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Channel: ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。
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ガマの油売り口上 相手の言葉は「耳」でなく「目」で聞く

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相手の言葉は「耳」でなく「目」で聞く
 人と話をする時は、相手の目を見て話す。そうしなければ、何かやましいことがあるのではないかと疑われる。それに、話している相手の目を見ないことほど、失礼で許し難いことはない。相対している人を見ないでよその方を見たり、足元を見たり・・・・・。そのようなことをすれば、今自分に話しかけてくれる人より大切なものを見ているのだと公言しているようなものなのだ。そんなことをすれば、人は腹を立て、不愉快になる。こういう扱いを受けて、自尊心が傷つかない人はいない。 

 相手の目を見ないということは、こちらの印象を悪くするだけではない。今、自分が演じているガマの油売り口上が、相手にどう受け取られているかを観察する機会を、みすみす捨てることになるからだ。興味があるのかないのか、つまらないからこの場から立ち去ろうとしているのかなど、心の動きは目に現れる。



       豪快な中年の武将
         人知れぬ悲しみを内に秘めている表情 
       
           平凡社 「世界大百科辞典17」 初版 423ページ 
 
                別れのとき 
          「鎌倉三代記」 三浦之助別れの段 
        
           平凡社 「世界大百科辞典17」 初版 421ページ             

         相手を切らんとする気迫、目つき 
      刀を抜くぞと身構えた姿勢
         
           平凡社 「世界大百科辞典17」 初版 423ページ  

          境遇を憂い、耐え忍ぶ舅の表情  
           表面は冷たいようだが、内はやさしい性格  

        
           平凡社 「世界大百科辞典17」 初版 423ページ 
       
           未婚の娘(左)と敵役の老女(右)
         
               平凡社 「世界大科辞典17」 初版 423ページ 

                    三つざし   
        表情と左手で、悔恨、繰り言の心情を表現する 
                         
                        平凡社 「世界大百科辞典17」 初版 422ページ  
                         
 初対面の人と目を合わすということは、実際は勇気がいることである。お互い、相手を知りたいと思う気持ちがあっても、気が弱い方は目を逸らしたり伏し目がちになって、“見られる人” になってしまう。ところが、ガマの油売り口上を演ずるような一人対集団(見物人)の場になると、見物人は、仲間が多いので平気で “一人” を見るし、それもジロジロ見ている。「衆を頼む」からだ。

 ガマの油売り口上を覚えた直後は、人前で口上を演ずるとアガったり、上手くできるかなどとチョット不安に思うことがある。自分一人が「衆を頼む」人にジロジロ見られるからだ。
 このような時は、集まった人の目をよく観察すると、優しそうな目、楽しそうな目、好意的、冷笑、反感等を示す「目」と色々あることに気付く。 その中の好意的な「目」をしている人に向かってアイコンタクト。あなたに分かっていただくように話しますというような気持ちで演ずれば、気持ちが楽になり、大きな失敗や“ど忘れ”は起こらない。

           好意的な「目」をしている 
          

 反対に、冷笑、反感等を示す「目」に気を取られていると、「どうせバカだよ、悪かったね」、「お前なんか早く居なくなってしまえ」というような気持ちになり、挙句には言うべきセリフを “ど忘れ” したり、“静かにしろ” などと怒鳴りたくなったりと、雰囲気も怪しくなってくる。

 心のうちを知る要因は多々あるが、「目」は雄弁に心を語る。人は思っていないことを口で言うのは簡単だが、思っていないことを目に表すのは至難のわざである。相手の言葉は「耳」でなく「目」で聞くことが大事である。  
           「目」は心を表す 閻魔大王の像 
          

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ガマの油売り口上、相手との強力な共感を作るアイコンタクトが大事 




ガマの油売り口上 まずは、自分の得意なパターンを作り上げる 

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得意なパターンをつくる
 ガマの油売り口上は、いくつかの話材が有機的に結びついて、一つのはっきりしたまとまりのある“図式”になっているから、口上を実演する場合、どのように口上を述べ、演技をするか頭がまとまっていなければならない。聴き手に納得してもらうためには自分なりの得意なパターンを作り上げることが早道である。まず自分の得意なパターンを作り上げて応用をきかせる。
 
     同じことをやっても、
    人にはそれぞれのパターンがある
 

 

 


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無意識の心理 
 われわれの日常生活におけるさまざまの動作は、あらかた固有化されている。たとえば、自転車に乗るにしても、「これから自転車に乗るのだ」という、明瞭な意識をもって乗るわけではない。箸をとって食事するなどは、なおさらのことである。 

 つまり、日常さまざまの動作は、幼少のころから、何1000回、何万回と同じ動作を繰り返すことにより、いまでは、その動作を行なう場合、特に意識しないで行っているのである。いわゆる、無意識的にこれを行なっている。しかも、それで決して目的に反して行動をすることはない。否、完全に目的にそい、ムダな動作は省略されている。

 反対に、たとえば自転車に乗りはじめのころの体験を思い出してみると、まだ自信がなく、むこうから通行人が来たと、思えば思うほど、それがかえって悪い暗示となって、その人の方へ進み、はてはぶつけてしまうこともある。

 すなわち、いろいろの動作や行動などは、最初のうちは意識的に行なわれるが、反復されることによって、次第に意識にのぼらなくなってくる。いわゆる、無意識的に行なわれるようになる。

 柔道、剣道や居合いでも繰り返し稽古すると技術に対して自信がつき、毎日の椿古を楽しむようになると、努力の意識はだんだんと稀薄となり、努力しても努力と感じない状態になる。宮本武蔵の「心常に兵法の道を離れず」といった心境になる。  
 こうして、技術は完全に固有化され、いわゆるイタについてきて、見た目に余裕を感じるようになってくる。


場数を踏んで自分を知り、自分を変える  
 我々の個人的・杜会的な活動は、その大部分が習慣的活動となり、明瞭に意識されない無意識状態にまで進捗している。今、このブログ記事を読む場合、これを理解することを可能にしているのは、眼をはじめとするさまざまな働きが関係している。何気なく、読んで理解しているが、この背後には意識していないさまざまな働きがあるからこそ、読んで理解できるのである。

 無意識というのは、われわれが生きるうえで当然必要な部分・機能であり、われわれの中には、自分自身が知らない「もうひとりの自分」がいるようなものである。
 どうすればこの「もうひとりの自分」を知ることができるのか?それを知るカギは……それは行動であり、身体の反応である。

 自分がどんな口上の演技をすべきかと、あれこれ考えて、いいやり方をリストアップするよりも、実際に演技を繰り返し、そこで起こる感情、身体の反応から、「本当」の自分の好みや、こうしたいとう願いがわかってくる。

 自分の意識で考えたところで、意識できないことがかなりの部分を占めているから、自分について考えすぎずに、自分の行動を変化させるよう試みるべきなのだ。
 行動もせずに、「自分のやりたいことは?」「本当の自分のやりかたは?」と考えるより、動いてみて、自分がどんな行動、振る舞いをするのか、どんな感情、身体の反応が起きるか観察することである。
 そしてもし、自分がやりたいことがあるのなら、まずはやってみることであり、なりたい自分があるのであれば、そのように振舞ってみることである。

 満足のいく、うまく機能する自己の“物語”を創り出し、習慣的で意識的ではない望ましい反応のパターンを作り上げる。このためには、繰り返し、また繰り返して場数を踏むことが必要である。 

    step by step


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気象庁発表 全国の火山の活動状況、百名山の筑波山は噴火情報や警報がない安全な山 

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 平成27年6月2日16時、気象庁が発表の「火山名  箱根山  火山の状況に関する解説情報」及び 平成27年5月13日16時00分発表の「火山名  全国の活火山  火山の状況に関する解説情報  第6号」は下記の通り。

 筑波山は、噴火警報が発表されている14の山、噴火予報発表火山(噴火警戒レベル対象火山)の21の山 および 噴火予報発表火山(噴火警戒レベル対象外火山)の77の山の いずれにも該当していない。
 筑波山は噴火情報・警報がない山である。   

火山名 箱根山 火山の状況に関する解説情報 第33号
      平成27年6月2日16時00分  気象庁地震火山部

<火口周辺警報(噴火警戒レベル2、火口周辺規制)が継続>
1.火山活動の状況
     (5月26日から6月2日15時までの活動状況)
 大涌谷周辺では火山活動が活発な状態で経過しています。
 これまでに気象庁や神奈川県温泉地学研究所が実施した現地調査では、大涌谷温泉供給施設で蒸気が勢いよく噴出しているのを確認しています。 遠望カメラによる観測では、大涌谷で噴出している蒸気のほかには特段の異常はみられません。 

 気象庁と神奈川県温泉地学研究所が設置している傾斜計および気象庁の湯河原鍛冶屋の体積ひずみ計では、今回の火山活動に関連するとみられる地殻変動が観測されています。 4月26日以降増加している火山性地震は引き続き多い状態で経過しています。

 火山性地震の発生回数(速報値を含む)は以下のとおりです。
             火山性地震
   5月26日から30日まで  143回
   5月31日          16回
   6月 1日           9回
   2日(15時まで)       4回
   低周波地震、火山性微動は観測されていません。

2.防災上の警戒事項等
 大涌谷周辺では小規模な噴火に伴う弾道を描いて飛散する大きな噴石に警戒してください。
 風下側では火山灰や小さな噴石が風に流されて降るおそれがあるため注意してください。
 地元自治体等の指示に従って危険な地域には立ち入らないでください。 

  次の火山の状況に関する解説情報は、3日(水)16時頃に発表の予定です。なお、火山活動の状況に変化があった場合には、随時お知らせします。
  <火口周辺警報(噴火警戒レベル2、火口周辺規制)が継続> 
 

火山名 全国の活火山 火山の状況に関する解説情報 第6号
   平成27年5月13日16時00分  気象庁地震火山部
 本日、全国の活火山の活動状況や警戒事項を取りまとめた月間火山概況(平成27年4月)を発表しました。その概要は以下のとおりです。詳しくは月間火山概況及び火山活動解説資料を参照ください。 

1.主な火山活動の状況
【御嶽山】
 御嶽山の火山活動は低下してきており、2014年9月27日と同程度、またはそれを上回る規模の噴火が発生する可能性は低くなっています。一方、火口列からの噴煙活動や地震活動が継続していることから、今後も小規模な噴火が発生する可能性があります。新たな火口列の中心から概ね2kmの範囲では、噴火に伴う弾道を描いて飛散する大きな噴石と火砕流に警戒してください。これに加えて南西側(地獄谷方向)では火口から概ね2.5kmまで火砕流に警戒してください。 

【桜島】
 桜島では、爆発的噴火が112回発生するなど活発な噴火活動が継続しました。火山性地震は、3月31日から4月2日にかけて一時的にやや増加しました。桜島島内の伸縮計では、1月1日頃から山体の膨張と考えられる変化が継続しています。昭和火口及び南岳山頂火口から概ね2kmの範囲では、噴火に伴う弾道を描いて飛散する大きな噴石及び火砕流に警戒してください。 

【口永良部島】
 口永良部島では、噴火は発生しませんでしたが、火山性地震が時々発生し、火山ガスの放出量は多い状態で経過しています。また、夜間に高感度カメラで火映を時々観測したほか、現地調査では、新岳火口の西側割れ目付近の熱異常域内で温度の上昇が認められています。以上のように火山活動の高まりがみられており、今後、爆発力が強い噴火や規模の大きな噴火に移行する可能性があります。新岳火口から概ね2kmの範囲では、噴火に伴う弾道を描いて飛散する大きな噴石に警戒してください。向江浜地区から新岳の南西にかけて、火口から海岸までの範囲では火砕流に警戒してください。 

【西之島】 
 西之島では、噴火による噴石等の堆積や溶岩の流出が継続しています。今後も新たに形成された陸地にある火口で噴火活動が継続すると考えられます。また、西之島周辺の海底で噴火が発生する可能性も引き続き考えられ、噴火による影響が海上まで及んだ場合、弾道を描いて飛散する大きな噴石や、水面を高速で広がるベースサージ等の影響が概ね2kmの範囲に及ぶおそれがありますので、西之島の中心から概ね4km以内では噴火に警戒してください。 

【蔵王山】
 蔵王山では、4月7日以降、御釜付近が震源と推定される火山性地震が増加し、火山性微動が発生するなど火山活動が活発となりました。今後、小規模な噴火が発生する可能性があることから、13日13時30分に火口周辺警報を発表し、噴火予報(平常)から火口周辺警報(火口周辺危険)に引き上げました。想定火口域(馬の背カルデラ)から概ね1.2kmの範囲では噴火に伴う弾道を描いて飛散する大きな噴石に警戒してください。 

【吾妻山】
 吾妻山では、大穴火口からの噴気活動がやや活発な状態が継続しています。大穴火口から概ね500mの範囲では小規模な噴火に伴う弾道を描いて飛散する大きな噴石に警戒してください。 

【草津白根山】
 草津白根山では、湯釜付近の膨張を示す地殻変動が認められるほか、北側噴気地帯のガス成分にも活動活発化を示す変化がみられています。湯釜火口から概ね1kmの範囲では、小規模な噴火に伴う弾道を描いて飛散する大きな噴石に警戒してください。 

【箱根山】
 箱根山では、4月26日から大涌谷付近を震源とする火山性地震が増加しており、5月5日には箱根町湯本で震度1を観測する地震が3回発生しました。また、気象庁と神奈川県温泉地学研究所の傾斜計による地殻変動観測及び湯河原鍛冶屋の体積ひずみ計では、今回の火山活動に関連するとみられる変動が観測されています。
 4日(神奈川県温泉地学研究所と共同で実施)及び5日に実施した現地調査では、大涌谷温泉供給施設で蒸気が勢いよく噴出しているのを確認しました。これらのことから、箱根山では火山活動が更に高まっていると考えられ、今後、大涌谷周辺に影響を及ぼす小規模な噴火が発生する可能性があると判断し、6日06時00分に火口周辺警報を発表し、噴火警戒レベルを1(平常)から2(火口周辺規制)に引き上げました。
 大涌谷周辺では小規模な噴火に伴う弾道を描いて飛散する大きな噴石に警戒してください。 

【阿蘇山】
 阿蘇山では、中岳第一火口で、断続的に噴火が発生しています。5月3日22時04分に継続時間約5分間の振幅の大きな火山性微動が発生し、南阿蘇村中松で震度1を観測しました。5月8日12時58分に、中岳第一火口付近のごく浅い所を震源とする地震が発生し、南阿蘇村中松で震度3を観測しました。
 地震の前後で噴煙や地殻変動の状況に特段の変化は認められませんでした。中岳第一火口から概ね1kmの範囲では、噴火に伴う弾道を描いて飛散する大きな噴石に警戒してください。 

【霧島山(新燃岳)】 
 霧島山(新燃岳)では、3月下旬以降、新燃岳火口直下を震源とする火山性地震がやや増加しました。北西数kmの地下深くにあると考えられるマグマだまりの膨張を示す地殻変動は、2013年12月頃から伸びの傾向がみられていましたが、2015年1月頃から停滞しています。火口から概ね1kmの範囲では、噴火に伴う弾道を描いて飛散する大きな噴石に警戒してください。 

【諏訪之瀬島】
 諏訪之瀬島の御岳火口では、爆発的噴火が2回発生するなど、活発な火山活動が継続しました。火口から概ね1kmの範囲では、噴火に伴う弾道を描いて飛散する大きな噴石に警戒してください。 

【霧島山(えびの高原(硫黄山)周辺)】
 霧島山(えびの高原(硫黄山)周辺)の火山活動は低下しており、硫黄山周辺に影響を及ぼす噴火の兆候は認められなくなったと判断し、5月1日10時00分に噴火予報を発表し、火口周辺警報(火口周辺危険)から噴火予報(平常)に引き下げました。
 その他の火山の活動状況に特段の変化はありません。なお、平成27年5月18日14時より噴火警戒レベル1及び噴火予報におけるキーワード「平常」の表現を、活火山であることを適切に理解できるよう、「活火山であることに留意」に改めます。

最新の噴火警報、噴火予報の発表状況は気象庁ホームページでご確認ください。
    http://www.jma.go.jp/jp/volcano/   

2.噴火警報、噴火予報の発表状況
  御嶽山      :火口周辺警報(噴火警戒レベル3、入山規制)
  桜島       :火口周辺警報(噴火警戒レベル3、入山規制)
  口永良部島    :火口周辺警報(噴火警戒レベル3、入山規制)
  吾妻山      :火口周辺警報(噴火警戒レベル2、火口周辺規制)
  草津白根山    :火口周辺警報(噴火警戒レベル2、火口周辺規制)
  箱根山      :火口周辺警報(噴火警戒レベル2、火口周辺規制)
  三宅島      :火口周辺警報(噴火警戒レベル2、火口周辺規制)
  阿蘇山      :火口周辺警報(噴火警戒レベル2、火口周辺規制)
  霧島山(新燃岳):火口周辺警報(噴火警戒レベル2、火口周辺規制)
  諏訪之瀬島    :火口周辺警報(噴火警戒レベル2、火口周辺規制)
  西之島      :火口周辺警報(入山危険)
  蔵王山      :火口周辺警報(火口周辺危険)
  硫黄島      :火口周辺警報(火口周辺危険)
  福徳岡ノ場    :噴火警報(周辺海域) (周辺海域警戒) 

噴火予報発表火山(噴火警戒レベル対象火山)
   以下の活火山  [噴火予報(噴火警戒レベル1、平常)]:21
 雌阿寒岳、十勝岳、樽前山、有珠山、北海道駒ヶ岳、秋田焼山、岩手山、秋田駒ヶ岳、安達太良山、磐梯山、那須岳、浅間山、新潟焼山、焼岳、富士山、伊豆東部火山群、伊豆大島、九重山、雲仙岳、霧島山(御鉢)、薩摩硫黄島 

噴火予報発表火山(噴火警戒レベル対象外火山)
   以下の活火山[噴火予報(平常): 77
 知床硫黄山、羅臼岳、天頂山、摩周、アトサヌプリ、雄阿寒岳、丸山、大雪山、利尻山、恵庭岳、倶多楽、羊蹄山、ニセコ、恵山、渡島大島、恐山、岩木山、八甲田山、十和田、八幡平、鳥海山、栗駒山、鳴子、肘折、沼沢、燧ヶ岳、高原山、日光白根山、赤城山、榛名山、横岳、妙高山、弥陀ヶ原、アカンダナ山、乗鞍岳、白山、利島、新島、神津島、御蔵島、八丈島、青ヶ島、ベヨネース列岩、須美寿島、伊豆鳥島、孀婦岩、海形海山、海徳海山、噴火浅根、北福徳堆、南日吉海山、日光海山、三瓶山、阿武火山群、鶴見岳・伽藍岳、由布岳、福江火山群、霧島山、米丸・住吉池、若尊、池田・山川、開聞岳、口之島、中之島、硫黄鳥島、西表島北北東海底火山、茂世路岳、散布山、指臼岳、小田萌山、択捉焼山、択捉阿登佐岳、ベルタルベ山、ルルイ岳、爺爺岳、羅臼山、泊山

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6月6日 大安の日の筑波山神社 挙式3組、雨模様であったが人出が思いのほか多かった

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      ウオークラリーに参加した人から
    「おめでとう!」「きれい」と声を掛けられていた。

 6月6日(土)、大安の日、筑波山神社には米国人男性とのカップルなど挙式3組で華やいだ空気に包まれていた。朝から雨模様であったが昼前後には晴れたためか山頂を目指す人や100名を超す人がウオークラリーで北条の町からやってきた。空模様が不安定であったが思いのほか人出が多かった。

 1 夏越の大祓

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 3 茅の輪のくぐり方 (写真をクリックすると拡大します)

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 5 本日の挙式3組

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 9 週末はガマの油売り口上を実演 
     ただし「ガマの油」の販売はしていません。

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  11 中央は北海道大学の学生さん
    ガマの油売り口上を体験したいとのことで演技指導を受けた。

 
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筑波山梅林 ホレストアドベンチャーのアジサイ 6月7日(日)

型を守り持ち味発揮、ガマの油口上を演ずる者に必須な資質、芸が芸にとどまらず思索性も

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伝統芸 型を守り持ち味発揮  
 日本舞踊の人間国宝認定者で、85歳の現在も一線で活躍する西川扇蔵、長男箕乃助、長女の祐子の親子が、2013年9月20日午後6時半から東京・三宅坂の国立劇場でリサイタルを開いた。それに先立って読売新聞が掲載したインタビュー記事である。
 

【無形文化財】
  芸能、工芸技術等の無形の「わざ」そのものを指すが、その「わざ」はこれを高度に体得している個人または団体が体現する。そして、日本国政府はこのような「わざ」のうち重要なものを重要無形文化財に指定するとともに、その「わざ」を体現する個人または団体を保持者または保持団体に認定する。
  

【人間国宝】
 人間国宝は、日本の文化財保護法第71条第2項に基づき同国の文部科学大臣が指定した重要無形文化財の保持者として各個認定された人物を指す通称である。重要無形文化財保持者を指して人間国宝と呼ぶ通称が広く用いられている。
 

【記事から抜粋】 
●「親子3人が各自の昧を発揮する。宗家西川流十世宗家としてその規範を示し続けている。」
  ・・・・・・・・各自の持ち味を発揮、規範を示し続けていく。

●「僕らの仕事は続ける、後世につなげる、多くの人に日舞を知ってもらう、ということに尽きる」と扇蔵。高齢だが顔色は良く、声に張りもある。「生まれた時から舞踊の仕事を続け、体に踊りが入っている。だから大変だ、苦労しているという思いを抱いたことがない」と言って笑う。
 ・・・・・・・・後世につなげる、多くの人に日舞を知ってもらう、ということに尽きると扇蔵。

●扇蔵「振りは一切変えない」と断言する。「変えてしまうと自己流になってしまう。自分を殺し、若い頃に教わった振りをそのまま続けることが、自分の気付かなかった良い面を出すことがある」と話す。
 "クリエイティブ"という言葉が氾濫する中で、伝統を守る姿勢は一貫する。
 ・・・・・・・・変えてしまうと自己流になる、自分の気付かなかった良い面を出す。

  

●「父が振り付けた西川流の財産。笑わせようと意識すると、父が常々言う。品の悪いものになる。型のある中で、いかに面白い踊りにできるか」と箕乃助。 
 ・・・・・・・・笑わせようと意識すると、父が常々言う。品の悪いものになる。

  

●祐子は、「初めての踊りだが、父が目を光らせてくれている中、幼少時からの自分の積み重ねを信用して模索を続ける」と意欲を示す。
 ・・・・・・・・幼少時からの自分の積み重ねを信用して模索を続ける。

●扇蔵は「20代の第1回から皆勤だったので残念」と語るが、「内容の深いもので、年相応の踊りと思っている。過去の蓄積を生かす」と笑顔で抱負を語った。
 ・・・・・・・・内容の深いもので、年相応の踊り、過去の蓄積を生かす。


    

がまの油売り口上を演ずる者に必須な資質
 芸が芸にとどまらず思索性も 
 「がまの油売り口上」(芸能、技芸)を単に売買のための単なる技術的な問題としてのみ捉えることをせず、「がまの油」を売る実生活的な面と技芸を一体的に捉えるべきであり、常住坐臥が“芸”を高めるための契機であり、修行である。

 これを実践されたのが18代名人・岡野寛人さんであり、ホテル「江戸屋」の大女将である19代・吉岡久子さんである。2人の口上の演技には倫理性、道徳性がそのまま“芸”に表れているがゆえに、見る者は、芸の向上は同時に人格の向上であると受けとめることができる。

 また、伝承芸能には、言葉に表せないこと、説明できない身体の動き(「暗黙知」、経験や勘に基づく知識のことで、言葉などで表現が難しいもの)を体得しなければならない。
 
 このため直接の師弟関係が重要な意味を持っているのであり、技芸の水平方向的なひろがりよりも垂直方向的なつながりを優先しなければならない。このような考え方は、芸という観念の確立、心境や境地を特に重視する芸術観の尊重、芸系のたしかな伝承、芸が芸にとどまらず思索性を持つことによる内容の深化などの効果をもたらす。
 単に口上を演ずるだけでな、内面的、思索性などが演技から感じ取られることが、がまの油売り口上を演ずる者が具備すべき必須の事といえる。 


【関連記事】
ガマの油売り口上、 「語られる言葉」の美・・・・・なによりもまず自分を知ること



          

 

        第20代 永井兵助

        18代(左)と19代(右)名人 

【関連記事】 
19代 永井兵助 吉岡名人の口上演技に学ぶ
ガマの油売り口上保存会の設立の経緯と「居合い抜
第19代 口上名人位は吉岡久子さん

 

   

ガマの油売り口上、一目瞭然!イメージを具体化する工夫が満足度を上げる!

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イメージを具体的にする工夫が、満足度を上げる
 写真をプリントしてもらうためカメラ店に行った。デジカメプリントを注文する機械で印画紙のサイズをLサイズにしたが、受付のカウンターで金額が同じならサイズが大きい葉書サイズに変更してくれるよう頼んだ。

  店員、曰く、「お客様、紙のサイズが大きくなっても、周囲が少しカットされますけど・・・・・。」とのことだった。どのくらいカットされるかイメージが沸かない。どのくらいカットされるのか尋ねたら「少しですが・・・・。」とこれまた、要領を得ない。「何センチぐらいカットされるの」との質問に 「1ミリから2ミリくらい」 との答えであった。 

 2、3ミリカットされると全体のバランスが悪くなるかもしれないと思ったので、印画紙のサイズは変更せず、当初、設定したLサイズでプリントしてもらうことにした。

 口だけで、ああだ、こうだと説明するよりも、印画紙のサイズを変更すると周囲がどの位カットされるか映像を示すことができる簡単な機械があればわかりやすい。
 分かりやすいということは、立派な接客サービスだ。イメージを具体的にする工夫は、満足度を上げることに直結する。 
 
    立ったまま抱きついたのか、
   それとも男が上か、女が上か?
   ずばり言えないこともある。
   見せれば分かるが見せられないこともある。
   イメージを具体的にする、これが難しい。

    白倉敬彦著 『江戸吉原の 廓遊び』 株式会社学習研究社

人間の感覚器官をフルに動員する  
 人間の五感の中で、目から受ける刺激が最も大きいといわれている。そうなるとガマの油売り口上は目で聴かれているといっても差し支えない。
 ●動作や姿勢は目の刺激に最も大きく影響する。 
 ●ジェスチャーで口上を補足する。
 ●明るい表情は誰にも歓迎される。
 ●服装は内面の表れである。  これらに無神経であってはならない。
  ガマの油売り口上の実演に際しては、姿勢、表情、ジェスチャー、時代背景にマッチした服装などを総動員することが必要である。

口でああだこうだと言うよりも
   ビジュアル化で視覚に訴える  
 上記、カメラやの対応は、ガマの油売り口上についても同じことが言える。口上には、近頃使わない言葉が随所に出てくる。ただペラペラと口上を述べるだけでは、何のことを言っているのか聞く者にはさっぱり分からない。 
 棗(ナツメ)とは、「お茶の道具」と一言添えれば若い人にもわかりやい。 「大道に据え置くならば・・・・。」 と言うときは、台の上でコチョコチョ置くのではなく、「大道」ならぬ、地面に直に置いて見せることだ。

 「これなるこの旗示す如く陣中膏ガマの油・・・・」と言うときは、実際に旗の角を持ちながら、旗を指差さすことだ。 動作が伴えば言っていることの理解を助ける。 「ガマの油、ひと貝(貝一つ分)が百文」 と言っても、今の人には百文という貨幣価値がわからない。 「酒1升買えた(?)」などのように、口上が終わったら一言添えると分かりやすい。 

 見せる物が実物で視覚に訴えるとたいへん理解しやすい。実物が無ければ模型でもいい。言葉で説明するよりもずっと具体的になる。 
 小道具があれば理解を助かるし、くどくど説明する必要もなくなる。小道具の使い方を工夫し、身振り手振り、歩く動作なども”場”に応じ工夫すれば口上が生き生き聞こえる。

 「百聞は一見に然かず」という。ガマの油売り口上もプレゼンテーションであるとするならば、ビジュアル化によって口上を補足すると観客の理解を助け満足度を高めることができる。
 “分かりやすく”とは、親切な応対に不可欠である。 

     実物がいい、無ければ模型でもいい
 

 【関連記事】
 「ガマの油売り口上」は プレゼンテーションである! 

筑波山の祭りカレンダー

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            筑波山全景 筑波山神社と随神門

1月

  ●筑波山神社元旦祭 (1日)



 ●筑波山大御堂初護摩会 (1日)
 ●元始祭 (1月3日)
 ●成人祭 (1月第2月曜)
 ●筑波山大御堂初観音 (18日)
            
 ●平沢官衙遺跡 野焼き(1月末)

      (2014年1月25日)
 2月 
 ●筑波山神社 年越祭 (2月10日・11日)

   ●飯名神牡祭例 (旧正月の初巳)  
    


 ●泉子育観音 年越大祭 (11日) 
 ●筑波山大御堂追難会 (18日)
  ●筑波山神社 皇霊殿遥拝式 (春分の日)
 
 ●筑波山福寿草まつり  


 ●筑波山梅まつり 
     平成27年2月21日~3月29日  

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                    (2014年3月22日撮影) 
   【関連記事】 
 第42回 筑波山梅まつり (平成27年2月21日~3月29日)

 筑波山梅まつり開花状況 (2014年3月22日) 紅梅白梅満開、梅祭り23日まで延長

  
 3月
 ●飯名神社祭礼 (旧正月の初巳)
 ●蚕影神社蚕糸祭 (下旬)


  
 4月
 ●筑波山神社春の御座替祭 (1日) 

 
       
                        2013年4月6日(土曜日)常陽リビンク 12頁  

●筑波山頂 カタクリの花まつり  
   4月1日~4月20日 

     筑波山頂カタクリの里  
    広さ約2ヘクタールの敷地内には薄紫色のカタクリの花が群生している。       
   筑波山ケーブルカー筑波山頂駅から徒歩3分  
   筑波山ロープウェイ女体山駅から徒歩10分  
                            
  カタクリ   
  丘陵地や山地の落葉樹林内に生じ、早春、ユリに似ているがやや小形で帯紅紫色の花を開く柔らかい球根性多年草。ユリ科。

  鱗茎は柱状披針形で、長さ5~6㎝、径約1㎝。花茎は高さ20~40㎝で、中央下部に1対の長楕円形で紫かっ色班のある葉をつける。花は径4~5㎝で、うなだれて咲く。

  6個の花被片は同形で披針形、長さ5~6cm、外巻し、紅紫色で基部内側に3裂する暗紫色の部分がある。内側には6個の雄しべと1個の雌しベがある。

  鱗茎は殿粉を含み、昔は採って煮食したりカタクリ粉を作った。若葉はゆでて食べることができる。 カタクリの根からとった殿粉を片栗粉という。白色の光沢ある粉末で、美味なため、昔は料理や片栗落雁(らくがん)など菓子の材料として用いられた。

  現在、カタクリ粉として市販されているものは、ジャガイモの殿粉である。 また食用の殿粉全体をカタクリ粉といっている。用途はクズ粉の代用として、くず湯にしたり、また “あんかけ”などに用いられる。
 

 
  
  北条大池の桜まつり

             2014年4月5日(土曜日)15時頃 撮影 

【関連記事】 つくば市北条 大池公園の桜 満開!(4月5日)

          りんりんロード



       つくば市 『まるごと 筑波山』

         神郡から見た筑波山

                  2013年4月13日 撮影 

   
 ●筑波山つつじまつり (4月25日~5月20日) 
 
 筑波山には約3,000本のつつじがあり、4月下旬頃山麓(標高300m)より咲きだし、5月中旬頃には筑波山頂(標高877m)で見頃を迎える。
 特に、つつじヶ丘やケーブルカー沿線は、多種多様の美しいつつじが群生するため、多くの観光客が訪れる。 『筑波山つつじまつり』の期間中は、苗木のプレゼントや「ガマの油売り口上」などのイベントが催される。

          つつじヶ丘        
 *          


 
     パワースポット巡り 出発地点 大杉前でお祓い

  梅林のアジサイ

 【関連記事】筑波山梅林 ホレストアドベンチャーのアジサイ



 7月 
 ●小田八坂神牡祇園祭 (第3土曜日)
 ●北条祇園祭り (下旬) 
 ●筑波山七夕まつり (下旬) 

 8月 
 ●筑波山大御堂万灯会(上旬) 
 ●平沢の万灯まつり(18日)
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 常陸の国は筑波の郡、歴史は古い筑波の正倉院 「国指定 平沢官衙遺跡」   
 

 ●まつりつくば(下旬)

    *

9月
 ●普門寺施餓鬼会 (彼岸中日) 

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  「つくば道」の神郡と普門寺の水戸天狗党の碑  

  ●筑波山ガマまつり (下旬)
   (下図は平成26年のガマ祭り) 
                 
         
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          がま祭り 神事 平成25年9月28日 13時~14時

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  9月28日開催の筑波山ガマまつりが近づいてきた!
                                    

 10月
  ●夜の筑波山空中散歩 スターヅストクルージング

 【関連記事】 夜の筑波山空中散歩 スターダストクルージング 10月11日 



 ●蚕影神社秋の大祭(23日)

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   筑波山神社と姉妹の関係にある神郡の蚕影(こかげ)神社    

 11月
 ●筑波山神社秋の御座替祭 (1日)
 ●つくば物語 (上旬) 
 ●筑波山麓秋祭り (上旬) 
 ●筑波山紅葉まつり(1日~31日)   
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      筑波山神社 御神橋 2013年11月23日(土曜日)午前9時撮影 
 
            筑波山ロープウエイ宮脇駅付近 2013年11月23日15時頃撮影   
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  筑波山ロープウェイ女体山駅 スターダストクルージング 夜の筑波山空中散歩 


  つくば山麓ハイキングコース

                          つくば市 『まるごと 筑波山』   
 

 12月 
 ●筑波山大御堂納観音 (18日)  

    
              ← クリックすると拡大   
  
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  筑波山と筑波山山麓の見所


 

  


浅間山の噴火警報、筑波山は噴火警報、火口周辺警報及び噴火予報に該当しない“安全な山” 

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   平成27年6月11日15時30分  気象庁地震火山部
<浅間山に火口周辺警報(噴火警戒レベル2、火口周辺規制)を発表>
  火口から概ね2キロメートルの範囲に影響を及ぼす噴火の可能性 
  <噴火警戒レベルを1(平常)から2(火口周辺規制)に引上げ>  

1.火山活動の状況及び予報警報事項
 浅間山では、4月下旬頃から山頂直下のごく浅いところを震源とする体に感じない火山性地震が多い状態が続いています。
 また、二酸化硫黄の放出が増加しており、その放出量は6月8日の観測で1日当たり500トン、本日(6月11日)の観測では、1700トンと急増しています。
  これらのことから、浅間山では火山活動が高まっていると考えられ、今後、火口周辺に影響を及ぼす小規模な噴火が発生する可能性があります。 

2.対象市町村等
  以下の市町村では、火口周辺で入山規制などの警戒をしてください。
   群馬県: 嬬恋村
   長野県: 小諸市、軽井沢町、御代田町  

3.防災上の警戒事項等
 火口から概ね2キロメートルの範囲では弾道を描いて飛散する大きな噴石に警戒してください。
 登山者等は地元自治体等の指示に従って危険な地域には立ち入らないでください。
 また、風下側では降灰及び風の影響を受ける小さな噴石に注意してください。
  <噴火警戒レベルを1(平常)から2(火口周辺規制)に引上げ> 

 **(参考:噴火警戒レベルの説明)**
【レベル5(避難)】:  危険な居住地域からの避難等が必要。
【レベル4(避難準備)】:警戒が必要な居住地域での避難の準備、災害時 要援護者の避難等が必要。      
【レベル3(入山規制)】:登山禁止や入山規制等危険な地域への立入規制等。状況に応じて災害時要援護者の避難準備等。
【レベル2(火口周辺規制)】:火口周辺への立入規制等。
【レベル1(平常)】:火口内等への立入規制。
 (注:避難や規制の対象地域は、地域の状況や火山活動状況により異なる) 

全国の警報事項 6月11日15時30分現在


火山の状況に関する解説情報 6月8日16時  
 

6月8日現在の火山現象に関する警報及び予報の発表状況 
 

   以上、「気象庁のHP」から、
    http://www.jma.go.jp/jma/press/1506/11b/asamayama150611.html

 筑波山は噴火警報、火口周辺警報及び噴火予報に該当しない“安全な山”です。

 
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筑波山の生い立ち 筑波山は噴火しない安全な山
気象庁発表 全国の火山の活動状況、百名山の筑波山は噴火情報や警報がない安全な山


 

筑波山の生い立ち 筑波山は噴火しない安全な山 

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筑波山の地質 
 関東平野の北東部にそびえ立つ筑波山は、裾野を引いた姿の美しさから紫峰とも呼ばれ、和歌にも詠み込まれるなど古くから知られている山である。 日本百名山の一つにも数えられていまる。最近では、日本地質百選にも選ばれた山である。

      『筑波山地質見学ガイド』 産業技術総合研究所 
 
 筑波山は よく火山と間違われるが、実はマグマが地下深くで固まった深成岩でできている山である。 

 筑波山の山頂部は斑れい岩、周囲は花崗岩でできている。花崗岩は風化に弱くぽろぽろ崩れるため、風化に強い斑れい岩の部分がとりのこされた。斑れい岩には割れ目が多くあり、大きく割れて奇岩を作る。

 筑波山の裾野は土石流などで流された斑れい岩の大石でできている。 


                              (図をクリックすると拡大) 
 2万年くらい前には筑波周辺にもナウマン象などが歩いていた。このころ地球の気候は最終氷期という寒い時期だった。 

山頂をつくる斑レイ岩 
  筑汲山は、西側の男体山(871m)と東側の女体山(877m)の二つの峰からなります。筑波山の山頂付近は斑レイ岩でできています。斑れい岩は風化に強く雨風で削られにくいため、周辺より高い山頂を作っている。 

  斑レイ岩は、一般に黒っぽい色をした深成岩の一つである。筑波山の斑レイ岩は、およそ7干5百万年前に地下約10㎞の深さでマグマがゆっくり冷えてできた。その後隆起して、上に乗っていた岩石が削られると、上から押さえつけられていた力が抜ける。その時できた多くの割れ目(摂理)がこのような岩石の景色を作る。この斑レイ岩には、3方向の摂理がある。摂理に沿って直方体に割れた筑波石は庭石などに利用される。 


    ① 大仏石  ② ガマ石  
  
 女体山の山頂付近には大仏岩①やガマ石②など多くの奇岩が見られる。
つくば市発行の筑波山ガイド紫季彩に記されている。   

    ③ 立身石
  
 立身石は親鸞聖人がここに苦しむ餓鬼を救ったと言われる伝説や、江戸時代に間宮林蔵が測量を学ぶ前にこの石に出世を祈願したとも言われている。 

 この石には③のように層状構造がさらにくねくね曲がっているのが見られる。この層ごとに好物が違い、風化されやすさが違うため凹んだり浮き出したりしている。筑波石独特のざらざらした模様もこのような風化によってできる。  

斑レイ岩の層状構造 
       ④ 男体山  
   
  男体山の山頂付近には角閃石斑レイ岩やかんらん石斑レイ岩が見られ、これらは④の様に層状の構造を持っている。このような層状の構造はマグマが冷えて固まるときの流れを示している。   

山腹に分布する花崗岩  
  筑波山の山腹には、花崗岩が分布している。花崗岩は、斑れい岩と同じ深成岩(マグマが地下深くでゆっくり固まった岩石)の仲間であるが、斑レイ岩よりも白っぽい色をしている。これは斑レイ岩に角閃石や輝石、かんらん石など黒っぽい鉱物が多いのに対し、花崗岩は石英や長石など白っぽい鉱物が多いためである。  

  筑波山周辺の花崗岩は約6干万年前に固まった。筑波から笠間にかけて花崗岩が見られるが、これらは筑波山周辺の筑波花崗岩、笠間周辺の稲田花崗岩そして加波山周辺の加波山花崗岩に分けられ、この順番にできた。
 
     ⑤ 筑波山梅林お花崗岩 
   
 筑波山梅林の林道で花嵩岩が観察できる⑤。花崗岩は風化されやすく、手でもぼろぼろくずれる。このような砂のように風化をした花崗岩を真砂と言う。  

    筑波山の花崗岩は1度にできたのではない
    
 ⑥は、筑波花崗岩と加波山花崗岩の境である。筑波花崗岩に入った石英の岩脈を加波山花崗岩がきっているところから、加波山花崗岩が後からできたことがわかる。  

    ⑦ 白滝
    
 白滝⑦は筑波山の山麓近くにある落差約15m、2段の滝である。 。
 この滝の場所には閃緑岩の岩脈がある。閃緑岩は斑レイ岩と花崗岩の中間的な性格で花崗岩より風化に強いためこのような落差ができた。  

 筑波山梅林を歩くと筑波石の巨岩がごろごろしている。木道を歩いて展望あずまやに登ると、眼科に梅林、田園風景や筑波学園都市を見下ろすことができる。筑波山梅林のごろごろした巨岩は斑レイ岩⑧である。
 
 筑波山頂付近の斑レイ岩には、割れ目(摂理)が多く見られる。この摂理で大きく割れて大岩ができる。この大岩が何百年に一度おこる土石流で流れ下って、この穏やかな斜面を作っている。

       ⑧ 筑波山梅林お緩斜面体積物 
    

裾野をつくる巨礫 
    ⑨ つくば市神郡より北方に筑波山をみる  
    
  ⑨は、筑波山を南から眺めたものと、男体山の山頂付近から眺めたものである。山頂付近は急傾斜ですが、筑波山神社周辺から緩やかな傾斜になっている。

    ⑩ 立身石から南方を見る 
   
 その末端は臼井まで続きます⑩。この緩やかな傾斜の部分こそ土石流がたまったところなのです。 

 近年でも1938年7月の集中豪雨、1947年9月のカスリン台風、1979年10月の台風20号に伴う豪雨で筑波山や加波山周辺で土石流が発生している。   

 (緩斜面堆植物の恵み) 
  緩斜面堆積物は土石流災害を起こす一方で、この緩斜面堆積物は地下水をよく通す。筑波山に降った雨はいったん森に蓄えられ、緩斜面堆積物の間にしみこみ地下水となる。そして斜面の末端で豊富な湧水となって水の恵みをもたらす。この湧水が古くから筑波山の文化を支えてきた。

       ⑪ 古鬼怒川の礫層 
    
  ⑪は、祓橋から桜川に降りた川原のがけです。筑波山から下りて桜川沿いには安山岩や流紋岩の丸い石が多く見つかります。ここの川原の石は約3万年前に鬼怒川の上流から運ばれてきたものである。 

  筑波山の花崗岩や斑レイ岩はあまり見られない。花崗岩は風化して真砂になりやすく、斑レイ岩はこの大きさの石になりにくからである。

       ⑫ 鹿沼軽石層(石岡市宇治会)
    
 石岡市八郷の宇治会などでは、鹿沼軽石が見られまる⑫。これは3万2千年前に赤城山が噴火した時の軽石を含む火山灰が西風に流され、降り積もったものである。この火山灰層は園芸用の土として利用されている。  

氷河期以降の筑波山周辺 
 寒冷化が進む前の約3万年前まで鬼怒川は今より東側を流れ桜川を通って太平洋に流れていた。

また、3万2千年前には赤城山が犬噴火を起こし、筑波山周辺にも火山灰が降り積もった。
 その後約2万年前に地球は最も寒くなった。寒冷な気候で生育するブナは筑波山周辺の平野にも生育していた。
 その後の縄文時代は今よりも温かく、ブナは北へ追いやられてしまった。このころには鬼怒川は西に移動し桜川は現在のように小さな川になっている。現在では筑波山系のブナ林は標高700mより高いところにのみ残っている貴重なものである。これは、温暖化によってブナは分布する範囲を狭められ、山頂付近にのみ残っている。  

 筑波山のブナ林
     

 筑波山には標高700mより高いところに寒地性のブナ林が見られる。これは茨城県で最南端のブナ林で、筑波山頂にのみ孤立している。

(我が国の活火山) 
 我が国には110の活火山がある。気象庁では、気象庁本庁(東京)及び札幌・仙台・福岡の各管区気象台に設置された「火山監視・情報センター」において、これらの活火山の火山活動を監視している。 筑波山は活火山ではないので、常時監視の対象外である。

  気象庁発表、最近の噴火情報 (2015年6月16日16時30分)

 【関連記事】  

御嶽山噴火、犠牲は戦後最悪、観測体制の充実を要する活火山数多あれど、登山は安全な名峰筑波山で決まり!

筑波山地域をジオパークに! 筑波山のジオサイト紹介

【参照文献】
『筑波山地質見学ガイド』産業技術総合研究所 地質標本館 2008年5月 


 

筑波山神社の風景 6月28日 久しぶりの快晴 登山客多し

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6月28日(日)の筑波さん神社の風景

久しぶりの快晴に恵まれたこの日は、朝早くから筑波山の山頂を目指す人が多かった。
また、6月28日、この日は乙亥 大安である。乙は、美しい草花を意味している。一方で亥は、勇気や冒険を表している。この2つの性質を併せ持つ乙亥、大安だから挙式が3組あったのも頷ける。 

  1 夏越の大祓 

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  6 ケーブルカー宮脇駅 富士山が見えた

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  9 この人、80歳、元気です

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 11 大安、挙式3組 集まった人に”おめでとう!”と声をかけられていた。

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ガマの油、江戸時代後期であれば今の貨幣に換算すると1000円から1500円

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 江戸時代・文政期、ドイツ人医師シ-ボルトは1826年(文政9年)4~5月、がオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行した。その際、江戸・日本橋で売られていた食品の価格を記録した資料によると、魚の7割が米1-升(約1.5キロ)より高かったことがわかった。

江戸中期頃は、1両=4000文が相場。また、日本銀行貨幣博物館によると、中期から後期の1両は米価から推定して現在の価値で4万~6万円ほどである。1文を10~15円と想定して大まかに計算してみると、米1升124文(1240円~1860円)、魚は米より高く、最も高いタイ・カツオが18万円、サケ・マス1万円となり、高級魚とはいえ値段の高さに驚く。 

幕末のドイツの医師・博物学者、シーボルト 
 ドイツの医学者・博物学者シーボルト・Philipp Franz Balthasar von Sieboldは、1796年(寛政8)2月17日、ドイツのヴュルツブルクに生まれる。1820年(文政3)ヴュルツブルク大学を卒業(24歳)、1822年(文政5)オランダの陸軍外科少佐になり(26歳)、1823年(文政6年)、シーボルトがオランダ商館の医師として長崎に到着した。翌1824年(文政7)鳴滝塾を開いた。
 1828年(文政11年)の帰国までの6年あまり、シーボルトは日本の動植物、歴史、言語などを研究するとともに、鳴滝塾を開いて高野長英などに蘭学、蘭方医学を教え、日本の蘭学研究に大きな影響を与えた。

 1866年(慶応2)10月18日、ドイツのミュンヘンで亡くなる(70歳)。ちなみに、明治元年は1868年、シーボルトが亡くなった2年後である。 

 鎖国の江戸時代、オランダ商館があった長崎は、日本と外国を結ぶ唯一の窓口で、蘭学、蘭方医学のメッカとなっていた。出島内において開業の後、1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義した。代表として高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいる。塾生は、後に医者や学者として活躍している。そしてシーボルトは、日本と文化を探索・研究した。
 また、特別に長崎の町で診察することを唯一許され、感謝された。日本へ来たのは、プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説もある。 

 1826年4月には162回目にあたるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行、道中を利用して日本の自然を研究することに没頭する。地理や植生、気候や天文などを調査する。1826年には将軍徳川家斉に謁見した。江戸においても学者らと交友し、蝦夷地や樺太など北方探査を行った最上徳内や高橋景保(作左衛門)らと交友した。

 徳内からは北方の地図を贈られる。景保には、クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与える見返りとして、最新の日本地図を与えられた。その間に日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネをもうける。

 1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、国外追放処分となる(シーボルト事件)。 

 1830年、オランダに帰着する。翌年には蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されている。オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)を随時刊行する。同書の中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に知らしめた。 

タイ・カツオ18万円、サケ・マス1万円 
 シーボルトの記録をもとに計算 
 江戸時代の料理書「古今料理集」と「黒旨精味集」,などからは、格の高い魚は分かっても、食品の価格の記載はなく、市場の実情については不明だった。そこで阿部さんが着目したのが、シ-ボルトが1826年(文政9年)4~5月、江戸・日本橋で売られていた食品を記録したリストだ。

 記載された381種の食品には、青物類、ノリ類などのほか、魚類(クジラやイカを含む)90種、貝類26種が含まれていた。調べてみると、魚の価格は料理書での格付けにほぼ比例していた。 

 江戸中期頃は、1両=4000文が相場。また、日本銀行貨幣博物館によると、中期から後期の1両は米価から推定して現在の価値で4万~6万円ほど。1文を10~15円と想定して大まかに計算してみると、魚の値段の高さが読み取れる。

 最も価格が高かったのは、タイとカツオで、1匹で3両(1万2000文)から1分(1000文)。時には、18万円費やしていたことになる。値段幅が大きいのは、型の良し悪しの差があるほか、江戸っ子が初夏の到来を告げる初ガツオには、金に糸目をつけなかったからかもしれない。

 続いてスッポン、サワラ、サケ、マス、カレイなど安く見積もっても1万円以上の魚が並ぶ。安かったのはイワシ1匹120~180円、ハゼ100~150円など。当時は、さっぱりした白身魚が好まれたらしいが、現在高級魚のフグは2000~3000円と比較的お値打ちだ。毒を恐れたからと思われる。 

 魚との比較に選んだのは米。リストでは、米は1升で124文(1240~1860円)。アワ(800~1200円)、ヒエ(500~750円)などと比べ、穀物で最も高かったが、魚類の71%は、米1升の価格を上回っていた。ちなみに29種あった烏類も79%が米より高く、ともに高額な食材だったといえる。

 海産物でも、貝類は、米より高かったのは16%だけ。最も高いアワビとホラ貝も1個1500~2250円だった。

 発掘調査の出土品もこうした結果を裏付けている。東京都豊島区の巣鴨遺跡からは、町家部分のゴミ穴跡から目立った魚骨は出土しないが、貝類が多く見つかった。一方、港区の会津藩下屋敷跡のゴミ穴跡からは、大量の魚骨が見つかった。アジなど1匹1000~1500円以下の魚が62%を占めたが、4000~6000円以上の魚も12%あった。   

ガマの油、江戸時代後期であれば1000円から1500円
 ところで、ガマの油売り口上は、「さあて、.此のガマの油、本来は一貝が二百文、二百文ではありますけれども、今日ははるばると出張ってのお披露目、男度胸で女は愛嬌、坊さんお経で、山じゃ鶯ホウホケキョウ、筑波山の天辺から真っ逆さまにドカンと飛び降りたと思って、その半額の百文、二百文が百文だよ。さあ、安いと思ったら買ってきな。効能がわかったらドンドン買ったり買ったり」で終わる。  

 1文を10~15円と想定すると百文は1000円から1500円、小さな貝一つ分で2000円から3000円では、効能あらたかな薬であっても手が出せないが、その半額に値引すれば法外な値段とも言えないかもしれない。

  

ガマの油売り口上 「失われた20年」の後、主客転倒、観客も演者も変わった!

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 筑波山のガマの油売り口上は、戦後、筑波の町おこしのため再興され、昭和30年代、40年代と時とともに盛んになり関心を持つ人、学ぶ人が増えていった。1985年(昭和60年)の筑波万博の頃は、筑波山麓にあった観光ガマ園は最盛期を迎え、観客にもガマ口上の雰囲気を肌で分かった人が多く、今よりも世の中に生命力がみなぎっていた。

 状況が決定的に変わったのは、「バブルの崩壊」の後である。高度経済成長とともに都心と茨城県を結ぶ高速道路ができ、以前であれば大洗や鹿島方面に出かけた観光客が筑波山に立ち寄ってから帰るところを、日帰りで帰ることが可能になった。 

 かつて茨城県土浦市の土浦駅と茨城県西茨城郡岩瀬町(現・桜川市)の岩瀬駅とを結んでいた関東鉄道筑波線が最盛期であった1960年頃には常磐線接続駅の土浦駅から筑波山に至近の筑波駅まで急行列車が走り、行楽シーズンには上野駅(常磐線土浦駅経由「筑波」)や日立駅(水戸線岩瀬駅経由「筑波山」)から国鉄の客車列車が筑波駅まで乗り入れていた。 

 その後、1971年に東関東自動車道、1981年に常磐自動車道が開通し、モータリゼーションなどの進行により来県した観光客は日帰り客が多くなり鉄道を利用する者が減少した。 1987年(昭和62年)3月31日の運行を最後に翌4月1日に廃止された。

  鉄道線路は自転車道に変わった  

 
 1987年の11月には大穂町,豊里町,谷田部町,桜村が合併してつくば市が誕生した。筑波山麓の居住者は世代交代が進むにつれ生活の利便性を求めつくば市の都市部へ移り住むようになり、筑波山神社周辺に居住する人は年々減少した。また、自動車道が整備され鉄道の廃止で筑波山を訪れる人も減少し、2008年、筑波山麓の観光ガマ園は閉鎖された。

  2005年春 筑波山の観光ガマ園、奥の建物「おたちあい」 
  「おもてなし館」とホレストアドベンチャーに変わった 
  「おたちあい」の中 口上の実演 
 

 1973年12月以降の安定成長を経て、1985年9月、プラザ合意がバブル景気の直接の引き金となった。日本経済は空前の好景気を迎え、株式市場も日経平均株価30,000円の大台を超えた。1991年、バブル経済が崩壊した。その後の失われた20年は、日本経済への打撃をそのまま示すものであった。 

 バブル経済が崩壊でオイルショック後の安定成長期は終わり、日本は「失われた20年」の低成長期に突入した。あの経済崩壊で、みんなが「世の中」を信じなくなったのだろう。クールになったのだ。経済と同時に、客席の気持ちもしぼんだ。戦後、急速に欧米化し生活の便利さ、経済的な豊かさばかり追い求めた生活の中で、日本人の生き方も変わった。このようなものとバブル経済の崩壊などが全部合わさって「古き良き日本」の感性もなくなった。  

 1999年(平成11年)、ガマの油売り口上保存会設立され設立とともに会員となった。この頃はまだバブル経済の余韻が残っていた。今と違って観光客には元気があった。ガマの油売り口上を演じていると やじる人、からかう人、冷やかす人、口上を先に口走って笑わせる人、下手な口上を演じても尤もらしく相槌を売ったり囃したり掛け合いを楽しむ人がいた。観客に表情があった。口上が終われば、サインを求める人、写真を撮る人など動きがあった。

 今では、やじる人、からかう人、冷やかす人、口上を先に口走って笑わせる人を見かけない。観客はジーッと静かに口上を見ている。面白いのか詰らないのか表情に変化がない。主客転倒というか、知らず知らずのうちに、口上を演じる者が観客に何らかの“反応”を促す動作が認められようになった。 

 ガマの油売り口上を始めた当初は「がまの油売り口上」を文字通り、それこそ一言一句記憶しないと観客の前では恥をかくと思っていた。ある日、筑波山麓にあった観光ガマ園で口上を演じたが観客が数名だったので盛り上がりはないだろうと思い、アドリブを4か所加えて口上を述べた。口上終了とともに、聞いていた人から“アドリブが4か所ありましたね”と指摘された。世の中には、ガマの油売り口上に詳しい人がいるものだと思ったが、その後、このような人に出会ったことがない。今は、ガマの油売り口上に詳しい人がいたとしても、自己を表現しないのかもしれない。 

  観客は怜悧は人が多くなった 
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 心の豊かさ 
 バブル経済崩壊の後遺症が今も残っている。お金が多少出来ても「また、ああいうことが起きるかもしれない」とみんな思っている。焼け野原から復興するために日本人は脇目もふらずに働いてきた。今の日本があるのは、そういう人たちのおかげであるが「物質的な豊かさ」を優先して、「心の豊かさ」が置き去りにされたことは否定できない。 

 ガマの油売り口上を巡る時代状況が変わりつつある。ここ10年ばかり、誰もがインターネットにあふれる情報に振り回されている。あまりにもいろいろな惰報が蔓延した結栗、世の中が、それを本当に信じていいのか、と疑い始めている感じもする。その結果、多くの観客を集めた場における講演よりも、老若男女が楽しみ、それが生活と結びついていくといった観客と直接的に触れ合うような直接的なコミュニケーションがより重要視されるようになるのではないか。 

 観光も単に贅沢な宿泊施設・サービスやパッケージツアーでなく個人、家族、友人との旅行へとシフトし、見学だけでなく体験、参加と交流、同好の人々との旅、交流・触れあいによる連帯感の共有などと精神性の希求を動機とするものもみられるようになった。

  観光は多様化した 
  「気」をもらい、「心」を感じるパワースポットめぐり
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 ガマの油売り口上は広義の意味では大道芸であるが、つくば市認定の無形文化財であり、その在り方には一定の型が求められる。こういう世の動きが、ガマの油売り口上の在り方にどんな新しい波をもたらすのか、今は模索の時代といえる。

   

猛暑日の筑波山 久しぶりに登山客がやってきた (7月11日)

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  高気圧に覆われた影響で、7月11日、茨城県内は全域で気温が上がり、笠間市で最高気温が35度を超え、今年、県内で初めて猛暑日となった。水戸気象台によると、笠間市で36.2度、つくば市で32.1度など全15観測地で今年最高の気温を記録した。

 筑波山神社には暑さにめげず山頂を目指す人が訪れていた。中高生ら学生は夏休み前のためか見かけなかったが、親子連れや幼稚園児のグループの元気な声があちこちで聞こえていた。

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「第40回全国稲作経営者現地研究会 in 茨城」における今野名人のガマの油売り口上披露 7月23日 

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 7月23日(木)午後、「第40回全国稲作経営者現地研究会in茨城/全国稲作経営者会議創立40周年記念式典」つくば市のホテルグランド東雲において開催されました。研究会等終了後の懇親会でガマの油売り口上保存会の今野名人が口上を披露しました。演技開始は懇親会が始まって約1時間後の19時30分頃からで、広い会場は350名の酒宴もたけなわ喧騒に包まれていました。

 名人もさぞかしやりにくいだろうなと案じていましたが、会場は徐々に口上に見入る人が増え演台に近づきガマガエルの模型に触ってはしゃぐ人、刀の刃に触れる人、傷口が治ったなかとど確かめるため名人に詰めかける人が出るなど、名人の熱演で会場は盛り上がり好評裏に終わりました。
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筑波山信仰と物見遊山 昔も今も変らぬ男女の遊び

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        遊郭風景  
     客は張見世にいる遊女を見て入った。
    (原田伴彦・遠藤武・百瀬明治著『絵で見る 江戸の女たち』柏書房株式会社 2006年)

筑波山信仰の起こり 
 関東では富士山につぐ霊場、筑波山。険しい峰は多くの修験者を集め、人々を救済してた。一方はるか上代から祀られた男と女の神は時に仏とされたが、江戸城鎮護の任務をもはたし、庶民の豊穣と繁栄のシンボルとして長い間親しみ守られてきた。 

 筑波山は茨城県の中央に沓える高さ876メートルの山で、山頂は男体・女体の二つの峰に分かれ、広い裾野を持っている。その美しい姿は昔から人びとの心の糧となり、信仰の対象となってきた。  

 「常陸国風土記」に、祖先の神が子供の神々を回って歩く途中で、富士山には宿泊を断られたが、筑波山は温かく泊めてくれた。祖先の神は筑波山に対して「人びとはこの山に集まって楽しみ、飲食物は豊富で、いつまでも絶えることなく栄え、いついつまでもこの山での遊楽は尽きない」といった祖先の神の巡行の話がある。

 また、筑波山は、四季を通じて誰でも登山ができ、春は花が咲き時、秋は紅葉が美しくなる頃、手をとり肩を並べて飲食物を携えて登り楽しく遊んだと書かれている。『万葉集』にもたくさん歌われ、古くから地域の人々に親しまれ、物見遊山の恰好の場所であった。

 山頂にはイザナギノミコトギを祀る男体社とイザナミノミコトを祀る女体社がある。イザナギノミコトとイザナミノミコトは神話の世界では、日本の国土や山野・食物などの神々を生んだ、いわば日本の国土と人民を創り出した天地創造の神である。山麓の臼井(のつくば市)には里宮の六所神社がある。六所とは山頂と四摂社をさしている。 

 「筑波山縁起」によると、この山は、天地の開け始まる時から神が宿り、イザナギノミコトとイザナミノミコトが最初に生み、そして降臨した「天地開闘」の霊山である。 

 延暦元年(782)に東大寺の僧徳一が登山し、中腹に知足院中禅寺を開いた。徳一は日本の神々は仏(本地)が日本の衆生を救うために、姿を変えて現れた(垂迹、すいじゃく)とする思想によって、山頂の男体神の本地として千手観音を安置した。
 その後に空海が登山して、法相宗から真言宗に変わり、密教を広める道場となり、多くの行者が山中の岩屋や滝で修行した。 

 本地垂迹思想の広まりとともに、イザナギノミコトを祀る男体権現は金剛界の大日如来、イザナミノミコトを祀る女体権現は胎蔵界の大日如来として信仰された。 

             男体山神社


           女体山神社   


 中禅寺境内には日枝神社と春日神社を勧請して鎮守とした。山中のいたる所に神仏の霊跡が作られ、全山が信仰の対象となったため神仏の加護を求めて登山する者が増加し、山岳仏教の一大霊場として発展した。 

 中世になり熊野信仰が広まると、筑波山は日光、羽黒とともに修験者の拠点となり、山麓には多くの熊野神社が勧請された。文明18年(1486)には熊野三社の修験を統括する聖護院(京都市)の道興が登山している。

 修験者とは、激しい修行によって験力(神通力)を得た者という意味で、一般には山野に伏して修業するところから山伏と呼ばれ、超自然的な呪力によって加持祈祷を行った人々のことである。山中には数多くの修験僧の宿舎や僧坊が建てられた。 

       筑波山神社 随神門に貼られた千社札 

 【関連記事】 江戸時代の信仰 千社詣と筑波山神社の千社札  


徳川幕府の筑波山信仰 
 慶長7年(1602)に徳川家康は、筑波山神領として供僧別当(ぐそうべっとう、住職)あてに筑波郷5百石を寄進した。さらに慶長15年に家康はこの500石を筑波山神社の別当寺である知足院あてに寄進し直している。 

 筑波山は江戸城の北東方向にあり、この方角は鬼が出入りする鬼門といわれ、何事にも忌み嫌われていた。そこでこの方角に神仏を祀り、災難を除き避けようとして知足院を保護した。以来、知足院は江戸城鎮護の霊山として信仰され、幕府の祈願所となった。 

 知足院の僧となった光誉は2代将軍の秀忠との関係を強め、江戸城奥向きの祈祷に関与し、江戸に護摩堂を建立した。これが江戸知足院である。

 3代将軍家光は寛永3年(1626)から幕府の費用による筑波山諸堂社の造営に着手し、10年には知足院中禅寺の本堂(大御堂)、山頂の両本社、摂社や三重塔、楼門などの付属の建物が落成しました。新築されたたくさんの堂社は目を見張るばかりの美しさであったと伝えられている。 

 建築資材を運ぶために北条(現在、つくば市)から新たに道路を作り、これを参詣者のための登山路とした。山腹の登山道の両側には諸職人を住まわせ、知足院を中心に30数軒の僧坊が建てられ、宿屋、土産物屋、遊女屋、小間物屋などができて門前町が成立した。 

             北条の町に立つ道標   
                          

                          

    神郡の街 


   つくば道  

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   つくば道 正面のビルはホテル青木屋 


 5代将軍綱吉も知足院を深く信仰し、住僧の降光(りゅうこう)は将軍の厚い信任を得て、元禄元年(1688)には江戸知足院を神田橋(東京都千代田区)に移して大伽藍を建立して拡充し、筑波山に来ることなく江戸で祈願できるようにした。これは後に護持院と改称し、実質的には筑波山知足院の本山的存在となった。 

 護持院は元禄8年には幕府の寄進により筑波に1500石の領地を持つようになったが、領地からの年貢を護持院に収取しただけでなく、筑波山中の摂末社からも宮年貢を徴収している。
  住僧は江戸に住み、院代や代官を派遣して筑波山を支配した。 
 筑波山での宗教行事は院代の指揮により18の衆徒寺の僧が担当し、江戸の護持院と同様に幕府の安泰と天下泰平を祈願し、江戸へ護符を送った。 

江戸時代の信心 
 神仏に祈願するのは無事息災を願うのが本来の目的であるが、江戸時代中期以降、婦女達の物見遊山として社寺参詣がこのまれた。そこで、神社仏閣では寺にちなんだ年中行事をもうけ、祭礼、縁日に庶民がつどうように考え、くりきさらにいろいろのまじないの功力(くりき)をつくっては町人の信仰心をあおった。  

     厄除 人生3度は厄祓い 
 悪いことが身に降りかかりやすい年、人生の節目の年を厄年という。数え年で男性は25歳、42歳、61歳、女性は19歳、33歳、37歳が本厄、その前後を前厄、後厄といい、神社にお参りをして、災厄を除けるために厄祓(厄祓)をする。地方によっては慣習が異なることがあるので、近くの神社で尋ねてみてください。 


●川垢離(せんごり) 
 神仏に祈願するために川に入って身を清めるのが川垢離である。江戸では隅田川の両国橋東詰に川垢離場があった。     

●口よせ 
 巫女が梓弓(あずさゆみ)を鳴らしながら神降しをして、死者や行方不明の人たちの様子を聞く民間信仰を「口よせ」という。
 巫女には「いちこ」「あずさみこ」「かみおろし」などがあり、多くは老婆で目が不自由な者であった。   
             (原田伴彦・遠藤武・百瀬明治著 『絵で見る 江戸の女たち』 柏書房) 


信仰から物見遊山の山へ変化 
 山岳信仰として出発した筑波山信仰は、知足院が幕府の祈願所となり、権力者と結合したことによって大きく性格が変わっていった。心身を鍛えて神通カを身につけようとした登山や、五穀豊穣・家内繁盛を願う信仰から物見遊山の参詣に変質して言った。 

 知足院は幕府から500石の朱印地を与えられ、寺院組織を編成替えする中で、筑波山中にあった多くの修験僧や御師を知足院の衆徒として組み込んでいる。山伏たちは衆徒寺の僧として食禄を与えられるようになったため布教者としての活動を止めるようになった。明暦3年(1657)の筑波には家数300軒のうち御師は2軒、山伏は3軒、寺百娃7軒であった。御師の布教活動は見るべきものはなくなってしまった。

 筑波山北麓の真壁郡羽鳥村(今の真壁町)には元禄9年(1696)に「筑波山牛王御師」が13人いたが、83年後の安永8年(1779)には2人となっている。この村には中世以来の御師が元禄年間頃までは活躍していたが、その後の参詣者は筑波町に移って羽鳥村からの登山者は急減し、それにともなって御師も減少したのだろう。 

 幕府に追従して大名や旗本らも護持院に進物を贈って祈願を依頼している。また、常陸国(茨城県)に領地を持つ大名は参勤交代の途中に筑波山に参詣した。参詣者の主体は常陸、下総(千葉県・茨城県)や江戸の農民、町人であったが、江戸や関東一円での民衆社会に根を下ろした信仰組織は発達せず、筑波山の霊験を宣伝して御札を配り、信徒を登拝させる御師の活躍は見られなかった。 

 参詣者の中には、伊勢神宮や善光寺などの参詣者と同様に、信仰よりは物見遊山がほんとうの目的で、信仰に名をかりて封建的な束縛から解放された自由な生活を求めるものが多かったからである。

                物見遊山が目的 遊女屋が繁盛した  
                      『芸術新潮 2003年1月号』 (新潮社)
                            
 男女和合の筑波の神にあやかってか遊女屋が繁盛し、衆徒寺の僧の中にさえ女犯の罪で罰せられる者が少なくなかった。

●女犯を犯した坊主が晒されている図   

      編集長 佐藤香澄『【決定版】図説 大江戸犯科帳』(学研パブリッシング)
 
 幕府は坊主に多くの特権を与えたが、そのかわり性交を禁止した。3日間晒されたのち各宗派の裁きを受けた。普通は僧籍をはく奪され寺から追い出された。坊さんだって、我慢できない時もあるのだろう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
     だから坊主は児小姓に手を出した

       田中優子・白倉敬彦著 『江戸女の色と恋 若衆好み』 株式会社学習研究社2002年 

  門前町の風紀が乱れ近くの農村にまで悪い影響を与えたので、享和元年(1801)には幕府寺杜奉行の取り締まりがあり、旅籠屋32人と遊女16人が厳しい取り調べを受けている。 

     門前町の風紀が乱れ近くの農村まで悪い影響を与えた 

         『芸術新潮 2003年1月号』 (新潮社)

 これ以降、筑波の宿屋では遊女を抱え置くことが禁止された。このために参詣客が減少して門前町が寂れていったとして、宿屋は幕府に対して召使い女(実際は遊女)を置くことを何回も嘆願してやっと認められている。 

    遊郭で働く人々
 遊郭で働くのは遊女だけではない。遊女を取り仕切るやり手、客が遊郭に上がる段取りをつける茶屋の亭主のほかにも大勢の人が働いていた。    
 
             竹内誠監修『図説江戸7 江戸の仕事づくし』 株式会社 学習研究社

江戸時代の女遊び 昔も今も変らぬ遊び
 江戸幕府が吉原遊廓を公認して以来、いわゆる「公娼」制度がはじまったが、それによって吉原以外の娼婦が根絶されたというのではもちろんない。公娼が遊女と呼ばれたのに対し、売女(ばいた)と蔑まれたこれらの私娼は、幕府の取締りの網をのがれて根強く生きのびた。

 私娼が集団的に売春を営んだ区域ふつう岡場所(おかばしょ)という。岡場所は、社寺境内や門前町に発生しているが、これは寺社奉行の支配地を拠点とすることによって、私娼取締りの任を負った町奉行の追及を逃れるためでもあった。 

 岡場所での遊び代は、吉原に較べると格段に安く、また肩のこるような格式ばった雰囲気もない。そのため、庶民の恰好の息ぬきの場として、時代が下がるとともにいよいよ繁盛し、そのため衰退をきたした吉原遊廓が、岡場所取締りを幕府に願い出たことがたびたびあった。
 
 ●湯女(ゆな) 
     
 江戸時代、最初に私娼化の道を歩んだのは湯女である。私娼とは、幕府の許可を得ないまま、常習的に売春を稼業としている女性のことで、私娼に準じるものとしては、世間の眼をはばかりながら売春を行なう密娼、ほかに職業をもちながら機会があれば売春も辞さない準娼などがあった。

●茶屋女     
 江戸時代、社寺の境内や市中で湯茶を供して通行人を休息させる店を水茶屋といい、江戸市中の門前にはずらりと店が並んでいた。それらの茶屋は、若い女を雇い、客引きさせた。これから私娼の風が生じた。 

 ●旅籠の女         
 社寺参詣でにぎわう宿場の旅籠屋は、多数の抱え女を置いて客の足を留めた。図は精進落としで繁盛する旅籠屋。     

 ●旅籠の女 飯盛女   
 旅宿にいて売春を生業としていた女は、宿場女郎と言い、飯盛女(めしもりおんな)と呼ばれていた。 

 ●馴染み客          馴染みの客になると、「積み夜具」といって、客から遊女へ布団を贈る風習があった。  

 ●のぞき見
    女も障子の穴からこっそり のぞいて楽しんだ。 

 ●ふられ客     廻し部屋でいつ来るか分らない遊女を待って「床の番」をしているふられ客 

 ●酔い客        呑みすぎて肝心なことが出来ないドジな酔い客 

 ●出女      
  飯盛女の一種。街道に出て旅客の袖を掴んで強引に所属の旅籠屋に引っ張り込んだ。  

 ●夜鷹  
                  
 「京で辻君、大阪で総(想)嫁(そうか)、江戸の夜鷹(よたか)」といった。 代表的な街娼で頭に手拭をかぶり小脇に莚を抱えて、物陰から客を引いた。夜鷹の相場は24文。刀は持っていなかったが、千人切るのはおてのも。 
       (原田伴彦・遠藤武・百瀬明治著「江戸の女たち」柏書房)  
 
 ●朝方の女湯には与力、同心も入った 

       編集長 佐藤香澄『【決定版】図説 大江戸犯科帳』(学研パブリッシング)
 江戸時代、一般的には内風呂はなく銭湯に通った。与力・同心は朝、女湯に入って、男湯から聞こえてくる話し声から情報を集めた。 

  ●銭湯の2階 
        
      淡野史良著 『江戸の庶民のかしこい暮らし術』 河出書房新社 2012年1月  
  銭湯の2階にあがるのは別途料金が必要だったが、茶を飲んだり、将棋や囲碁に興じたり、女湯をのぞける窓があるなど、男にとっては憩いの場だった。 

 ●馬屋    
  遊興費の払えなかった客について自宅まで馬を連れていき、支払うまで待つ。
馬屋がいると金もないのに吉原で遊んだことが近所にわか ってしまう。近所の人に笑い者にされたくない客は差恥心から遊興費を工面しようとした。
 ここから未払いの客について家まで行って取り立てる者を付馬(つけうま・つきうま)というようになった。    
        監修 竹内誠監修 『図説江戸7 江戸の仕事づくし』 株式会社 学習研究社

 ●庶民の生活
   地上の天国 裸を隠さない天真爛漫な社会     
 日本の混浴の嵯恥心の無さは外国人の非難の的だったが、日本の生活に慣れるにしたがって、それが開放的で自然の文化であることを理解するようになった。
    (藤原千恵子編 『江戸っ子のたしなみ』河出書房新社)    

    宿場の女中も幸せを祈った 
    「牛久下町中宿女中一同」 
     旧水戸街道牛久宿(牛久市城中)  
     

【関連記事】 江戸時代の物価 ガマの油の値段はいくら?    



世田谷ふるさと区民まつり で 金野名人、ガマの油売り口上を披露

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 8月1日(土)、2日(日)、世田谷区の馬事公苑隣、けやき通りの広場で「世田谷ふるさと区民まつり」が開催された。祭りの初日の8月1日、筑波山ガマの油売り口上保存会の金野名人がガマの油売り口上を披露した。
この日、都心は気温36度の猛暑であったが、けやき並木の広場は大勢の人でにぎわっていた。ベンチに座って見ているだけでも汗が出る蒸し暑さであった。演技の途中3回、ほとばしる顔の汗をタオルでぬぐいながらの実演に集まった人は見入っていた。

     (世田谷区のホームページ)

  1 会場入り口  


  2 午前9時頃 


  3 プログラム
 
 4 金野名人、口上の実演 

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【関連記事】
秘伝 ガマの油売り口上 

  

幕末の日本に旋風を巻き起こした水戸藩の尊王攘夷論 

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思想的性格:儒教の中華思想 
  君臣関係の最も伝統的なあらわれとして皇室を尊崇しようとする尊王論、また(神州)日本を侵略する意図をもつ夷秋(いてき)をうちはらおうとする攘夷論は、本来幕府ないし封建制に対立する性質のものではなく、江戸時代の初期から武士階級の思想の中に存在していた。それは儒教の名分論にもとづくもので、内にあっては君臣の大義、外に対しては華夷(かい)の弁を明らかにし、尊卑の別をきびしく立てようとするのである。しかし江戸時代中期以降、外国船が姿をあらわし国防問題がおこると、尊.王論および攘夷論は、現状に反発しこれを批判する意味合いを含むようになった。江戸時代末期の政治思想ならびに政治改革運動で、その源流は水戸藩の水戸学にあった。 

         水戸光圀の肖像(常陸太田市 久昌寺所蔵)
   
        水戸市『水戸市史 中巻(一)C』平成3年12月     

攘夷論と天皇の権威を尊重する尊王論を結びつけた水戸学
 1758年(宝暦8)の宝暦事件、66年(明和3)の明和事件は、尊王論が幕府の忌諱(きい)にふれた最初の事件である。これは宮廷周辺に伝統的にあった尊王賎覇(せんぱ=覇者を蔑み、天皇を至上のものとする)の感情、あるいは浪人の不平の感情から起ったものであるが、幕府に対する不満の気持がひろがりつつあった社会的雰囲気のなかで、これを反映することによって政治的色彩をもったものであった。尊王論が攘夷論と結合して尊王攘夷論となり、かつ具体的な目標をもつ政治論として、ひろく武士階級の政治意識をとらえるようになったのは、1840年代、第9代水戸藩主徳川斉昭、その家臣藤田東湖らが唱えた水戸学((後期)においてであった。 

 水戸学とは、江戸時代後期の水戸藩で醸成された儒教思想で店舗の改革をとおして大成された。その源流は第2代藩主徳川光圀が行った『大日本史』の編纂にあるとされる。このときかに全国から集められた学者が修史事業に携わるなかで、やがて儒教思想に国学や史学、神道にもとづく国家意識を結びつけ「尊王賎覇」が説かれたのである。 

 1837年(天保8)の大塩平八郎の乱は、浪人的政治改革の理想と、民衆の封建制への不満意識とが結合する可能性を示したものであった。斉昭らの尊王論は、このような動きに対抗して、将軍・大名の立場から、忠道徳の最終のよりどころを尊王に求め、これによって退廃する封建的秩序の再建強化をはかったものであり、さらに攘夷を強調することで内の悩みを外に転じ、士気の振起をはかったものであった。そしてこれが全国の武士層中堅分子の心をとらえたのは、封建支配者の内憂外患に対する深刻な危機意識に表現をあたえたからであり、やがて次の段階においては、改革論、政治運動へと発展する。
  
   成美堂出版『一冊でわかる イラストでわかる 図解幕末・維新』2009年9月15日発行 

反幕閣政治運動の展開 
 尊王攘夷思想が改革運動に発展するためには幾多の前提条件が必要であった。

 第1は1853年(嘉永6)ペリー来航以後、開国か鎖国かの外交問題が紛糾し、公家の政治参与、雄藩の中央政界進出、下層武士の政治活動のいとぐちがひらかれ、幕府首脳部の政治的無能に対する批判がおこってきたことである。 

 第2は、外交問題をめぐる封建支配者間の対立が激しくなり、それが1858年(安政5)に将軍継嗣間題と条約勅許問題に集中したことである。
 この政争の過程で、京都で活動した諸藩の中堅分子および浪人の間に、開国か攘夷かの差別をこえて、幕閣の独裁に反対する内政改革論で連携しようとする動きが生まれた。

 第3に、大老井伊直弼を首班とする幕府は、公家勢力の台頭、雄藩の政治的圧力、浪人や下級藩上の活動をおさえるために、改革派の要求をしりぞけて、紀伊藩主徳川慶福(よしとみ、のちに家茂、いえもちと改名)を擁立し、勅許をまたずに日米修好通商条約の締結を断行し、ついで反対派をいっせいに処罰する安政の大獄を強行した。
 これによって封建支配者間の対立は、幕閣派と反幕閣派の二大陣営に統一され反幕閣派は、井伊大老に反対する理念を尊王攘夷に求めるようになった。 

 1860年(万延1)の井伊襲撃の桜田門外の変、1862年(文久2)の老中安藤信行襲撃の坂下門外の変は、浪士や民間出身の志士からなる尊攘激派の行為であった。1860年に貿易が開始されるや、その影響とそれを利用する投機の結果とがかさなって、日常必需品をはじめ諸物価が騰貴した。攘夷派は、この現象をとらえて開国・貿易が国害をもたらすと扇動したが、かならずしも民衆をとらええなかった。貿易は、一時経済の混乱をまねいだが、結局開国前から芽生えていた資本.主.義的な経済活動を比較的順調に発展させたからであった。しかし緑米で収入を得ていた武土階級、とくに下層武士は物価騰貴に生活をおびやかされ、攘夷の気分はたかまった。

 1860年から1863年にわたって尊王攘夷の志士は、一万では公家に幕府との対抗を説き、他方では外人の殺傷、佐幕開国派公家および貿易商脅迫のテロ手段に訴えて、朝幕間の対立を強め、また幕府を外交上窮地におとしいれる戦術をとった。 このため京都における幕府の支配力は後退し、尊攘派の公家とむすぶ薩長土3藩の勢力はのびた。1862年、薩摩藩主の父、島津久光が勅使大原重徳(しげとみ)を擁して江戸にきたり、雄藩合議政体をめざす幕政改革の勅命を伝え、ついで翌年土佐藩主山内豊範と長州藩世子毛利元徳(定広・広封))が勅使三条実美(さねとみ)・姉小路公知を守って攘夷督促の勅命を幕府に手交し、ついに幕府に攘夷実行を承諾させた。 

  この時期の尊王攘夷運動は、下級藩士と浪士との改革派が少壮下層公家とむすんで実権をにぎり、雄藩藩主勢力を背後からあやつっていた。その尊王攘夷思想も、幕府専制に対立する意味で尊王、民族統一意識をある程度反映する内容で攘夷を主張し、反幕的色彩が濃かった。しかし運動はやはり幕藩体制下層武士等の改革運動であり、名分論・封建主義・排外主義のわく外には出なかった。 

            湊川碑(表)拓本 
   
 南北朝次代、南朝に忠誠を尽くした武将楠正成を顕彰して、1692(元禄5)年、光圀は佐々十竹に命じ、戦死した地である湊川(神戸市)に碑を建立した。「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字は光圀の筆による。 〔茨城県立歴史館『頼重と光圀ー高松と水戸を結ぶ兄弟の絆』平成23年2月〕  

下級武士の幕府批判の大義名分へ転換 
 尊王攘夷運動は、1863年に、薩摩・会津を中心とする藩主勢力の公武合体派が孝明天王および上層公家と連絡しておこなったクーデタ(文久3年8月18日の政変)で大打撃をうけ敗退した。時を同じくして同年7月のイギリス艦隊の鹿児島攻撃、64年(元治1)のイギリス、アメリカ、フランス、オランダ4国連合艦隊の長州攻撃の体験をへて攘夷実行の自信がくだかれた。尊王攘夷派は各地で幕府あるいは藩庁の弾圧をうけた。

 この苦境の中で尊王攘夷派は脱皮成長した。それが最も典型的におこなわれたのは、4国遵合艦隊と幕府軍の両面の攻撃をうけた長州藩であった。すなわち足軽・郷士級の最下層武士を中心に農民・町人をふくめた非正規軍たる奇兵隊以下の諸隊が組織され、高杉晋作ら志士はこの諸隊をひきいて決起し、藩庁軍を破って、藩の権力を掌撰し、長州藩の動向を倒幕運動に一決させた。

 この倒幕派が尊王攘夷派と異なる点は、運動目標の上では、攘夷に代わって倒幕へ集中した点にあり、運形態の上では、豪農・豪商層をより広範にくみ入れて、民衆の反封建闘争のエネルギ分散に努めた、それを反映利用した点にあった。このような倒幕運動の形態は、1863年の大和天誅(てんちゅう)組の挙兵、同年の真木和泉らによる但馬生野の変にも.見られ、また薩摩摩・土佐をはじめ諸藩でも、よりゆるやかな度合であったたが同様にあらわれた。

 そしてこうした国内の動きに呼応して、イギリスを先頭とする外国側も、従来の幕府'支持の方針を改めて、諸藩の改革派開明分子の成長を支援し、これによって幕藩休制を改革して、貿易の発展をはかるという方策に転換した。

 改革派が藩政の実権をにぎった薩摩・長州藩では、急速にイギリスに接近し、軍事改革、殖産興業につとめた。そして1866年(慶応2)に百姓一揆、打ちこわしの激化する中で幕藩制の危機が深まり、薩長両藩倒幕派の同盟によって幕府打倒の運動がすすみ、ついに1867年から18年にかけ大政泰還・王政復古が実現された。

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筑波山ガマ祭りと2015TGRガマレースのお知らせ (9月13日)

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第67回筑波山ガマ祭りが平成27年9月13日(日)に筑波山神社と山頂で、また、がまレースが門前通りで開催される。
   【Mt.Tsukuba Gama Race】
     【TGR2015 種目】

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筑波山神社の風景 8月8日(土)

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