名山として知られる筑波山
挙兵を印象づける上では格好の山、守るのは難しい
筑波山挙兵に至った背景
徳川斉昭の死後、水戸藩では尊撰改革派は、攘夷の即時決行を求める激派と慎重論をとる鎮派とに分裂した。激派は玉造の郷校などにより、領内の豪農などを組織した。
1860(万延元)年8月,長州藩の軍船「丙辰丸」の船上で,水戸・長州両藩の尊攘派有志の間に「成破の盟約」といわれるひそかな約定が結ばれた。水戸側が「破」,つまり破壊的な行為を行って世情に混乱を起こし,長州が「成」,つまり正しいと信じる姿の世につくり変えていくというものであった。約定に名を連ねたのは,水戸側が西丸帯刀・岩間金平・薗部源吉・越宗太郎,長州側が桂小五郎・松島剛蔵で,仲介者は肥前の草場又三といわれている。
成破の盟約がしだいに広まると、激派はこれを藩是と考えて、1861(文久元)年東禅寺英国公使館襲撃事件や翌1862(文久2)年老中安藤信正襲撃事件(坂下門外の変)を起こした。
幕府はこのような攘夷の要求におされて、朝廷に攘夷の決行日を約束するに至った。しかし孝明天皇か親幕的で朝廷の秩序を乱す攘夷派の公家を嫌っていたことや、薩摩藩などが朝廷と幕府の融和をはかる公武合体を唱えていたことから、文久3年8月18日攘夷決行を直前にしてクーデターを起こし、長州藩と攘夷派の公家を追放して朝廷を掌握した。
この頃、下総・常陸の農村では水戸藩激派やこれを称するものが豪農商に献金を強要し、民衆からの反発が強くなった。幕府も尊皇攘夷派の取締りを本格化しただけでなく水戸藩では鎮派も加わって、郷校に拠り活動する激派を抑え込もうとした。
このため水戸藩激派を中心とする尊王攘夷派はしだいに追いつめられ、筑波山に挙兵して活動の転機を見いだそうとした。
にせ天狗の横行と取締り
筑波地方には、この前年文久3年11月ごろより、水戸浪士やこれを称するものが入り込み、豪農に金品の差しだしを強要したり、乱暴を働くようになっていた。
11月29日には泉村の名主宅へ水戸浪人の小林幸八・五島秀吾というものが現れ、前年同村で召し捕った柴田一之助はまことの同士で、かれの死を弔うため名主に天訣を加えると脅し、金10両を提供させる事件が起きている。
12月には、早川森六郎・悪津小太郎・千草太郎・原七郎太郎などが筑波町1丁目の稲葉屋に泊まり、「水戸新帳(徴)組」と称して活動し、翌正月になって召し捕らえられた。
文久3年より鎮派の水戸藩家老武田耕雲斉は、関東鎮撫を命じられ、水戸激派や新徴組と称して常陸・下総の農村を横行するもの・・・・にせ天狗党・・・・を厳しく取り締まることを命じていたが、彼らもその一部であった。
1864(元治元)年正月になると森六というものが谷田部で逮捕され、筑波の若松星へ泊められたが、これは「にせ天狗」であったという。さらに同月、幕府よりの高札を浪人小野三左衛門・塙平助が足下にかけ割ってしまうという乱暴を働いた。このため筑波では寺杜奉行に報告するとともに、江戸小石川の水戸藩邸に申し入れ、水戸藩領小川村の郷校勇士館より人数を派遺してもらうことにした。
水戸藩家老武田耕雲斉が激派やにせ浪士の取締りにあたっていたので、筑波ではこれを期待した。勇士館では、筑波の御寺へ小川館出張所と表札を出し、5~10人が交代で詰めたが、これは正月29日のことで勇士は宝幢院を本拠とし、これを筑波館と称した。
筑波勢の幹部と宿泊場所 筑波山挙兵、筑波山でなにをするか
1864(元治元)年3月27日、田丸稲之衛門を大将とする60名余の集団が筑波山へ登り、町役所を本陣として周囲に呼びかけると、各地から尊王攘夷派の浪士が駆けつけ、数日で150名ほどにのぼった。下の「表23」によると集まった者は、最終的には総勢約680名に達している。その主力は御役所の160~170名、神郡の普門寺に田中隊の100名余、たは筑波1丁目から4丁目の宿屋に分宿している。
挙兵した筑波勢は、数日の間各地で軍資金を「金策」し、その額は2000両におよんだといわれる。「金策」とは聞こえがいいが、血気にはやる浪人らが刀など武器を持って民家におしかけ軍資金が欲しいと迫られれば、断れない。筑波の住民の期待に反した体のいい“恐喝”、“強盗”の類というのが実態であろう。
しかも挙兵前の3月15日、横浜と糸綿商いを行い大きな利益をえていた新治郡片野村の豪農伝七が、天誌を加えられて殺害された事件もあり、筑波山周辺の豪農のなかには、あわてて献金に応じるものもいた。金の提供だけですまない。住民は武器や資材の運搬、防御施設の構築などのため苦役の提供も求められた。
各地から多数の浪士が駆けつけたが筑波山に屯して幕府軍や水戸藩の討伐側とどう戦うのか? 水戸の市街地で刀や槍をもって切り込み合戦をやるわけではない。山麓、筑波山神社周辺および山頂など要所を昼夜、守備するため兵力を配置するならば1箇所あたり10名前後から数十名程度しか配置できない。しかも、樹木が繁茂しているため討伐側は筑波山麓全周のどこからでも接近し攻撃できる。対する筑波勢は相互に連携できないため拠点ごと各個の防戦を強いられる。多数に寡兵では戦にならない。
筑波山に挙兵で全国に呼びかけたのはカッコいいが、その後の戦いを考えて行動したのか。已むにやまれぬ大和魂、猪突猛進、そこまで考えなかったか。
筑波山は、地形上は比較的登山の容易な山で防御が難しい面もあったので、藤田らは次の目標として、日光山を選びここに参詣の後、攘夷を決行するとして出発することにした。
日光山は徳川家康の廟所があり、地形も唆険であったので、立てこもるには格好の地であった。そこで徳川家康の廟所に参詣すると称して、日光山の占拠を目指したのである。が、日光を管轄する藩が接近を許す保証がないまま日光へ向かい、これまた失敗に終わった。大平山にも屯したがここでも初志貫徹できず挫折した。
いずれも筑波山挙兵のため筑波山へ向かったときと同じ愚を繰り返した。
筑波山は名山として知られているため藤田らにとっては挙兵を各地に印象づける上では格好の場所であるだけでなく、事前に出張所を置くことができたので、ことは容易に進むと考えられたのであろう。
ところが、金集め、食料や資材の調達や運搬など兵站を伴わず、すべて現地調達といういい加減さ、しかも攘夷を決行するための戦略、作戦があって決起したのではない。“攘夷”という “夢” に向かって突進したのだ。
彼らは、尊皇攘夷の書を “読み耽った” 挙句、挙兵し各地を遍路した。筑波勢の行動は、17世紀スペインの物語、ドン・キホーテ・ラ・マンチャが痩せこけた馬・ロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引き連れて遍歴の旅に出かけた状況に似ている。共に”風車”に突進して挫折した。己を知らず、敵を知らざれば、戦うたびに敗北する。
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