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水戸藩の紅葉運河掘削事業と農民の勝利に終わった宝永一揆

水戸藩の紅葉運河掘削事業と
  農民の勝利に終わった宝永一揆
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水戸藩 財政難の原因  
 水戸藩は、徳川氏の親藩で三家の一つで、家康の第11子頼房が1609年(慶長14)封ぜられて成立した。
石高はじめ25万石、1622年(元和8)28万石、1701年(元禄14)35万石であった。
支藩の陸奥守山2万石、常陸府中2万石、同宍戸2万石である。 

 家臣団は幕臣、佐竹・結城らの旧臣、諸国浪人から成り統一を欠き、幕府からの付家老(つけがろう)中山氏が統制した。  

 1641年(寛永18)領内総検地をおこなって内高36万石を打ち出し、藩財政の基礎を固めるとともに、佐竹らの旧臣土豪勢力の根を断ち、また家中ならびに郷村の法制を整備し、藩体制を確立した。 
 しかしながら、江戸には家老はじめ多くの家臣団を常駐させ、水戸藩主が領地に不在のまま統治を行わねばならなかった。
 物価が高い江戸の生活と、水戸には領民支配のため城代以下多くの藩士がいなければならなかったので、江戸と領地の家臣の二重化などを強いられた上、格式を優先して実態の伴わない石直し(表高改訂)を行ったため、内高が表高を恒常的に下回っていた。

 幕府に対する軍役は表高を基礎に計算され、何事も35万石の格式を持って行う必要性があったため、財政難に喘ぐこととなった。

 ついで第2代光圀は 彰考館設立、『大日本史』編纂を通じて水戸学という独特の学風をつくり、家中の思想統一をはかった。
 光圀は『大日本史』の編纂などの文化的事業を大規模に展開したが、その活動の拠点は水戸ではなく、江戸の水戸屋敷が中心であった。

 水戸藩は経済的基礎が豊かでなかったが、光圀は文化事業に多くの財力を投入し、それ以上に、藩主定府制(年中江戸に住むこと)で格式を保つための出費が大きかった。 

藩政改革
 水戸藩では、1690(元禄3)年、徳川綱条が第2代光圀の跡を継いだ。
 光圀は城下町郊外の西山荘に引退しても、なお藩政に強い影響力を持っていた。

 光圀の死後、藩の財政の破綻が一挙に表面化し、1703(元禄16)年から1709(宝永6)年にかけて藩政改革が実施された。 
 その間に行われた諸政策は、藩札の発行をはじめ殖産興業政策、諸役人の整理、冗費の節減、年貢の増徴・新田開発、運河の開削など藩政全般にわたっている。
 このような大規模な改革の担い手となったのは、藩の重臣や譜代層ではなく、よそから招かれた浪人たちであった。

 1701(元禄14)年に安田文左衛門が招かれ、1703年藩札の発行が計画されました。
 翌1704(宝永元)年の布達によると、勝手向き不如意と諸士の生活困窮を救うため藩札を発行することにしたが、当時は水戸藩で通貨も不足していたから、その対策の意味もあった。 

 藩は水戸城内に「紙金拵所(かみきんこしらえどころ)」を開設し、担当役人のほか城下町の有力商人が参加して、その実行に当たった。 藩札が発行されると、間もなく贋札が藩内に出回り、市場は大へん混乱した。

 藩では担当者を処罰したり技術の改善を行ったが、早くも1707(宝永4)年になると幕府の発行停止の命令で中止した。
 幕府でも財政が逼迫し、多量の金銀貨の改鋳を行ったが、新鋳貨が市場で円滑に流通しなかったため、その対策として藩札の発行を停止させたのである。 

江戸時代の海運 東回り航路
 年貢米やその他の物資の運送には陸路だけでなく、水路交通の利用が多かった。
 江戸時代初期の1635(寛永12)年6月制定の武家諸法度第17条の「五百石以上之船停止之事」とあり、「大船建造禁止令」といわれた。以来、外洋を航行する大型の船の建造は許されなかった。
海路は鹿島灘の波が荒く、小さな船では難破する危険が多かったので、初めのころは江戸への交通にもあまり利用されなかった。 

 日本海沿岸の北陸、奥羽方面の港から出発して船は北に向かい、津軽海峡を通り太平洋に出て江戸に達する航路を辿った。これを東回り航路という。
 この航路は江戸時代になって開けたもので、その原因は、江戸の人口増加により米産地から米を運ぶ必要が起ったからである。 

 もっとも、最初は江戸に比較的近い仙台藩が、慶長・元和(1596~1624)ころに、その産米を石巻港から送ったことから始まったが、1625(寛永2)年には津軽藩が青森港を開いて米を回船に積んで江戸に送り、
ついで1655(明暦1)年に秋田藩が土崎港から回船を送るにいたって、津軽海峡を西から東に通過して太平洋を南に向かう海運が始まった。 
       
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 しかし、この頃までは回船が直接江戸湾までいったのではなく、最初は常陸(ひたち)の那珂湊までで、それからは河川・湖沼の水運と陸運とによって江戸に運んだ。
 東回り海運が開けてから平潟(北茨城市)や那珂湊は、奥州諸藩の産米を江戸に輸送する寄港地となった。  

 1640年代(正保年間)に那珂湊から下総の銚子までの海路が通じ、銚子からは利根川の水運によって江戸に運んだ。その後十数年を経て、おそらく寛文(1661~1673)の初めになって銚子以南の海路が開かれ、東まわり海運が完成したらしい。

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 水戸から江戸への輸送は、那珂湊から川船に積み替えて涸沼に入り、対岸の海老沢に陸揚げし、塔ケ埼か下吉影まで駄走した。
 ここから鉾田に陸送するか、下吉影まで陸送して巴川で鉾田へ出て、高瀬舟に積み替えて北浦を南下、また下吉影から陸路で小川や玉造に運ぶルートが利用された。 

 このうち海老沢―下吉影―鉾田の涸沼、北浦ルートが最も盛んであったが、海老沢から下吉影までの陸路は駄走によったので、手間を要した時間と金がかかった。

 商品は潮来で休泊し、さらに利根川に入って関宿までさかのぼり、そこから江戸川を下って江戸に運ばれた。
 この交通路は奥州各地の船だけでなく、水戸藩でも主要な交通路として利用された。

紅葉運河の掘削事業  
 1705(宝永2)年には浪人松波勘十郎と清水仁衛門が登用された。安田は同年辞任した。
 松波は300人扶持を与えられ、江戸屋敷で独裁的に改革を指揮していた。

 彼は部下を他国の武士の風体をさせて領内を巡視させるなどして藩政を非難する者を逮捕した。田彦村(勝田市)の百姓又六は密偵の話しかけに勘十郎を刺殺することを語ったため役所への出頭を命じられ投獄されるありさまであった。
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 松波の改革は藩政全般にわたったが、その中心は涸沼と北浦を結ぶ運河(約14㎞)と大貫海岸と涸沼川を結ぶ運河(約1㎞)掘削の工事であった。
 運河の掘削によって、複雑な交通路の短縮と運送費の大幅な削減し水戸藩から江戸市場に送られる商品や、江戸市場から移入される商品輸送を容易にするとともにし、東北各地から江戸に送られる商品の輸送ルートを整備して、領内経済の発展を図るためであった。また、通行する船から交通税を採り藩の財政の立て直しを期したのである。


農民が完全勝利した宝永一揆 
 1707(宝永4)年5月、水戸藩は松波勘十郎を起用して海老沢から紅葉に至る大運河(幅200間、全長8キロ)を起工した。
 5月に着工された事業は、同年11月には竣工したと藩へ報告されたが、これは偽りであった。工事はその後も続き、翌年暮にもまだ行われていた。
その間、領内全農民から1人当たり毎月10人余の夫役が取り立てられだけでなく、賃金はほとんど支払われなかった。 

 1708(宝永5)年11月上旬から翌6年1月末にかけて水戸藩全藩・・・・・・・茨城、久慈、多賀郡、奥野谷、上吉影、生井沢、世楽、佐才新田、岡田、小沢、川尻、秋山、伊師本郷村など20余か村(東茨城郡茨城町奥野谷・生井沢、同郡小川町上吉影・世楽・佐才・常陸太田市岡田・小沢、日立市川尻、高萩市秋山、多賀郡十王町伊師本郷など)・・・・・・・・・・をまき込んだ一揆がおこった。

 一揆は1708(宝永5)年11月上旬から12月にかけて領内農民が水戸藩邸に対し、宝永藩政改革の中止、運河開削工事にともなう賃金や資材費の要求を強行した松波勘十郎等の追放の請願として始まった。 

 運河の掘削工事に4000人の人夫を使役し、人夫に一日銀百五十文の支払いの約しながら、一文も支払おうとしないばかりか、さらに領内の村々に石高百石につき5,600人の人夫を出させた。
 工事中の土崩れで多数の死傷者が出たが世間に知れるのを恐れて、現場役人が内密に処置したという。
 年貢の軽減を水戸の役所へいく度となく願い出たが、松波の配下が実権を握っていたので取り上げられることはなかった。

 年末になると不満をつのらせていた農民の動きは、江戸藩邸に対する請願へと変わっていった。江戸藩邸に対する訴えに参加を呼び掛ける農民への訴えが、村々へ送られ、これに応えて藩内各地の農民代表が江戸へ登った。
 江戸藩邸は松波一派に支配されていたので取り合わなかった。 

 農民は村高100石につき1人の割合で1月12日までに江戸に登るようにと、国許に急報した。
 16日までに300人余が集まり、江戸に登った農民の代表が1709(宝永6)年1月18日、藩邸に訴状を提出した。

 訴状には、改革以来年貢や諸負担が著しく増加していること、各地で屋敷山の伐採を命じられたこと、運河工事の夫役銭不払いで難儀していること、さらに田彦村の百姓又六の釈放要求などをつよく訴えた。

 藩吏は、年貢増徴と運河工事については回答を保留し、その他の要求については聞き入れたうえ、早く国許に帰って懸案の回答を待つようにと指示した。
 国許から江戸へ登る農民はその後も増加したから、藩邸から宿舎へ帰った農民の一部は、なお江戸に残った。
 その後江戸へ登る農民は、さらに増加した。
 彼らは江戸に登る途中で、29項目におよぶ要求を書きあげ傘蓮判状を作った。 

 1月22日江戸・水道橋辺りで綱条の登城を待ち受けて直訴しようとしたが、登城の経路を変更されたため訴えることができなかった。 この日、上吉影村(旧小川町)の藤衛門の提案で3人の代表が守山藩邸に訴えることがまとまった。  

 1月24日、上吉影村の藤衛門、南野田村又右衛門、吉沼村五右衛門の3人が代表となり、この連判状を水戸藩の分家守山藩主に提出し、水戸藩主への取りつぎを願い出た。
 訴えを受けた守山藩主は、この連判状を水戸藩に届けたので、藩の担当者が農民の代表と会うことになった。 

 連判状の内容は、先に出した訴状より詳しく厳しい要求となっていた。
 特に、運河掘削にからむ諸負担や年貢増加に対しては激しく反対した。
 応接した役人たちと農民代表の交渉がようやく妥結し、翌25日朝代表が宿舎へ帰ると、待っていた農民たちは改革の中止と松波の罷免こそが請願の最重要問題だと強く主張して、交渉の結果に納得しなかった。 

 26日、農民代表と藩との交渉が再び始まった。
 交渉は難航したが、27日になると藩の役人が突然農民たちの旅宿を訪ね、藩は松波、清水らを解任して改革を取り止めると農民側に伝えた。

 藩側から説明を受けた農民は、この説明に納得して帰国の途につき、領内は平静を取り戻した。
 松波・清水の追放をはじめ、2人に協力した藩吏たちも多数処分を受けて、一揆は終結した。
 この一揆は農民側は犠牲者を出さなかったと伝えられている。

 松波勘十郎らの追放、改革の中止、その他全てもとに戻すことなど一揆は農民側の一方的勝利で終わった。

〔関連記事〕 
 農村の崩壊と百姓一挨「下の非はなくして、皆上の非なるより起れり」

 江戸時代 水戸藩は百姓一揆に強硬な姿勢で臨み刑は過酷であった



【参照文献】 
「世界大百科事典16、18、21」(1968年9月 平凡社)
瀬谷義彦・豊崎卓著「歴史シリーズ8 茨城県の歴史」(昭和62年8月 山川出版社) 
久保田治夫著「ふるさと文庫 茨城開発の歩み ―上層の原型を築いた利水― 近世」(1981年5月 筑波書林) 
歴史教育者協議会編「図説 日本の百姓一揆」(2003年4月 株式会社 民衆社)
木村由美子著「ふるさと文庫 茨城の百姓と義民伝承 上」(筑波書林)
山本武夫著「詳解 日本史」(1992年 旺文社)



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