあります。可愛い昔話の小鳥は、多くは伝説の森、草叢(くさむら)の中で巣立ちますが、同時に香りの高いいろいろの伝説の種子や花粉を、遠くまで運んでいるのもかれ等であります。

 自然を愛する人たちは、常にこの二つの種類の昔の、配合と調和とを面白がりますが、学問はこれを二つに分けて、考えて見ようとするのが始めであります。              

神いくさ  
 日本一の富士の山でも、昔は方々に競争者がありました。人が自分々々の土地の山を、あまりに熱心に愛する為に、山も競争せずにはいられなかったのかと思われます。古いところでは、常陸の筑波山が、低いけれども富士よりも好い山だといって、そのいわれを語り伝えておりました。

 大昔御祖神(みおやがみ)が国々をお巡りなされて、日の暮れに富士に行って一夜の宿をお求めなされた時に、今日は新嘗の祭りで家中が物忌みをしていますから、お宿は出来ませぬといって断りました。筑波の方ではそれと反対に、今夜は新嘗ですけれども構いません。さあさあお泊り下さいとたいそうな御馳走をしました。神様は非常に御喜びで、この山永く栄え人常に来きたり遊び、飲食歌舞絶ゆる時もないようにと、めでたい多くの祝い言を、歌に詠んで下されました。
 筑波が春も秋も青々と茂って、男女の楽しい山となったのはその為で、富士が雪ばかり多く、登る人も少く、いつも食物に不自由をするのは、新嘗の前の晩に大切なお客様を、帰してしまった罰だといっておりますが、これは疑いもなく筑波の山で、楽しく遊んでいた人ばかりが、語り伝えていた昔話なのであります。
           (「常陸国風土記」 茨城県筑波市)  

 富士と浅間山が煙りくらべをしたという話も、ずいぶん古くからあった様ですが、それはもう残っておりません。不思議なことには富士の山で祀まつる神を、以前から浅間大神と称となえておりました。富士の競争者の筑波山の頂上にも、どういうわけでか浅間様が祀ってあります。

 それから伊豆半島の南の端、雲見の御嶽山(みたけやま)にも浅間の社というのがありまして、この山も富士と非常に仲が悪いという話でありました。いつの頃からいい始めたものか、富士山の神は木花開耶媛(このはなさくやひめ)、この山の神はその御姉の磐長媛(いわながひめ)で、姉神は姿が醜かった故に神様でもやはり御嫉(ねたみ)が深く、それでこの山に登って富士のうわさをすることが、出来なかったというのであります。 
           (静岡県賀茂郡)

 ところがこれから僅二里あまり離れて、下田の町の後には、下田富士という小山があって、それは駿河の富士の妹神だといっております。そうして姉様よりも更に美しかったので、顔を見合せるのが厭いやで、間に天城山を屏風のようにお立てになった。それだから奥伊豆はどこからも富士山が見えず、また美人が生れないと、土地の人はいうそうであります。おおかたもと一つの話が、後にこういう風に変って来たものだろうと思います。
           (静岡県下田市)

                                正岡子規「日本の伝説」から抜粋


 

ガマの油売り口上、聞く人・見る人との強い共感を作るためにはアイコンタクトが大事! 

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 目の輝きは心の輝きである  
  聴き手を説得し共感を得るためには、アイコンタクト(目線)が極めて重要である。 

  アイコンタクト(目線)の目的 
  ・聴き手を惹きつける。 
  ・聴き手の反応を探り、対応する。 
  ・何かを聴き手の心に伝える。 


「目」は語る 「目」に関心を持つ 

●「目は口ほどに物をいう」
 何も言わなくても、目は、口で言うのと同じくらい相手に気持ちを伝えるということ。また、言葉でごまかしても、目を見れば、真偽のほどはわかってしまうということ。

●「目はこころの鏡」
 目はひとの内心を映し出す鏡であるの意から、目を見れば、その人の心の正、不正や言うことが本当かどうかがよく分かる。目は心の窓、目は口ほどに物を言う。 

     文楽「文七」 座頭役のかしら
           性根は人知れぬ悲しみを内に秘めた
                     豪快な中年の武将に使う。   
           
          平凡社「世界大百科辞典17」初版 423頁 

     文楽「舅」
        表面は冷たく装うが、内はやさしい性格の人物
             
        平凡社「世界大百科辞典17」初版 423頁

だから、謙虚に誠実に!
●「目は豪毛(ごうもう)を見れどもその睫(まつげ)をみず」
  「豪毛」は「毫毛」と同じで、ごく細い毛のこと。(目は細い毛筋のような細かいもの間で見ることができても、自分の睫を見ることは出来ないから)他人のことは小さな欠点までよく見えるが、自分自身のことはわからないものであるということ。

●「目を掩(おお)うて雀を捕らう」 
 (雀をつかまえようとするには、雀が自分の姿を見て逃げてしまうのを恐れ、自分の目を隠して雀に近づくことから)愚かな策を弄して人をごまかしても、相手にはすっかり見すかされているということのたとえ。



「目」はいろいろなことを表す
 アイコンタクトを効果的に働かすためには、「目」が何を意味するか、人間関係でどのような働きをしているか理解しておく必要がある。
 「目」に関連した言葉は多数あるが、下記はその一部である。

「目顔で知らせる」
(目顔は目つき、目の表情)あることを、視線の動きでそっと知らせる。  
 ・おおっぴらな言動がはばかられるときなどに用いられる伝達手段である。

「目頭が熱くなる」
 (目頭は、目の、鼻に近いほうの端)強い感動などで涙腺が刺激され、涙が出そうになる。

「目頭を押さえる」
 感動したり悲しみを覚えたりして出てくる涙を、指でそっと押しとどめようとする。

「目が据わる」
 目を動かさずじっと一点を見つめる。
 ・思いついた様、酒に酔ったさまを表すのに用いる。  

「目が散る」
 (見て興味がそそられるものがあって)心が落ち着かず、視線が定まらない。

「目角が強い」
 (目角は目じり。転じて、物を見る鋭い目つき、眼力)物をよく見る。眼力があり、鋭く見抜く。

「目が飛び出る」
 (目の玉が飛び出しそうな気がするくらい)ひどく驚く。また、ひどく叱られさまにいう。 
 ・「目の玉が飛び出る」「目玉が飛び出る」ともいう。 

「目角を立てる」
  鋭い目つきで見る。睨みつける。「目角に立てる」ともいう。 

「目が細くなる」
  うれしさや満足で、目を細くして微笑む。表情がゆるむ。 
           

「目が回る」
  めまいがしてくらくらする。非常に忙しいさまや速いさまのたとえ。 

「目が物を言う」
  口に出していわなくても、目つきで相手に気持ちを伝えている。

「目くじらを立てる」 
  「目くじら」は目の端、目じり。目を吊り上げて鋭く相手を見る。細かなことをとがめだてる。

「目先を変える」  
  見た目の趣向を変えて新しさを出す。 

「目先を暗ます」 
  当座の処置をやりくりしてしのぐ。その場を取り繕って誤魔化す。

「目尻を上げる」
 「目尻」は、目の、耳に近いほうの端。まなじり。鋭い目つきで相手を見る。緊張した面持ちで目を見張る。

「目尻を下げる」
  満足して、表情を崩して喜ぶさま。また、男性が女性に見とれて好色そうな顔つきをするさま。

「目で知らせる」  
   口で言わず、目つきで意思、気持ちなどを伝える。 
 ・目で教える。目で物をいう。目を使う。 

「目で物を言う」
   口に出して言わず、目配せで意思を伝える。 

「目と目を見合わせる」
  呆然としたり、あきれかえったりして顔を見合わせるさま。また、共通の思いを持つ者どうしが、ひそかに意味を込めて目配せをする。 

「目に物言わす」
   目つきで自分の気持ちを相手に伝える。 

「目端をつける」
  「目端」は、才知、眼力。その場に応じて、素早く適切な判断を下す。機転を利かす。

「目を配る」
  不行き届きのないようにあちこちをよく見る。目で合図する。目配せをする。

「目を凝らす」 
  じっと見つめる。凝視する。 「目を皿にする」
  驚いたり、物をよく見ようとしたりして、目を大きく見開くこと。
           

「目を三角にする」
  怒った目つきをする。怖い目つきをする。

「目を白黒させる」 
  ひどく驚いたり、」あわてるさま。また、苦しくて激しく目玉を動かす。

「目を据える」 
  目を動かさず、じっと一点を見つめる。ひどく思いついたり、怒ったり、酒に酔ったりした時の状態をいう。 

「目を注ぐ」
  目をある方向に向ける。注意を向けて見る。注目する。
          

「目を側(そば)める」 
  嫌悪・恐怖・畏怖などのために正視できず、視線を脇にそらす。横目で見る。「目を欹(そば)だてる」ともいう。

「目を背ける」 
  まともに見ることもできず、視線をそらす。転じて、ある事態や現実に対して正面から対処せず、逃避する。 

「目を逸らす」 
  視線をわきへ逸して他の物を見る。「目を外す」ともいう。 

「目を使う」 
  目つきで知らせる。目で相図する。注意して見る。 

「目をつぶる」 
  目を閉じる。眠る。転じて見なかったふりをして見逃す。知らないふりをして好きなようにさせる。また、気に入らない点があってもがまんする。

「目を止める」
  注意してよく見る。注目する。「目を留める」とも書く。

「目をなくす」  
  目がほおにうずくまってしまうくらい目を細くして笑う。嬉しそうな顔をする。

「目を離す」  
  視線を別の物に移す。脇見をする。また、一時的に注意を怠る。

「目を光らせる」  
  監視の必要があると感じて、気をつけて見る。

「目を引く」
  人の注意・視線を向けさせる。人の目を引きつける。

「目を細くする」 
  うれしくて目を細くしてほほえむ。「目を細める」ともいう。
        埴輪 男子頭部 (「日本原始美術6」?講談社)
      

「目を丸くする」  
  驚いて目を大きく見開く。 
                   埴輪 踊る男女 (東京国立博物館)
           

「目を回す」 
  気絶する。忙しい思いをする。

「目を見張る」 
  驚いたり感動したり、また、怒ったりして、目を大きく開いて見つめる。

「目を剥(む)く」  
  怒りや驚きのために、目を大きく見開く。「目玉を矧ぐ」ともいう。

「目を向ける」 
  その方向を見る。視線を向ける。ある方向に注意や関心を向ける。

「目を遣る」  
  注意を引かれたほうへ視線を向ける。そのほうを見る。  


       この刀・・・・・! 
 



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水戸黄門こと水戸光圀の治世、文化事業では“名君”、貧苦にあえぐ領民にとっては“とんでもない藩主様”

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  光圀は1661(寛文元)年8月、初代頼房のあとを継いで2代藩主となり、1690(元禄3)年10月、養子綱條(つなえだ)に職を譲って退くまでの約30年 藩主として勤め、その後も1700(元禄13)年12月に死去するまで太田の西山荘で「大日本史」の編纂にあたった。光圀は「大日本史」を編纂をはじめに各種の文化事業にかかわり、日本の学問の発展に大きな貢献をした。また水戸城は石垣も天守閣もなかったが、学問尊重、学者を優遇し天下の水戸としての基礎を築いたことは、光圀の大きな業績である。名君”と呼ばれる所以である。

 しかしながら、水戸藩は、第2代藩主光圀が没する頃から財政難が表面化した。これは、「大日本史」を中心とする文化事業に多額の費用を要したことが一因であるが、御三家で格式が高く交際費が多かったことと、定府制で江戸と水戸の二重生活を余儀なくされたことが、大きな原因であった。
 藩の財政難を解決するためいろいろな策を施したがことごとく失敗したため、領民に苦難な生活を強いることになった。“一民豊楽万民貧苦”が実態であった。

●1602(慶長7)年 武田信吉、下総佐倉城(4万石)より転じ、水戸城主(15万石)となる。
●1603(慶長8)年 武田信吉、水戸で病死する。
●1607(慶長12)年 中山信吉、附家老となる(一説に慶長13年)。
●1609(慶長14)年 徳川頼房、水戸25万石の藩主となる。
●1610(慶長15)伊奈忠次、備前堀(伊奈堀)を開削する。
●1616(元和2)年 頼房、千代田城内松原小路に屋敷を賜る。
●1622(元和8)年 水戸家、江戸神田台(本郷駒込)に別に屋敷を与えられる。 
                           頼房、3万石加増され、28万石となる。
●1626(寛永5)年 光圀、水戸柵町三木之次邸に生まれる。
●1629(寛永6)年 江戸小石川に屋敷を与えられる。
●1633(寛永10)年 光圀、世子に決定する。
●1638(寛永15)年 水戸城の修築工事が完成する。

●1639(寛永16)年 全領の宗門人別改帳が作成する。

(宗門人別改帳)
 江戸時代、幕府はキリスト教禁止令を発布し、やがて寺請制度を確立させ、民衆がどのような宗教宗派を信仰しているかを定期的に調査するようになる。これを宗門改と呼び、これによって作成された台帳を宗門改帳と呼んだ。
 
 1665(寛文5)年に幕府が諸藩にも宗門改帳の作成を命じると、人別帳に宗旨を記述するという形で宗門改帳が作成されるようになり、これが宗門人別改帳となる。1671(寛文11)年に幕府はこれを法的に整備し、宗門人別改として定期的に調査を行うように義務付けている。後年になるとキリシタン摘発の激減もあって、宗門人別改帳は戸籍原簿や租税台帳の側面を強く持つようになった。

  改帳には、家族単位の氏名と年齢、檀徒として属する寺院名などが記載されており、事実上の戸籍として機能していた。婚姻や丁稚奉公などで土地を離れる際には寺請証文を起こし、移転先で新たな改帳へ記載することとされた。こうした手続きをせずに移動(逃散や逃亡など)をすると、改帳の記載から漏れて帳外れ(無宿)扱いになり、居住の制約などを受けるなどの不利益を被ることになる。そして、これらの人間を非人と呼んだ。

 18世紀になると宗教調査的な目的も薄れ、人口動態を確認し、徴税などのための基礎資料として活用されるようになった。

(厳しい検地)
 常陸では太閤検知後の1602(慶長7)年、代官伊奈備前守忠次が、佐竹移封後、幕府の直轄地となった地域に検地を行った(備前検地)。この検知は太閤検地にならったものであるが、一尺の空き地も残さず “慶長の苛法”といわれるほど厳重に実施された。水戸藩は、初めは、この検地の結果の上に領主支配を行っていたが、1641(寛永18)年なって独自の立場で領内の検地を強行するようになった。水戸藩最初の検地は、太閤検地の六尺三寸を一歩(坪)としたのを、方六尺を一歩に改めた。これにより一反につき平均一割強の年貢が増徴したのと同じ結果になり、陰田は厳重に取り調べられた。 
         年貢の納入 

   竹内誠著 「大系 日本の歴史10 江戸と大阪」小学館 1993年

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江戸時代 水戸藩は百姓一揆に強硬な姿勢で臨み刑は過酷であった  

 水戸藩は元々生産力が低いうえ、年貢率が高かったので、農民の暮らしは楽ではなかった。農民が領主に納める年貢は、田は米(籾)で納め。畑は米の値段に換算して金で納めるのが一般的であった。年貢率は田と畑とでは同一ではなく、1641(寛永18)年の検地より前は、田が四ツ八分余(四割八分余)、畑が六ツ二分(六割二分余)と畑の年貢率のほうが多かったが、後世ではこれが逆になった。これを平均すると年貢率が五割五分と大分高い。

●1640(寛永17)年 隠田禁止の「捷」(3カ条)、検地役人の役料等についての「定」(5カ条)、「起請文前書」などが江戸邸より水戸に通達される。
●1641(寛永18)年 領内総検地を実施する(正月11日開始、9月頃完了)。
  水戸藩の実高36万9400石余となる。多賀郡金沢村庄屋照山修理ら、検地免除を嘆願して処刑される。
●1642(寛永19)年 畑年貢徴収法として「三雑穀切返し法」が施行される。  
●1643(寛永20)年 藩法(幕府法度遵守、文武弓馬の道精励、忠孝礼儀、その他27カ条)制定される。
●1644(正保元)年 総家臣団の知行割替えを断行する。
●1648(慶安元)年 辰之口堰着工する(翌年竣工)。
             岩崎堰着工する(承応元年竣工)。

(慶安のお触書)
   当事、農民に対しては年貢の確保のため日常生活の隅々までこと細かく規制されていた。その一端を1649(慶応2)年に出された全32条からなる「慶安のお触書」で知ることができる。農民は「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり」と例えられるほど絞りとられたことが分かる。
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(以下、「慶安のお触書」の一部、口語に訳してある。)
一、幕席の法令を守らなかったり、領主の旗本や天領の代官のことをなおざりにせず、なおまた、村の名主や組頭を真の親と思うようにせよ。
一、朝、早起きをして草を刈り、昼は田畑の耕作をし、夜は縄をない、俵を編み、どんな仕事でも手を抜かないようにせよ。  
一、酒・茶を買って飲んではならない。妻子も同様である。 

一、百姓は分別がなく、先のことも考えない者であるから、秋になると米・雑穀をおしげもたく妻子へ食わせてしまうことになる。常に正月・二月・三月の頃(食物が少ないとき)の気持を持って、食物を大切にすべきだ。
  ついては、雑穀が第一であるから、麦・粟・稗・菜・大根、その他何でも雑穀をつくり、米を多く食べないようにしなければたらない。飢饅の時を考えれば、犬豆の葉・小豆の葉・ささげの葉・いもの落葉などをおしげもなく捨てることは、もったいないことである。

一、男は田畑の耕作に精をだし、女房はおはたを(苧の機織で)稼ぎ、夜なべをして、夫婦共に稼ぐようにせよ。したがって、見てくれの良い女房でも、夫のことをないがしろにし、茶のみ話が大好きで、杜寺への参詣や行楽を好む女房は離婚せよ。

  しかし、子供が多くいて、前々から世話になっている女房ならば別である。また、見た目は悪くても、夫の家庭を大切にする女房は、とにかく大切にすること。

一、百姓は、衣類については麻布・木綿の外は帯や衣の裏にも使ってはならない。
  少しは商発の心がまえを持って、財産をふやすようにせよ。その理由は、年貢を納めるため雑穀を売る時に、また買う時にも、商売の心が無かったら人に出し抜かれるからである。 

一、たばこをのんではならない。これは職のたしにもならず、結局のちに厄介なことになるものである。その上、時間もかかり、代金もいり、火の用心にも悪い。すべて、損なものである。  

 右のように物事に念を入れ、家計が楽になるように稼ぐようにせよ。・・・・・年貢さえ納めてしまえば、百姓ほど楽なものはない。よくよくこの趣旨を心がけ、子孫代々にまでも語り継ぎ、一生懸命稼ぐようにすべきである。
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  「年貢さえ納めてしまえば、百姓ほど楽なものはない。」とはよく言ったものだ。年貢の納入時期は毎年11月。米の収穫が思うようにいかぬから、農民は減免をもとめ色々抵抗したが、お上に逆らえず、しぶしぶ年貢を納めた。これを「年貢の納め時」と言った。

  この「お触書」をみると、たばこ、綿、菜種などの商品作物が栽培されていたこと、農民が酒を飲み、煙草を吸っていたことが分かる。酒を飲むな煙草を吸うなとお上から言われ、苦労して作った米などの作物を年貢としての納めることは農民にとっては大変なことであった。まるで二足歩行の家畜ではないか。

●1656(明暦2)年 小場江堰着工する(万治元年竣工)。
●1657(明暦3)年 江戸駒込邸に史局を設け、『大日本史』の編纂に着手する。
●1661(寛文元)年 光圏、第2代藩主となる。
●1662(寛文2)年 笠原水道着工する(翌3年完成)。

●1666(寛文6)年 一村一鎮守制を定め、多数の社寺を整理する。
     この年、光圀、大船快風丸を建造する。 
  藩主光圀は、大船快風丸を建造して蝦夷地探検を行い物産を交易したり、紙の生産奨励と専売制、金山の採掘、馬の放牧などを行って産業の振興に努めた。

●1670(寛文10)年 軍制改編が行われる。
●1671(寛文11)年 綱条、光圀の世子となる。
●1672(寛文12)年 江戸駒込の水戸藩別邸の史局を小石川本邸に移し、彰考館と名づける。
●1676(延宝4)年 安史局の史料収集はじまる。
●1679(延宝7)年 『扶桑拾葉集』30巻成稿。
●1683(天和3)年 彰考館に総裁を設け、初代に人見懋斎が任命される。「新撰紀伝」104巻完成する。

(財政難) 
 元禄から宝永になると水戸藩の財政難ははなはだしくなり、藩士の俸禄も滞りがちとなった。江戸初期の農村は自給自足経済が原則であったが、元禄頃になると農村では商品作物の栽培が盛んになった。その結果、農村は貨幣経済に巻き込まれていった。武士も同様であった。 
 
 “名君”の光圀が水戸から遠く離れた江戸で「大日本史」の編纂が本格的に行われていた頃、水戸藩では城下町に住む町民も生活に苦しみ農民は高い年貢を払わなければならなかった。しかも農民は高い年貢を払わなければならなかっただけでなく、色々な名目で税を課されていた。畑百石の収穫高に対して、大豆、稗(ひえ)、荏(え、じょうね)の三雑穀を納めることになっていた。
 
   農民には不利な値段で三雑穀を買い取らせるような形で金納させる「三雑穀切り返し法」をはじめいろいろな形の付加税や臨時の税が課せられた。年貢以外にも助郷や夫役という労力の提供も義務付けられていた。それこそ乾いた雑巾を絞るように絞り取られたのであろう。

●1688(元禄元)年 紙専売制を実施する(宝永4年廃止)。
   栗山潜鋒の「保建大記」成る。
●1690(元禄3)年 光圀致仕し、綱条、第3代藩主となる。
   契沖、『万葉代匠記』精選本を完成する。
   領内年貢付荒高6万1千余石に達する。   
●1691(元禄4)年 光圀、太田西山に退隠する(64歳)。 
   光圀、水戸家の墓地瑞竜山に寿蔵碑、梅里先生の碑を建てる。
●1693(元禄6)年 安積濃泊、彰考館総裁となる。

●1694(元禄7)年 光圀、藤井紋太夫を小石川邸で手討ちにする。 

(綱紀の弛緩)
 藩主光圀は、民政では年貢の減免、凶作や飢饉に備えて領内各地に稗(ひえ)倉を建てたり、「救荒食法」「救民妙薬集」を編纂して農民の間に本草医学の知識を広めたり、孝子節婦を表彰し道義の高揚を図った。しかしながら、貨幣経済の浸透、豪農・豪商の土地兼併、貧農の増加による藩の財政は悪化し、領民の生活難が目立つようになり家中の風儀が乱れてきた。1694(元禄7)年、光圀自身が藩の老中藤井紋太夫を小石川邸で手打ちにしたが、これは綱紀の弛緩を物語るものである。

●1696(元禄9)年 領内神社の整理を実施する。
●1697(元禄10)年 「百王本紀」完成する。
●1698(元禄11)年 彰考館を江戸から水戸城内に移す。 
●1700(元禄13)年 光圀(義公)、西山荘で死去する(73歳)。

(御用金の徴収)
 この頃から藩の財政難が表面化した。この年、領内の富農や城下の町人に藩としては初めて「御用金」を命じた。これは将軍綱吉の小石川藩邸御成りの費用に充てるためであった。水戸藩としても生活難に苦しむ農民や町民の救済のため家臣には江戸詰費用の増額、年賦借金の貸出、農民には籾(もみ)や金の貸与を行い、度々倹約令もだしていた。 

 光圀没後は、毎年のように御用金を徴収し、藩の財政難は慢性化した。この年の御用金の総額は、1万6338両で、出金者数は153人であった。一人当たり約107両である。当時の1両は現在の1万円以上の額に相当したから、庶民にとっては大きな出費であった。

●1701(元禄14)年 新田などを加え35万石を幕府から公認される。
   『礼儀類典』510巻・付図3巻完成する。
●1703(元禄16)年 江戸の大地震で小石川邸全焼、駒込邸過半を焼失する。 
●1704(宝永元)年 はじめて藩札を発行する。

(藩札の発行と開発事業)
 水戸藩は金貨一分(一両の四分の一)にかわる紙幣(藩札といった)を大量に発行して急場をしのいだ。
   水戸藩は、宝永期に入ると、家臣に俸禄を定期的に支払うことが困難になり、財政再建の実行を迫られるようになった。そこで水戸藩は浪士事業家・松波勘十郎を招き、思い切った積極的開発策を実施し一挙に財政難を切り抜けようとしたが成功しなかった(宝永の改革)。

 この時の事業で最大のものは、涸沼と北浦を船で結ぶため北浦にそそぐ巴川と涸沼の間に運河を計画したことである。運河の工事は1709(宝永6)年1月、領内農民の大規模な一揆にあって挫折した。また平地林を伐採して農地として生産の増加を図ったが、水戸城と仙波湖を干拓して増産しようとしたが家臣団の反対にあって、これも頓挫した。 

●1706(宝永3)年 松波勘十郎、300人扶持を与えられ、「勝手向之御用」を司る。
●1708(宝永5)年 勘十郎、財政改革を行う。領内農民、改革反対の大一撲を起す。
●1709(宝永6)年 領内農民の改革反対一揆が活発となる。勘十郎、罷免される。

●1711(正徳元)年 宗尭、綱条の世子となる。
●1715(正徳5)年 紀伝の書名を『大日本史』と決定する。「大日本史叙」成る。
  正徳本『大日本史』(本紀73巻、列伝170巻)が脱稿する。
●1718(享保3)年 綱条死去し、宗尭、第4代藩主となる。

(人々の暮らし)
   荻生徂徠は「政談」の中で、「昔は農村では特に貨幣が不足し、いっさいのものを銭では買わず、皆米や麦で買っていたことを、私(荻生徂徠)は見て覚えている」。ところが、最近の様子を聞いてみると、元禄の頃より田舎へも銭が普及し、銭で物を買うようになっている。

  ・・・・・今の時節、武士は旅の宿にいるような不安定な状態なので、お金がなくてはたちゆないから、米を売ってお金にして商人より物を買って日々を送っている。そこで、商人が主で武家は客である。したがって、諸物価の値段は武家が思うようにはならないのだ。武家が皆知行地に住んでいる時は、米を売らなくてもすむので、商人が米を欲しがるから武家が主となり、商人は客となる。
  ゆえに、諸物価の値段は武家の思うままになる。これは皆、昔の聖人の広大深甚の知恵より生まれた万古不易の掟である。右のように米を大変高値にすれば、城下町に住む町人は皆雑穀を食べるようになるであろう。」と記している。 

 荻生徂徠の「政談」は、徳川吉宗の諮問に応える形式で幕政改革についての意見書。全4巻。享保期(1716〜1736年)に作られたもの。

(水戸黄門様は名君、領民にとっては “とんでもない藩主様”)
 水戸黄門様は白いひげをたくわえ、助さん、格さんを従え国々を漫遊し、行く先々で「この印籠が目に入らぬか!」と悪代官やその手下を懲らしめ、苛政に苦しめられていた町民や農民を助けたという「水戸黄門諸国漫遊記」は映画や講談などで有名である。光圀が死んだとき江戸の人々は「天が下二つの宝つきはてぬ佐渡の金山水戸の黄門」 とうたって悲しんだといわれているが、映画や講談の「水戸黄門様」は、明治20年代に作られた架空の話である。

 江戸から遠く離れた水戸藩内では、農民や町民は生活難に苦しんでいた。“水戸黄門”こと水戸光圀の治世をみると、文化事業では“名君”、藩財政の悪化と領民が生活苦に呻吟していたにも関わらず「大日本史」の編纂など文化事業に注力してことは、領民にとっては。“とんでもない藩主様”、
 ?のつく統治者であったと見るのが妥当のようである。

【関連記事】
水戸黄門は“名君”だったが、実在した徳川光圀の水戸藩の百姓は貧窮に喘いでいた 

【参照文献】 
鈴木暎一著「水戸藩のあゆみ」 筑波書林 1993年8月25日   
瀬谷義彦・豊崎 卓著「歴史シリーズ8 茨城県の歴史」山川出版社 昭和62年8月20日 

 

  

ガマの油売り口上 盲目の人は「声を見る」というお話し

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 盲目の人は「声を見る」というお話し  

 作曲家で箏曲家であった宮城道雄は、随筆『音の世界に生きる』の中で「眼で見る力を失ったかわりに、耳で聞くことが、殊更鋭敏になったのであろう。普通の人には聞こえぬような遠い音も、またかすかな音も聞きとることができる。その人の風体を見ることのできぬ私どもは、その音声によってその人の職業を判断して滅多に誤ることがない」とか、「歩いていても、それが男であるか女であるかは勿論、その女は美人であるかどうかもやはり足音でわかる」と書いている。
 我々が「がまの油売り口上」を演ずるとき、大抵の場合、自分の声が「見られている」ことに関心を持つことはないが、声で、その“人”がわかる、手を抜けばたちまち見破られるという、頂門の一針のような随筆である。  



宮城道雄  
 宮城道雄は1894(明治27)年4月7日は、兵庫県神戸市生まれの作曲家・箏曲家で、『雨の念仏』(1935年)などの随筆により文筆家としての評価も高い。 

 父親は広島県沼隈郡鞆町(現在の福山市)、母親も同県安佐郡祇園町(現在の広島市安佐南区)出身。8歳で失明し、生田流箏曲の二代菊仲検校に師事したが、その後兄弟子菊西繁樹の紹介により二代中島検校に師事して11歳で免許皆伝となる。13歳のとき、一家で朝鮮の仁川へ渡り、箏と尺八を教えて家計を助ける。14歳で第一作の箏曲「水の変態」を書き上げ、伊藤博文に評価される。

 その後京城(今のソウル)へ渡って頭角を現し、結婚して宮城姓を名乗る。そして1916年、大検校となった。1917年4月、上京するが間もなく妻が急死して翌年再婚した。

 1919年、本郷春木町の中央会堂で念願の第1回作品発表会を開催して作曲家としてデビュー。自作や古典曲の演奏を行う一方、古典楽器の改良や新楽器の開発を行い、十七絃、八十絃、短琴(たんごと…家庭用の琴)、大胡弓(だいこきゅう…大型の胡弓)などを発明した。  

 1929年に発表した「春の海」は、フランス人女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーと競演され、世界的な評価を得ることになった。1932年に日、米、仏でレコードが発売されている。春の海は父親の故郷であり失明前に育てられた土地、福山市鞆町から見える鞆の浦にインスピレーションを受けて創作したもの。  

 1956年6月25日未明、大阪の公演へ向かう途中、愛知県刈谷市の刈谷駅付近で夜行急行列車「銀河」に付き添いで同行している義理の姪(内弟子)と共に乗っていたが、この列車の昇降ドアから外へ出て列車の外に転落した事が原因で死亡した。  
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宮城道雄「音の世界に生きる」  

     幸ありて  

 昨年の暮、一寸風邪をひいて欧氏管(おうしかん)を悪くした。普通の人ならたいして問題にすまいこのことが、九つの年に失明を宣言されたその時の悲しみにも増して、私の心を暗くした。もし耳がこのまま聞こえなくなったら、その時は自殺するよりほかはないと思った。音の世界にのみ生きて来た私が、いま耳を奪われたとしたら、どうして一日の生活にも耐え得られようかと思った。幸い何のこともなく全治したが、兎に角今の私には、耳のあることが一番嬉しくまた有難い。  

  私は、生れて二百日くらいから眼の色が違っていたそうであるが、それが七つの頃から段々見えなくなった。その為に学校に上れなかったが、それが当時の私には何より残念だった。めくらといわれるのがどうにも口惜しくてならなかった。それで無理に見えるふりをして歩いて、馬力につき当ったり泥溝に落ちたりして怪我をしたものである。が、結局諦めねばならなかったので、九つの六月から箏を習いはじめた。
 音楽は元来非常に好きだったので、間さえあれば箏に向っていた。しかしその頃は――そしてずっと後年まで、やはり時には、眼が見えたらなあと寂しく思うようなこともないではなかった。  

  だが、しかし今日では、年も取ったせいであろうが、眼の見えぬことを苦にしなくなった。時々自分が眼の悪いということを忘れていることさえある。「ああ、そうそう、自分は眼が見えなかったんだな」と気がつくようなことがしばしばある。というのは、物事は慣れてしまうと、案外不自由がないものだから、私なども家の中のことなら大抵、人の手を借りることなしにやれる。それだけにまた一しお、この耳とそして手の感触をありがたいものに思うのである。  

 私は、眼で見る力を失ったかわりに、耳で聞くことが、殊更鋭敏になったのであろう。普通の人には聞こえぬような遠い音も、またかすかな音も聞きとることができる。そして、そこに複雑にして微妙な音の世界が展開されるので、光や色に触れぬ淋しさを充分に満足させることができる。そこに私の住む音の世界を見出して、安住しているのである。  

    声を見る  

 まるで見当違いの場合もないわけではないが、その人の風体を見ることのできぬ私どもは、その音声によってその人の職業を判断して滅多に誤ることがない。 

 弁護士の声、お医者さんの声、坊さんの声、学校の先生の声、各々その生活の色が声音の中ににじみ出てくる。偉い人の声と普通の人の声とは響きが違う。やはり大将とか大臣とかいうような人の声は、どこか重味がある。

  年齢もだが、その人の性格なども大抵声と一致しているもので、穏やかな人は穏やかな声を出す。ははあ、この人は神経衰弱に罹っているなとか、この人は頭脳のいい人だなというようなことも直ぐわかる。概して頭を使う人の声は濁るようである。それは心がらだとか不純だとかいうのでなく、つまり疲れの現れとでもいうべきもので、思索的な学者の講演に判りよいのが少く、何か言語不明瞭なのが多いのがこの為ではないかと思う。

  同じ人でも、何か心配事のある時、何か心境に変化のある時には、声が曇ってくるから表面いかに快活に話していても直ぐにそれとわかる。初めてのお客であっても、一言か二言きけば、この人は何の用事で来たか、いい話を持って来たのかそれとも悪い話を持って来たか、何か苦いことをいいに来たかというようなことはよくわかるものである。また肥った人か痩せた人かの判断も、その声によって容易である。例えば高く優しくとも肥った人の声は、やはりどこかに力があるものだ。 

  声ばかりではない、歩く足音でそれが誰であるかということがよくわかる。家の者が外出から帰って来たのか、客であるか、弟子であるか、弟子の誰であるか、大抵その足音でわかる。道を歩いていても、それが男であるか女であるかは勿論、その女は美人であるかどうかもやはり足音でわかる。殊に神楽坂などという粋な筋を通っていると、その下駄の音であれは半玉だな、ということまでわかる。それは不思議なくらいよくわかる。  

 ところが、この間道を通る人の靴音をきいて、傍の家人に今のはお巡りさんかと尋ねてみたら、「いいえ女学校生です」とのことであった。この頃の女学生は活発な歩き方をするので、私の耳も判断に迷うことがある。 

    音に生きる  

 私は子供の時には非常に負嫌いで、喧嘩しても議論しても負けるのが何より厭だった。それがこうして音の世界に生きるようになってからは、不思議に気持が落著いて来て、負嫌いどころか負けることが好きなくらいになった。大概のことは人に勝たしてあげたいと思うのである。  

 時にはそれを卑怯のようにも思うけれども、決して人と争わぬ。人の意見に反対しない。若い頃には直ぐ怒ったものであるが、この頃はどうしたものか、腹が立たなくなった。時に、弟子に対して怒ったふりをすることはあるが、心から怒るということはない。

 芸に就いても、かつては他流の人とでも弾く時には、何か一種の競争意識というか、戦闘気分といったようなものに支配されたものであるが、今日はそうでない。誰とやっても静かな気持である。先ず人を立ててその中に自分自らも生きようと希う気持だけである。

 私が一番苦々しく思うことは、相手の人によって言動に階級をつけることである。人間はどうしてああいうことをせねば気がすまぬのか。それは偉い人には敬意を表さねばならぬのは勿論だが、目下の者だから、貧しい者だからといって何故威張らねばならぬのか。私にはそういう気持がわからない。

 それでよく弟子達に、「先生は誰にでも頭を下げるから威厳がない」と叱られたりするが、しかし私は自分の値打を自分で拵えて人に見せようというような気持にはなれない。 

 これは何も私が修養が出来ているかのように仄かすのではない。およそ音の世界に生きる者のすべてが自然に持つ、一つの悟りとでもいうべき心境であろう。有難いと思う。私はいま別に信仰というものはないが、強いていえば、私にとって音楽は一つの宗教である。 

 

  

 

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