万葉の歌会の舞台 筑波山麓の飯名神社
筑波道から飯名神社方向及び筑波山を望む 古代の筑波開拓 縄文時代の頃、筑波山麓の南面に当るまで所太平洋の波が寄せていたという。 縄文・弥生時代から古墳時代と時代とともに筑波山南面山麓の開拓が行われたので、南面山麓が筑波の表玄関であった。...
View Article常陸の国は筑波の郡、歴史は古い筑波の正倉院 「国指定 平沢官衙遺跡」
平沢官衙遺跡全景 筑波の正倉院 「国指定 平沢官衙」 いまから1000年以上前、奈良・平安時代の常陸国筑波郡の役所跡である。1975(昭和50)年の調査で、重要な遺跡であることが判明した。1993,1994年度(平成5、6年度)には復元整備事業を計画し、本格的な発掘調査が行われた。...
View Article水戸黄門の形成 水戸藩「御三家」の威光と弊害
「御三家」の威光と弊害 副将軍説がたとえ確かなものではなかったとしても、御三家としての権威は諸大名とは格段の違いがあり、水戸藩の武士や領民までも、他家に対して御三家の威光を振りまわす気風が強かった。 たとえば、御三家の通行のときは、先払いの者が、「シタニロ、シタニロ」(下に居ろ、下に居ろ)と制止声を掛け、往来の士民は道脇に土下座する習わしであった。...
View Article天狗党の筑波挙兵 義挙か不満分子の反乱か 金穀の徴発は“恐喝”、“強盗”だ!
藤田小四郎の像(筑波山神社)筑波山挙兵 1864(元治元)年3月27日、藤田小四郎らは水戸町奉行田丸稲之衛門を総帥として筑波山に挙兵した。 陣容は、田丸を総帥に藤田小四郎が中軍将、斉藤左次衛門を輔翼、藤田小四郎、竹内百太郎、岩谷敬一郎(新治郡宍倉村)を総裁と称し、 天勇・地勇・竜勇・虎勇・中軍・遊軍・訓練の諸隊を組織し、訓練奉行・小荷駄奉行・旗奉行・監察等を設けた。...
View Article水戸黄門漫遊記 「葵の御紋」を振りかざすイメージが形成された背景 「御三家」
権威を見せ付けて 役人の不正を糺さざるを得ない事情 「水戸黄門漫遊記」は、数ある時代物のうちでも、人気の衰えない話であるが、『漫遊記』自体は、それに喝采した近世後期の人びとの夢想である。 実在の水戸藩主である徳川光圀は、水戸藩初代藩主頼房の第3子で江戸時代初期の名君の典型とされた。光圀は国史編纂 (『大日本史』)...
View Article名君の誉れ高い水戸光圀、黄門様の仁政と限界
名君の誉れ高い水戸光圀 水戸藩の第2代藩主徳川光圀は、水戸黄門としても知られ名君の誉れが高い。 初代藩主徳川頼房の三男で、儒学を奨励し、彰考館を設けて大日本史を編纂し、水戸学の基礎をつくった藩主である。...
View Article百姓一揆か年貢の納め時か、百姓はこの世では救われない、旧「筑波郡」で発生した百姓一揆
旗本と「年貢の納め時」 旗本とは、徳川家直臣のうち,御目見得以上,大名未満(一万石未満)の交代寄合,高家、知行所(領地)を持ち,ある程度の行政・司法権を有する者で、世間的には「殿様」と呼ばれた。 身分的には、旗本は500石以上は知行取で、500石未満の場合は4代家綱迄に知行取の場合以外は切米取だった。...
View Article陽成院の歌が謳われた頃は大震災と火山噴火の時代だった
百人一首と陽成院の歌 百人一首は、上代から鎌倉時代初期までの歌人100人の短歌を1首ずつ集めたものである。 藤原定家の選んだ歌をもとにして後の人が多少補い、南北朝時代から室町時代の中期のころ現在のかたちにしたとい われている。 内容は春6首、夏4首、秋16首、冬6首、恋43首、離別1首、き旅4首、雑20首である。...
View Article小田城主・八田知家の策略にはまり没落した多気城
つくば市北条の城山(多気城跡) 城山(じょうやま) もとは多気山(たけやま)という。戦国時代に城が築かれて以来、城山とよばれる。現在は龍ヶ崎市正覚山正信寺の寺社林として管理されている。 平安末期に北条を本拠とした多気氏の祖は平継幹(これもと)で、平安中期に平将門の乱を平定した平貞盛の弟、繁盛の子である。...
View Article「ガマの油売り口上」は プレゼンテーションである!
江戸の町の生業 膨大な消費人口を抱える百万都市江戸では目抜き通りに店をかまえる大きな店から、一人で売り歩くものまで多種多様な商売でにぎわった。一人で売り歩く商売は、プレゼンテーションの上手い下手が収入につながった。 【関連記事】 ガマの油売り 居合い抜きは薬売りや歯磨き売りの人寄せ芸だった ガマの油売り口上は商売の話術...
View Article江戸時代の服飾文化・藍染めとガマの油売り口上
つくば市神郡の蚕影神社の絵馬 大道芸、ガマの油売リ口上 ガマの油売り口上の冒頭に「さあさあ お立ちあい、ご用と お急ぎでなかったら、ゆっくりと聞いておいで。遠出山越え笠の内、聞かざる時には、物の出方、善悪、黒白(あいろ)がトント分からない。山寺の鐘がゴォーン、ゴォーンとなると雖も、童子来たって 鐘に撞木を当てざれば、鍾が鳴るのか、撞木が鳴るのかトント その音色が分からぬが...
View Articleがまの油の値段考える目安、江戸時代の夜鷹の花代
春を売る商売 仏教では、女人の出家は、正しい法を乱す恐れがあるところから、女子の出家を許さなかったが、時代がくだるにつれ、女子の出家が許されるようになり、比丘尼のために特別の戒の書ができ、尼の戒壇や尼寺がおかれた。...
View Articleガマの油売り口上、観客との強い共感を作るアイコンタクトが大事!
目つき、表情 人間の顔はよくできている。先ず、目である。白目があるのは人間だけ、白目があるからどこを見ているか、どんな気持ちでいるか全て分かる。「目は口ほどにものを言い」である。 表情も、顔の筋肉が随意筋のため、気持ちの動きを反映する。しかし、顔は笑っていても、目の冷たい人もいる。ものの言い方も丁寧に気配りの行き届いた話かtだと、聞く方も安心する。...
View Articleガマの油売り口上 売ってなんぼの全力勝負
ガマの油売り口上は大道芸 行きずりの人に立ち寄ってもらい、聞いてもらわないと話ににならない。 わかりやすく話し、”情報”を理解させ、ガマの油を買う気にさせるためにどうするか。 売ってなんぼの世界、それ相応の工夫をして全力勝負でお立合いに応えなければならない。 真剣勝負である。自信をもって全身で表現することが求められる。 態度・風采・人柄...
View Article「ガマの油売り口上」の「近江の津守細工じゃ」とは
からくり人形 がまの油売り口上の「一寸八分唐子ゼンマイの人形」とは、からくり人形のことを言っている。人形劇に用いられる〈あやつり〉〈糸あやつり〉も、その初期は見世物の要素がつよく、ひろい意味でのからくりの一種である。 日本では〈あやつり〉の素朴な形態は、8~9世紀ころから傀儡師(かいらいし)によって行われていた。からくりの記録がみえるのは、12世紀ころの...
View Article江戸時代の信仰 千社詣と筑波山神社の千社札
江戸時代の信仰 千社詣と千社札講(こう) 講とは、講とは、一定の構成員が寄り合って懇親し、共同飲食する集まりである。 信仰的(宗教的)なものと、経済的なものに大別される。 信仰的(宗教的)はもの、次の4つに分類される。 ・田の神講・山の神講・七三夜講、庚申講、日待講など 古くからの信仰がもとになったているもの。 ・氏神を中心にその氏子が結成している講...
View Article「つくば道」の神郡と普門寺の水戸天狗党の碑
神郡の街並 江戸城の鬼門(東北方)を守る筑波山の中禅寺(現・筑波山神社)を改築するために、3代将軍・徳川家光により整備された北条~神郡~筑波をつなぐ運搬路は、後に参詣道として発展して「つくば道」と呼ばれ、現在「日本の道100選」の一つである。 神郡から筑波山を望む...
View Articleガマの油売り口上、接近戦、直談判で人を動かす
説得の成否を左右する対人距離 コ三ュニケーションは言葉だけではない。身体の動き、しぐさでもコミュケーションが行われている。他人に近づかれると不快に感じる空間をパーソナルエリア、対人距離とも呼ばれる。 一般に、親密な相手ほど対人距離は狭く、ある程度近付いても不快さを感じないが、逆に敵視している相手に対しては広い。...
View Articleガマの油売り口上 江戸は大道芸の街だった
江戸時代は失業など無かった 江戸では働く気さえあれば失業することはなかった。江戸の住民は長屋に暮らしていたが、仕事をせずにぶらぶらしていればれば、大家が放っておかなかった。 町内の人とのつながりで何らかの仕事に就くことが出来た。 ところで江戸にはどんな職業があったのだろうか。...
View Article筑波山の伝承芸能ガマの油売り口上の歴史、衰退と復活
永井村の平助の活躍 ガマの油の由来は、1614(慶長19)年の大阪冬の陣に筑波山大御堂の光誉上人が徳川方として出陣し、外用にガマ成分を含んだ蟾蜍膏(通称“ガマの油”)を、内用に筑波橘の果皮(陳皮)を活用した。 この効能素晴らしく、全国から参戦した将兵によりその効能は津々浦々に知られることとなった。...
View Article