旗本と「年貢の納め時」
旗本とは、徳川家直臣のうち,御目見得以上,大名未満(一万石未満)の交代寄合,高家、知行所(領地)を持ち,ある程度の行政・司法権を有する者で、世間的には「殿様」と呼ばれた。
身分的には、旗本は500石以上は知行取で、500石未満の場合は4代家綱迄に知行取の場合以外は切米取だった。
知行取とは、百姓付の土地である地方を領地として与えられ、土地・百姓を直接支配してその年貢諸役を収益として得た者である。石高で表示され地方取、地方知行ともいわれ、江戸に居住して貢納その他の知行所を支配していた。年貢は3ツ5分物成渡(35%)を基準とした。
切米取とは、天領(幕府の直轄領)から年貢として浅草御蔵に納められた蔵米を給与された者をいい、蔵米取といった。幕府は蔵米を稟米(りんまい)と呼んでいた。
1俵は1石当たり3斗5升(35%相当)で収入は同じであった。
支給は2月に春借米として4分の1、5月に夏借米として4分の1、残りの2分の1を秋(10月)に冬切米と称して支給された。
豊作の場合は知行取の方が有利で、不作の場合は切米取の方が有利であった。
年貢については、石高を村落全体で集計した村高(むらだか)に応じた額が、村の年貢量とされ、年貢納入は村落が一括納入の義務を負う村請(むらうけ)の形態が採用された。
江戸時代になっても、太閤検地による村落支配体制はほぼそのまま継承され、村請制がとられた。
年貢徴収は田を視察してその年の収穫量を見込んで毎年ごとに年貢率を決定する検見法(けみほう)を採用していたが、年によって収入が大きく変動するリスクを負っていたことから、江戸時代中期頃になると、豊作・不作にかかわらず一定の年貢率による定免法(じょうめんほう)が採られるようになった。 これが百姓を苦しめることになった。
だが、例外も存在した。米が取れない地域の一部では、畑地に対する特殊な年貢賦課方法である畑方免の採用や商品作物等の売却代金をもって他所から米を購入して納税用の年貢に充てるという買納制が例外的に認められていた。
1873年(明治6年)の地租改正により、年貢は廃止されたが、その後も小作料を年貢と呼ぶ慣習が残った。
また、農民は年貢の過酷な取立てに必至に抵抗したが、諦めて納めざるを得なくなる。
物事を諦めなくてはならないことを「年貢の納め時」というようになった。
落穂ひろい「農業図会」
小学館 『大系 日本の歴史⑪ 近代の予兆』 177頁
「筑波郡」で発生した百姓一揆
天候、気象などにより米の出来高が左右されるが、江戸時代中期頃になると、豊作・不作にかかわらず年貢率は一定になった。天候不順で不作にもかかわらず減免されなかったり、取り立てる側が不正をすれば、百姓が抵抗が発生するのは必然である。
1985年当時の市町村の区分で、「筑波郡」で発生した百姓一揆は35件である。
その内訳は、
旗本領 14件、
谷田部藩、土浦藩及び筑波神社領 各5件、
幕領、茂木藩各1件である。
旗本領に件数が多いのは江戸時代中期には貨幣経済の進展で武士階級の生活も苦しくなり、「殿様」としての体面を維持するため領内の百姓に年貢を厳しく課したことが背景にある。
一揆を起こす百姓にとっては「殿様」は文字通り「暴君」だったといえる。
筑波神社領の一揆
神様仏様もあの世に行かないと救ってくれない
筑波山では、5代将軍綱吉が知足院十一世隆光を重用し、貞享元(1684)年護摩堂を湯島に移し、更に元禄元(1688)年 神田橋外に地境を倍加して宏荘な護摩堂を建立した。
次いで、元禄3(1690)年2月に続いて元禄8(1695)年正月に都合、千石(大字沼田、大字臼井の二村)を加増したので、筑波山神領は1500石を算することになった。
これにより、江戸時代の筑波山神領は、伊勢、日光山両神領と共に他に例のない国役金免除の神領となし専ら当神社の奉務の任に当ることになった。その後、元禄8(1695)年9月、筑波山の本坊共々護持院と改称した。
宝暦9年(1759)、筑波町南表6丁目入口の石烏居の再建が成り、同11年正月(1761)「天地開閥筑波神社」の勅願を掲げることを幕府に奏請したが、後桜町天皇御幼少のため代わって嵯峨宮の御染筆があり、同13年11月(1763)この筑波山の由緒を語る神領を掲揚した。
筑波神社領に於ける一揆は、元禄15(1702)年、享保から宝暦8(1758)年に5件発生しているが。
これは徳川幕府が筑波山を江戸城鎮護の霊山と崇め将軍家の祈祷所として保護をうけ領地が拡大した時期以降である。
筑波山が将軍家の祈祷所としての格式を維持するため寺院仏閣の建造や石鳥居の再建が行われ、朝廷や幕府との間における神事を巡って多大の出費を要したのであろう。
大 鳥 居
神社領の百姓に対する年貢の取立てが厳しく行われたため筑波山神領として加増された沼田、臼井で一揆が発生したものと考えられる。
百姓は神社に搾り取られ貧窮にあえいでいた。
神様仏様もあの世に行かないと救ってくれないようだ。
旗本領 14件
領主の非法を幕府に訴える。名主追放(越訴)
●元禄6年2月(1693) 筑波郡小田山の荘(筑波郡 筑波町小田)
凶作、江戸表への出(強訴)
●寛保1年10月(1741) 筑波郡臼井村(筑波郡 筑波町臼井)
減免要求(越訴)
●寛保2年(1742)筑波郡筑波・沼田・臼井村
(筑波郡 筑波・沼田・臼井村)
詳細不明(詳細不明)
●宝暦5年10月(1755)筑波郡沼田村(筑波郡 筑波町沼田)
検見に不満(越訴)
●明和2年(1765)真壁・茨城・筑波・新治郡
(水戸市・筑波郡 谷和原村など)
助郷負担軽減(越訴)
●明和6年6月(1769)新治郡玉取村(筑波郡 大穂町玉取)
百姓12人無断立退き (逃散)
●文政9年10月(1826)筑波郡大島・神郡村
(筑波郡 筑波町上大島)
旗本の本家付家老罷免要求(越訴)
●天保2年3月(1831)筑波郡杉本村ほか7か村
(筑波郡 筑波町田井)
神郡村元名主の陣屋役就任反対(越訴)
●天保7年(1836)筑波郡大島村(筑波郡 筑波町)
年貢引方につき小前水戸郡奉行へ訴える(越訴)
●天保8年7月(1837)筑波郡杉本村ほか7村(筑波郡 筑波町)
本家地方役人に対し8か村村役場退役(越訴)
●天保13年10月(1842)筑波郡杉本村ほか7か村(筑波郡 筑波町)
凶作につき百姓難渋救済を強要(強訴)
●天保14年2月(1843)新治郡玉取村ほか5村(筑波郡 大穂町)
代官兼帯名主の不正を小前らが越訴(越訴)
●慶応3年12月 (1867)新治郡佐村ほか1村(筑波郡 大穂町)
名主宅打ち毀し、関東取締役が出馬(打ち毀し)
筑波神社領 5件
●元禄15年年2月(1702)筑波郡沼田村(筑波郡 筑波町沼田)
名主の不正を傘連判にて訴う(愁訴)
●享保2年11月(1717)筑波郡沼田・臼井村
(筑波郡 筑波町沼田、臼井)
人馬代銭、役銭の過重を訴う(愁訴)
●享保9年4月(1724) 筑波郡沼田村(筑波郡 筑波)
年貢減免(越訴)
●宝暦4年10月(1754) 筑波郡筑波ほか2村(筑波郡 筑波町)
年貢減免(越訴)
●宝暦8年10月(1758)筑波郡沼田村(筑波郡 筑波町沼田)
干害につき減免、検見引を門訴(愁訴)
寺社奉行
寺社内で起こった問題や事件を取り扱った。
捕縛は寺社方が行った。
町奉行や勘定奉行より格が上だった。
廣済堂出版「絵でみる江戸の町のくらし図鑑」80頁
善養寺ススム 絵・文、江戸人文研究会 編
土浦藩 5件
●天保5年2月(1834)筑波郡小沢村(筑波郡 筑波町小沢)
名主不正を小前18人が訴える(越訴)
●天保6年8月(1835)筑波郡小沢村(筑波郡 筑波町小沢)
名主交代要求(成功)(越訴)
●天保9年(1838)筑波郡高岡村ほか7か村(筑波郡 伊奈村板橋)
灯心国産をめぐり(越訴)
●安政2年7月(1855)筑波郡小沢村(筑波郡 筑波町)
村役人不正、名主交代要求(成功)(越訴)
●年不詳(元和頃)(1615~)筑波郡泉村(筑波郡 筑波町泉)
村総立ち退きを行う、元和5年帰参、領主に対する反抗
(逃散)
天保2年 疱瘡神、この頃、疫病が流行った
水戸街道、若柴宿(龍ヶ崎市若柴)
谷田部藩 5件
●天保5年(1834)筑波郡矢田部領(筑波郡 谷田部町など)
年貢御用金、先納分を引くよう要求(越訴)
●弘化2年(1845)筑波郡小野崎村(筑波郡 谷田部町)
江戸へ訴出る(強訴)
●弘化3年(1846)筑波郡谷田部村ほか47か村
(筑波郡 谷田部町)
入会地取り上げに反対(越訴)
●安政4年12月(1857)筑波郡館野村ほか3村(筑波郡 谷田部町)
積穀をめぐり(越訴)
●文政12年(1829)新治郡苅間村 (筑波郡 谷田部町)
年貢減免(越訴)
その他 2件
●寛文7年(1667)筑波郡谷原村(筑波郡 谷原村)
代官不正(愁訴)
●天保4年12月(1833) 筑波郡平柴・苅田・小野崎村など22か村
(筑波郡 谷田部町小野崎)
凶作、拝借米要求 数年の不作続き、この年寒冷な日々
(愁訴)
「天下泰平」、「万民豊楽」はあの世の願い事
光明直言供養塔
(牛久市城中)
この供養塔は「寛政九申〇年」とある。
寛政時代は1789年から1800年までであるので、「寛政九申〇年」(〇のところ、判読できず)が当てはまるのは「寛政九申寅年」、即ち1794年である。
この供養塔が建てられた時代の1790年から1800年にかけて、
下総国相馬郡大柏村ほか22か村、
新治郡平村、行方郡船子村、多賀郡高萩村、下総国豊田郡新石下村、下総国・結城郡鹿窪村ほか、真壁郡石田村など、下総国相馬郡大房村、真壁郡大国玉村、多賀郡下手綱村ほか、
茨城県内各地で百姓一揆が発生している。
この村は「筑波郡」ではないが、この村でも百姓の生活は厳しかったことが伺える。
供養塔には塔の写真右側に「光明直言供養塔」、左側に「天下泰平」、左下に判読しにくいが「万民豊楽」の文字が見える。
“義民” がお上に直訴し、厳しく罰せられたのだろう。
漢和辞典を見ると「直言」とは思うままを遠慮せず言うこと。
「光明」とは、明るい光、仏の徳の光、望み、希望とある。百姓の代表として命を賭けてお上に直言したのであろう。
(注)筑波郡、旗本領及び各藩の一揆の発生状況は、
木村由美子著「ふるさと文庫『茨城の百姓一揆と義民伝承』(下)-史蹟と口碑訪ね歩記ー」(筑波書林)の「百姓一揆年表」によった。
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