小田城は軍事的拠点には不適、政治力のシンボル
小田城は建久3年(1192)八田知家によって築城された。筑波山に続く宝筺山(ほうきょうざん)、俗に小田山と呼ばれている南麓の地にあり、約1キロ四方に及び、四重の土塁と四重の堀をめぐらした大規模な城であった。
つくば市の小田集落の全域は昔の城跡である。小田城は北畠親房の『神皇正統記』起稿の地として有名であり、昭和10年6月文都省の史跡指定を受けている。つくば市は平成21年度から中世の小田城を体感できる歴史ひろばとして整備するため工事を行なっている。
小田城は戦国時代の戦乱で数回にわたり敵に奪われたり、奪還を繰り返した城である。落城と奪還を繰り返した原因の一端を考えるため本丸跡の景況を観察した。
本丸跡の土塁は自転車道から高さが約3m程度、自転車道の下の堀の底までの高さは1.8m程度である。堀の跡は田んぼとして利用されていたから、泥の底が軟弱であっても膝関節くらいまで泥土に食い込む程度であろう。足が立つ泥の堀底から自転車道までの高さは2m程度と観察される。
また、堀跡周辺の景況から堀に水を溜めても、満水時でも、水深1.5m程度になればあふれ出ると観察される。渇水期であれば水位はさらに低くなる。また堀の幅は狭いところで10mくらい、広いところでも30mに満たない。
小田城周辺から土浦、つくば市街地方面は起伏が乏しい平坦な平野が展開している。草木が生い茂る時期、月が出ない漆黒の夜や風雨の強い時には、徒歩で草むらに隠れながら接近することは容易である。総じて、小田城に対しては東西南北どの方向からも徒歩部隊の接近が可能である。
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篭城と包囲
篭城は兵器、食料、水などの備蓄が不十分であれば「城を枕に討ち死に」となる。壕を掘り塀、櫓をたて、堀などに障害物を設置する。攻める側は敵の糧道を絶ち、矢や弾を避けるための塹壕や城内へ侵入する坑道を掘り、焼け草を積んで城内を燃やし、土や草木を堀に埋めて城を攻めた。
戦いは篭城する側、攻撃する側ともに膨大な人員と器材を要し、経済的にも莫大な費用を投じる消耗戦となる。
兵糧攻
食(じき)攻ともいい、敬が籠城した場含に攻める側が城を囲んで、食糧の補給を断つ。籠城側はやがて飢えに苦しんで降参し、開城する。この戦術は攻める方が優勢の場合にはしばしば行なわれた。
逆茂木(さかもぎ)
逆茂木とは樹を切り倒して、枝の方を敵に向けて、敵の来そうな地域に一面に並べる。献が突撃して来ると、これに引っかかって前進出来ない。底を狙って矢や弾で倒すための障害物である。
乱杭(らんくい)、菱(ひし)
乱杭は丸太の棒を地中に埋め、それに不規則に縄を張りめぐらしたものである。敵の渡河しそうな岸の水辺にも乱杭を打った。中には水面下に配列して、敵は知らずに渡河し、これに引っかかる所を矢弾で倒すしたりする。防禦陣地の前に設置した。
菱は古くは菱の実を用いたが、両端を鋭く尖らせた竹の数片の中央を縛って立体的にしたり、あるいは鉄で作って、敵のきそうな所に無数撒いて、木の葉を散らしてわからないようにしておく。敵が来るとこれで足の裏を踏み抜き前進出来なくなる。
虎落(もがり)おとしの備
敵が小高い所から侵入しそうな低地とか通り道に落し穴を掘って鋭い竹や鉄を無数植え、木の枝・葉や落ち葉で穴を隠し、穴に落ちたら貫き刺さるようにした仕掛けである。古くは中国で虎の襲来による被害を防ぐための罠であったが防禦に利用された。
笹間良彦著「図説 日本戦陣作法辞典」柏書房 2000年
たとえ堀が2重、3重に設けられていても、堀の中に水に隠れるように障害物を設置しなければ、防御力は低い。堀に水が蓄えられていても水位が低い時には歩いて渡れたのではないか。堀に水が満々と溜められていたとしても首から上を水面から出して歩いて渡ることが可能であるし、歩いて渡れなければ、小船のような箱や板に装具を載せ曳航しながら泳いで渡ってもいい。樹木や泥で堀を埋めてもいい。
どの堀も浅く狭いだけでなく土塁も石垣ではなく文字通り”土”であり、その傾斜も緩いので防御陣地の構築物としては中途半端である。
また、小田山側に観測所を設ければ城内の様子、城へ出入りする人や物の動きが把握できる。従って、戦勝のためには小田の街の住民を見方につけたることが必須の条件となる。小田氏が善政をしいた事を示唆する記事が文献に見えるのもそのためであろう。
更に、小田氏側も敵側も小銃を装備していたが、文献には、3ないし,4丁程度で敵兵を討ち取ったという記述が目に付く。織田信長軍のように鉄砲隊を設け大規模に使用したという記述が見当たらない。当時の小銃の有効射程は精々100m程度未満、しかも単発で速射性が低いため、大群で攻撃する側にとっては、多少の戦死者が出たとしても、それほど脅威ではない。小田城は戦闘のための拠点には不向きであることが明らかである。
筑波山を背にして広い平野に屹立していた小田城は、戦国大名の権威を天下に誇示するために相応しい政治力のシンボルであったものと推察される。
小田城跡航空写真
(平成22年2月 つくば市教育委員会「国指定史跡 小田城跡」)
1から13の数字は撮影地点、本丸跡を反時計周りに歩いて撮影した。
工事の看板 1の地点
1の地点の看板からみた土浦方向に走る線路跡
本丸跡の土塁 地点1から2、3の地点の方向
右側の堀は浅く幅が狭い
2の地点から12の地点の方向
前方の山に見張りを配置すれば小田の街や城内が見える
2の地点から3の地点の方向
3の地点から小田の街の方向
6の地点から7の地点の方向
6の地点から小田の街の方向
前方の山に見張りを配置すれば小田の街や城内が見える
無線通信が無くても、昼夜の連絡手段はある
3と4の地点の中間付近から対岸の5の地点へ架かる橋
左の木の階段は一段の高さ15cm程度、ブルーシートまで15段、土塁の高さは自転車道から約3m、右手に一眼レフカメラを持ち、左手で土塁に手を着けながら駆け登ることができた。防御力は乏しい。
堀は浅く狭い、土塁の傾斜も緩い
5の地点
堀の底は保水のため固めてあるが、元々の堀は足が深く食い込むような堀底ではないと思われる。
5の地点、 台上から土浦方向
6の地点から8の地点の方向
左側の林の中に「小田城跡の碑」が立っている
7の地点 「小田城跡の碑」
8の地点の堀
水を溜めても水深が浅いので、徒渉は比較的容易
9の地点から1の地点の方向、鉄道線路跡
10の地点から11、12の地点の方向
この付近の堀は幅が広いが、それでも堀底の幅は25mくらい
11の地点から土浦方向
12の地点から13、1の地点の方向
13の地点から12の地点の方向
1の地点の看板の脇から12の地点の方向
小田城本丸跡
整備事業が始まる前の状況
(瀬谷義彦・豊崎卓著「茨城の歴史」山川出版社 昭和62年)
小田城跡 城跡の全体像
小田氏は戦乱に明け暮れ、財力、人材も逐次消耗したため、土塁や堀を強化できなかった。小田氏滅亡後、佐竹氏が城主になった時代に堀が増築され防御力が向上した。
防御に適さない土地に”防御陣地”をつくるから、堀をたくさん作らざるを得なくなる。小田城に対してはどの方向からも接近可能であるから、敵に包囲された場合、堀や土塁で小分けされた狭い区画に守備兵を分散配置して守ることになる。
戦力の集中ができないので、戦闘は大規模な合戦で乾坤一滴、決着を付けることができない。戦いは小部隊、中小規模の人数の戦闘となり、しかも堀があるため彼我ともに自由な移動ができない。武士は生きるか死ぬか、その様相は彼我の消耗戦である。
したがって、戦いは敵を圧倒する兵力を動員することが可能な側の勝利に帰結する。この城をめぐって小田氏が落城、奪還を繰り返した一因はそこにある。
小田の案内図
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【参照資料】
つくば市教育委員会「国指定史跡 小田城跡」平成22年2月