擬声語とゼスチャーを上手く使う
分った、分らないとはどういうこと
話し(ガマの油売り口上)を分ってもらうということについてである。
分ったということは、物事の関係がはっきりすることである。
別な面から言うと、分かっていることと、わかっていないことが分かる、ということである。
分かっていないことがわかれば、それが分るきっかけになる。というものである。
そこで、分かっていないということはどのようなことなのか。
●輪郭だけ分っているが、内容の詳細が分っていない。
●糸口が分っているが、その奥がよく分っていない。
●おぼろげに分っているが、鮮明につかめていない。
●別なことが分かっているが、話しての意図どおりに分かっていない。つまり勘違いをしたり誤解をしている。
あいまいな理解を、話している実体に近づけるためには、具体的に描写しなければならない。そのためには、実物、絵などを使う。感覚器官、体全体を使って分ってもらう工夫が欠かせない。
擬声語を上手く使う
パブロフの条件反射理論によると、(梅干しを見ると唾液が分泌されるという)条件反射において、条件刺激(第一信号系)は無条件刺激(梅干しの酸味)の信号と見なされるが、さらに「梅干し」という言葉(第二信号系)は梅干しを見るという条件刺激を指示する信号であるとする。
そこで、話す場合、「梅干し」である第一信号系と、言葉として表現される「梅干し」である第二信号系をどのように合致させるか、話す人は工夫する必要がある。
スイーツを見せる。すると、欲しがる人と、全然 見むきをしない人とがいる。欲しがる人は、前にスイーツを食べた経験のある人だ。そして、非常においしい、甘いと感じた人である。
一方、欲しがらない人は、まだ見たことも、食べたこともないか、食べたけれども、うまくなかった、と感じた人である。
だから、前に食べたことがあり、しかもおいしいと感じた人には、こんどはスイーツを見せなくても、“スイーツを食べよう”と言っただけで、その人は動く。スイーツという“現物”、そして、表現するスイーツという“言葉”、即ち第一と第二信号系が自然に結びつくのである。
これがもし、欲しがらない人、まだ見たことも食べたこともない人、食べたけれども、うまくなかった、と感じた人に対して「トローリと甘いスイーツをあげよう」と言ったらどうだろう。スイーツを食べたことがない人でも、「トローリと甘い」という言葉にひきつけられるだろう。
「トローリ」は擬声語だが、擬声語はこのようにイメージを結ぶ力をもっている。「あの人はふとっている」というより「ぶよぶよしている」「ぽっちゃりしている」と表現したほうがイメージが浮かんでくる。
「刺激的な色」というよりも「ケバケバしい」のほうが、イメージを結びやすい。
また「ゆっくり」という言葉は、一回だけ発音してみても、別段、なんでもないが、繰り返しゆっくり「ゆっくり、ゆっくり」と発音したほうが、イメージは出やすくなる。
さらに、低い声で「ゆっくり」と発音してみると、いっそうイメージが濃くなってくる。
擬声語はこのようにイメージを結ばせる言葉だが、それも低音のつぶやき声で、ユックリ言うことで効果は倍増する。
それに加えて「表情身ぶり」、これで完全に相手の第二信号系はより強く反応し、それは第一信号系に波及してより豊かにイメージを伝えることができる。
擬声語はゆっくり低い声でつぶやくように言うのがコツといえる。擬声語プラス表情身ぶりが、相手にラポールをかける最良の方法であるいってさしつかえない。
“物”(第一信号系)と それを表現する“言葉”(第二信号系)を合せるか工夫が不可欠といえる。
ゼスチュアで言葉を補う
無限にある事実やことがらを、有限の言葉で表そうというのだから、間違いなく表現し、相手に正確に受けとめてもらうことは難しい。
日頃、私たちは言葉を線状につなぎ合わせて、立体的な事実を表している。限られた言葉で、無限の事実や事象を間違いなく表そうというのは、どだい無理な話である。
ましてや、さまざまな聴衆に対して話そうとすれば、言葉で表現できない、あるいは、言葉だけでは不十分である、といった問題が起こってくる。
このように、言葉だけで表現できないことをゼスチュアで補うのであり、これによって言葉と違った視覚的表現が加味され、音声言語としての単調さが破れ、話が立体的になってくる。
ものごとは、視覚的に訴えればより具体的になり、観客の想像性を強めることになる。話の内容を正しく理解させ、観客の心をゆさぶる迫力ある話をするためには、ゼスチュアを含めて、体全体を道具にして話すことが欠かせない。
ゼスチュアには、次のような種類がある。目的に応じたゼスチャーをする。
●指示的ゼスチュア: 目標や方向、最終到着地など示すもの。
●数量的ゼスチュア: 話のポイントなどあげるとき、指をたてたり、まげたりして数量を示すなど。あります、あれですなどいろいろな意味での数量を示すもの。
●形態的ゼスチュア: 大きさや形を示すなど、イメージを描かせるもの、写生的もの。
●動作的ゼスチュア: 動きをそのまま、具体的に視覚化するもの。
●抽象的ゼスチュア: Vサイン、ガッツポーズ、「私にまかせろ」と胸をたたくなど、何かを象徴してみせるもの。
ゼスチュアは、本来の意味の言葉を補うもの、つまり、補足の言葉といえる。それによって「言葉」で表せない微妙な内容を、できるだけ分かりやすく、具体的に表現することができる。
また、無限にある事柄を、限られた言葉で表そうとすれば、大ざっぱな表現になることものあるので、ゼスチャーで詳細な面を補うことが必要である。
土偶、全身で何かを訴えている
この土偶は、後期土偶のうちで最大傑作であるといわれている。
やや上を向くハート形の顔、鼻は大きく、楕円形の目をつけ、
顔をきれいに研磨している。
肩が張り、腕が短小で胴部を極端に細くし、
細い胴から次第に大きな誇張した足がつく。
肢間は見事なアーチラインを描き、全体を巧みに調和する。
全身に渦巻と沈線文様があり、わずかに丹彩した跡が認められる。
後頭部には橋状の把手が首から渡り、
その上に角状の突起がのびていたと思われるが、欠失している。
講談社刊 「日本原始美術 2 土偶・装身具」 52頁
動きや動作には節度を
人間の話というと、頭に浮かぶのは、言葉のやり取りである。しかし本当は、目や耳で見たり聞いたりするなど色々な手段の総合である。人間の5感のなかでは、目から来る刺激が一番大きいといわれている。
言葉と合わないチグハグな動き、けじめのつかないゼスチュア、また、過剰な動作などは、かえって観客にわずらわしい印象を与えるだけでなく、耳から入る言葉への注意力を鈍らせる。
さらに、観客が口上士の動きの中に軽薄さを感じるようになることさえある。そうなっては、口上士の信頼感は全く失われてしまう。
そこで、
●動作と話す内容が時間的に一致していること。つまり、ズレがないこと
●動きが相手から見て自然であること
●動きが明確で、あいまいさがないこと
・・・・・に気を配る必要がある。
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