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Channel: ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。
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筑波山の伝承芸能ガマの油売り口上の歴史、衰退と復活の経緯 

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永井村の平助により有名になった
 ガマの油の由来は、1614(慶長19)年の大阪冬の陣に筑波山大御堂の光誉上人が徳川方として出陣し、外用にガマ成分を含んだ蟾蜍膏(通称“ガマの油”)を、内用に筑波橘の果皮(陳皮)を活用したところ効能素晴らしく、全国から参戦した将兵によりその効能は津々浦々に知られることとなった。

 1632(宝永9)年、徳川家光が筑波山大御堂に鐘楼を寄進いた。この鐘楼の音がガマの油売り口上に出てくる“山寺の鐘”のモデルになったと伝えられている。

 1737(元文2)年頃、常陸国筑波郡永井村(その後、旧茨城県新治郡永井村大字永井、町村合併で現在は土浦市の一部)に平助が生まれた。平助9歳の頃、同村の普門院の雑役に雇われた。16歳のころ出火にあい平助は責任を取って辞め江戸に出て行った。江戸深川のとある問屋の雑役につくことが出来た。

 あるとき、筑波大御堂参拝団講中に加わり、筑波山大御堂門前で口上よろしくガマの油が飛ぶように売れているのを見て、ガマの油でひと儲けしようと決心した。そこで江戸蔵前の居合抜歯磨き売り、香具師の元締、長井兵助の門下に入り修業を重ねるうちに親分の居合抜きの技にヒントに、紙切り、腕切りの刀技を工夫し大評判になり油売りの商売も繁盛した。  

 以来、香具師によりガマの油売りは全国にひろがり、ガマ口上を各地で聞くことが出来るようになった。後に永井村の平助は親分格になり、1769(明和6)年頃、永井兵助を名のり初代永井兵助が誕生した。その後、兵助の名は有名になったが、その消息は定かでない。郷里にも噂話らしいものも残っていない。ニセ兵助が各地に出没したという。 

明治時代以降第2次世界大戦までは衰退した 
 ガマの油売り口上は落語に取材され舞台芸能として垢抜けた姿で人気を呼んだ。油を売る商売ではなくあくまでも面白い芸であった。ところが、ガマの油の大道における販売は、庶民文の向上とともに薬の販売ルートが薬局を通した販売に変わったことやワセリンに着色した不良のガマの油が出回るようになり人気を落としていったこと、これと関連して粗悪品排除のため薬事法の改正があり大道における“薬”の販売ができなくなった。このため大道での販売は途絶えたが、その後もガマの油売り口上は庶民の間で伝承芸能の形で生き続けて来たのである。 

【関連記事】文豪夏目漱石らが描写した江戸・浅草の香具師「長井兵助」

 

戦争後、伝承芸能として復活 
 1946(昭和21)年、筑波町観光協会設立、町おこしのためガマの油を観光の目玉とすることにした。そこで筑波山でガマの油売り口上を伝承していた造園業の原政男氏、畳業の稲葉卯之助氏の2人に協力を依頼した。2人は観光には無縁であったが筑波山の観光開発のためならと快諾した。

 2人はホテルの観光客、公私の催しごとに出演するうちに筑波の街では口上の愛好者も増え、口上を学ぶ者も出てくるようになった。中でもホテル業の吉岡久子さんが苦労されて演技を磨き、女性口上士として人気を呼ぶようになった。 

 1948(昭和23)年のガマ供養祭には有名であった落語家を招きガマ口上の演技を公開した。これがマスコミに大きく取り上げられ、各方面から観光客が訪れるようになった。原氏と稲葉氏はマスコミで取り上げられ、各地に赴き演技をする機会が多くなった。

 その後、後述する第18代名人を襲名した地元の小学校長であった岡野寛人氏が伝承されている口上や落語の口上等を調査研究し集大成したものが世の注目を浴びるようになり、それが伝承芸能ガマの油売り口上として継承され現在に至っている。 

       19代名人襲名の記念写真 
         (平成15年11月22日)
    最前列白鉢巻の2人が名人、左19代吉岡久子氏、右18代岡野寛人氏 
 

第17代 永井兵助襲名追認の事情  
 1952(昭和27)年、筑波町観光協会では永井兵助の称号を得たいと調査した。第16代までの存在は分かったが行方不明であったため、断絶、再興という考えに立ち筑波町観光協会が第17代永井兵助の襲名状を授与することにした。

 1952年のガマの油売り口上大会に優勝した稲葉卯之吉氏に協会長から第17代永井兵助の襲名状が授与された。 

 1957(昭和32)年、第17代永井兵助・稲葉卯之助氏はNHKテレビ「夜店風景」出演のためNHKのスタジオに出向いた。そこに居合技の長井兵助(本名・倉持忠助)が招かれていた。稲葉氏はその立派な衣装、堂々とした立ち居振る舞いに圧倒されたという。突然、彼は「私は第16代ガマの油永井兵助を襲名しているが、ガマの油口上はやらない。ガマの油口上を伝承してくれる人を探している。筑波町が後援しているあなたに第17代ガマの油売り口上永井兵助襲名をお願いしたい。」とのことであった。 

 稲葉氏は咄嗟の申し出にあっけにとられたが、受諾する旨答えた。その日は、「NHKスタジオであるので仔細はあとで・・・・・。」ということでは別れたが、数年後、筑波町役場の榎戸総務課長に長井兵助(本名・倉持忠助)が死亡したとの連絡がった。これを契機に筑波町観光協会では、追認していただいたものと受け止め対応することとした。 

 1972(昭和47)年、第17代永井兵助が体調優れず、後継として岡野寛人氏に観光協会長から第18代永井兵助の襲名状が授与された。岡野寛人氏は茨城国体でガマの油売り口上を演じ、筑波山のガマの油売り口上が全国に知られることになった。

 1980(昭和55)年筑波山の地元では、ガマの油売り口上を筑波山の伝承芸能としてとらえる気風が生まれ保存継承の声が上がり、地元有志により初代兵助の慰霊碑とガマの油売り口上発祥の地の碑が筑波山梅林の隣地に建立された。1999(平成11)年、第18代永井兵助90歳を迎えたのを機に保存会が結成された。この年12月における会員は44名であった。

 2003(平成15)年、第18代永井兵助老齢のため吉岡久子さんが岡野氏の後を継ぐことになり観光協会長(注、つくば市長)から第19代永井兵助の襲名状が授与された。第18代はその後もガマの油売り口上の演技を続け、第19代とともに全国各地でガマの油売り口上の演技をつづけ、筑波山の伝承芸能の発展のために尽力された。 

(注)この記事は、ガマ口上保存会設立に参画し事務局長を務められた鈴木博夫氏作成の『筑波山ガマの口上由来』(平成13年10月10日)に関する資料及び鈴木氏から聞いた話を基に作成した。

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