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Channel: ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。
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天狗党の筑波挙兵 義挙か不満分子の反乱か 金穀の徴発は“恐喝”、“強盗”だ! 

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              藤田小四郎の像(筑波山神社)

筑波山挙兵  
 1864(元治元)年3月27日、藤田小四郎らは水戸町奉行田丸稲之衛門を総帥として筑波山に挙兵した。
 陣容は、田丸を総帥に藤田小四郎が中軍将、斉藤左次衛門を輔翼、藤田小四郎、竹内百太郎、岩谷敬一郎(新治郡宍倉村)を総裁と称し、
 天勇・地勇・竜勇・虎勇・中軍・遊軍・訓練の諸隊を組織し、
訓練奉行・小荷駄奉行・旗奉行・監察等を設けた。
 田中愿蔵(久慈郡東蓮寺)、飯田軍蔵(木戸村の人、笠間藩郷士)も指導者の一翼として活躍した。 

 挙兵に先立つ3月25日、第9代水戸藩主、徳川斉昭雄(烈公)の7男である一僑慶喜が、将軍後見職から新たに設けられた禁裏御守衛総督、播磨海防禦指揮に任じられた。
 同じ25日、藤田小四郎ら尊皇攘夷の激派は府中(石岡市、駅の近く)の新地八軒に集まり水戸町奉行田丸稲之衛門の到着を待っていた。 

 田丸の到着は3月27日午前の予定であったが、田丸は駕籠にのり従者をつれ人目を避けるように移動してきたので午後1時頃になって到着、紀州屋の裏木戸から入ってきた。田丸の服装は細かい縞の袷、仙台平の袴をつけ斉昭拝領の葵の紋付き羽織だった。

 田丸の到着後、浪士らは鈴宮稲荷(石岡市)に目的成就を祈願した後、隊列を組まずに筑波山を目指した。浪士らは思い思いの姿で、銅籠を腰に下げ、その中に日常の手回り品などを入れていた。鎧などを着たものはいなかった。みな旅姿だった。
 一隊は、小幡村(八郷町)から神郡村(つくば市)を経て筑波山に着いた。怪しまれるのを避けるため武器などは携行せず、別送した。

 府中を出発したときは72名(注:「筑波義軍旗挙(上)」)であったが、滞陣中に小川勢、潮来勢なども参加し、160、70人に増えた。筑波勢の要請によって加わった者もあったが、挙兵の呼びかけに共鳴して自発的に参加した者もあった。

 この時の呼びかけに応えた中に飯田軍蔵、青木村(大和村)の大和田外記、菅谷村(八千代町)の大久保七郎左衡門、真岡(栃木県真岡市)の横田藤四郎および元結城藩士で桂小五郎らと親しかった越総太郎がいた。

 大将・田丸をはじめ藤田小四郎らは改めて軍議を開き、「我等が攘夷の先鋒たらんとする決意は先君斉昭公の遺志を継ぐものであり、烈公の神位を奉じてこれを」軍神とすべしと定め、烈公鍛え、東湖拝領の短刀(小四耶が持参)を白木の神輿に収め、「贈従二位大納言源烈公神主」と大書して営中に奉じた。

 筑波山中腹の大御堂の前の松の木に高々と「尊皇攘夷」の旗をひるがえし、挙兵の号令を天下に発した。「腹が減っては 戦はできぬ!」の言葉があるが、大軍を動かすため軍資金や食料の調達は急を要する課題であった。

             筑波山神社 (旧)大御堂



金穀の徴発  
 藤田小四郎は1864(文久4、すなわち元治元)年、23歳であったが、東西に奔走、同士と往来していた。3月1日、江戸において桂小五郎(後の木戸孝允)と会い何事かを盟約した。
 盟約の仔細は不明であるが、水戸と長州の2藩士が東西呼応して兵を起こし、天下の機運を一転させようと企てた。軍資金若干と名刀一口を受け取った。
 史書には軍資金は、約束してあった1000両のうち500両であったと記したものがある。

〔金策、府中の例〕
 筑波勢は「府中ニ而出立前金子三千両計出来候トソ」というが、人数の増加によってその金穀の必要性はいっそう高まった。
 藤田小四郎らは朝廷のおんため、夷狄を討つためと称して、同志を募り、筑波山を拠点に富商、富農から金穀の徴発をおこなった。  
     
      水戸市史編纂委員会編「水戸市史(中巻)」


  府中においては当初、山田一郎の一派が引き受けていた。
 山田は府中の紀州屋にいた頃は、相当手荒いことをしていた。彼は資金を持って逃走したが、筑波勢はその後も金穀を無理やり徴収した。彼らは町役人を集め資金の拠出を命じた。
 町役人は命を奉じて町内の主なるものから零細な金を集めては、これを一口にして筑波勢へ渡す。そのとき、筑波勢の方からの受取証は当事者の2、3人の名において渡しておく。 

 名主にしてみれば、土地の領主である松平播磨守が義軍の屯集や軍資金を大目に見ている以上筑波勢の命に従わざるを得なかった。
 しかし、万一、このような事実を幕吏へ報告する時を考えれば、家の控えの文書もみな考えて記録する必要があった。たとえば、下記のようにである。  

     覚   松平播磨守領分常州新治郡府中宿     
 一、  金八両也 酒造並醤油度世 長谷川屋喜三郎
 一、 金拾両也 醤油度世 西のみや九兵衛   
 一、 金七両也 酒造度世 水谷屋宗兵衛    
 一、 金五両也 酒造度世 みしま屋喜平兵衛 
 一、 金四両也 穀度世  小川屋右衛門
 一、 金三両也 質並醤油度世 岡村屋弥兵衛
 一、 金弐両也 穀物度世 岡村屋清兵衛 
 一、 金弐両也 薬種度世 塩屋(石原)彦兵衛
  〆金四壱両也       
  是は去申12月24日 水戸浪人大塚鋳吉一人罷り越し長岡組のよし、一同難儀之赴にて金子差支へ候様無心致候に付き、無據用立申候受取書写別紙に差上申候。  

 心から筑波に尊王攘夷の旗挙することに賛同し積極的に協力しても、幕府と書生党に対しては、右のとおり無心されたのでやむを得ず用立てしたと書面上で処理し、当たらずさわらずの態度をとっていた。   

〔金策、下妻の例〕 
  筑波勢は、筑波町の旅宿八軒に分宿していたらしい。その中の水戸小川館詰遊土と名乗る者が、4月1日下妻陣屋の領地域廻村(下妻市)の年寄長兵衛・与三右衛門と、西当郷村(同)の年寄孫左衛門に用事があるから、役人ともども筑波町の旅宿まで出頭するよう命じた。

 そこで下妻陣屋役人は、右3人は病気と申し立て、代理人3人と城廻村年寄七兵衛を伴って彼らの旅宿まで出かけた。そこには遊士どもおよそ百人余が集まっていた様子であった。
 幕を張り厳重に警戒中の場所へ呼び出された三人に、遊士は、横浜表の交易は追々増長し、そのため昨年在の方では格別田地に綿などを作付けることが多くなり、おのずから穀物の出来方が薄くなってしまった。
  我々は、身命をなげうって横浜へ押出し、異国人を打払うつもりだが、富裕人は金子をもって骨折り願いたい。ついては一人1000両ずつ明2日朝までに持参せよ。もしそれに背いたならば即刻一命は申し受ける、即答せよと迫った。

 しかし即答はできぬとして種々談判したが遊士どもは聞き容れないので、その場は700両ずつ出すと約束して帰った。このあと役人に嘆願したところ、役人の仲介でようやく一人100両出すことで決着した。七兵衛と孫左衛門の代理人が遊士のもとに人質になっていたので、やむなく金子を渡した。
  


          水戸市史編纂委員会編 「水戸市史(中巻)」 

 「波山記事」に記載にある金策を表示すると、上の表のようになる。
なお、この時筑波四里四方位の所での金策によって、筑波勢の集めた金は「弐千両位」といわれる。

〔先触れ、駕籠や人馬の徴発〕
 小四郎らは、軍議の場で「我々が挙兵に踏み切った以上、幕府はこれを捨ておくはずがない。ついてはまず日光山により東照宮の神廟に祈願して攘夷の先鋒ならんと願う」と決し、日光へ赴くことになった。

 4月3日、筑波勢は大島村(つくば市)、海老ケ島村(明野町)を経て小栗村(協和町)に至り、ここに下山後最初の宿をとることにした。これもはじめて次のような 先触れを出した。
 「先触れ」とは、室町や江戸時代、旅行の際、あらかじめ道中の宿場に人馬の継ぎ立てなどを準備させた命令書である。
 
 この隊列の特徴は、中間などと呼ばれた人々を同行していないことである。
一行の中には農民もいたが、多くは武士であり、従って実際に鉄砲やその他の諸道具を運搬する人を持たず、これらを先触れによって徴発することで賄っていた。
 このことは以後も一貫している。それ故に、筑波勢はこれらの徴発人足をどうしても確保しなければならず、そのためには賃銭の支払いもきちんとしなければならたかった。

 金の徴収の都度、『吾次今回尊撲の趣旨を貫徹するため、大平山に滞在しているが、限りある禄を以て限りなき士を養い難きを以て、国家のため一時借用するが、宿志を達すれば迅速に返却する』と記した証文を渡した。 

 上記の表で「押借りされた者」とあるが、「押借り」とは、貸主の意思に反して無理に金品を借りることである。平穏に生業を営んでいたところ、ある日、突然、武器を持った者がおしかけ、金よこせ、人馬を差し出せ、「もしそれに背いたならば即刻一命は申し受ける、即答せよ」と迫られたら断れない。

 貸主はしぶしぶ無理難題に従わざるを得なかった。しかも筑波勢には博徒が入っていた。そのため金策は粗暴で過激となり、あらゆる恐喝的な手数をもって強請することになった。世間では浪士の名を利用して悪事を働く者もあった。筑波勢の乱暴狼藉に怨嵯の声を放つ者もいた。 

 筑波勢の金策は、その主張に共鳴した者から資金の提供を受けてはいるが、膨れ上がった軍勢を動かすためには巨額の資金が必要であった。
 「押借り」とは、今の時代であれば、“恐喝”という言葉がピッタリ当てはまる。


〔田中愿蔵の放火・略奪・殺戮〕
 田中愿蔵は、筑波勢の中で一方の将として重きをなしていた。田中の一隊は、栃木・北条・真鍋・土浦・那珂湊・祝町・大田・菅谷の各村々を横行して乱暴極まりなく、世人はこれを散髪組と称して虎視視していた。
 また田中の隊には遠近の博徒が加わり、自己の威福を張っていた。

 田中愿蔵らは1864(元治元)年6月6日、栃木の町を襲い家々に押し入っては金品を強奪したうえ、町に対し3万両の差出を命じたが断られると、火を放ち宿場内の237戸を消失させた。
 6月21日には、土浦藩真鍋宿(土浦市)で金策のため 放火、略奪、殺戮などやりたいほうか放題のことをやった。

 このため7月3日、田中は除名処分となったが、その後の行動は改まることはなかった。田中愿蔵は、倒幕の信念に迷うことなく突き進んだが、筑波山下山後は藤田小四郎らと袂を別れ別行動をとった。

      田中愿蔵隊の拠点となった普門寺(つくば市神郡)   


【関連記事】
「つくば道」の神郡と普門寺の水戸天狗党の碑    

〔西行における徴発も似たような手口だった〕
 筑波勢は、1864(元治元)年10月25日、大子村に結集し軍議を開き、禁裏守衛総督徳川慶喜を頼って京都へ赴き朝廷に志を伝えるため西上を決定した。
 この際、軍制を定め武田耕雲斎を総大将とした。記事では、これ以後の筑波勢を水戸天狗党と記す。


           水戸天狗党西上の図 

         「水戸市史(中巻)」400頁「第62図天狗党西上略図」 

 軍用金の募集は、筑波の時と同じく野州は元より上州へわたって行ない、数千両を集めたらしい。記録によると、上州、藤岡町より1000両、綱取村森村より2000両、藤岡町より800両余、その他200両、100両を差出した者が比較的多かった。


金穀の徴発は、“恐喝”、“強盗”そのもの 
  筑波勢の挙兵は義挙というよりは”不平分子の反乱” 
 筑波勢は金を借りるに際して“証文”を渡したが、もともと資金面の裏づけもないから、空約束、空証文であった。“国家のため一時借用する” “宿志を達すれば迅速に返却する”というが、決起した連中は、志を達成する具体策があったわけではない。

 藤田小四郎らは1864(元治元)年4月3日、日光に向かったが滞陣できず4月14日大平山に移り、5月30日、大平山を降り筑波山に戻った。その際、附近の農民の中には、土のついたザルなどに小粒の金銀の貨幣を一杯いれて運ぶのをみかけたという人もいたようである。 

 史書によると「百姓があんなに沢山お金を集めるのは大変でしたろうが、ほんとに天朝さまのためだと思って血の出るような金を出したのか、金を惜んで首がとんでは堪らぬと思ったのか、その辺のことは外から見ただけでは分りませんね」とか、
 「そのころは天狗さんが、ぬき身をさげてやってきては、金を出せといい、無いと言おうものなら、すぐバサヅと首を斬り落としたものです」と言い伝えが記されている。

 騒乱に関係の無い者にとって“天狗”といえば、荒っぽい不艮や長脇差の者もいたので、ただの集団強盗で、その落ち武者退治の、“天狗狩り”も強盗をつかまえる話だとう思っていた者もいたようである。

 攘夷の掛け声に応えて集まった勢力は、数百から時には1千名に上る膨大な数に達したが、主義主張は一つの考えで纏まっていたわけではない。

 長州出の者は倒幕であったが朝廷に刃向かったとして朝敵視されていたし、水戸藩の出の者は水戸学の流れから尊王であり、幕府とのつながりから必ずしも倒幕ではなかった。領内各地では門閥保守的勢力と革新的勢力が激しく戦っていただけでなく、彼らの家族をも殺傷するという凄惨なものあった。

 田中愿蔵の行動は無法ぶりが示すように、筑波勢には1864(元治元)年10月25日、大子村に結集し、軍議で西上を決定するまで軍律らしい軍律が無かった。

「漢和辞典(改定新版)」(旺文社)によると、「義」とは、
 ①よい:(ア)よろし(イ)正しい(ウ)すぐれた  
 ②人の当然なすべき正しいみち、「仁・義・礼・智・信」の一つ。
 ③君臣の間の正しい道徳。五輪「親・義・別・序・信」の一つ。  
 ④公共のために、また、正義のために行動すること。「義人」  
 ⑤たてまえ、信条。「主義」 
 ⑥わけ、意味。「字義」
 ⑦ほんらい血縁関係のないものが、恩情や義理に基づいて結ぶ親族。「義兄」
 ⑧かり(仮)。実物のかわりになるもの。
   ・・・・・・とある。

 筑波勢、水戸天狗党の金策を見ると、
彼らは「③君臣の間の正しい道徳」に縛られ、
「⑤たてまえ、信条。『主義』」に生きたのであろうが、
一つの「主義」でまとまっていたわけではなかった。

 彼らは「⑦ほんらい血縁関係のないものが、恩情や義理に基づいて」結集し、
攘夷を叫んで決起したが、
金策のためには乱暴狼藉さえ厭わなかった。

「②人の当然なすべき正しいみち」を踏み外しただけでなく、
「④公共のために、また、正義のために行動」したとは言えない。

 筑波勢の金穀徴発は、“恐喝”、“強盗”そのものである。軍律なき無法集団、敢えて言えば“烏合の衆”である。義挙とは、正義のために起こす企てや行動をいうが、筑波勢は信奉する主義を実現させるための戦略・戦術を持たず、戦備を整えることなく猪突猛進した。

 対する幕府は、武力をもって良民を脅かし金穀を強奪したという口実を設け反乱分子として追討を命じ、鎮圧し断罪した。当然の帰結である。


【参照文献】
 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝 3』株式会社 平凡社
 水戸市史編纂委員会編『水戸市史(中巻)』
 大内政之著『燃える大和魂』暁印書館 
 室伏 勇著『写真紀行 天狗党追録』暁印書館
 山川菊栄著『覚書 幕末の水戸藩』株式会社岩波書店
 山口誠太郎著『筑波義軍旗挙(上)』筑波書林
 渡辺 宏著『筑波義軍旗挙(下)』筑波書林
  小西四郎著『日本の歴史19  開国と攘夷』中公文庫
 平凡社『世界大百科事典 14、15、19、21』 
 平凡社『世界大百科事典 紀年対照表』


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