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Channel: ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。
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第70回筑波山ガマまつり・筑波山がまレース2018(8月11日)開催

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 2018年08月11日(土)、第70回筑波山ガマまつり、筑波山がまレース2018が開催された。午前9時から筑波山神社随神門脇で神事が行われ、池にガマガエルが放された。

 11時から今年で5回目になる“筑波山ガマレース”、通称“TGR(Mt。Tsukuba Gama Race)”が開催され、老若男女の約800名がガマの被り物をかぶり、筑波山神社門前通りを一斉に駆け抜けた。
 カエルの被り物を被った集団が一斉に走る姿はまさに天下の奇祭である。

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8月18日 筑波山神社の風景 爽やかな日、訪れるひとは少なかった

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 8月18日(土)数日前の猛暑から一転、爽やかな秋のような日であった。午前8時頃には筑波山神社の駐車場はほぼ満車だったが下山した登山客の車が一台、また一台と駐車場を出て行った。
 日中は、筑波山神社を訪れる人は少なく静かだった。

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筑波山伝承「ガマの油売り口上」の誕生

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筑波山伝承「ガマの油売り口上」  
 戦後 筑波の町おこし、観光業振興の目玉として復活した。 


筑波山ガマ口上の誕生
 1737(元文2)年、常陸国筑波郡永井村(旧新治郡新治村大字永井の農家に平助という者が生まれる。平助9歳の頃、永井村の普門院の雑役に雇われる。
 16歳の頃、出火あり平助は責任をとってやめ江戸へ出ることになった。何とか深川のとある問屋の雑役に就くことができた。実直で働き者だったので評判は良かった。 

 機会があり筑波山大御堂講中参拝に参加、筑波山大御堂の門前の店で弘法の霊薬辰砂と地元で古くから薬としていたガマ(蟾酥・センソ)を主材としたガマの膏薬(蟾酥膏)を見つけ感激、折からの大御堂の夕暮れの鐘の音を耳にし、江戸浅草で大道販売しようと思いついた。

 大道商人の夢捨て難く店をやめ居合抜きで客を集め歯みがきを売る大道商人の仲間に入った。大道販売のコツを体得し、特にガマの膏薬については熱心に工夫を凝らした。 

              長井兵助の居合抜き
      
         菊池貴一郎『絵本風俗往来』 ㈲青蛙社(平成15年5月20日)                   

 平助30歳を過ぎた頃、縁があり高松藩出身で木草学・医学・科学・文芸など多方面の学芸に通じた平賀源内の教えを受けたともいわれている。やがてガマの油売り口上については大道商人の中で第一人者となった。 その頃か大道商人の親分となり永井村の平助から永井兵助(後の第一代永井兵助)に改名したという。             

 その後、永井兵助の名前は益々有名になったがその後の消息ははっきりしていない。郷里にも何の噂も残っていないが、ニセ兵助が各地に出没したという。
 だが、ガマの油売り口上という大道芸は大道商人によって全国に広く伝わりガマの膏薬は江戸期売薬のベストセラーになった。ニセモノが横行するほどの名売薬であった。

 

明治時代~戦後の町おこしの目玉として復活
 ガマ口上は油を売る商売でなく舞台芸能として人気をよんだ。しかしながら庶民文化の向上にともない薬の流通経路が大道から薬局に変わり、不良品が出回ったため評判を落とした。

 更に薬事法の改正で薬の大道における販売が不可能となったことなどで大道における薬販売は衰退していったが、ガマの油売り口上は庶民の間で伝承芸能として生き続けた。
 

 1946(昭和21)年 筑波町観光協会設立、ガマの油を観光の目玉として売り出すことになった。筑波山でガマ口上を伝承されていた2人、造園業の原政男氏、畳業の稲葉卯之助氏に協力をお願いし、観光に無縁であったが筑波山観光開発のため快諾していただいた。

 2人はホテルの観光客、公私の催事に出演することになった。これとともに地元では口上愛好者が増え学ぶ者が多くなった。
  中でも観光事業関係ではホテル業の吉岡久子さん(後の第19代名人)が苦労されて演技を磨き、女性口上士として人気を呼ぶようになった。

         18代岡野名人                19代吉岡名人
      
  
 

 教育関係では小学校長 岡野寛人氏(後の第18代名人)が伝承されている口上、大道商人の口上や落語の口上等を調査研究し集大成したものが注目を浴びるようになった。 

第十八代永井兵助の「筑波山ガマの油売り口上」

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 ガマの油売り口上は、浅草観音境内奥山で居合抜きの辻売り芸で知られた長井兵助の口上を、同じく独楽廻しの曲芸をやっていた松井源水が受け継いだとされる。十六代源水の弟子が伝える口上は、古典落語と大きな違いはない。

 十八代名人永井兵助(故人)から伝統芸能「筑波山ガマの油売り口上」創作の経緯について説明を受ける機会がなかったが、各種の口上を収集、特に第十六代松井源水の弟子が伝える口上や古典落語を基に表現を現代風に変え、加筆し書式を整え筑波山にふさわしいものを創作したものと推察される。

 下記の口上文で傍線を付した箇所は、明らかに古典落語などには見られない個所である。



   大道芸、ガマの油売リ口上 
                     第十八代 永井 兵助 

 

さあさあ お立ちあい 御用と お急ぎでなかったら、ゆっくりと聞いておいで。

遠出山越え笠の内、聞かざる時には、物の出方、善悪、黒白が トント分からない。

山寺の鐘がゴォーン、ゴォーンとなると雖も、

童子来たって鐘に撞木を当て当てざれば、

鍾が鳴るのか、撞木が鳴るのか トント その音色が分からぬが 道理じゃ。 

 

さて手前ここに取り出したる これなるこの棗、

この中には一寸八分 唐子発条 の人形が仕掛けてある。

 

我が国に 人形の細工師 数多有りと雖も
京都にては守随、大阪表にては竹田縫之助、近江の大堟 藤原の朝臣、
この人たちを入れて 上手名人はござりませぬけれども、
手前のはこれ 近江の津守細工じゃ。


咽喉には 八枚の小鉤を 仕掛け、背中には十と二枚の歯車が組み込んで ござりまする。

この棗をば、大道に据え置くならば、天の光を受け地の湿りを吸いあげまして陰陽合体。


パッと蓋を取る 時には、ツカ ツカ ツカ ツカ ツカと 進むが 虎の小走り虎走り、


後ろへ下がって雀 独楽どり、独楽返えし、
また孔雀、霊鳥の舞と十二通りの芸当がござりまするけれども。


如何に人形の芸当が上手であろうとも、投げ銭や放り銭は お断り。


手前大道にて未熟な渡世はしているけれども、憚りながら天下の町人、
泥のついた投げ銭や放り銭をバタバタ拾うようなことは いたしませぬで。

 

しからばお前、投げ銭、放り銭 貰わねえで一体 何を以て商売としているのかい、
何を以て おまんま食べているのかいと 
心配なさる方が あるかも知らないけれども、

これなる 此の看板示すがごとく、筑波山妙薬は陣中膏ガマの油。

此のガマの油という膏薬をば 売りまして生業と致しておりまするで。 




さて、いよいよ手前 ここに取り出しましたるが 

それその 陣中膏はガマの油だ。


だが お立ち会い。蝦蟇 蝦蟇と一口に云っても 

そこにも居る ここにもいるという蝦蟇とは、ちと これ 蝦蟇が違う。


ハハア、蝦蟇かい。
なんだ 蝦蟇なんか 俺んちの縁の下や 流し下にもぞろぞろいる。  

裏の竹藪にだって蝦蟇なら いくらでもいる なんていう顔している方がおりますけれども、
あれは 蝦蟇とは言わない。


ただのヒキ蛙、疣蛙、御玉蛙か 雨蛙 青蛙,

何の薬石・効能はござりませぬけれども、
手前のは、これ四六の蝦蟇だ。四六の蝦蟇だ。

 

四六、五六というのはどこで見分けるかというと、ほら、此の足の指の数。

えー、前足の指が四本、後ろ足の指が六本。

これを合わせましては、蟇鳴噪は四六の蝦蟇だ、四六の蝦蟇。

 

また、この蝦蟇の採れるのが五月、八月、十月でござりまするから、
一名これ、五八十は四六の蝦蟇だ。四六の蝦蟇。

 

サテ しからば、此の四六の蝦蟇の棲むところ、

一体、何処なりやと言うれば、

これより遙か北の方、
 〔注〕 古典落語で「北の方」とは、京都を起点として北を指す。


北は常陸の国は筑波の郡、古事記・万葉の古から 歌で有名。

「筑波嶺の峰より落つる男女川 恋いぞつもりて渕となりぬる。」と陽成院の歌にもございます

関東の名峰は 筑波山の麓。

 

臼井、神郡、館野、六所、沼田、国松、上大島、東山から西山の嶺にかけまして、
ゾロゾロとはえておりまする大葉子と言う露草をば 喰らって育ちまするで。

〔注〕陽成院の歌

 陽成院(868年~949年、天皇在位:876年~884年)の歌 
  「つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりける」
    (百人一首では「淵となりぬる」)

 陽成院は、上皇歴65年と長かった。
 歌才があったが、自身の歌として残るのは『後撰和歌集』に入撰し、のちに『小倉百人一首』にも採録された上記一首のみである。
  陽成院の時代、各地で巨大地震が発生している。
 百人一首の歌は、陽成院が被災地の視察時に京都を出て平沢官衙があった筑波山麓を経て被災地の東北・多賀城を往復した際に読んだ歌なのだろうか? 

 

さてしからば、
此の蝦蟇から 此の蝦蟇の油を採るにはどういうふうにするかって 言いますと、

 

先ずは ノコタリノコタリ急ぎ足、木の根・草の根 踏みしめまして、
山中深く分け入り、捕らえ来ましたる この蝦蟇をば、

 

四面に鏡を張り、その下に金網、鉄板を敷く。
その鏡張りの箱の中に、この蝦蟇を追い込む。


サア追い込まれたガンマ先生、
己の醜い姿が 四方の鏡にバッチリと写るからたまらない。


我こそは今業平と思いきや、 

鏡に写る己の姿の醜さに、ガンマ先生、ビックリ仰天いたしまして、
御体から油汗をば、タラーリ、タラーリ、タラーリと流しまする。

 

その流ましたる油汗をば、下の金網からぐぐっと抄き取り集めまして、
三七は二十と一日の間、

柳の小枝をもちまして、トロリ、トロリ、トローリと煮炊きしめ、
赤い振砂に 椰子油、テレメンテイナ、マンテイカという 
唐、天竺、南蛮渡りの妙薬をば 合わせまして、

良く練って 練って練りぬいて造ったのが、
これぞこれ、此の 陣中膏は蝦蟇の油の膏薬 でござりまする。

 

サテお立ち会い。
これにて、蝦蟇の油の膏薬の造り方 お分かりでござりまするかな。


エー、分かったよ。
分かったけれども、どうせ 大道商人のお前の造った蝦蟇の油なんか 
ろくな効き目なんか るまいと思っているような顔をしている方が 
おられるようだけれども、

薬というのは何に効くのか効能が分からなかったら値打ちがねいよ。

 

しからば、蝦蟇の油の膏薬、何に効くかと云うなれば、
先ずは疾に癌瘡、火傷に効く。瘍・梅毒・皹(ひび)に霜焼け、皸(あかぎれ)だ。


前へ廻ったらインキタムシ、後ろへ廻ると肛門の病。
肛門と云っても 水戸黄門様が病気になったんじゃねいよ。


 これを詳しく云うなれば、
出痔に疣痔・走り痔・切れ痔・脱肛に鶏冠痔。
鶏冠痔というのは、鶏の鶏冠のように真っ赤になる痔の親分だ。

だが手前の此の蝦蟇の油をば、

グットお尻の穴に塗り込むというと、三分間たってピタリと治る。


まだある。 槍傷・刀傷・鉄砲傷・擦り傷・掠り傷、外傷一切。

 

まだある。

大の男が七転八倒して畳の上をばゴロンゴロンと転がって苦しむほど痛えのがこれ この虫歯の痛みだ。


だが、手前の この蝦蟇の油の膏薬、
これをば 紙に塗りまして 上からペタリと貼るというと、
皮膚を通し肉を通して 歯茎にしみる。


又 蝦蟇の油 小さく丸めまして アーンと大きな口開いて 歯の空洞にポコンと入れるというと、

これ又三分間 熱い涎がタラリ タラーリと出る共に 歯の痛みピタリと治る。


まだある。どうだい、お立ち会い。
お立ち会いのお宅に 小さい赤ん坊はいらっしゃるかな。


お孫さんでも お子さまでもいいよ。

エー。赤ん坊の汗疹、爛れ、気触れ なんかには、

手前の此の蝦蟇の油の入っておりましたる 空きは箱・空箱・潰れ箱、
此の箱を見せただけでも ピタリと治る。


えー、どうだい、お立ち会い。
こんなに効く蝦蟇の油だけれども、残念ながら効かねいものが 四つあるよ。

先ずは 恋いの病と浮気の虫。あと二つが禿と白髪に効かねえよ。

 

おい、油屋。お前さん 効かねえものなんか並べちゃって、
もう 蝦蟇の油の効能つうのは 終わりになったんじゃねえかと 思っている方がおりますけれども、
そうではごさりませぬ。

 

も一つ大事なものが残っておるりまする。刃物の切れ味をば 止めてご覧に入れる。



ハイッ。
手前 ここに取出したるは、これぞ当家に伝わる家宝にて
正宗が暇に飽かして 鍛えた天下の名刀、


元が切れない、中切れない、中が切れたが先切れないなんていう鈍刀・鈍物とは物が違う。
実に良く切れる。
 〔注〕「切れないという鈍刀・鈍物とは物が違う。」とあるが、古典落語では「鈍刀なりといえども・・・切れる。」

 

どれ位切れるか抜いて切ってご覧に入れる。

エイ。抜けば夏なお寒き氷の刃。津瀾沾沌 玉と散る。ハイ。
ここに一枚の紙がござりまするので、これを切ってご覧に入れまする。

 

ご覧の通り種も仕掛けもござりませぬ。

ハイ。一枚が二枚。
二枚が四枚。
四枚が八枚。
八枚が十六枚。
十六枚が三十二枚。
三十二枚が六十四枚。
六十四枚が一束と二十八枚。


エイ。これ この通り細かく切れた。

パーッと散らすならば比良の暮雪か、嵐山には落花吹雪の舞とござりまする。

 

どうだ お立ち会い。
こんなに切れる天下の名刀であっても、
この刀の差表、差裏に 手前の この蝦蟇の油塗るときには、
刃物の切れ味ピタリと止まる。

塗ってご覧に入れる。


 あーら塗ったからたまらない。刃物の切れ味ピタリと止まった。

我が二の腕をば、切ってご覧に入れる。

ハイッ。打って切れない、叩(たた)いても切れない。

押しても切れない。引いても絶対に切れない。

さて、お立ち会いの中には、なあんだ、お前のそのガマの油という膏薬は
これほど切れた天下の名刀をただなまくらにしてしまうだけだろうと思っている方がおりまするけれども、
そうではござりませぬ。

手前、憚りながら、大道商人をしているとは雖も、

ご覧の通り 金看板天下御免のガマの油売り、

そんなインチキはやり申さん。

この刀についておりまするガマの油、
この紙をもちまして、きれいに拭きとるならば、
刃物の切れ味 また、元に戻って参りまする。

 

さわっただけで赤い血がタラリ タラーリと出る。

しからば、我が二の腕をば 切ってご覧に入れる。

 

ハイッ。これ この通り。赤い血が 出ましてござりまするで。

だが、お立ち会い、血が出ても心配はいらない。

 

なんとなれば、ここにガマの油の膏薬がござりまするから、
この膏薬をば 此の傷口に ぐっと 塗りまするというと、
タバコ一服吸わぬ間に ピタリと止まる血止めの薬とござりまする。

これ この通りで ござりまするで。


 

さあて、お立ち会い。
お立ち会いの中には、そんなに 効き目のあらたかな そのガマの油、
一つ欲しいけれども、ガマの油って さぞ高けいんだろうなんて 思っている方がおりまするけれども、

 

此のガマの油、本来は一貝が二百文、二百文ではありまするけれども、
今日は、はるばる、出張ってのお披露目。

 

男度胸で、女は愛嬌、坊さんお経で、山じゃ鶯ホウホケキョウ、

筑波山の天辺から真逆様にドカンと飛び降りたと思って、
その半額の百文、二百文が百文だよ。
 

 〔注〕古典落語では「一貝が十二文だが今日は小貝を添えて二貝で十二文」
    貨幣「一文」は、二十円程度とすれば、妥当な金額と考えられる。
    「一貝二百文」としたため、聞く者に所謂 ”ぼったくり” の印象を与えるもとになった。

さあ、安いと思ったら買ってきな。効能が分かったら ドンドンと買ったり、買ったり。


〔関連記事〕
ガマの油の値段、
 藩財政が厳しかった水戸藩も贋金を造った「天保通宝」なら1枚が100文で2500円

 

  

ガマの油売り口上、インパクトが強い“接近戦”、直談判が人を動かす

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            インパクトが強い“接近戦”  


インパクトが強い“接近戦”、直談判が人を動かす  
 がまの油売り口上の実演に力が入るか否かは、観客の多寡やその反応に、多分に影響を受ける。ゴールデンウイークや秋の行楽シーズンなど老若男女、家族連れなど多くの人で賑わうときの実演は、観客の熱いまなざしに応え演技に力が入る。 

 演技に観客の気持ちがのってくる。と同時に口上士もその観客の熱いまなざしに応えて、演技に力がはいる。反対に同じ場所で演技をしても、観客が一人か二人といった閑散場合は、なんとなく醒めた雰囲気が漂う。 観客が口上士を“動かしている”からである。

 人が目の前にいる、ということが、人の気持ちを動かす。人が人に衝撃を与える。どのようなときにこのインバクトが強くなり、相手の人を動かすことができるのだろうか。
   これをまとめたのが、「杜会的インパクトの理論」(Latane,B.,1981)である。 

それによると、インパクトImpの強さを決める要因として、 
 ●影響源の地位や社会的地位、つまり 強度 S
 ●影響源との空間的、時間的接近つまり 直接性 I  
 ●影響源の数 N  の3つである。
 個人が受ける社会的インパクト(Imp)はこれら3要素の相乗関数
    Imp=f(S×I×N) として定義される。    

影響源の強度  
 この「社会的インパクトの理論」の衝撃3要因は、照明と手元の明るさとの関係で説明できる。手元の明るさというのが衝撃の強さ、つまり実際に人を動かす力である。  

 影響源の強度は太陽の明るさに例えると、曇っているときの太陽よりも快晴の太陽の方が手元が明るくなる。つまり、影響源の強度が強ければ、それだけインパクトが大きくなり、より人を動かすことができる。  

 権威を持っている人、社会的地位の高い人、他を圧倒する実力を持つ人、魅力的な人などは、そうでない人よりも相手の人を強く動かすことができる。強い”パワー”、カリスマ性がある人は、人を強く動かすことができる。  

直接性    
 太陽の光が強くても、日没、夜間と太陽が没してしまえば、新聞は読めなくなる。太陽が没しても、ろうそくの光で手元を照らせば新聞が読める。このように、強い力やカリスマ性が無くても、相手にぴったりとつき、面と向かい、行動すれば、相手へのインパクトは、強力なパワーを持っている人に劣らず強い衝撃を与える。

 人にものを頼むとき電話でお願いするよりも、一対一で直談判したほうが、相手に対するインパクトは強い。
 人が自分の考えや意思を相手に伝えるには、相手との目の距離が30cm~50cmの間になった時が、もっともよく伝わるようである。そして、そのときの条件としては、いつもの半分の声で話すことである。

 観客との距離を調整しながら演技をすることが、相手を制する。さらに、相手に触れる、触れさせるという最接近の方法も衝撃的方法の一つである。 

      四六のガマだよ! 四六のガマ!  

     
     (赤い血が)ぴたりと止まった! 
      
        ごらんの通り! 


影響源の数  
 60ワットの電球でも3つけると180ワットになり、100ワットの電球一つよりも手元が明るくなる。たとえ、一人一人は強力な影響源でなくても、数が集まると、トータルで大きな影響源となり、強いインパクトを与える。

 がまの油売り口上を演技するのは口上士一人であるので逆説的な話になるが、 観客が多くなればなるほど口上士の演技に熱が入る。“影響源”として存在する観客の“数”が口上士を動かし迫真の演技を迫るからである。 

      迫真の演技がインパクトを与える 

 
 「杜会的インパクトの理論」から人を動かすためには、強いパワーをもち、相手の人に近づき、できるだけ大勢で、直接、接することが有効であることが分かる。
 つまり、口上を演じ観客(の心)を強く “動かす” ためには、気迫充溢、自信満々で、観客に近づき、直接、訴えるような演技が有効であるといえる。  


【関連記事】
 「ガマの油売り口上」はプレゼンテーションである   

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8月25日 筑波山神社の風景 訪れ人少なく静かだった

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  8月25日(土)、つくば市内で「まつりつくば」が開催されているので、つくば市とその近郊の人は筑波山より「まつりつくば」にでかけたのであろう、筑波山にやってくる人が少なかった。それでも快晴で暑い日差しの下、数組の登山客が山頂を目指して登って行った。

   1  午前8時頃、普段は「満車」に近いが、今日は「空車」

   2  これから登る人 

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  5 日陰で休憩する人

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神仏分離と筑波山の廃仏毀釈

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明治期以前の廃仏運動
 仏教が日本に伝来した当初は物部氏が中心となった豪族などによる迫害が行われたが、仏教が浸透していくことによってこのような動きは見られなくなった。戦国時代および安土桃山時代では、小西行長などキリシタン大名が支配した地域で、神社・仏閣などが焼き払われた。

 江戸時代前期においては儒教の立場から神仏習合を廃して神仏分離を唱える動きが高まり、影響を受けた池田光政や保科正之などの諸大名が、その領内において仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減するなどの抑制政策を採った。徳川光圀の指導によって行われた水戸藩の廃仏は規模が大きく、領内の半分の寺が廃された。


江戸時代後期の廃仏運動
 光圀の影響によって成立した水戸学においては神仏分離、神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなり、徳川斉昭は水戸学学者である藤田東湖・会沢正志斎らとともにより一層厳しい弾圧を加え始めた。

 文化・文政時代になると異国船の水戸領接近が多くなった。特に文政7年(1824年)5月末、大津浜へ英国人12人が上陸したため、まるで戦争がはじまるような騒ぎであった。水戸藩は武備充実の一環として、斉昭は天保13年(1842年)藤田東湖ら図って、領内寺院で由緒の浅い仏像や梵鐘を納入させて、大砲の鋳造に役立てた。
 仏像をつぶすことに反対する者があったが、これを押し切って実行した。これはそれまでも大砲の鋳造を盛んにおこなっていたので、領内の銅が払底して困っていたからである。しかし、改革派のやりかたは寺院側の反感が高まり、斉昭失脚の大きな原因の一つとなった。

 江戸時代後期に勃興した国学においても神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興した。


明治期の神仏分離と廃仏毀釈 
 明治期の廃仏毀釈は、大政奉還後に成立した新政府によって慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発せられた太政官布告(通称「神仏分離令」)、および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策を拡大解釈し暴走した民衆をきっかけに引き起こされた、仏教施設の破壊などを指している。

 明治政府の神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた破壊活動を引き起こした。

 神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。

 明治4年正月5日(1871年2月23日)付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。

 明治政府は神道を国家統合の基幹にしようと意図した。一部の国学者主導のもと、仏教は外来の宗教であるとして、それまでさまざまな特権を持っていた仏教勢力の財産や地位を剥奪した。僧侶の下に置かれていた神官の一部には、「廃仏毀釈」運動を起こし、寺院を破壊し、土地を接収する者もいた。

 また、僧侶の中には神官や兵士となる者や、寺院の土地や宝物を売り逃げていく者もいた。

 廃仏毀釈の徹底度に、地域により大きな差があったのは、主に国学の普及の度合いの差による。平田篤胤派の国学や水戸学による神仏習合への不純視が、仏教の排斥につながった。廃仏毀釈は、神道を国教化する運動へと結びついてゆき、神道を国家統合の基幹にしようとした政府の動きと呼応して国家神道の発端ともなった。

  一方で、廃仏毀釈が全国的に起こったのは、江戸時代、寺社奉行による寺請制度による寺院を通じた民衆管理が法制化され、寺檀制度下における寺院による管理・統制への神官・権力から与えられた特権に安住した仏教界の腐敗に対する民衆の反発などが背景にあった。

 下図は、摂州大阪高津の人、森 幸安が筑波に来て実見しものを宝暦5年(1755年)に描いた「筑波山下画図」である。誇張があり建造物の距離・間隔は正確とは言えないが往時の盛観がしのばれる。       

 図中央の本堂、その左側の三層塔、薬師堂、聖徳太子堂、本堂の北側の八角堂、経堂は残っていない。図左下の宝蔵・方丈及び書院も残っていない。現在、駐車場になっている所であろう。

 

筑波山の廃仏毀釈
 江戸時代に御筑波山は仏教一色に塗り変えられて、筑波山中にあった男体山・女体山を初めとする数多くの神社は別当寺である護持院の管理下に置かれた。また、神主や禰宜などの神官はいなく、通常の神事は護持院の院代の指揮の下に衆徒寺や僧や神官が行ってきた。

 この筑波から仏教的要素を除去して神仏を分離することは容易ではなかった。筑波山の支配権をめぐる神仏の紛争は混乱したが、廃仏毀釈はももっと大きな傷跡を筑波に残した。

 殿輩と神官は全面的に対立していたが、仏像・仏具の除去は続けられていた。
門前町の筑波町民にとっては、大御堂を初めとする諸堂塔を破却すれば、参詣者が来なくなり生活できなくなるので、その存続を願って嘆願書を殿輩を通して若森県(廃藩置県後に設けられたこの地域を管轄する”県”)に提出した。しかし、殿輩達はこれを握りつぶして提出しなかった。

 2年3月から各所の小堂の仏具・仏像の整理が始まり、10月には6丁目の金剛力士像が取り片付けられた。翌年6月に大御堂境内の堂塔、8月に本堂が破却された。 

 これを中心になって進めたのは、殿輩と町役人であった。殿輩達は祭主や復飾神官への不を廃仏に向け、過激な行動に出た。筑波に知足院中禅寺に代わる寺院の再興が認められず、仏教関係の全部を護国寺に引き渡さなければならなかったために、廃仏は徹底的に行われた。

 町民の中には批判的な者も多く屋根葺棟梁の勇吉は「筑波山の大すへびと相成候事も承知しながら、引破りし事ども是皆後世仏ばつをもかへり見ず、己々が私よくもふけニか々りての事也。此の頃皆人のしる所なり。是まで観音のかげにて露命そふぞくせしを、誠に非道無二の者共也。」と記している。

 殿輩の中にも破却に反対した者もいたが、阻止はできなかった。

 3年6月から仏具類・仏像などは全部護国寺へ引渡すことになり2人の役僧が引取に来た。8月になり、大御堂ら仏像・仏具類を撤去する作業にとりかかった。神社側では大御堂を初めいくつもの堂を破却し、本尊を焼き捨てることにしたが、護国寺の僧は黙止出来ず300両を出して引き取った。

 宝筐印塔・大仏・金剛力士・地蔵菩薩なの唐銅類は商人に売却しようとしたので、潰し値段740両で護国寺が買い取った。護国寺は4340両の受取分あったが、仏具や唐銅類の換算金を差引かれて入手したのは141両と米300俵であった。

 大御堂は8月23日から9月末までかかり、200両を使って取り壊した。銅瓦は売却され、材木は町内の家々へ:れた。薪・下駄・水風呂にされ、板に挽いて売り出す者もおり、閏10月末までにはきれいになくなった。

 大仏は9月ごろ筑波を引き出し、土浦の霞ヶ浦の岸に12月まで置かれた。船に積む人がなかったのである。しばらく過ぎて船に載せ護国寺へ運んだという。 仏器・仏像は護国寺のほかに猿島郡生子村(猿島町)万蔵院、新治郡村(桜村)東福寺に、鐘楼は近くの泉村慶竜寺に売却された。

 仏典や記録類も焼却された。本尊の千手観音も護国寺に移されたが、後に筑波に返されて再興された大御堂に安置された。六丁目鳥居の「天地開筑波神社」の額も同12月に取り外された。

 衆徒寺などの仏像・仏器は一時塔の上というところに運んでおき、5年8月に戸長らが表して焼却した。衆徒寺は町民に売却された。不動院は17両、三明院は9両である。

 破却を免れて筑波山神社に継がれたのは仁王門・神橋・日枝神社・春日神社・厳島神社等ごく僅かである。明治12年(1879年)5月、筑波町大御堂跡地で大博覧会が開催され、寛永期頃の燦然とした面影はどこもなくなり、多くの文化財は失われた。


〔関連記事〕
 筑波山大御堂 新築工事中

 

〔参考文献〕 
 『今残る郷土の文化遺産 つくばの古絵図』 財団法人日本地図センター
 『筑波町史(上巻・下巻)』 
 『茨城県の歴史』 瀬谷義彦・豊崎卓共著、山川出版社 
 『筑波山』 木村繁著、崙書房
  リーフレット『筑波山大御堂』 

9月8日 筑波山神社の風景 つかの間の晴れ間、登山客が多かった

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 9月8日(土)、 台風が去ったと思いきや来週も雨天の予報、つかの間の晴れ間を惜しむかのように筑波山に登る団体が目に付いた。この日は大安のため結婚式が3組あり境内は多くの人でぎわっていた。

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つくば市 普門寺、賊徒と言われた「田中愿蔵隊陣営の跡」の碑   

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天狗党行動の概要
 天狗党が筑波挙兵したのは元治元年2月27日(旧歴)だった。(石岡市)金丸町の鈴宮稲荷の境内に勢捕いをし出発した。筑波山に立て篭もって両3日の後日光へ出発し、一度戻って栃木の大平山に移り、再び筑波山へ戻って来たが、6月の末には幕府の追討軍が続々到着、筑波を包囲した。

 7月7日には高祖道下妻の線で幕府の大軍を蹴散らし、7月下旬には軍の主力は筑波山を下り府中、小川、王造、潮来の線に移動し、一部隊は水戸城攻撃を行って失敗した。北小金から引返して来た武田耕雲斉の軍勢と府中で合流し水戸城に入らんとしたが、これまた果さず磯浜湊地方に移動し、この地で10月23日頃まで3万余の幕府軍と戦った。

 然し一部隊は幕軍に降ったので筑波勢を主力とする武田、藤田等の総勢千余人、騎馬者300余、歩兵数100名、大砲15門、小荷駄59疋は京都に上り将軍慶喜に上訴しようとして包囲を脱し、県北から野州路に入り、中仙道を京都に向った。

 途中、上州下仁田、信州和田峠で諸藩の兵を敗り木曽路を経て関ケ原の手前で北上、山間の険道を大雪のため難行軍をつづけ、敦賀に至り加賀藩に収容された。

やがて幕府側に引渡され、武田耕雲斉、田丸稲之衛門、藤田小四郎等主だった者364人は敦賀海岸松原で処刑せれた。

 

田中愿蔵隊の乱暴狼藉   
 田中 愿蔵(天保15年(1844年)~ 元治元年10月16日(1864年11月15日))は、常陸国久慈郡東連地村(現・茨城県常陸太田市)で生まれ医者の養子として育った。水戸天狗党の乱における田中隊の隊長である。彼は藩校弘道館、江戸の昌平坂学問所で学んだ後、水戸藩が那珂郡野口村に設立した郷校の時雍館(野口郷校)で館長を務め、領民の教育活動を行った。

 元治元年3月27日(1864年5月2日)、藤田小四郎が尊王攘夷を唱え筑波山で挙兵すると、時雍館の教え子らを率いてこれに加わり天狗党幹部となって一隊を指揮した。

 しかし、愿蔵は藤田ら本隊とは尊王攘夷等に就いての思想上の相違などから離れ、別働隊として独自の行動をとった。水戸天狗党は軍資金調達のため近隣の町村の役人や富農・商人等から金品の徴発を行ったが、田中愿蔵の行動は、各地で”放火”するなど極悪残忍の感がある。

 田中隊は6月5日、栃木宿において町に対し軍資金30,000両の差し出しを要求した。しかし、町側がこれに応じないと知るや、家々に押し入って金品を強奪したうえ宿場に放火、翌日までに宿場内で237戸が焼失した。所謂、「愿蔵火事」である。

 また6月21日には真鍋宿(現在の土浦市真鍋)で略奪、放火を行い77戸を焼失させている。
                              明治43年頃の真鍋(現、土浦一高近くの坂の下地区)
          
 天狗党に対し江戸幕府の追討軍が派遣され戦闘が開始されると、田中隊も那珂湊周辺で幕府軍と戦う。那珂湊の戦いで天狗党側が破れると田中隊も北へ敗走、河原子を経て、助川城に入り籠城したが、幕府軍の攻撃を受けて9月26日に陥落した。

 敗走した田中隊約200名は、水戸藩旗下の赤沢銅山へ食料の援助を要請したが拒否されたため、愿蔵は鉱山の生産設備を破壊した上、放火した。
 

 田中隊はさらに敗走を続け、10月に八溝山に篭って再起を図る。しかし、食料弾薬も尽き果て隊士の疲弊も極限に達していたため、愿蔵は隊の解散を決意し、隊員は三々五々山を下りて逃亡した。

 しかし、周辺には棚倉藩を中心とする追討軍が迫っており、山を下りた田中隊士達はそのほとんどが捕われて処刑された。愿蔵は真名畑村に逃れたが、捕縛され塙代官所に送られ、10月16日に久慈川の河原で斬首された。

  辞世は「みちのくの山路に骨は朽ちぬとも 猶も護らむ九重の里」。享年21。     

”賊徒”の汚名を着せられた田中愿蔵
      普門寺の赤門と碑(左下)    
   
         「田中愿蔵隊陣営の跡」の碑

          

「田中愿蔵隊陣営の跡」の碑文   
 水戸天狗塔の叛乱は、元冶元年3月27日、筑波山挙兵に始まった 
  この集団を筑波勢と云う 彼らは天下に尊王攘夷を呼号(注1)した  
この1党は、4月10日日光東照宮に参拝し 14日には大平山に移動 馳せ参じた客兵も多く 5月晦日には総員壱千餘人となり意気軒昂 幕府追討軍を迎撃のため筑波山に帰陣した 田中愿蔵隊はこの筑波勢の一隊である 

 四中隊が當普門寺に駐屯したのは6月中旬である。爾後田中中隊は積極果敢に幕府軍と交戦した 是等草莽の諸隊士は戦死または刑死して悉く国難に殉じた 

 隊長の愿蔵君は此処に宿陣中何を想い何を考えていたのであろうか 福島県塙町の郷土史家金沢春友先生は遺書に賊徒の汚名を受けて10月16日塙で斬られた田中愿蔵は、勤皇討幕の念最も強い21歳の秀傑であったと評している 

 後に金沢先生と共に田中隊の雪冤(注2)に盡力されたのは 天狗騒の著者横瀬夜雨先生であった 
 茲に陣営の跡を記念し併せて鎮魂の碑とする  

 平成3年春 那珂湊市 関山墨正七十七歳誌してこれを建てる  
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 注1 呼号の「号」の文字は、碑文では「號」の俗字であったが「号」に置き換えた。  
  注2 雪冤(せきえん): 無実の罪をすすぎ清める。晴天白日の身となる。

       

江戸時代 水戸藩は百姓一揆に強硬な姿勢で臨み刑は過酷であった

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                    百姓一揆 (平凡社『世界大百科事典 18』(初版)  


 “水戸黄門”さんの水戸藩は農民に厳しかった 

〔久慈郡生瀬村と多賀郡金沢村の一揆〕
 ふだんは何事もごもっともと聞いている一見卑屈なような農民が、自分たちの生活を守るため、支配者に抗して立ち上がるのが、一揆である。最も古いものは,慶長14(1609)年の久慈郡 生瀬村の一揆である。この一揆は水戸藩の成立直前に起こったもので、農民たちが貢租の二重取りに反抗した結果、役人から一村皆殺しにされたという過酷な弾圧が行われた。
 
 この生瀬の一揆から32年目の寛永18(1641)年、過酷な検地に反抗した水戸領内多賀郡金沢村(日立市金沢町)の一揆に対する水戸藩の態度は強硬なもので、その首領であった庄屋の照山修理一族3人が磔の刑に処せられた。 

     磔、下手人・死罪、獄門、火炙り  
      
         廣済堂出版  『絵でみる 江戸の町とくらし図鑑』 
             善養寺ススム 絵・文、江戸人文研究会編 

〔宝永6年の一揆〕
 宝永6(1709)年の一揆は、これ以前の一揆が一村内にとどまっていたのに対して、ほとんど水戸領全域にわたる農民が参加しているところが注目される。この一揆は水戸藩のおこなった宝永改革に対する、農民の反抗として理解されるものである。

 この改革は、藩の財政建直し、各種事業の益金による武士の生活補助などを目標としていた。特に城之内村(東茨城郡茨城町)から紅葉村(鹿島島郡鉾田町)に至る運河の計画には、当局者は相当の力を傾注したが、それに要する農民の夫役の強化、主穀の増収をねらったむやみやたらな開発による農民生活の無視、年貢の増徴など、農民の犠牲において新政を完遂しようとする面が多かった。 

 のちに学者の藤田幽谷も「勧農或問」で、『宝永の改革暴賦重斂大に斯民に禍し』 たと評しているが、領内の農民たちがこの時ほど団結して、農民の立場を守ろうとしたことは、水戸藩では前後にその例を見ない。  

 新政がはじまると、水戸藩に招かれた新政担当の松波(並)勘十郎ら浪人事業家は、部下を他国武士の風体をさせて領内を巡視させるなどして、新政を非難するものを逮捕した。  

 田彦村(勝田市)の百姓又六は、密偵の武士が 『御国に勘略役として松並勘十と云う人相渡、御国も富貴に成り御上之御益下之喜びさぞ其方共も満足ならん』 と話しかけたのに答えて、 『其儀は表裏の噂に御座候、今後御改革始り御上之御不益、下之難儀と罷成(まかりなり)、御国中困窮仕候て追て飢に及び、御上にても御台所指詰り、誠に蝉のむけがらのやうに罷成侯』 といい、

 さらに 『勘十殿此辺を御通りあらば、譬(たとえ)私役に当不申候共罷出、途中にて松並殿を刺殺、拙者も自滅仕覚悟にて、懐剣を心掛候て覚悟相極』 めたと、はばかるところなく語ったところ、早速又六はその村の庄屋、組頭付添えの下に水戸の役所に出頭を命ぜられ、ただちに入獄させられるという始末であった(「宝永水府太平記」)。  

        敲(たたき)、晒(さらし)、鋸挽(のこぎりびき)、引き回し
      
           済堂出版  『絵でみる 江戸の町とくらし図鑑』 
               善養寺ススム 絵・文、江戸人文研究会編  

 しかし農民たちはこうした藩の態度に屈することなく、新政反対の運動を計画し、農民の代表をもって水戸役所へ愁訴におよんだが取り上げられなかったので、各村に袋廻文を回し、南領・北領30余村の農民たちの申合せによって、宝永6(1709)年正月12日までに、水戸領各村高100石について一人ずつ代表を江戸に登らせることを決めた。 


 これによって正月はじめより、16日までに、水戸から遠い松岡領・武茂領の農民たち300人余りが江戸に集合、水戸の支藩である守山藩の松平大学頭(藩祖頼元は光圀の弟)を通じて、藩主に訴えようとしたが、この時は取り合われず、むなしく引き揚げ、同18日を期して駒込の水戸屋敷へ罷り出る策を立てた。 

 いっぽう役人の宿所に対する詮議はきびしく、計画も挫折の体であったが、19日上吉影村(東茨城郡小川町)の藤衛門ら五カ村の代表5人がやって来るにおよんで、後勢を待って事を決行することとなった。
 かくて22日まで待って後勢を加えた六百数十名の農民たちは、23日水道橋辺にて藩主と世子の登城を待ち受けて直訴せんとしたが、登城の道筋の変更によってこのたびも望みを果たしえず、むなしく宿所に引き揚げた。 

 彼らは、翌24日藤衛門の発議で、藤衛門ら3名の代表を選び、訴状を持って再び松平大学頭の屋敷に至ったところ、ようやく訴状の意も通じて、藤衛門は水戸屋敷において役人に訴えうる機会を与えられた。
 こうして農民たちの新政中止の悲願は達せられ、松波らの追放が発表され、農民の勝利となったことは、越訴の形態をとったものとしては珍しい例に属する。 

 このように農民を勝利に導いた理由には、藩内部に新政反対のものも多くあって、支配者側に分裂が起こったことや、松波らの事業が予想通り進行しなかったというような事情もあろうが、なによりも農民の団結と組織的行動がよくいったことにある。 
       
〔天明元年、太田の一揆〕
 天明元(1781)年、久慈郡の水戸領太田地区の百姓が、検地に反対して強訴を起こした。藩は「田畑改め」を行い、新田で下免の土地を検地し、高免にして貢租の増収を企てた。太田郡から検地を始めたところが、農民が反対して強訴を起こさんとする状況であった。このため10カ村ほど検地をして中止した。
 役人の年貢査定の不公平、苛酷さに対して、村民が大勢で稲束などをかついで役所に訴え出ることがる流行った。農民は「稲かつぎ」と言って強訴を起こしたが城下に行く前に庄屋などに止められることが多かった。 
〔贋物貨幣の流通〕
 水戸藩の幣制の乱れは鋳銭一揆を誘発することになった。即ち、明和8(1771)年、久慈郡太田の古徳村(旧中郡瓜連町)等で、幣制紊乱に伴い静神社の磯出の祭礼の日、鋳銭事業に反対する近郷の農民数千人が神輿を担ぎ太田鋳銭座に押しかけ藩の開所に放火、折からの風に煽られ付近の商家等も延焼し約200名が焼死した。

 その後も安永元(1772)年、鋳銭座一揆再発、安永3(1774)年、久慈郡保内郷(旧大子町)の鋳銭座一揆が起こっている。水戸藩の幣制紊乱は太田鋳銭の贋物を流通させることになり銭相場の混乱をもたらした。鋳銭座一揆以降、農民の一揆が頻発している。



       
             済堂出版 『絵でみる 江戸の町とくらし図鑑』 
                     (善養寺ススム・文、江戸人文研究会編)   
 
         江戸伝馬町牢獄内昼の図

            同上 夜の図 
         編集 佐藤香澄 『決定版 図説 大江戸犯科帳』(学研パブリッシング)

”水戸黄門”と繋がりのつよい地区の一揆
 名君黄門様も農民には厳しかったのだろう農民一揆が起こっている。

久慈郡 18件 

●慶長14(1609)年10月 久慈郡 生瀬村 (久慈郡大子町)   
          重課反対、代官手代を殺す    (蜂起)
 
●寛永1年(1624)11月 久慈郡 松平村 (久慈郡水府村松平) 
           干害、知行地に年貢減免の均等割りを要求 (愁訴)

  ●寛永11(1634)年12月 久慈郡 大里村 (久慈郡金砂郷村大里)  
       給人支配に反対して検見引を願い出る (愁訴)  

  ●寛永18(1641)年7月 久慈郡 金沢村 (日立市金沢町)  
       新検地による増加反対、この日に死罪 (強訴)

  ●享保6(1721)年10月 久慈郡 小嶋・磯原村ほか
        (日立市留町・北茨城市) 
       水害、不作、困窮におよる減免要求 (強訴)

  ●明和6(1769)年 久慈郡 保内郷高柴延方村
         (久慈郡里美村小中・小妻) 
       入穀疑心から小妻・小中へ押しかけ      

  ●明和8(1771)年4月 久慈郡 太田付近・静・古徳村ほか
        (那珂郡瓜連町) 
      弊制びん乱につき静みこしを振り立て大田の鋳銭座を
        焼き払う (打ち毀し) 

  ●安永1(1772)年3月 久慈郡 太田付近  (常陸太田市)  
      再発、鋳銭座に反対神輿の出社要求 

  ●安永3(1774)年3月 久慈郡 保内郷 (久慈郡大子町)  
           弊制びん乱につき再び鋳銭座に反対 (強訴)

  ●寛永18(1641)年 茨城郡 大足、杉崎、飯島村 
         (東茨城郡内原町大足など)  
      名主2人死罪 (強訴)  

  ●宝永6(1709)年1月 茨城・久慈・多賀郡など20余か村
        (東茨城郡茨城町奥野谷など)  
      紙幣濫発、年貢増徴など (強訴) 

  ●天明1(1781)年9月 久慈郡 太田付近 (常陸太田市) 
      検地反対、強訴の形勢 (強訴未遂)   
  
  ●天明2(1782)年11月 久慈郡 生瀬村など4か村 
        (久慈郡大子町・生瀬・下野呂・里美村小中・小妻)   
      米の買入れ拒否から小中、小妻村の穀屋討潰
        (打ち毀し)   

  ●文政3(1820)年10月 久慈郡 上郷村 (久慈郡大子町上郷)   
      割賦に反対して強訴 (強訴)  

  ●元治1(1864)年7月 久慈郡 太田村 (常陸太田市)      
      店貸値上反対、蔵、店打ち毀し (打ち毀し)  

  ●元治1(1864)年8月 久慈郡 太田地方 (常陸太田市) 
      問屋など10戸打潰し、1000人 (打ち毀し)

  ●年不詳(寛政頃)(1789~) 久慈郡 太田地方
        (常陸太田市) 
      凶作減免(稲かつぎ騒動) (強訴)    

  ●年不詳(幕末頃)(1860?~) 久慈郡 入西間村 
        (日立市入四門町)      
      庄屋の不正、役所へ直訴 (越訴)   

 茨城郡 6件      
  ●年不詳・元禄頃(1688~)茨城郡 重租、未進、農民群集    

  ●安永6(1777)年3月 茨城郡 水戸町 (水戸市) 
     泉町の町民が組頭宅を襲う (打ち毀し)  

  ●天明6(1786)年閏10月 茨城郡 矢田部村
      (東茨城郡茨城町矢田部)  
     水戸城下へ群集して南部役所へ願書出す (愁訴)

  ●天明6(1789)年 茨城郡 那珂湊  (那珂湊市) 米騒動 (打ち毀し)

  ●元治1(1864)年8月 茨城郡 小鶴村ほか
      (東茨城郡茨城町)  
     連合して激派通行を阻止、百姓数百人参集、世直し一揆
       (打ち毀し)

   ●慶長16(1611)年8月 茨城郡 石塚・藤井村
      (東茨城郡石塚、水戸市藤井町) 
          原野の境界争い、石塚村の百姓6人死す   

  那珂郡 5件  
  ●天明3(1783)年 那珂郡 那珂湊 (那珂湊市)
     飢饉、豪家の倉庫を襲う (打ち毀し) 

  ●弘化2(1845)年8月 那珂郡 高部村 (那珂郡美和村高部)   
     庄屋の不正、野口村神森に屯集130人 (強訴)

  ●元治1(1864)年7月末 那珂郡 額田三郷
      (那珂郡那珂町額田北郷など) 
     激派への不平、落合村庄屋宅を襲う (打ち毀し)

  ●元治1(1864)年8月 那珂郡 大宮村ほか (那珂郡大宮町) 
     激派へ不平、鷹巣、東野などの床屋、神官宅破壊
       (打ち毀し)  

  ●慶応2(1866)年4月 那珂郡 静神社氏子38か村 
      (那珂郡瓜連町静など) 
     神使と称しみこしを奉じて那珂湊の米買占商家2戸打潰 
      (打ち毀し)

 多賀郡  3件 
  ●寛政4(1792)年8月 多賀郡 高萩村(高萩市) 庄屋不正 (越訴) 

  ●天保3(1832)年   多賀郡 平潟村(北茨城市) 飢饉  (越訴)

  ●天保4(1833)年10月 多賀郡 大津村(北茨城市) 
     穀留に反対して押し出す (強訴) 

 行方郡  2件  
  ●天保8年4月 (1837) 行方郡 嶋崎村、赤須村 (行方郡牛堀町)  
     名主不正、小前38人公事通の農民を頼み訴える (愁訴) 

  ●弘化1年10月(1844) 行方郡 ほか潮来・田谷・小場村など
     (行方郡潮来、鹿島町田谷など)
     藩主の蟄居宥免要求         

 新治郡 1件  
  ●元治1(1864)年8月 新治郡 染谷村など53か村 
     年貢減免、激派に手向かう   

 (注)上記、茨城県内各郡の一揆の発生状況は、
  木村由美子著『茨城の百姓一揆と義民伝承』(下)-史蹟と口碑訪ね歩記ー」(筑波書林)によった。

〔参考資料〕
木村由美子著 『茨城の百姓一揆と議民伝承(上・下)』(筑波書林)
編集 佐藤香澄 『決定版 図説 大江戸犯科帳』(学研パブリッシング) 
瀬谷義彦・豊崎卓著 『茨城県の歴史』 (山川出版社)  
善養寺ススム 絵・文 『絵でみる 江戸の町とくらし図鑑』 (江戸人文研究会編済堂出版 )  
平凡社 『世界大百科事典(18)』初版 


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旧「筑波郡」で発生した百姓一揆、神様仏様もあの世に行かないと救ってくれない名君の誉れ高い水戸光圀、黄門様の仁政と限界 

 

 

筑波山参詣と登山

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筑波山参詣と登山

〔庶民の社寺参詣〕
 江尸時代になり、民衆の上昇や交通環境の整備により庶民の社寺参詣が急増した。旅の苦痛がなくなり、安易にできるようになると、信仰より遊楽・観光化が進んだ。これが門前町を一層発展させる要因となった。

 筑波町へはどれくらいの参詣者が訪れたのであろうか。寛政から天保にかけて日光の一日の平均宿泊者は約100人、幕末の成田では旅籠屋34軒あったが、約100~140人位であったと伝えられている。これらに比べれば、筑波での宿泊者も平均して100人を上まわることは少なかったと推定される。これでは一軒当たりの宿泊者は一日に4人程度、旅籠屋経営は困難であった。門前町に参詣客を集めるために開帳や遊女など誘客対策が取られた。
               参詣客が往来した道
                     〔北条、つくば道石柱〕
      
                  〔神郡の街並み〕
         

                         〔一の鳥居〕
                 宝暦9(1759)年に建てられた。
                 この鳥居から上が神域で、 
                 御座替わりの神輿はここまで下りてくる。
        
                         〔つくば道三叉路付近〕
               上は東山へ、撮影地点足元から左は西山地区へ至る。
        
                         〔筑波1丁目 〕
      
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〔賽銭〕
 参詣者の奉納した賽銭については、安永7(1778)年に凡そ銭600貫位、文政13(1830)年には賽銭凡そ120両余、御札料金130両余でかなり多額になる。これは宿泊者だけでなく近隣の村からの日帰りの者が加わるので額が増えるはずである。山麓の村では、村の代表だけが参詣し、村全体の賽銭や御札料を奉納することが多かった。

〔著名人の参詣〕 
多くの参詣者のなかには多くの著名な武家や文人・墨客がいた。
 徳川光圀は2回登山している。明暦2(1656)年には、4町目の山伏宝積院が山案内し、2町目広瀬長左衛門宅に宿泊している。2回目は元禄3(1690)年で、藩主を引退した直後の江戸からの帰国の途中である。

 天明元(1781)年に登山した俳人大島蓊(しょう)太は「筑波紀行」を著し、弟子の杉野翠兄はその翌年に6町目の登山口に嵐雪の「雪は申さずまずむらさきのつくはかな」の句碑を建てた。

 天保4(1833)年に参詣した市河米庵は、幕末の三筆の一人で、当時は55歳であった。筑波4町目の杉田平輔は江戸上屋敷の役人を勤め、米庵と親交があった。

〔開帳と御師〕
 参詣者を増加させるために行われたのが開帳と御師の活躍であった。開帳は大御堂の本尊や秘宝を拝観させるものである。出開帳は宝暦4(1754)年に江戸の深川八幡で、弘化4(1847)年と安政2(1855)年には江戸の回向院で、いずれも千手観音を開帳している。

 筑波での居開帳では文化2(1805)年、3(1806)年、10(1813)年、文政5(1822)年に行われている。文化10(1813)年の居開では2ヶ月の開帳期間中だけで158両の賽銭が集まり、護持院に30両を上納している。参詣者は御札料、宿泊や飲食・土産物等にこの何倍かをつかったであろうから、開帳により一時的ではあるが町は活気づいた。

 御師は祈疇に従う身分の低い社僧で、御祓を配りながら信者を集め、参詣者の案内や宿を業とした。元禄頃の筑波では2軒しか確認できないが、真壁郡羽鳥村の指出帳には「筑波山牛王(ごおう)御師」として百姓13人が記されている。御祓配りは常陸国内だけでなく武蔵国までも行われ、信仰圏の拡大に役立った。 

 筑波山では、古くから山全体が信仰の対象となっていた。山頂の男体山、女体山にそれぞれの本殿を奉斎しているが中腹の山王・春日両神社は山頂の両大神を勧請した宮である。山頂の両本社の摂末社が山内のいたる所に存在した。明治維新後の「神社明細張」によると、神社合祀以前は全山に109社の境内社(摂末社)があったことがわかる。 
               男体山神社
       
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               女体山神社
      
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〔神仏習合〕
 中世以後、神仏習合の様相が具体的に説かれるようになると、山頂の男体は千手観音の垂跡、女体は正観音の垂跡に比定され、男体の左右の五つの霊崛は金剛界如来に、女体の前後の九峯は胎蔵九界の曼陀羅に、筑波六所明神は六観音にあてられた。
 従って筑波山登拝者にとっては全山が信仰対象となり、中腹の知足院大御堂から山頂に登拝することにより山内にある日本国中の詰神・諸仏の信仰を文字通り満喫できた。

                     白蛇神社   
      

 このような登拝者のために、山内の名所旧跡の案内書や地図が刊行された。安永8(1779)年に出された上生庵亮盛著の「筑波山名跡誌」では、男体山路の陽交鳥居を初め14ヶ所、女体権現社地の鳥居木ほか23ヶ所、女体路の陰交鳥居ほか5ヶ所、そのほか岩洞禅定地や六所神社など13ヶ所、計64ヶ所の名所旧跡を挿絵入りで紹介している。  

〔禅定〕
 峯入り岩窟での修業を禅定と呼び山内の岩窟、巨岩、神水、神木などが修業の場所とされた。これが褝定場であり、筑波山は神定山とも呼ばれた。
 女体山付近の禅定場について「筑波山名跡誌」に、稲村の社地に高さ89丈の奇峰あり、共の嶮岨の岩角をよじのぼり又一段高さ向の岩山へ飛移る。移り得れば曠々たる岩山にて四方の眺望かぎりなし。土人是をはね禅定と名づけ、貴賤老若みな行伝する事也 とあり、稲村社地の険しい岩山を跳びはねた様子がうかがわれる。    
               裏面大黒
         
               母の胎内
      
                   北斗岩
            
               陰陽岩
           
     
 安永7(1778)年の「院代用意記」によると、褝定は5、6月中の3日間、先達の修験者によって登拝が行われ、町内の大学坊・南宗院・宝積院がその任に当たっていた。安政6(1859)年の宝積院の記録には修業者は「禅定一ヶ月間の夏山開講」を組織し、先達の指導を受けながら、全山150ヶ所の禅定場を回峰して錬行体験を積んだ。山中の講員は常陸・下総・下野の3ヶ国にわたり2650人に達した。

〔御座替わり〕 
 筑波の一山にとってもっとも大切な祭礼は、御座替わり祭である。神事から見た御座替わり祭は新しい神迎えのために古い御座を替え、新しい御座を用意するための祭りである。
 具体的には4月1日に御田植えの守護を祈るため山から神を迎え、11月1日は秋の収穫祝いをするため、再び山から神を迎える祭りであるといえる。
 この日には近隣諸村からの参詣者も多く一年間で最もにぎわった。市が立ち、旗本井上氏の神郡陣屋の役人も祭礼の警護に加わった。

〔講〕 
 地域社会に密着した講では、筑波と山麓の諸村に頭人祭(当人祭)があった。「御六神講」と呼び頭(当)家が筑波神社の御札を受け、頭家で頭人祭を行っている。筑波山の北西山麓の椎尾村(真壁町椎尾)では、「大同祭」、東麓の柿岡村(八郷町柿岡)では「筑波講」という名で営んでいた。そのほか嵐除、疫病除を祈願して行われる「総登り」があった。 
 嵩敬者が結成する大きな団体では、古くから「筑波講」と総称している講があった。この講には2種類あり、一つは前述の禅定修業を目的とした「褝定講」であり、もう一つは一般の登拝祈鳶をなす「太々講社」で、春秋2回登拝して太々神楽を奉奏して祈願を行った。 

〔山頂への登拝路〕
知足院境内から山頂の奥宮への登拝路は次の4つがある。
一 臼井村の六所から白滝を経て女体山へ登る道 
二 東山から直接に女体山へ登る道 
三 知足院境内から直接に男体山へ登る道  
四 沼田村から男体山へ登る道  

 このなかで、古来から正式の登拝路とされているのは二と三で、一般にも男体山路から登って御幸ヶ原を通り、女体山へ出て女体路を下るのである。これは、春と秋の御座替わり祭の御輿の神幸路であって、儀式祭典上からも重要な登拝路であった。
          登山道 〔正式の登拝路とされているのは二と三〕
      

〔大御堂〕
 大御堂は坂東33番札所の25番にあたり、24番の楽法寺(真壁郡雨引村)と26番清滝寺(筑波郡小野村)を結び、札を納める巡礼者も参詣した。


〔関連記事〕
筑波山信仰と物見遊山 昔も今も変らぬ男女の仲

 

 

9月23日 筑波山神社の風景 大勢の登山客が訪れた

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 3連休の中日で好天に恵まれたため朝早くから大勢の登山客が訪れていた。午前7時30分の時点で、筑波山神社の駐車場はほぼ満車であった。午前は雲が多かったが昼ころから晴れ間が広がり、神社に向かう道路は渋滞で1時間待ちの状況であった。

   1 午前7時30分頃、撮影地点の右側の広場も満車    
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  7 婚礼がないにもかかわらずここが満車になるのは珍しい

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   11 男体山へ
 
   12 白雲橋付近、女体山へ向かう人

   13 午前8時頃の山頂
   14  午前8時頃、東京方向

   15 午後3時頃、東京方向
 

筑波山の急傾斜地崩壊危険箇所

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筑波山は“火山”ではないから安全な山
 筑波山は高い山ではないが古くから「西の富士、東の筑波」 と言われ1200年前に作られた万葉集にも数多く詠み込まれている。西側の男体山(871m)と東側の女体山(877m)の二つの峰から成り立ち、その姿の美しさから紫峰とも呼ばれ日本百名山のひとつに数えられている。 火山ではないから噴火しないが、岩石でできた山なので土石流が発生した過去がある。

〔山頂の斑レイ岩〕
 筑波山は,地下深くでマグマが固化してできた花崗岩と斑レイ岩の岩体が隆起したもので,標高ほぼ600m以上は侵食に抵抗する硬い斑レイ岩からなり,急傾斜の山頂部を構成している。

山頂付近は斑レイ岩でできている。斑レイ岩は風化に強く風雨で削りにくいので、周辺より高い山頂を形成している。
斑レイ岩は一般に黒っぽい色をした深成岩の一種で筑波山の斑レイ岩は、約7千5百年前に地価10kmの深さでマグマがゆっくり冷却して出来たものである。
これが後に隆起し上に乗っていた岩石が削られると、上から抑えれていた力が抜けるため節理(割れ目)がこのような奇岩の景色を形成した。 

〔山腹の花崗岩〕
筑波山の山腹、梅林には巨岩がごろごろしているがこの巨石は斑レイ岩である。山頂風金の斑レイ岩二は節理が見えるが、この節理で大きく割れて大岩が出来る。この大岩が何百年に一度に起こる土石流で流れ下って緩やかな斜面を形成した。

〔裾野の巨礫〕
 筑波山神社化裾野にかけて緩やかな傾斜に成っている。この緩やかな傾斜地は土石流がたまってできたところである。
土石流は、近年では1938(昭和13)年7月の集中豪雨、1947(昭和22)年9月のカスリーン台風、1979(昭和54)年10月の大風20号で起きている。

 危険な渓流は,谷底の勾配が15°以上の区間が長く,そこに多くの土砂が堆積している谷である。筑波山では土石流危険渓流に指定されているが、それぞれの谷の流域面積は小さくまた一般に谷は浅いので,土石流が起きても土砂量は多くはならず,その危険はあまり大きくはないといわれている。 

 筑波山はその成り起ちから地下深くで冷却して出来た団体が隆起してできた山であるので“噴火”しない山である。こういう意味では安全な山であるが、集中豪雨が土石流を発生させた過去がある山である。今年のように異常気象で記録的な豪雨が予想される時の登山は避けたほうが無難のようだ。  


つくば市の土砂災害警戒区域等指定箇所
 つくば市(茎崎町を除く)で土砂災害警戒区域等に指定されている危険な地域は、21か所である。その内、筑波山の「急傾斜地の崩壊」と指定された箇所は、女体山、男女川流域とつくば市筑波の東山の3か所である。

          〔女体山〕
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          〔男女川流域〕 

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         〔つくば市筑波、東山〕  

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【急傾斜地崩壊危険個所】
 傾斜度30度以上、高さ5m以上の急傾斜地で、その斜面が崩れた場合に被害が出ると予想される区域内に、人家が1戸以上(人家がなくても官公署、学校、病院、駅、旅館等のある場合を含む)ある箇所及び人家はないが今後新規の住宅立地等が見込まれる箇所を「急傾斜地崩壊危険個所」としている。 


 〔関連記事〕
  筑波山は噴火しない山 その形成と岩石

 〔参考資料等〕
  地質標本館 『筑波山地質見学ガイド』
  筑波環境フォーラム 『筑波山の自然観察』
  筑波エキスプレス 『筑波山MAP』
  茨城県 『水郷筑波国定公園 筑波山ガイドマップ』
  茨城県のHP 「土砂災害警戒区域等指定箇所【つくば市(急傾斜)】」
  

10月7日 筑波山神社の風景 連休の中日で快晴、登山客が多かった

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 10月7日(日)、3連休の中日、好天に恵まれたため朝早くから大勢の登山客が訪れていた。午前7時30分の時点で筑波山神社の駐車場はほぼ満車であった。昼ころには大鳥居から神社に向かう道路は渋滞で1時間待ちの状況であった。
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10月13日 筑波山神社の風景 寒い日の登山とカエデの葉

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 10月13日(土) 気温低く風も冷たかったので汗を流さず登れるような天候だった。
ケーブルカー宮脇駅周辺のカエデの葉は赤みを帯びている。一見 ”紅葉” のように見えるが近づいて見ると枯れている。台風、豪雨の影響であろうか 数年前に見た色鮮やかな紅葉は期待出来そうもない。

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10月20日、筑波山神社の風景、好天に恵まれ多くの人で賑わっていた

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筑波山神社の風景 10月20日(土)快晴

 北の風が少し吹いていたが好天に恵まれたため山に登る人や、七五三詣での家族連れや婚礼が3組あったので境内は多くの人でにぎやかであった。
 今年は6月以降、つい最近まで例年にない酷暑と記録的な豪雨の日が多かったため筑波山登山や参拝に訪れた人が少なかった。
 土産店の女将さんが「2013年東日本大震災の年は筑波山に来る人が極端に少なかった。今年もこの年と同じくらい少なかった。」と言っていた。秋の長雨が終わったのでこれからは観光客も増えてくるだろう。

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筑波山神社の風景 10月28日(日) 多数の登山客、中国人も多かった 

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 筑波山神社の風景 10月28日(日) 好天に恵まれ多区の登山客が来ていた。
安倍首相の訪中、日中"友好"の故か中国人が普段より多く来ていた。話せる中国語は”ライライ”、”ニーハオ”、”シエシエ”の3つだけだと言ったら、それだけ言えればベリーグッドと笑っていた。
 安倍首相訪中の10月25日、尖閣周辺に中国公船が遊弋している。中国人はどなたも一人ひとり話し合うのは楽しいが、中国という国の体質はいただけない。そんな思いがした一日だった。 
 ケーブルカー宮脇駅周辺のカエデも少し赤くなってきた。 
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  14 ”三猿"の彫り物を見る


  15 ここに日光東照宮より先に出来た”三猿”がある

  16 女体山に向かう人

    

筑波山神社の風景 11月4日(日)カエデの葉が大分赤くなってきた

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 11月4日(土)、筑波山神社の風景。 朝から曇り空であったが多くの登山客が訪れていた。筑波山ケーブルカー宮脇駅周辺のカエデの葉が大分赤くなってきた。

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11月11日(日)筑波山神社の風景 カエデが赤くなってきた

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11月11日(日)筑波山神社の風景
 
 朝早くから大勢の登山客や七五三を祝う家族連れが訪れれいた。午前7時20分、筑波山神社の駐車場に到着したがほぼ満車状態、数台分の駐車スペースが残っていた。今月中旬から月末にかけては更に多くの観光客が訪れることだろう。ケーブルカー宮脇駅周辺のカエデの葉が大分赤くなってきた。

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 〔関連記事〕

 (昨年、紅葉の最盛期の風景) 
 筑波山神社の風景 11月19日 宮脇駅周辺の紅葉 

 筑波山伝承 ガマの油売り口上 

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筑波山神社の風景 11月17日(土)今日も登山客が多かった 

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 11月17日(土)筑波山神社の風景 

 快晴、風もなく温かな行楽日和、カエデの葉も大分赤くなってきた。昨日・16日に続き今日も多くの観光客が訪れていた。七五三を祝う家族ずれや挙式が2組あり神社境内は賑わっていた。
 安倍首相の訪中、日中友好ムードを反映したのだろうか最近は中国人を多く見かける。今日は、ロシア人のグループがガマ口上を最初から終わりまで見物していたのが印象的であった。日本語は分からないと見受けたが演者のしぐさやゼスチャーで何を演じているのか感じ取ったようである。英語が話せる者がいたので、聞けば、ある者はモスクワから、ある者はウラジオストックからやって来たとのことだった。
 さすがロシアは大きな国だと言ったら一同呵々大笑、これも安倍首相がプーチン大統領とたびたび会っているからなのかなと思った。日中友好、日露友好、そんな感じの日であった。

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  15 ロシアから来た観光客

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〔関連記事〕
 筑波山伝承「ガマの油売り口上」の誕生
 
筑波山参詣と登山

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