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水戸黄門の形成 水戸藩「御三家」の威光と弊害 

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「御三家」の威光と弊害
 副将軍説がたとえ確かなものではなかったとしても、御三家としての権威は諸大名とは格段の違いがあり、水戸藩の武士や領民までも、他家に対して御三家の威光を振りまわす気風が強かった。たとえば、御三家の通行のときは、先払いの者が、「シタニロ、シタニロ」(下に居ろ、下に居ろ)と制止声を掛け、往来の士民は道脇に土下座する習わしであった。 

 だから諸大名、その家来たちは御三家の行列に会わぬように用心し、あらかじめ見張を出して御三家が来ると判れば、急いで横道へ逃げかくれた。また道中の宿場では、御三家の通行のときは特別に念を入れて宿中を清掃し、その本陣では通行三日前から諸家の休泊を断わる定めであった。そのほか諸家休泊の宿場に差立ててある宿札・張慕なども、御三家が通行するときは、先払いの者が権柄づくで取りはずさせた。御三家の家来も公用で往来する時、諸事特権を揮ったが、特に紀伊・水戸両家の家来は威張って道路を場広く通行するので、諸家はもちろん、幕府の役人でさえ、かかり合いを恐れて、道をよける有様であった。 

 万事厳重な取締まりを行なうべき関所でさえも、御三家の家来だと寛大に取扱った。水戸のある武士が仙台方面へ湯治旅行をして、仙台領と相馬領の境、駒が峯関所に差掛ったとき、もし関所役人に兄咎められたならば、どのように答えようかと心構えしたが、若党・槍持ちを供にし駕籠、馬で通行する「水戸ノ士ナレバ誰何セズ」自由に通過できた。

 更に阿武隈川の渡場では、船頭が故意に「川留」(かわどめ)といって、舟を出さず、内密に舟渡しを頼む客から酒手を貪り取ったが、水戸の家来だというと素直に舟を出し、また道中人足も水戸家の荷札を付けた荷物は、丁重に取り扱った。 

 近世史上、最大の文化事業である「大日本史」編纂も、御三家の威光があったからこそ遂行できたのである。諸事権式高く、文書を秘蔵して他に示さなかった京都の堂上方や京・奈良の古社寺が、たとえ全部でなくとも史料の閥覧筆写を許し、また諸大名の領内でも水戸の家臣たちの史料採訪の際は、大いに便宜を計った。西国を九州の涯まで出張した佐々十竹(宗淳)の復命書に、到る所の大名に厚過を受けて、かえって気詰りで自由に調査ができないこともあったが、「殿様御威光之程言舌にのべ申事不罷成候」と感激している。 

 このように水戸家の威光が強いので、幕府の役人や諸大名は、水戸家の家来たちにまで一目を置いた。そして水戸の領民と他領の者との訴訟事件には、明白に水戸領民が非理であっても有利に裁判し、幕府領の者が水戸領民を相手取って訴訟を起こしたときでも、なるべく事件を内済として、荒立てないように取計らった。 他領民は相手が水戸領民だというので、主張したいことも押さえて判決に服した。また幕府の役人が水戸領分の者を召捕り、あるいは呼出すときも、水戸役人への通達に特別の配慮をした。

 要するに、水戸の士民は他とは格別の優越感を持っていたのである。 

 その優越感がしばしば他領民を苦しめ、全国共通の規則や、他領の禁令を無視する特権的行為となった実例も少なくない。たとえば宝暦11年、笠間藩の鳥見役の者と水戸領の上泉村弥左衛門との紛争事件につき、水戸側では相手に非分の事を申懸けても御威光をもって理分を得ると考えて、権柄の仕方があり、そのほか同様な事件がたびたび起こるので、水戸の奉行から町方、村方へ厳しくこのような事件を取締るべきことを命じた。
 それと同時に笠間の城下へ商いに行った水戸城下の者が、夜中居酒売りを禁止する笠間藩の法令を無視して酒を出させ、その後に立ち寄った馬子たちと共に権柄ずくで無理に飲酒したことがあり、水戸の奉行は、町方に対して取り締まりを指図した。 

 そのほか、水戸の家来だといって、高慢な態度を取り、宿場の人馬継立の規則を守らず、無理に便宜を強要したり、宿場役人の取扱い振りに勝手な難くせを付け、町人・百姓や馬方など弱い者をいじめる者が少なくなかった。それらの中には、偽水戸人もまじっていたであろうが、また商人などで「水戸御用」の名儀を借りて私用を達したものもあった。しかし中期のころ、御三家の家来などの横暴が交通制度を乱すほどはなはだしくなったので、慕府はたびたびこれを制する触書を出し、水戸藩でも幕令の趣旨に従って禁制を下した。  

 水上交通でも、御三家の船は特別に取扱われたが、とりわけ水戸家の手船および御用の商人船などは利根川・江戸川・隅田川に多数往来し、幕府の川船役所(関東地方の川船を取締まる)の規則を無視することがあったので、たびたび紛争の種をまいた。

 以上のような特権意識が、江戸時代の水戸人の気質の中にある特殊な気位、というようなものを作り出したことは否定できない。 

水戸黄門諸国漫遊記の誕生
 実在の徳川光圀はその生涯において旅らしい旅をしたことがない。水戸と江戸の往復、あと祖母が建立した寺院がある鎌倉を何度か訪れた程度であった。だが光圀に代わって多くの家臣が旅に出ている。光圀は歴史書「大日本史」編纂のため儒者を集めて彰考館を設立したが、その史料収集のため多くの儒者を諸国に使わせた。その諸国を訪れた儒者に佐々宗淳、安積澹泊という人物がおり、この二人が後の助さん、格さんのモデルになったと考えられている。 

徳川光圀に関する創作は江戸時代に存在していたらしい。19世紀初頭の水戸藩儒学者石川久徴(宝暦6=1756年5月13日生、天保8=1837年没)の『桃蹊雑話』(文政10、1827年)では水戸領内を光圀がお忍びで歩き、古墳を発見したり洞窟探検に出たりした話がある。

              『桃蹊雑話』
        

 また明治になって発見された18世紀半ば宝暦年間に書かれたとされる小説「水戸黄門仁徳録」では虚実織り交ぜて光圀の生涯が描かれ、
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/882051/26  
幕府の要人の陰謀を防いだり、怪異に立ち向かったりといった冒険譚になっている。
         「水戸黄門仁徳録」の挿絵
  

 江戸時代における黄門像は、幕府の内紛やお家騒動に際し、悪人の姦計を阻止し、正しいご政道をおこなう天下の副将軍、そして引退後は各地を巡見していろいろな事跡にかかわり適正に処理するスーパーマン的人物であり、それを水戸光圀に託して漫遊譚が生まれた。

 もともと、水戸藩内においては江戸定府のものと水戸在住の者の意思疎通のまずさから来る対立、いざこざがあり、藩の外の者に対しては「御三家」の威を借り横暴な態度で臨む風があった。これに対する反発があったので“水戸黄門”のような人物が悪人を懲らしめることに喝采を送る土壌があった。横暴な大名たちや権威に対する批判を光圀という人物に託してこの水戸黄門像になっていったのであろう。


筑波山登山 つくば北警察署の安全キャンペーンに協力 4月25日(土)

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   (注) 写真以外は つくば北警察署 配布のパンフによった。

水戸天狗党 筑波勢・田中愿藏隊の戦いと末路、天狗塚の話

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 水戸天狗党筑波勢の戦いの経過と末期ついて、明治時代に作家・横瀬夜雨(よこせやう)が『雪明り』(書物展望社)で描写している。

 横瀬夜雨は1878(明治11年)1月1日、茨城県真壁郡横根村(現・下妻市)に生まれた。本名・虎寿(とらじゅ)。別号に利根丸、宝湖。幼時、くる病に冒されて生涯苦しんだ。『文庫』に民謡調の詩を発表し、1905年詩集『花守』を刊行して、浪漫的な色彩で人気を博し、1907年河井酔茗主催の詩草社に参加した。昭和期には幕末・明治初期の歴史について研究した。1934年、急性肺炎により56歳で死去した。
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戦場から避難する時の庶民の知恵 
 戦場となる土地では田畑を荒され、家屋敷内の物資を奪われ、建物は壊され焼かれ、時には捕虜にされたり殺傷の憂き目に遭う。そのため戦が始まればいち早く戦場以外の土地や山に避難するが、家財・衣服等は急場にはなかなか持って行けない。そこで応急の処置として土中に埋めて、敵にわからないようにして逃げた。
 家の床下や上間に埋めると、放火されたときに火熱で役に立たなくなるから、大切なものは殆んど屋外の木蔭に埋めるのが常識であった。こうした避難民の侵略者に対する唯一の復讐は井戸に人糞を投人することで、この井戸水を使えば痢病にかかる。だから兵は敵地の井戸水は飲まず、「川水を飲むべいぞ、それも国が変れば、水があたるもんだ」と警戒するが、川水だって大小便や屍骸が流れて不潔である。

 
焼働(やきばたら)き  
  敵陣や敵城を攻める時、その付近の村落・街屋(まちや)が邪魔であった り、敵の防禦拠点になる恐れのある時、ここを焼火させることを焼働きといった。暗い夜に不意の放火で、将士に狼狽不安を与え、それに乗じて一挙に敵を減ぼすことが狙いであったから、戦術としてしばしば用いられた。その一方、敗軍が自滅する時に自ら火を放って灰燼の中で亡ぶこともあった。しかし一番迷惑するのは民衆で、戦閾員でもないのに延焼して家を焼かれて被害を蒙った。

       笹間良彦著「図説日本戦陣作法辞典」柏書房 2000年  

   以下、『雪明り』に描かれた水戸天狗党の戦いと末期である。
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 血盟団、五・一五事件の公判の初められようとする頃、筑波天狗党の遺族は山上に集まって七十年祭を挙行した。警察がやかましかったので、來会者は40人に過ぎず、天狗塚はいくつあるだろうという話が出た。

 当時囚へられた天狗は、例外なしに各部落の馬捨場で首を刎ねられている。正五位飯田軍造、天狗軍中強豪を以て聞えた木戸の軍造も、下妻の町外れで死骸を張付にかけられ、馬骨とおなじ穴に埋められている。

 押借と放火と殺傷とで遠近を脅かしてから、尊王攘夷は名ばかりに取られ、逃げる者は出ても、加はる者は無く、若年寄田沼玄蕃頭を目代として、十二諸侯(松平下総守鳥居丹波守、水野日向守、松平右京亮、土屋采女正、細川玄蕃頭、松平播磨守、堀内藏頭、井上伊豫守、松平周防守、丹羽左京太夫、板倉内膳正)の兵およそ1万3千人がひしひしと筑波をとり卷いた。

    藤田小四郎らは7月、筑波を下った・・・・・
 
           筑波山神社のロータリ-石段上

 7月藤田小四郎等まず山を下り、西岡邦之介等水戸に縁なき浪士は8月山を去った。

 藤田等は10月那珂湊を脱して下野に入り、上野信濃を経て、飛騨より越前に越え、木の芽峠の雪に阻まれて、一行800人加賀藩の手に落ちた。東山道百里を無人の境を行くが如く押し通ったが、所在に残した天狗塚は、探しようが無い。奮戰もつとも努めて今なお勇名を信濃路にうたはるる赤入道は誰だったか、赤入道の首は何処に埋められたか亦知るよしもない。 
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兵の乱暴狼藉
 戦においてはとにかく勝つことが目的であるから、数を多くするために家の子郎党や領内の農民を集める時には乱暴狼雑も働くような暴力専門のあぶれ者をも動員することがある。いわゆる悪党と言われる連中で、山賊・海賊・追落し(追剥・劫掠)を行なう輩である。勝つことに手段を選ばぬ場合には主将が彼等を利用したし、彼等も戦場での殺戮という最大の悪業を許された状態の中で、あらゆる悪業を黙認されるのを良いことに暴れまわった。

 もし規律を厳しくすれば、敵方に寝返って逆に不利となるから、勝つために許容せざるを得なかった。戦いによって戦場およびその付近や街道筋の住民に危難が及ぶのは当然であるが、こうした無頼の者の行為によって更に無辜の人に害を及ぼし、寺杜に乱入して仏像・神像を破却し建物を焼失させた。




      笹間良彦著「図説日本戦陣作法辞典」柏書房 2000年 

 私の語ろうとするのは、元治元年8月23日筑波に見切をつけて山を下り、潮來鹿島に押し渡った天狗党の始末である。勝に乘じた幕府が常陸下総の農兵を挙げて、これを狩り、これを鏖にして、所在に築いた天狗塚の由來である。  

 水戸領でも天狗は同じ手段を用いたろうと思う。筑波の根まはりでは一ヶ村に一人位づつの物持に差紙をつけて、山へ呼びつけ、「横浜征伐に先掛致しくれと申す訳にはこれ無く此(この)方共身命を拠ちて征伐致候間、かはりに其方共二枚着る着物も一枚着て、金子用立てよ」といひつける。いやとはいえない。出張して來るのは少し荒っぽい。  

 「27日高橋上総大將にて2、30人石下(いしげ)村へ參り、ひの屋竹村茂右衛門方へ入込、土藏を改め、300百俵有之、100俵は飯米に残し200百俵献納すべき旨申聞、それより鈴木平右衛門方へ參り候處、主人留守にて分り兼候趣申立、手代並妻女を縛りあげ大道にひき据ゑ放火すべく、鉄砲の火繩にて古傘10本ばかりとり寄せ火をふきつけ、今にも焼棄になるべき樣子に驚き、300両献納。」焼かれようとした鈴木氏は今町長、現主は私の従弟に当たる。  

 高橋上総は前に私の家に居たことあり、筑波の近間(ちかま)では何村の誰が金持か位は知っていたので、出かけて來たのであろう。下総國沼森八幡の別當だつたが、素行はよくなかつた。鬼怒川西の川尻では中山忠藏方におし入り拔身を下げてこは談判中、壬生の勢が來ると聞いては、曳いて來た馬にも乘らずにころびころび長塚の渡しまで來ると船が無い。うしろには聲(とき)、前は川。夕暗迫る河原の上を犬のように這って脱れた。壬生鳥居氏の手兵は閧の天狗のにがてだった。
 鯉淵(こひぶち)勢には一度も勝てなかった天狗だが、壬生にも始終痛めつけられた。

 徴発され強奪された金額は、酒井清兵衛の1400両を最とし、酒井長右衛門の700両、五木田利兵衛の270両、横瀬忠右衛門の200両等等、山南山北、凡そ名ある豪農富商にしていたぶられざるはなく、殊に酒井氏は邸宅まで灰にされて、また起つ能はず、今は家人のありかを知る者すら無い。

 筑波軍の金策は6月末から、野火の燃えるやうに廣がって行った。筑波近くは勿論、下総は豊田、岡田、相馬、埴生の各郡から、常陸は土浦、石岡、鹿島、行方から、飛んで佐原銚子の邊まで、村村(むらむら)、町町(まちまち)、土地によりては同じ村の同じ人に、二所から呼出しのかかることあり。信(し)太郎木原へ、吉田と名のって乘込んだ天狗は2000両ほど掻き集めた処へ、水戸領田伏の浪人宿から呼出しあり、吉田は似せ者と分った。似せ天か本天かわからぬやつにまで引ったくられるのだからいい面の皮だ。天狗の中で一番暴(あば)れたのは田中愿藏だ。

 田中は太平山からの帰りに、6月6日栃木を通りかかって、戸田家の陣屋へ壱万五千両の借用を申込、金が無ければ武器を出せと談じたが、流石にきかれず。田中は油樽を割りて火を30数ヶ所に放ち、野州第一の町を灰にした。
 結城を脅かしては町かどに小麥藁、朝鮮からを積みあげ、家老水野主馬を人質にとって筑波へ戻った。6月21日には眞鍋を焼いて、「眞なべ丸やけまつかんだの唄」を残した。一行200人、同じ紫のつつぽをはおっていた。

 田中愿藏隊が占拠した つくば市神郡の普門寺 
   普門寺は常陸の豪族小田氏の祈願寺である。  


 【関連記事】 国指定史跡「小田城跡」と周辺の遺跡

 
        二 

 田中愿藏は6月25日には那珂郡野口村にいたが、土兵に追はれて寶憧院に入り、また追はれて宍戸に逃げ、8月1日土師村に闖入して放火し、15日小吹平須を掠め、鯉淵勢に遭(あ)ひて秋葉に逃れた。鯉淵勢は田中の狼藉を防ぐために組織した鯉淵村の自衛団で、無頼漢の多い村だけに極めて強く、流石の田中も何べんとなく敗けた。初めは誰大將といふでもなかったが、9月の末には湊で勇三軍に冠たりといふ働をしたので、別手組多賀谷外記が頭取を命ぜられた。 

 以書附申進候爰許其後指たる義は無之候得共去朔日府中勢田中愿藏は多人数繰出候由鯉淵村より注進有之土師村地内に於て田中勢と右村近郷御領地村々の百姓共と多人数打合双方即死手負人出來田中勢土師村放火家数二十軒及焼失  

 結束すれば百姓も役に立つ。重たい鎧を着かざったさむらひ共よりは強いことが分って真剣にあらがふ氣になったらしい。

  太田市中警衛のため当村百姓共1000人許手分入口入口を固め候處人足の者共申合問屋雄介宅を初め10軒余押込道具畳建物に至る迄悉く打破右10軒の者は野口館小菅館に籠り居候者共(注、天狗を指す) 先日中金子押掠の節手引致し候者の由

 去月晦日額田三郷の者共大勢申合竹槍を携へ同村百姓彌兵次宅へ踏込及乱暴居宅及所持の板倉打破役人下知をも不相用 加合村の者共荷担いたし落合村庄屋周吾宅へも仕掛同樣の仕業に及

 去朔日朝六頃大宮に而早鐘を搗百姓大勢集り大宮彌三郎を打破夫より鷹巣村神宮を打破二手に分れ一手は八田村庄屋を打破東野村庄屋綿引勘兵衛同所神官 ●(土へん(鹵/皿)、鹽の俗字、192-8) 子村大貫新介門井村神職大越伊豫小瀬村庄屋井樋政之亟那珂村長山伊介野口平諸澤健之介野口村長役關澤源兵衛夫より長倉へ赴候との風聞  

 文献歴々。天狗がようやく足もとを見透かされ初めたあかしである。庄屋の打こはしは天狗の宿をしたせいであらう。神官がやっけられているのは天狗党に加はった神職の多いことを暗示する。  

 河内郡(今稻敷)の各村では、天狗が押借に來れば、駒塚昆沙門堂の鐘をついて、竹槍鉄砲で征伐することを申合せたが、福田村名主金藏方へ金策に來た天狗は、かくと聞いて安中へ逃げ出した。皆は其後へ押込んで金藏方居宅文庫藏酒倉等を灰にし、金藏の逃げ込んだ徳龍寺まで焼いた。   

 筑波山集屯の賊徒共悉御誅伐可有之旨其筋より御達に付村々に於ても其旨相心得賊徒共金銀押借に罷越候はば勿論潜伏又は徘徊致候はば竹槍其他得物を以無二念打殺可申候依て一村限り小前末々迄相互に申合置賊徒共へ同意内通致候者候はば假令親類懇意たり共聊無容赦取押最寄同村先へ早々可申出若見遁置追て相知候に於ては嚴重取糺候條難有差心得組合限申合萬行屆候樣大小惣代並寄場役人共精々世話可致

  八月十八日   關東御取締 

 筑波の天狗が散り初めたので、百姓の手を借りて押へよう。天狗と見たら二念無く打殺せといふのだ。あぶなくて仕方がない。のみならず壬生藩の軍令には、天狗打取候はば身に附候品々被下之とあり、もっともこんな軍令がなかったとしても、分捕らずにおく正直者もあるまい。 
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戦場荒らし       
 戦場となる地域では、その被害を避けるために庶民は皆避難する。合戦が終って軍がその地に滞陣すれば、兵士たちは戦場掃除と称して、戦場の死傷者を片付けたり、武器・武具を戦利品として取り上げる。 
 しかし勝った方が追撃戦に移って、戦場が移動すると、避難していた庶民も、戻って来るが、彼らはその被害の埋め合わせ、戦場の死傷者から金銭・武器・武具類を奪い、それぞれの専門の商人・職人に売って、損害の理め合わせとする。
 合戦場になった土地で一方が敗けたことが伝わると、その噂はあっという間に土民の間に拡がって、受けた被害の復讐にたちまち武装して落人狩を行なった。
  

落人狩 
 戦に敗けて戦場より逃走する武者を待ち構えていて、殺傷したり、身ぐるみ剥いだりする敵方の雑兵や、庶民・農民の行為をいう。元和元年(1615)の大坂夏の陣の折、徳川方より「落人改」の令が公布され、大坂方の残党に対する追捕取締が厳しかったが、大抵勝者方が敗者とその一族・家族を追捕した。しかしこのほかに一方が破れたのを知ると、戦った敵だけでなく、土民、時には僧兵までもが落武者一行を襲撃した。

       笹間良彦著「図説日本戦陣作法辞典」柏書房 2000年  

                三 

 天狗狩の中で哀れを止めたのは西岡邦之助等の客分だった。元來諸国から馳せ參じた有志で、水戸の内紛に腕貸する程馬鹿ではないから、藤田等が筑波を去つた後1月近く山にゐた。8月22日壬生勢に追はれて、鹿島に入つたが、佐倉棚倉の兵と神保山城守に追ひ廻され、10人20人づつ毎日のように殺され、霞ヶ浦のまはりを逃げ歩き、元いた筑波の西まで落ちのびながら、落ち切れず、所在の部落に天狗塚を残して全滅した。

 神保山城守は下妻では天狗に焼打されて逃れ去った大將だが、湊の包囲戰では手兵を失ひながら一歩も引かず、近習二三人と床几に凭りて陣地を守った旗下だ。

 8月18日、上野の人千種太郎、鬼澤幸介、眞家(まい)の眞家源左衛門にまず殺された。白縮緬筒袖胴着、小柳萬節襠高袴、琉球立縞帶、黄八丈脚半、紺足袋、白羽二重下帶、白縮緬鉢卷、太刀拵熊毛尻鞘かけ、短刀。
 金子は一朱銀一分二朱を持つていた。大將分のふところにしては。 

          四  

 次いで力丸(りきまる)君次、瓦谷(かはらや)にて捕へらる。千種は500人がかりで殺したが、力丸は何人がかりで捕へたか。「国のため捨る命はをしまねど路の葎となるぞ悲しき」「寥々月色斷頭場」の絶命の辞を残ししたのを見ると、月下に斬ったものらしい。

 「筑波山下柿岡53ヶ村の百姓共鉄砲槍を持ち染谷村鬼越山へ屯集山上にて毎夜篝をたき罷在山上へ陣取候樣子中々一揆原の振舞とは相見不申專風聞」千種太郎を仕留めたので、意氣衝天の勢で、山上に旗さし物をひるがへしたのだ。が天狗は一人も山にいなかった。

 8月29日よりは捕へらるる者、殺さるる者、獄死する者、数ふるに暇なく、9月1日には西岡邦之助、昌木晴雄、水野主馬、高橋上總、伊藤益良等小川を逃げて鹿島に行き、黒澤八郎、川又茂七郎、櫻山三郎、熊谷精一郎、林庄七郎、渡邊剛藏等と合した。みな筑波の客將である。 

 9月3日、棚倉の兵迫り來り、佐倉、宇都宮、麻生、小見川其他幕府直属の兵続々來り会し、船亦奪はる。6日西岡等400人は大船戸から田船はんきりに乘りて延方にのがれ出た。この間水路七八町に足らず、泳いでも渡り得る程だつたが、追討軍に連絡が無かったので、うまうまと脱出した。 

 400人は霞ヶ浦を横断する船が無いので、岸伝えに敵地を踏まねばならず、鼎の軽重はすでに問はれている。6日から7日8日9日と、鹿島行方2郡の農民は残党を狩り立つる犬となつて、詰り詰りへ槍を入れ鉄砲を打込み、いやしくも生けるは捕へて、下生村石橋の杭打場にて斬殺し、首は悉く野捨にした。

  400人の内、川俣茂七郎等80人はおくれて鹿島を出たが、海陸すでに道なく、或は水に入りて死し、或は自刄し、運のいい者だけが潮來にのがれた。

 7日朝五、行方の船子(ふなこ)村へ逃げこんだ11人は、忠兵衞といふ百姓を脅迫して五丁田から田舟(たぶね)を出させ、霞ヶ浦も三又近くのがれた処へ、小笠原某小舟数艘にて追いかけ、鉄砲をぶちかけた。11人はまず忠兵衛を切殺して後水に入る者9人、甲冑の士2人は舟に残りて刺し違いちがひて果てた。ほのぼのと明け渡る湖上の悲劇である。映画にもって來いの場面ではないか。

 8日、あと一足で下野に入ろうとする処で、片倉を燒いた伊藤益良は〇(土へん+(鹵/皿)、鹽の俗字、197-1) 子に至りて自殺し、川俣茂七郎は朝房山から大橋に逃げ、土兵に迫られて戰ひ死し、残党40人羽衣に入りて悉く土民の手に落ちた。  

 水野主馬はもと結城藩老、天狗の携ふる所となれる者、土浦より結城を志し、行々土兵に苦しめられつつ、10夜九つ時、猿島郡新和田にて捕へらる。7日府中にて左の腕を傷つけ、9日には左の顎を槍で刺されたといふ。今一あしで結城へ入れたのだ。水海道で斬られた。年25。白面の貴公子、秋冷の林中に夜をあかしかねて、如何ばかり長嘆したろうと思ふとあはれである。 

 腰ぬけ林と呼ばれた薩摩の林庄七郎は谷田部で捕へられた。梅村眞一郎は島原藩士、其友伊藤益良の死を聞き、潮來にひきかへして自殺した。古の風になしてよ大みいつふるひて今の乱れたる世を。  

 8日大山崎と申所へ浪人2人上陸1人無刀にて船頭の裝をなし人家有之処へ出かく金鼓のあひづにて村々百姓共駈集り捕へ申候1人山上に居候由山を卷候處此浪人年19計支度も相應襷をかけ数人を相手に防ぎ戦い中々手利云々終槍にて刺殺申候大將らしき身なりの由に候 

 水海道から鬼怒川すりあひの渡しを西へ越えた21人は、飯沼の弘經寺へ押入、古間木(ふるまぎ)へ通り、倉持の杉山を經て鴻山で二手に別れ、11人は芦ヶ谷を焼いて平塚に移り、又々放火、沼を渡つてから行方不明となった。一組は国生に出たが、亦林中に沒し去つた。

 昨9日昼頃火急の義にて手配不行屆旁漸く一人突殺申候門前を通行致候浪賊10人位山林へ逃込候を村々人足繰出し山搜し致候得共見當り不申昨10日沓掛辺より沼縁不殘村人足罷出山林を押し清水頭と申山にて1人突留昨日小堤にて7人生捕稻尾にて1人突殺し當村にて2人突殺し蛇池にて1人生捕逆井村にて1人突留仁連村にて1人生捕都合14人御地の振合に引比候而はまだまだ愚かの事に候 
   右書面認候内又々一人召捕候  

 突留突殺しが大概竹槍である。嘗って民間の財物を強奪し、又筑波山集屯の党に加はりし者は、允許を待たずして死罪に処すべしとの命令だから、見ず知らずの旅人や、道具の新らしい棒天振などは、容赦なく斬られ殺されている。 

          五 

 西岡邦之介は鉾田から小川に脱したが、9月7日雨に遭ひて夜鶴田の原に宿つた者は60人に足らなかった。8日府中の城下を焼いて、栗原越にかかった時、土浦藩士に要撃せられ死する者12人。酒丸に到りて5人、刈間にて2人。  

 酒丸安樂寺境内裏の笹山にて緋毛氈敷2人自害1人は宇都宮左衛門 傍に肩先鉄砲受候者1人居候を生捕斬首
 
 宇都宮は紫緘の革の鎧陣羽織を着其上ござ着て打たれ申候大小一腰金子二十兩有之 

 西岡自殺鎧傍に捨あり金銀糸にて縫候もの着用外3人亦綸子金銀の縫也 

 栗原にてきり取候12の首は俵に詰め馬につけ土浦へ送申候 

 話続々、ひろうに堪へぬ。

 西岡宇都宮等の遺骸は安樂寺に葬つたらしい。栗原越で死んだ12人は今でも「天狗塚」として残っている。槍原の金もちの爺さんが天狗來ると聞いて槍を担いで往來へ飛出したところを、いきなり斬り倒された。
 村の人達は笑止がって天狗塚へ花を捧ぐる人もなかったが、去る大演習の年、陛下栗原をお通りになるといふので、塚を改め築いて、はじめて「天狗塚」の高札をかかげた。改葬した時、拾ひ出した骨は19人分あつたといふ。素人ばかりでしらべたのであらうから信否は保留したい。若しかしたら古い塚か墓の中へ12人を投げこんだのではあるまいか。  

 宇都宮左衛門は戸田彈正ともいった。宇都宮藩主戸田侯の一族で、水野主馬同樣人質としてとりこめられていたのだとも伝える。とにかく筑波客將の末路は俵に首を詰めた悲劇が大團圓である。 

 珂北を荒し廻って、鯉淵農兵に狩り立てられ、逃げて八溝山中に入った田中愿藏の一隊は、食物のありよう筈はないから、1人2人と山を下りて捕へられ、愿藏亦捕へられた。女の着物を着ていた。部下60人、中には13、14の少年もいた。後手に縛られたまま倉へ押籠められ、水もめしもくれず。ひよろひよろになるのを待って斬った。磐城國塙での事だ。 

 愿藏は辞世を書く間手を緩めてくれと願ったが、きかれない。よんどころなく筆を口にくはへて絶命の辞を残した。愿藏等60人を斬った男は死體を懇ろに葬ってささやかな石を建てた。二三年前、史蹟保存の意味で其事を書いて大きな石を建てた特志の人がある。名は金澤春友。 

 私の知る限りでは天狗は例外なしに馬捨場へ捨てられている。棺も無く槨も無い。大勢だと大きな穴を掘って、蓆に卷いたままの尸を転がしこんだ。

 死囚の罪人はひとり天狗といはず、すべて馬捨場へ埋めたものらしい。私は幼時母と車で下妻の石堂を通ったことあり、塔婆二三本倒れたのもあり、かしいだのもあった。あすこには木戸の軍藏が埋められているんだよと教へられた。石堂は馬捨場である。下妻で斬った天狗の遺骸は皆此処に残っている筈だ。荒草離々、虫、秋に啼いてさびしき霊をなぐさめるであろう。

       田中愿藏隊陣営跡の碑(普門寺の赤門前)  

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「つくば道」の神郡と普門寺の水戸天狗党の碑  



「つくば道」の神郡と普門寺の水戸天狗党の碑

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神郡の街並       
 江戸城の鬼門(東北方)を守る筑波山の中禅寺(現・筑波山神社)を改築するために、3代将軍・徳川家光により整備された北条~神郡~筑波をつなぐ運搬路は、後に参詣道として発展して「つくば道」と呼ばれ、現在「日本の道100選」の一つである。 

              神郡から筑波山を望む

 北に筑波山を仰ぎ、東に連なる山々がのびる神郡。神郡条理という水田の遺構があり、古くから米作りや田の粘土による瓦作りが行われていた。 
 舘地区には蚕を御神体とする蚕影神社がある。 

 【関連記事】 筑波山神社と姉妹の関係にある神郡の蚕影(こかげ)神社  



普門寺の歴史 
 鎌倉時代末、元亭年間(1321年~1324年)、筑波山麓一帯で布教活動を続けていた乗海大和尚によって開創された真言宗豊山派の寺院である。慈眼山三光院普門寺と号し、平安末の高僧恵心僧都御作の阿弥陀如来が御本尊です。 

 常陸の豪族小田家の祈願寺として隆盛を極め、末寺507ケ寺を有し、10万石の格式を誇った往時もあった。江戸時代末までは数多く檀林が開かれた田舎本寺として、日本仏教史上重要な役割を果たした古刹である。しかし歴史の中で浮沈を繰り返し現在に至っている。

 伽藍、境内の佇まいは素朴であるが、静寂さが取得(とりえ)である。流れおちる滝の音、朝日にきらめく滝しぶき、夕日に映える水の流れ、大宇宙の生命の営みと大地の鼓動、生気を感じさせるものがある。

 桜咲く早春、風薫る5月、秋は楓の綾錦、四季折々の風情がありがたい浄域です。南高台からの筑波山は絶景ポイントで、カメラ、絵筆に最適地である。

 地水火風空は大自然の根源、大日如来の本体である。御本尊に手を合わせ、静かに滝辺に座して、大宇宙、みほとけの声を聴き、生きる悦びと心の安らぎを求められてはいかがでしょうか。

 

 本堂は寛政年間再建、客殿(講堂)が寳暦年間再建、鐘楼は寛政年間再建、平成13年再再建、赤門が天明年間再建、黒門の建立年不詳、書院は慶応年間新築、境内は9900平方メートルである。

 両界曼荼羅(江戸期つくば市重文)、小田家供養塔(室町期県重文)、十八世元雅大和尚入定遺跡、寳暦8年の什物帳、天狗党田中愿蔵鎮魂碑等が現存する。
                       南 無 阿 弥 陀 仏
                        文責 第四十九世 宥弘 
                        平成二十一年三月吉日  

  (この項、普門寺の案内板『普門寺の歴史』によった。) 

(注) 寛政年間: 1789年~1800年
     宝暦年間: 1751年~1760年 
       天明年間: 1781年~1789年  
       慶応年間: 1865年~1867年  

【関連記事】 筑波山麓 国指定史跡 「小田城跡」 

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普門寺の黒門と赤門  
 真言宗で鎌倉末期の創建と伝えられる。江戸時代には約300の門末寺院を持つ。室町から戦国時代には茨城南部を治めていた小田氏(つくば市小田に城跡)の北の祈願寺で、南の法泉寺(大岩田)、東の南円寺(手子沼)、西の大聖寺(土浦市永国)で四方を固めていた。

 9月23日の秋分の日には、歴史講演会と御施餓鬼(おせがき)が行われる。

 かつて白門とあわせて、山道が極楽への道となるように各門が配色されていた。梁の紋様や主柱の飾りから、江戸初期に作られた門が江戸後期に改修・再建されたといわれている。
   黒門         




   赤門  
   門の奥、本堂は再建中 完成は来年末の予定


    手前左が天狗党の石碑   

 水戸天狗党「田中愿蔵隊陣営の跡」の碑  

 

「田中愿蔵隊陣営の跡」の碑文  
 水戸天狗塔の叛乱は、元冶元年3月27日、筑波山挙兵に始まった 
  この集団を筑波勢と云う 彼らは天下に尊王攘夷を呼号注1した  
この1党は、4月10日日光東照宮に参拝し 14日には大平山に移動 馳せ参じた客兵も多く 5月晦日には総員壱千餘人となり意気軒昂 幕府追討軍を迎撃のため筑波山に帰陣した 田中愿蔵隊はこの筑波勢の一隊である 

 四中隊が當普門寺に駐屯したのは6月中旬である。爾後田中中隊は積極果敢に幕府軍と交戦した 是等草莽の諸隊士は戦死または刑死して悉く国難に殉じた 

 隊長の愿蔵君は此処に宿陣中何を想い何を考えていたのであろうか 福島県塙町の郷土史家金沢春友先生は遺書に賊徒の汚名を受けて10月16日塙で斬られた田中愿蔵は、勤皇討幕の念最も強い21歳の秀傑であったと評している 

 後に金沢先生と共に田中隊の雪冤注2に盡力されたのは 天狗騒の著者横瀬夜雨先生であった 
 茲に陣営の跡を記念し併せて鎮魂の碑とする  

 平成3年春 那珂湊市 関山墨正七十七歳誌してこれを建てる  
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 注1 呼号の「号」の文字は、碑文では「號」の俗字であったが「号」に置き換えた。  
 注2 雪冤(せきえん): 無実の罪をすすぎ清める。晴天白日の身となる。

 江戸末期、尊皇攘夷を掲げて水戸藩士が天狗党と名乗り筑波で挙兵、その一隊を率いる田中愿蔵が庫裏に陣を構えていた。村民から米やお金を強引に徴収したと聞く。
 田中隊はここを拠点に下館、下妻方面に出陣したようだと、寺の人が話していた。 

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島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (1)

水戸天狗党筑波勢の戦いと末路、天狗塚の話 

筑波山神社前にロータリーが開通     

 苅田・植田を捏ねる雑兵たち      

       笹間良彦著「図説日本戦陣作法辞典」(柏書房)303頁   

 戦陣でも金が要る

     笹間良彦著「図説日本戦陣作法辞典」(柏書房)192頁    

 戦場では何でも食料の足しにする  

     笹間良彦著「図説日本戦陣作法辞典」(柏書房)195頁   

  陣中の盗難   
 戦国時代の戦乱では、このような場面があったのであろう。
天狗党は金や食料調達などのため民家に押し入り強奪した。その代表格が田中愿蔵隊である。
     笹間良彦著「図説日本戦陣作法辞典」(柏書房)197頁    

 
               つくば市「まるごと筑波山」     

                  神郡マップ          
                神郡マップ(発行:つくば市)     

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 ●筑波山の祭りカレンダー    


 

 

ガマの油売り口上、聞く人・見る人との強い共感を作りにはアイコンタクトが大事! 

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アイコンタクト(目線)
 複数の相手に話す場合、大切なのが「アイコンタクト」(目線)である。「目配り」、相手の目を見て話す方法である。聴き手を説得し共感を得るためには、アイコンタクトが極めて重要である。
 
アイコンタクト(目線)の目的  
 ・聴き手を惹きつける。  
 ・聴き手の反応を探り、対応する。  
 ・何かを聴き手の心に伝える。 

 アイコンタクト(目線)の要領
 
 
    話すときは目を見て話す! 
 

目は語る 
 
●「目は口ほどに物をいう」
 何も言わなくても、目は、口で言うのと同じくらい相手に気持ちを伝えるということ。また、言葉でごまかしても、目を見れば、真偽のほどはわかってしまうということ。

●「目はこころの鏡」
 目はひとの内心を映し出す鏡であるの意から、目を見れば、その人の心の正、不正や言うことが本当かどうかがよく分かる。目は心の窓、目は口ほどに物を言う。 

     文楽「文七」 座頭役のかしら
           性根は人知れぬ悲しみを内に秘めた
                     豪快な中年の武将に使う。   
           
          平凡社「世界大百科辞典17」初版 423頁 

     文楽「舅」
        表面は冷たく装うが、内はやさしい性格の人物
             
        平凡社「世界大百科辞典17」初版 423頁

謙虚に誠実に 
●「目は豪毛(ごうもう)を見れどもその睫(まつげ)をみず」
  「豪毛」は「毫毛」と同じで、ごく細い毛のこと。(目は細い毛筋のような細かいもの間で見ることができても、自分の睫を見ることは出来ないから)他人のことは小さな欠点までよく見えるが、自分自身のことはわからないものであるということ。

●「目を掩(おお)うて雀を捕らう」 
 (雀をつかまえようとするには、雀が自分の姿を見て逃げてしまうのを恐れ、自分の目を隠して雀に近づくことから)愚かな策を弄して人をごまかしても、相手にはすっかり見すかされているということのたとえ。 





「目」はいろいろなことを表す
 アイコンタクトを効果的に働かすためには、「目」が何を意味するか、人間関係でどのような働きをしているか理解しておく必要がある。
 「目」に関連した言葉は多数あるが、下記はその一部である。

「目顔で知らせる」
(目顔は目つき、目の表情)あることを、視線の動きでそっと知らせる。  
 ・おおっぴらな言動がはばかられるときなどに用いられる伝達手段である。

「目頭が熱くなる」
 (目頭は、目の、鼻に近いほうの端)強い感動などで涙腺が刺激され、涙が出そうになる。

「目頭を押さえる」
 感動したり悲しみを覚えたりして出てくる涙を、指でそっと押しとどめようとする。

「目が据わる」
 目を動かさずじっと一点を見つめる。
 ・思いついた様、酒に酔ったさまを表すのに用いる。  

「目が散る」
 (見て興味がそそられるものがあって)心が落ち着かず、視線が定まらない。

「目角が強い」
 (目角は目じり。転じて、物を見る鋭い目つき、眼力)物をよく見る。眼力があり、鋭く見抜く。

「目が飛び出る」
 (目の玉が飛び出しそうな気がするくらい)ひどく驚く。また、ひどく叱られさまにいう。 
 ・「目の玉が飛び出る」「目玉が飛び出る」ともいう。 

「目角を立てる」
  鋭い目つきで見る。睨みつける。「目角に立てる」ともいう。 

「目が細くなる」
  うれしさや満足で、目を細くして微笑む。表情がゆるむ。 
           

「目が回る」
  めまいがしてくらくらする。非常に忙しいさまや速いさまのたとえ。 

「目が物を言う」
  口に出していわなくても、目つきで相手に気持ちを伝えている。

「目くじらを立てる」 
  「目くじら」は目の端、目じり。目を吊り上げて鋭く相手を見る。細かなことをとがめだてる。

「目先を変える」  
  見た目の趣向を変えて新しさを出す。 

「目先を暗ます」 
  当座の処置をやりくりしてしのぐ。その場を取り繕って誤魔化す。

「目尻を上げる」
 「目尻」は、目の、耳に近いほうの端。まなじり。鋭い目つきで相手を見る。緊張した面持ちで目を見張る。

「目尻を下げる」
  満足して、表情を崩して喜ぶさま。また、男性が女性に見とれて好色そうな顔つきをするさま。

「目で知らせる」  
   口で言わず、目つきで意思、気持ちなどを伝える。 
 ・目で教える。目で物をいう。目を使う。 

「目で物を言う」
   口に出して言わず、目配せで意思を伝える。 

「目と目を見合わせる」
  呆然としたり、あきれかえったりして顔を見合わせるさま。また、共通の思いを持つ者どうしが、ひそかに意味を込めて目配せをする。 

「目に物言わす」
   目つきで自分の気持ちを相手に伝える。 

「目端をつける」
  「目端」は、才知、眼力。その場に応じて、素早く適切な判断を下す。機転を利かす。

「目を配る」
  不行き届きのないようにあちこちをよく見る。目で合図する。目配せをする。

「目を凝らす」 
  じっと見つめる。凝視する。 「目を皿にする」
  驚いたり、物をよく見ようとしたりして、目を大きく見開くこと。
           

「目を三角にする」
  怒った目つきをする。怖い目つきをする。

「目を白黒させる」 
  ひどく驚いたり、」あわてるさま。また、苦しくて激しく目玉を動かす。

「目を据える」 
  目を動かさず、じっと一点を見つめる。ひどく思いついたり、怒ったり、酒に酔ったりした時の状態をいう。 

「目を注ぐ」
  目をある方向に向ける。注意を向けて見る。注目する。
          

「目を側(そば)める」 
  嫌悪・恐怖・畏怖などのために正視できず、視線を脇にそらす。横目で見る。「目を欹(そば)だてる」ともいう。

「目を背ける」 
  まともに見ることもできず、視線をそらす。転じて、ある事態や現実に対して正面から対処せず、逃避する。 

「目を逸らす」 
  視線をわきへ逸して他の物を見る。「目を外す」ともいう。 

「目を使う」 
  目つきで知らせる。目で相図する。注意して見る。 

「目をつぶる」 
  目を閉じる。眠る。転じて見なかったふりをして見逃す。知らないふりをして好きなようにさせる。また、気に入らない点があってもがまんする。

「目を止める」
  注意してよく見る。注目する。「目を留める」とも書く。

「目をなくす」  
  目がほおにうずくまってしまうくらい目を細くして笑う。嬉しそうな顔をする。

「目を離す」  
  視線を別の物に移す。脇見をする。また、一時的に注意を怠る。

「目を光らせる」  
  監視の必要があると感じて、気をつけて見る。

「目を引く」
  人の注意・視線を向けさせる。人の目を引きつける。 


「目を細くする」 
  うれしくて目を細くしてほほえむ。「目を細める」ともいう。
        埴輪 男子頭部 (「日本原始美術6」㈱講談社)
      

「目を丸くする」  
  驚いて目を大きく見開く。 
                   埴輪 踊る男女 (東京国立博物館)
           

「目を回す」 
  気絶する。忙しい思いをする。

「目を見張る」 
  驚いたり感動したり、また、怒ったりして、目を大きく開いて見つめる。

「目を剥(む)く」  
  怒りや驚きのために、目を大きく見開く。「目玉を矧ぐ」ともいう。

「目を向ける」 
  その方向を見る。視線を向ける。ある方向に注意や関心を向ける。

「目を遣る」  
  注意を引かれたほうへ視線を向ける。そのほうを見る。  


       この刀・・・・・! 
 



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「ガマの油売り口上」はプレゼンテーションである  

 

ガマの油売り口上は、お立ち合いとの共感作りが大事

 

ガマの油売り口上 視線が気になる


 

ガマの油売り口上は、見る人聞く人との共感作りが大事!

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ガマの油売り口上はどういう「場」なのだろうか 
   ガマ油売り口上は、本来、どのような「場」であったのだろうか。
  口上の流れを見ると、次のような「場」としてとらえることができる。

 口上によって、ガマの油を買わせる、そのために
 ・こちらの意図するところを相手に十分伝達する「場」である。
      ・・・・・・・ 効能は外傷などによく効くから買って下さいよ!
 ・相手に理解してもらう「場」である。  
      ・・・・・・・ 効能はごらんの通り。
 ・相手を説得し、決断させる「場」であり、
      ・・・・・・・ 効き目を実演し、分かったよ、買うよと決断させる。 
 ・行動を起こさせる「場」である。 
      ・・・・・・・ まけろよ! 買うよ! 
  ざっと、このような「場」である。  

口上の演技で留意すべき点 
 ガマの油売り口上は筑波山地域に伝承されたものを演ずるのであるから、新たなストーリーを創造するものではないが、相手の心をとらえるためには、次の点に留意する必要がある。

① 口上のポイントは、説得、共感、ドラマである。

② 演技・説得による戦いの場である。
 相手のニーズを満たしていなければならない。
 油売りの口上は、本来は、ガマの油を買ってもらうことが目標であったので、買うに値するものであることを示さねばならない。理詰めで話を進め、テストで効能を示すすなど、相手の“理”に訴える。

③ 油売り口上は「共感」を呼ぶ人間性の戦いである。
 理解しようという気にさせているか。このため、相手の心を揺さぶる態度の変化を起こさせる熱意は十分か。相手の感性や情に訴えるための誠実さはあるか、信頼感を与えているかなどに留意する。 

④ ドラマチックに見せる。
 説得と共感のダイナミックスのため、メリハリのある演技で刀の切れ味を見せ、薬の効能を教え、それをテストして、分かった、買うぞという共感を得るように演じる。

  口上を見物した人と写真に納まる口上士   
    ガマの油口上、即ちプレゼンテーションは
      「共感」を呼ぶ人間性の戦いである。
 

口上演技の技術 
① 構成の技術
 口上を理解されやすく、こちらの意図を相手に伝達しやすいように整理し、演出上の計算を行う技術が必要になる。
 最初に何を、次に何を・・・・というように、バラバラの要素を、スムーズや一つのユニットに作り上げる技術、順序だててまとめる技術である。
 ガマの油売り口上では、ストーリーが構成されているので、どの段階でどのような視覚素材を使うか、効果的な使い方はどうかなど工夫することが必要である。  

② 口上実演の技術
 一に練習、二に練習、三に練習、場数を踏むことが肝心。
 歌舞伎、日本舞踊、芝居、落語など 一流のもの を見聞きすると多くのものを学ぶことができる。
 “一流”に触れる機会を持つと学ぶこと、得ることが多い。  

③ 視覚素材を活用する技術
 “口上”の効果をより高め、助成するために必要な視覚素材を作成し、活用する技術である。

 視覚素材を活用することノメリットは、
  相手にとって 
    ・明快にする 
    ・記憶しやすくする  
    ・理解のスピードアップが図れる 
    ・印象を深める   

  口上を演ずる者にとって 
    ・順序よく計画的に進行できる(ようなものを準備する) 
    ・記憶できる(ようなに準備する) 
    ・自信と確信を持てる(ようなものを準備する)
   
  どうだこの通り!
    口だけで、ああーだコーダというよりも、
      見せて分るものはきちんと見せる!


④ 相手との強力な共感を作るアイコンタクト(目線) 
   アイコンタクトの目的は、 
   ・相手を引きつける 
   ・相手の反応を探り、対応する 
   ・何かを相手の心に伝える 


  このための練習 
   ・対面目線; 着席、目線、無言
          立って、目線、しゃべり  
   ・舞台からの目線    
          立って、目線遠くへ、無言 

⑤ ジェスチャーの技術 
 ジェスチャーは、手、体などの表現によって相手に口上を演ずる者の考えを豊かに伝える。
   ・上下左右、大小、長短、ものの形、ものの数や量 
   ・動く方向や動き方  
   ・意味の約束された身振り、手振り  

⑥ 声の出し方・・・・・・強弱、高低、遅速など 
 声の大きさを自分でコントロールするために、強弱をつけて1分程度の話を繰返えしてみる。  
 リズミカルな短い言葉ほど聞き手に快く、イメージを結ばせやすい。 
 腹の底から響くような声、明晰な発音、イントネーション、「ござりまする」という語法等を使い分ける。 
 話す言葉で重要なことは、
   ・強調したい点、念を押す箇所はゆっくり話す。
   ・さほど重要でない点、誰でも知っているような箇所は早口にする。
    ただし、早口の言葉が魅力のない話し方にならぬよう注意する。 


       言葉が分らなくても通じる


聞き手とラポールを築く
 ラポールとは「心が通い合っている」「どんなことでも打明けられる」「言ったことが十分に理解される」と感じられる人と人の間にある相互信頼の関係で、相手の心にかかるベルトと言ったものである。話すための技法の必須であるが、相手の奥底の心に訴え努力も忘れてはならない。




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「ガマの油売り口上」 はプレゼンテーションである  

ガマの油売り口上、相手との強力な共感を作るアイコンタクトが大事




幕末・維新期における水戸藩の脱落と水戸天狗党挫折の背景

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薩長土肥が幕末・維新での活躍を可能にした藩政改革   
 一般に雄藩といえば、大藩あるいは有力な藩という意味で使われるが、雄藩の拾頭とか西南雄藩などという場合は、幕末、維新の政局のなかで主導権をにぎった藩であり、討幕派として幕藩体制の主権者である江戸幕府とはっきり政治的に対決できた藩をさしている。 

 このような雄藩が天保期から拾頭してくる背景は何か、またそれが天保改革の過程から生まれてくるとすれば、当時多くの藩で改革が断行されたにもかかわらず、なぜ特定の藩だけが雄藩となりえたのであろうか。

 その可否は、一つには改革によって藩がどこまで絶対的権力を握る可能性をつかんだか、他の一つはその強化された藩の権力を、押し寄せる外的に対する危機の認識にもとづいて、軍制改革をどこまで徹底できたかにかかっている。 

 大塩平八郎の乱を初めとする各地の百姓一揆は、封建体制の危機の深刻さを示すものであり、それは、単に倹約とか士風刷新というような消極的な対策ではどうにもならず、貧乏のどん底にある中・下層の農民の没落を防ぐ抜本的対策が求めらることになった。 

 この時代、商品経済の発展で、幕末に活躍した薩長土肥の4つの藩といえども、それぞれ莫大な借金を抱えていた。これらの藩に共通して見られることは、思い切った財政改革と経済政策で藩の借金を解消し、特産品の保護育成に努めるなど藩の財政を再建している。

 これと並行して、この頃、アヘン戦争で清が英国に敗北したことに危機を覚え軍事改革にも取組んでいる。このことは、幕末に薩摩と長州は英仏軍と戦火を交えて、これらの藩は、戦いには負けたが、英仏軍に相当の打撃を加えたこともに現れている。
  
           水戸藩は学問には強かったが、世の流れに対応できなかった
      
         旺文社『大学受験 詳解日本史』

中途半端に終った水戸藩の改革 
 大塩平八郎の乱の翌年(1838)、藩主の水戸斉昭は将軍家慶に建白書を呈し、改革を進言している。「近年参州(三河一揆のこと)・甲州(郡内騒動のこと)の百姓一揆徒党を結び、又は大阪の奸賊容易ならざる企仕り、なお当年も佐渡の一揆御座候は、畢竟下々にて上を怨み候と上を恐れざるより起こり候」と民衆暴動の世直しの兆しを極度に恐れている。加えて外からの外圧は、大塩の乱と同じ年、浦賀に来航したアメリカのモリソン号によって一層、緊迫してきた。外交政策や海防政策を巡って幕府と同じく藩内でも意見の対立をもたらした。内憂外患で危機感は一層深刻なものになった。
  
(貧乏の藩に無能な老臣の跋扈) 
 水戸藩でも9代藩主徳川斉昭(烈公)のもとで天保改革が実施され、それがその後の藩の政治的動向に大きく影響することになった。尊皇攘夷の震源地として明治維新でも特異な地位を占めた。 

 水戸藩は、表高35万石の水戸藩はいうまでもなく御三家の一つで、副将軍の家格を呼称した名門であるが、貧乏藩という点でも全国屈指であった。紙、煙草、紅花、コンニャクなどの特産品もつくられたが、その総額は明治初年においても米・麦・大豆などの普通農産物88%にたいして、わずかに21%のわく内にとどまっていた。 

 水戸藩の天保改革の出発点は、藻主の継嗣問題であった。文政12年(1829)秋・藩主斉修(なりのぶ)が他界したが、あとつぎがなかったので、老臣たちは斉修の病気が重くなると、幕府の実力者水野忠成と結託して、将軍家斉の第20子・清水恒之丞をむかえ、つぎの藩主にしようとした。
 子福者の将軍家斉のおこなった子女分策の一例であるが、家老たちが、斉修の弟敬三郎(斉昭)という適任者がいるのに支持しなかったのは、かれの英才実行力を恐れたためである。 

(農民の反抗を恐れ農民には厳しかった) 
 この保守的老臣の計画に真っ向から反対したのは、立原翠軒(すいけん)・藤田幽谷の両学派に属し、水戸学の影響を受けた藩士たちで、水戸学の聖典といわれた「新論」の著者会沢正志斎や幽谷の子藤田東湖らがその代表であった。
 結局、斉昭をあとつぎとするという斉修の遺書も発見されたので、同年11月、斉昭の藩主就任が実現した。ときに斉昭は30歳であり、長い部屋住み生活をようやく清算することができたのである。 

 こうして新藩主斉昭のもとで天保改革のスタートしたが、改革派は郡奉行に起用された東湖、正志斎を中心に、文武奨励・富国強兵・農民支配政策と各方面にわたって藩制の危機克服にのりだした。 

 後期水戸学の改革論は、儒教の「愛民」思想にもとづいた徳治主義をかかげて、攘夷論、尊王敬幕論あるいは武士土着諭などの多彩な議論を展開したが、その基底には「外冠」とならんで「内患」である農民の反抗をおさえるために藩体制を強化しようという狙いがあった。 

(民生の安定より財政改革を優先した) 
 天保10年(1839)から4年問にわたって実施された検地と均田政策は、百姓一挨の蜂起を恐れながら、富有者の「廿人卅人ハ首をはね」る強硬な決意のもとに強行された。
 それと同時に検見制をやめて定免制を実施し、年貢以外の悪名高い附加税も廃止した。その結果、打出しは従来の表高より6万石余も減少したが、そのかわり総石高の半ばに近い畑の石代納(貨幣その他による代納)を一挙に倍増したため、年貢収入はわずか1000両の減額にとどまった。このため検地は民生の安定よりも、むしろ藩財政の安定に有効なはたらきをしたのである。 

(領内の商品生産が衰退した) 
 専売制の再編成もまた、その目的から出発している。これまで紙・煙草・こんにゃくなど34種の国産品は、江戸.大坂の豪商にその専売権を与えていたが、天保元年に藩の専売機関である物産方をおき、江戸邸内に会所を設けて国産品を集荷・販売させる方針に改めた。

 しかし藩専売制への切替えにより統制が強化された結果、領内の商品生産が衰退したため、ついに弘化2年(1845)に藩専売は廃止された。 

(軍備の改革に取組んだが)
 内政改革と平行して軍備の増強も推進された。鉄砲の鋳造・銃砲隊の強化など、軍備の技術的改変がおこなわれ、ここでも高島流の洋式兵学が指導的な役割を果たした。  
 斉昭は幕府に大船建造の解禁を建白しているが、かれ自身も蘭書にもとづいて軍艦建造に着手している。また軍備の技術的改善にとどまらず、天保7年から水戸学の主張を実行に移して、海防を目的とする藩士の土着も始められている。 

(藩の内紛)
 しかし水戸藩では、改革派同盟が天保改革の進行にともない、内部の利害が対立して分裂し、そのうえ対外危機の急追によって拍車を加えられたため、血で血を洗う家中内部の政権争いに陥った。このため政経・軍事のすべてにわたる挙藩的な体制はついに確立されないで終わった。これが雄藩の一つである水戸藩をして、幕末政局から落伍させる要因となった。 

水戸藩が幕末政局から脱落し天狗党挙兵が失敗した原因 
第1に水戸藩は、西南雄藩とちがって幕府にもっとも近い御三家であることが、幕府に対するその政治的立場を暖昧にしたということである。 それには尊皇敬幕を本旨とする水戸学の名分論の影響を無視することができない。 

第2は、西南雄藩では検地・均田法や抑商政策などをつらぬく藩権力の集中・強化の方向が、その後の幕末の藩政改革においても基本路線として維持されたのにたいし、水戸藩ではそのような天保改革の目標が、倭小化された党争のなかで見失われてしまったことである。 
 民間の富の所有者である豪農商の把握は不十分であり、商品生産も不徹底であった。 

第3に水戸天狗党の挙兵・進軍は、浪士の戦であって、農民や商人などの支持を受けた反乱ではなかったということである。
 彼らは主義に殉じたのであって、農民や商人など一般民衆のために決起したのではなかった。戦うための軍資金や食料は現地居住民からの“徴収”で賄うということになるが、戦場や進軍の経路沿いの居住民からみれば、“集団強盗”と言っても差し支えなかった。

          天狗党による軍資金の調達
 
            天狗党による武器の調達   
 
                  筑波町史編纂委員会 『つくば町史史料集 第2篇』1979年

 千葉県の佐倉惣五郎のように農民から義民と慕われるような人々の集団ではなかった。戦場の住民を敵にまわし、水戸藩内部が分裂抗争し、一橋慶喜からも支持されていない以上、戦いが挫折するのは当然の帰結であった。

【関連記事】
天狗党の筑波挙兵 義挙か不満分子の単なる反乱 金穀の徴発は“恐喝”、“強盗”だ!

島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (1)




ガマの油売り口上は、付かず離れず「間(ま)」が大切! 

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             白倉敬彦著 『江戸の吉原 遊び郭』 株式会社学習研究社 
         「艶色真似ゑもん 初めての出会い」
     初めての客が三蒲団の上でぎこちなく遊女に話しかけている。
     気まずい雰囲気になりそうなところで遊女が吸いつけ煙管に火をつける。              

「間(ま)」が大切!  
 話を聞いたから聞いた人が納得したり、聞いたことに基づいて行動に移すとは限らない。話を聞いた相手に何らかの行動を期待するためには、単に、話をするというだけでは十分ではない。
 職場で上司に何かを報告するとき、部下に何かを指示するときに、どんな伝え方をしているのだろうか。一方的にしゃべって空回りをしていないだろうか。伝えたいことを一方的に話しても、相手にはうまく伝わらない。むしろ、相手の理解を確認しながら、ゆっくりと伝えるように話したほうが、結果的に効率的なコミュニケーションがとれるものである。

 短い時間の中で伝わりやすくするには、テクニックが必要である。まず、声のトーンを落ち着かせること。高すぎず、低すぎず、やや低めのトーンで話し始めるだけでも、伝達力は違ってくる。また、話し始める前にひと呼吸、「間」をとることも大切である。



 丹田に意識を集中させ、そこに空気をためてから話しを始めてみる。上司などの前に行ったら、深くお辞儀をする。そのときに空気を腹にためて、ひと呼吸置いてみる。「間」ができ、上司はこちらの話を聞こうという態勢を整えることができる。
 
 ひと呼吸置いてから、相手の目を見れば、何も話さなくてもかなりのニュアンスが相手に伝わる。そのうえで、ゆっくりとした口調で手短に話せば、かなりの内容を理解してもらえるだろう。
 所用から帰ってくるなり、いきなり上司のところへ行って、「こうこうで、こうなりました」と説明しても、相子の側には受け入れる準備がまったくできていない。たとえ回り道のようでも、ひと呼吸入れて「間」をつくったほうが、相子に受け入れる準備をさせることができ、短い説明で理解してもらえることになる。

 また、「一瞬の沈黙」は、聴き手の注目を引き付ける効果がある。歌舞伎の『忠臣蔵』で斧定九郎が与一兵衛を殺害して、財布を奪い取り、封印したままで、中の金額を勘定する場面がある。
  歌舞伎役者は、「・・・・・四十五両、四十六両、四十七両、四十八両、四十九両」と口の中でブツブツ数え、最後の五十両だけを口から吐き出す。この間、観衆はしだいに静かになり「五十両」と声を出すときは、咳一つ聞こえない静けさになっている。
 このときの凄みのある声で「五十両!」と口から吐き出すとので観客をハッとさせる効果がある。
 この「一瞬の沈黙の効用」を生かしたいものである。急がば回れ、「間」の効果は大である。



 「ガマの油売り口上」は、本来はガマの油を売るため刀を使った派手な演技を伴う、今で言うところの「プレゼンテーション」だった。そこには合目的的に、より効率的に行うための基本的技術が必要である。
 プレゼンテーションの基本的技術を習得し、それをベースに各人のパーソナリティやノウハウを積み重ねていくと よりよい口上の演技ができる。 
 

 漢和辞典(旺文社「漢和辞典改定新版」大活字版)によると「間」は、下記の通り色々ある。これを見ると人間関係を律する上では、空間的、時間的、心理的な「間」のとり方が大切であることが分かる。  

口上演技における「間」  

間がいい 
 都合がいい。時機が合っている。運がいい。 その反対が「間が悪い」 
●聴き手に本物の口上を分かっていただくという心があれば、いつでも、どこでも都合がいいはずである。お立会いに自己顕示をするのか、ガマの油売り 口上を “提供” するのかという違いで「間がいい」となったり、悪いかったりする。要は、”自己中” の心を排すればいいのだ。

間が抜ける 
 ①音楽で、リズムやテンポ、タイミングなどが狂う。
 ②大事なところに、落ちがある。
●ガマの油売り口上を演じていながら、いつしか口上に関係ない話題をしゃべり悦になると、お立会いはうんざり、退屈感を覚える。おかしなアドリブ、“脱線”は不要である。 

間が伸びる 
 しまりが無い。緊張感に欠ける。 
●間延びしたガマ口上の演技をしていると、お立会いは一人二人とその場を去っていく。メリハリある演技をするためには、所要時間15分から16分で程度で口上を演じるとちょうどいいようだ。

間が持てない  
 ①あいた時間にすることが無く、退屈でどうしたらよいか分からない。 
 ②気づまりな相手だったり、話題に窮したりして、どうやって一緒にすごしたらいいか分からない。
●一般的に言って、口上を演ずる場合、口上を覚えていれば「間が持てない」ということはない。口上を覚えて人前で演技する初期段階では、あがったり、満足に覚えていないため言葉が出てこないことがあるが、しばらくして慣れてなれてくると、聴き手の受けを狙った意味が無いアドリブを加えたり、脱線することがある。これは厳に注意しなければならない。  

●万が一。次の言葉が思い出せない場合には、「別嬪さん(お立会い)がジーと見つめるから、あがっちゃーったぁ。何を言うか忘れちゃったーよ!」とか言いつつ思い出すか、省略して次に進むのも便法である。要は、しっかり口上を覚え、繰り返し繰り返し練習することが大事である。 

間が悪い 
 なんとなく恥ずかしい。決まりが悪い。巡り会わせが悪い。運が悪い。
●気取ったり、いいところを見せようなどという、へんな下心があるから「間が悪い」となる。お立会いに、本物のガマの油売り口上を分かって頂くという気持ちがあれば、「間が悪い」ということはない。「心」が伝わるように誠意をもって演じればいいのだ。

間口を広げる 
 仕事や研究などについて、そのかかわる分野・領域を広げる。 
●ガマの油、口上の演技、筑波山や神社、伝承芸能はもとより、これらに関連する諸々のことについて常日頃、勉強し、血ととなり肉となることが大事である。 

●18代、19代名人の口上演技は、聴き手に、“これが本物の口上だ”と納得させるものがある。18代は教職を勤め上げた人、19代は60年以上も老舗旅館の女将としてやってきた人である。
 老舗旅館のお女将は、マニュアルを見なくて臨機応変、どのようなお客様にも喜んでいただけるような応対が自然とできる。もてなしの”心”を伝えることができる。
 2人の口上演技には、人生を精一杯生きてこられたという経験や自信などが“隠れ味”となっている。これが、見る人に感銘を覚えさせるのであろう。 口上は”人”を表すもの、”心”を伝えるものである。

間を置く  
 時間を隔てる。また、間隔をあける。
間を持たす  
 次のことに移るまでの間、手もちぶたさで やりきれないといった状態にならないようにすること。会話が途切れたときなどに、何か話題を持ち出して、その場を退屈にさせないようにすること。 
●間をおきすぎて、スローテンポな口上は退屈感を覚える。適度な「間」を保つためには、お立会いとの共感作りのため目線(アイコンタクト)に心がけること。これによってお立会いをひきつけ、その反応を探り、また何かを伝えることが出来る。  
 また、手、体などの表現などによって自分の考え方を豊かに伝えることが可能になる。上下左右、大小、長短、ものの大小、数や量をゼスチャーで表現し、緩急、軽重、長短などを工夫すればよい。 

間を合わせる 
 音曲に合わせて拍子をとる。間に合わせに、その場に調子を合わせたことを言う。 
●口上を聞くため集まってきた人数はどのくらいか、その人たちは神社にお参りに来た人か、観光客か、登山客か、老若男女どのような年代か、聴き手は千差万別である。
 季節は春夏秋冬いつごろか、天気は暑いか寒いか、晴れか曇天か、風があるのか無いのか、強い風かそよ風か、何もかもが千差万別である。 

●その日、その場の環境に合わせて口上を演ずるためには、常に“本物の口上はこれです”という原点に立ち、聴き手の心の動きをよく観察しながら、緩急・軽重、長短よろしく按配し口上を演ずることに心がけるべきであろう。



「蝦蟇は日夜鳴けども人聴かず」 
  ガマガエルは日夜やかましく鳴くけれども、これを聴いて楽しむ人はいない。おしゃべりは世渡りに益はないように、ガマの口上を演技する時も、言わなくてもいいアドリブを排し、「間」をわきまえることが大事である。


                 付かず離れず程よい距離を保つ  
                   藤原千恵子編 『図説 江戸っ子のたしなみ』 河出書房新社

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「ガマの油売り口上」はプレゼンテーションである

第19代 永井兵助 吉岡名人の口上演技に学ぶ


 

 


筑波山観光案内所 

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 筑波山 Mt.Tsukuba    

  
  

  

    つくば市の特産品 
               

         
 
 
 

筑波山の伝承芸能ガマの油売り口上の歴史、衰退と復活の経緯 

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永井村の平助により有名になった
 ガマの油の由来は、1614(慶長19)年の大阪冬の陣に筑波山大御堂の光誉上人が徳川方として出陣し、外用にガマ成分を含んだ蟾蜍膏(通称“ガマの油”)を、内用に筑波橘の果皮(陳皮)を活用したところ効能素晴らしく、全国から参戦した将兵によりその効能は津々浦々に知られることとなった。

 1632(宝永9)年、徳川家光が筑波山大御堂に鐘楼を寄進いた。この鐘楼の音がガマの油売り口上に出てくる“山寺の鐘”のモデルになったと伝えられている。

 1737(元文2)年頃、常陸国筑波郡永井村(その後、旧茨城県新治郡永井村大字永井、町村合併で現在は土浦市の一部)に平助が生まれた。平助9歳の頃、同村の普門院の雑役に雇われた。16歳のころ出火にあい平助は責任を取って辞め江戸に出て行った。江戸深川のとある問屋の雑役につくことが出来た。

 あるとき、筑波大御堂参拝団講中に加わり、筑波山大御堂門前で口上よろしくガマの油が飛ぶように売れているのを見て、ガマの油でひと儲けしようと決心した。そこで江戸蔵前の居合抜歯磨き売り、香具師の元締、長井兵助の門下に入り修業を重ねるうちに親分の居合抜きの技にヒントに、紙切り、腕切りの刀技を工夫し大評判になり油売りの商売も繁盛した。  

 以来、香具師によりガマの油売りは全国にひろがり、ガマ口上を各地で聞くことが出来るようになった。後に永井村の平助は親分格になり、1769(明和6)年頃、永井兵助を名のり初代永井兵助が誕生した。その後、兵助の名は有名になったが、その消息は定かでない。郷里にも噂話らしいものも残っていない。ニセ兵助が各地に出没したという。 

明治時代以降第2次世界大戦までは衰退した 
 ガマの油売り口上は落語に取材され舞台芸能として垢抜けた姿で人気を呼んだ。油を売る商売ではなくあくまでも面白い芸であった。ところが、ガマの油の大道における販売は、庶民文の向上とともに薬の販売ルートが薬局を通した販売に変わったことやワセリンに着色した不良のガマの油が出回るようになり人気を落としていったこと、これと関連して粗悪品排除のため薬事法の改正があり大道における“薬”の販売ができなくなった。このため大道での販売は途絶えたが、その後もガマの油売り口上は庶民の間で伝承芸能の形で生き続けて来たのである。 

【関連記事】文豪夏目漱石らが描写した江戸・浅草の香具師「長井兵助」

 

戦争後、伝承芸能として復活 
 1946(昭和21)年、筑波町観光協会設立、町おこしのためガマの油を観光の目玉とすることにした。そこで筑波山でガマの油売り口上を伝承していた造園業の原政男氏、畳業の稲葉卯之助氏の2人に協力を依頼した。2人は観光には無縁であったが筑波山の観光開発のためならと快諾した。

 2人はホテルの観光客、公私の催しごとに出演するうちに筑波の街では口上の愛好者も増え、口上を学ぶ者も出てくるようになった。中でもホテル業の吉岡久子さんが苦労されて演技を磨き、女性口上士として人気を呼ぶようになった。 

 1948(昭和23)年のガマ供養祭には有名であった落語家を招きガマ口上の演技を公開した。これがマスコミに大きく取り上げられ、各方面から観光客が訪れるようになった。原氏と稲葉氏はマスコミで取り上げられ、各地に赴き演技をする機会が多くなった。

 その後、後述する第18代名人を襲名した地元の小学校長であった岡野寛人氏が伝承されている口上や落語の口上等を調査研究し集大成したものが世の注目を浴びるようになり、それが伝承芸能ガマの油売り口上として継承され現在に至っている。 

       19代名人襲名の記念写真 
         (平成15年11月22日)
    最前列白鉢巻の2人が名人、左19代吉岡久子氏、右18代岡野寛人氏 
 

第17代 永井兵助襲名追認の事情  
 1952(昭和27)年、筑波町観光協会では永井兵助の称号を得たいと調査した。第16代までの存在は分かったが行方不明であったため、断絶、再興という考えに立ち筑波町観光協会が第17代永井兵助の襲名状を授与することにした。

 1952年のガマの油売り口上大会に優勝した稲葉卯之吉氏に協会長から第17代永井兵助の襲名状が授与された。 

 1957(昭和32)年、第17代永井兵助・稲葉卯之助氏はNHKテレビ「夜店風景」出演のためNHKのスタジオに出向いた。そこに居合技の長井兵助(本名・倉持忠助)が招かれていた。稲葉氏はその立派な衣装、堂々とした立ち居振る舞いに圧倒されたという。突然、彼は「私は第16代ガマの油永井兵助を襲名しているが、ガマの油口上はやらない。ガマの油口上を伝承してくれる人を探している。筑波町が後援しているあなたに第17代ガマの油売り口上永井兵助襲名をお願いしたい。」とのことであった。 

 稲葉氏は咄嗟の申し出にあっけにとられたが、受諾する旨答えた。その日は、「NHKスタジオであるので仔細はあとで・・・・・。」ということでは別れたが、数年後、筑波町役場の榎戸総務課長に長井兵助(本名・倉持忠助)が死亡したとの連絡がった。これを契機に筑波町観光協会では、追認していただいたものと受け止め対応することとした。 

 1972(昭和47)年、第17代永井兵助が体調優れず、後継として岡野寛人氏に観光協会長から第18代永井兵助の襲名状が授与された。岡野寛人氏は茨城国体でガマの油売り口上を演じ、筑波山のガマの油売り口上が全国に知られることになった。

 1980(昭和55)年筑波山の地元では、ガマの油売り口上を筑波山の伝承芸能としてとらえる気風が生まれ保存継承の声が上がり、地元有志により初代兵助の慰霊碑とガマの油売り口上発祥の地の碑が筑波山梅林の隣地に建立された。1999(平成11)年、第18代永井兵助90歳を迎えたのを機に保存会が結成された。この年12月における会員は44名であった。

 2003(平成15)年、第18代永井兵助老齢のため吉岡久子さんが岡野氏の後を継ぐことになり観光協会長(注、つくば市長)から第19代永井兵助の襲名状が授与された。第18代はその後もガマの油売り口上の演技を続け、第19代とともに全国各地でガマの油売り口上の演技をつづけ、筑波山の伝承芸能の発展のために尽力された。 

(注)この記事は、ガマ口上保存会設立に参画し事務局長を務められた鈴木博夫氏作成の『筑波山ガマの口上由来』(平成13年10月10日)に関する資料及び鈴木氏から聞いた話を基に作成した。

【関連記事】
ガマの油売り口上 初代名人・永井兵助と刀について

ガマの油売り口上保存会の設立の経緯と「居合い抜き」

  

筑波山の生い立ち 筑波山は噴火しない安全な山 

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筑波山の地質 
 関東平野の北東部にそびえ立つ筑波山は、裾野を引いた姿の美しさから紫峰とも呼ばれ、和歌にも詠み込まれるなど古くから知られている山である。 日本百名山の一つにも数えられていまる。最近では、日本地質百選にも選ばれた山である。

         『筑波山地質見学ガイド』産業技術総合研究所          

 筑波山は よく火山と間違われるが、実はマグマが地下深くで固まった深成岩でできている山である。 

 筑波山の山頂部は斑れい岩、周囲は花崗岩でできている。花崗岩は風化に弱くぽろぽろ崩れるため、風化に強い斑れい岩の部分がとりのこされた。斑れい岩には割れ目が多くあり、大きく割れて奇岩を作る。

 筑波山の裾野は土石流などで流された斑れい岩の大石でできている。 


                 
       山頂をつくる斑レイ岩



       山腹に分布する花崗岩

       裾野をつくる巨歴


      氷河期以降の筑波山周辺   


 我が国には110の活火山がある。気象庁では、気象庁本庁(東京)及び札幌・仙台・福岡の各管区気象台に設置された「火山監視・情報センター」において、これらの活火山の火山活動を監視している。 筑波山は活火山ではないので、常時監視の対象外である。

気象庁発表、最近の噴火情報 

 【関連記事】  

御嶽山噴火、犠牲は戦後最悪、観測体制の充実を要する活火山数多あれど、登山は安全な名峰筑波山で決まり!

筑波山地域をジオパークに! 筑波山のジオサイト紹介

【参照文献】
『筑波山地質見学ガイド』産業技術総合研究所 地質標本館 2008年5月 


 

筑波山地域をジオパークに! 筑波山地域が抱え“自然の宝庫”

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 4月30日、筑波山地域ジオパーク推進協議会の定例総会が開催された。今までは構成6市長を中心とする10名で構成されていた協議会に、新たに民間機関や市民団体の方々等15名が加わり、合計25名の新体制が発足した。これに伴い、つくば市が担当していた事務局も構成6市に拡大した。 

日本ジオパークネットワーク(JGN)
ジオパークとは  
 地層、岩石、地形、火山及び断層など地球科学的に見て貴重な見どころ学び、楽しむ事を通して地域の魅力を実感する場所である。

 ジオ(地球・大地)に関わる遺産を保護し研究に活用するとともに、自然と人間の関わりを理解する場所として整備すれば科学教育や防災教育の場として、また観光資源として地域の信仰に活かすことが出来る。 

 ジオパークに相応しい地域とは、地域の住民が地元にある地球の自然環境に気付き、その意味や重要性を理解し、保護し活用していこうという意識が芽生え、発展させる取り組みを行っている地域と言われている。ジオパークに認定されると、国内はもとより世界に向けて、この地域特有の魅カを発信する機会が増え、ツアーや各種関連イベントの開催や商品開発などを推進しジオパークの魅力をさらに高めることができる。  

筑波山地域が抱え“自然の宝庫”  
 日本列島は、太平洋などの海域にたまった堆積物が西へ移動するプレートの沈み込みとともに当時の目本列島の源が位置していたユーラシア大陸束縁(現在の中国束部)に付加した岩石が、さらに中生代白亜紀以降に幾多の火成・変成作用を受けた複雑な地史を有している。

 筑波山から霞ケ浦にかけた地域には、生活に恵みを与えてくれる森や山、湖などの自然に支えられた営みであり、生き物、歴史と文化、風土や民俗、そして信仰など、多くのジオサイトが集まっている。日本百名山」のひとつで「西の富士、東の筑波」と並び称される筑波山は、信仰の対象として保護され、学術的にも珍しい植物や昆虫、野鳥も数多く見られる貴重な“自然の宝庫”である。

 筑波山のおよそ7千万年の時問を経た稲田石や筑波石が、氷河時代から現在にいたる山と平野と海の歴史を見下ろしている。現在の関束平野と東京湾の生い立ちが残されている霞ケ浦のまわりには、夕陽を受けた筑波山の“紫峰”を見上げながら刻まれた、地形と風土、そして文化の記憶が多く残されている。 

【筑波山ジオパークエリア】  
 

【筑波山地域の地形】 
      

ジオとともにある人々の営み
【信仰・歴史】
 筑波山地域の地形の特徴は、人々の信仰や歴史に大きな影響を与えてた。筑波山は、関東平野にそびえ立ち、硬い、斑れい岩による2つの峰と美しい山裾を有することで、古代より山自体を御神体とする山岳信仰の対象とされてきた。また現在の石岡市には常陸国の国府(国衙)や国分寺・国分尼寺が置かれ、大和朝廷は常陸国を日が昇る東に位置することから東北につながる重要な国とみなしていた。 

     常陸国分寺跡 


      筑波山 白蛇神社


     弁慶七戻り 

 

【民俗文化・芸術】
 筑波山地域のジオの独自性は、時代や地域を超えて人々に愛され、文化芸術を生んできた。甲乙つけがたし、ものやライバルを比較するときに、「西の○○、東の○○」と表現される。「西の富士、東の筑波」もその一つで、万葉集には筑波山を詠んだ和歌が25首ある。 

 また桜川市の桜は国の天然記念物に指定され「西の吉野、東の桜川」と呼ばれ、江戸時代には、隅田川堤や玉川上水堤をはじめ、江戸の花見の名所に大量に移植された。

     隅田川堤春景 
  
      朝倉治彦・鈴木棠三校註『新版 江戸名所図会 下巻』角川書店 

【暮らしと産業】  
 筑波山地域の人々の暮らしの大部分は、海水準変動に伴って誕生した平野部で営まれており、古代から現代まで、霞ケ浦は海の入り江から汽水湖、淡水湖へと変化し、その生態系とともに、産業や人々の暮らしに大きな変化をもたらしてきた。  

 古代から中世(奈良時代~室町時代)にかけて、常陸国府への物資の運送や東国三社(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)への参詣などにかかわって、水上交通が発達した。戦国時代から江戸時代にかけては、遠い場所に兵糧物資や築城の資材などを運ぶために、水運は一層発展した。

 また、江戸時代に水運が整備されると、様々な好条件から醤油醸造が発展した。江戸時代には、江戸の日本橋、蔵前への年'貢米の運搬、江戸の町で消費される木材、薪炭、醤油、清酒をはじめ、霞ヶ浦沿岸の村々のさまざまな農産物、特産品などを、高瀬船(百石船、干石船)に積み、大消費都市となった江戸へ運んだ。帰りの船には、衣料品、塩、砂糖、肥料に使う干鰯など、さまざまな生活用品が積み込まれた。このように、江戸と農村間の商品流通の推進役を水運が担った。

 明治時代には、さらに蒸気船の通運丸が就航し、定期航路が開設され、水運はますます盛んになっていった。昭和期になると、ディーゼルエンジン船のあやめ丸、さつき丸が就航し、水郷観光にも大きな役割を果たした。

 一方、明治、大正、昭和と常磐線などの開通、道路や橋の路線バスの運行などによる陸上交通の急速な発展によって、特に、第二次世界大戦後になると、水運は次第に衰退していった。

 霞ヶ浦は国内第2の広さを誇り、ワカサギ、シラウオ漁や沿岸地域の他は田を潤す農業用水など、湖の恵みは古くから人々の暮らしを支えて来た。しかし、元来は海から続く入り江で遠浅の霞ヶ浦は洪水や塩害などの被害が絶えなかった。そこで、大規模なz霞ヶ浦開発事業が行われ、現在では茨城県をはじめ首都圏の貴重な水源として利用されている。 平坦かつ広大な筑波稲敷台地と安定した地盤や、霞ケ浦等の豊富な水資源が大きな評価要因とされ筑波研究学園都市が国家事業として建設された。 

       明治時代の主な河岸

      松浦茂樹著『湖辺の風土と人間-霞ヶ浦』出版「そしえて」

       霞ヶ浦の水を利用している区域 

          2015年3月27日(金)読売新聞朝刊31面 

  

ガマの油売り口上 型を守り持ち味発揮、名人に必須な資質、芸が芸にとどまらず思索性も

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伝統芸 型を守り持ち味発揮  
 日本舞踊の人間国宝認定者で、85歳の現在も一線で活躍する西川扇蔵、長男箕乃助、長女の祐子の親子が、2013年9月20日午後6時半から東京・三宅坂の国立劇場でリサイタルを開いた。それに先立って読売新聞が掲載したインタビュー記事である。
 

【無形文化財】
  芸能、工芸技術等の無形の「わざ」そのものを指すが、その「わざ」はこれを高度に体得している個人または団体が体現する。そして、日本国政府はこのような「わざ」のうち重要なものを重要無形文化財に指定するとともに、その「わざ」を体現する個人または団体を保持者または保持団体に認定する。
  

【人間国宝】
 人間国宝は、日本の文化財保護法第71条第2項に基づき同国の文部科学大臣が指定した重要無形文化財の保持者として各個認定された人物を指す通称である。重要無形文化財保持者を指して人間国宝と呼ぶ通称が広く用いられている。
 

【記事から抜粋】 
●「親子3人が各自の昧を発揮する。宗家西川流十世宗家としてその規範を示し続けている。」
  ・・・・・・・・各自の持ち味を発揮、規範を示し続けていく。

●「僕らの仕事は続ける、後世につなげる、多くの人に日舞を知ってもらう、ということに尽きる」と扇蔵。高齢だが顔色は良く、声に張りもある。「生まれた時から舞踊の仕事を続け、体に踊りが入っている。だから大変だ、苦労しているという思いを抱いたことがない」と言って笑う。
 ・・・・・・・・後世につなげる、多くの人に日舞を知ってもらう、ということに尽きると扇蔵。

●扇蔵「振りは一切変えない」と断言する。「変えてしまうと自己流になってしまう。自分を殺し、若い頃に教わった振りをそのまま続けることが、自分の気付かなかった良い面を出すことがある」と話す。
 "クリエイティブ"という言葉が氾濫する中で、伝統を守る姿勢は一貫する。
 ・・・・・・・・変えてしまうと自己流になる、自分の気付かなかった良い面を出す。

  

●「父が振り付けた西川流の財産。笑わせようと意識すると、父が常々言う。品の悪いものになる。型のある中で、いかに面白い踊りにできるか」と箕乃助。 
 ・・・・・・・・笑わせようと意識すると、父が常々言う。品の悪いものになる。

  

●祐子は、「初めての踊りだが、父が目を光らせてくれている中、幼少時からの自分の積み重ねを信用して模索を続ける」と意欲を示す。
 ・・・・・・・・幼少時からの自分の積み重ねを信用して模索を続ける。

●扇蔵は「20代の第1回から皆勤だったので残念」と語るが、「内容の深いもので、年相応の踊りと思っている。過去の蓄積を生かす」と笑顔で抱負を語った。
 ・・・・・・・・内容の深いもので、年相応の踊り、過去の蓄積を生かす。
    

がまの油売り口上の名人に必須な資質
 芸が芸にとどまらず思索性を持つべきこと 
 「がまの油売り口上」(芸能、技芸)を単に売買のための単なる技術的な問題としてのみ捉えることをせず、「がまの油」を売る実生活的な面と技芸を一体的に捉えるべきであり、常住坐臥が“芸”を高めるための契機であり、修行である。

 これを実践されたのが18代名人・岡野寛人さん、でありホテル「江戸屋」の大女将である19代・吉岡久子さんである。2人の口上の演技には倫理性、道徳性がそのまま“芸”に表れているがゆえに、見る者は、芸の向上は同時に人格の向上であると受けとめることができる。

 また、伝承芸能には、言葉に表せないこと、説明できない身体の動き(「暗黙知」、経験や勘に基づく知識のことで、言葉などで表現が難しいもの)を体得しなければならない。このため直接の師弟関係が重要な意味を持っているのであり、技芸の水平方向的なひろがりよりも垂直方向的なつらなりを優先しなければならない。このような考え方は、芸という観念の確立、心境や境地を特に重視する芸術観の尊重、芸系のたしかな伝承、芸が芸にとどまらず思索性を持つことによる内容の深化などの効果をもたらす。
 単に口上を演ずるだけでな、内面的、思索性などが演技から感じ取られることが、がまの油売り口上名人が具備すべき必須の事といえる。

                 筑波山ガマの油売り口上
        内面的、思索性などが演技から感じ取られること


      18代(左)と19代(右)名人 

 
   

筑波山地域ジオパーク構想における つくば市認定無形文化財「ガマの油売り口上」のあり方

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保存会の発展と課題
 筑波山ガマの油売り口上保存会か平成11年7月、地元有志によって設立され16年経過した。この間、会長、代々の名人および会員一同が「ガマの油売り口上」の伝統的な「わざ」を錬磨向上するとともに会員募集と研修の傍ら、会員有志がそれぞれの地域のイベントなどで実演するなどの活動を展開した。このため設立当初44名であった会員が現在104名に増えたことは喜ばしいことである。

 他方、会員の増加は会員が全国各地に点在することになり、意思疎通が円滑を欠き、遠隔地の者が筑波山に集い筑波山神社で実演する機会はほとんど無いか、あっても極めて稀という状況を呈している。  

 また、保存会が設立された平成10年代初頭は、バブル景気が崩壊した後であったが、その余韻が残っていたので、観客の反応は現在と正反対で、やじる者、冷やかす者、からかう者、何をやっているんだと軽蔑の眼を向ける者など多種多様であった。このため、口上の技能が下手であっても・・・・・私がそうであった・・・・・観客の言動に合わせて“掛け合い”をするうちに口上が終わるという状況であった。ガマの油売り口上を覚えた直後であったにもかかわらず、下手な私の口上が終わると足元に“お札”を置いていく人、写真をとる人、サインを求める人がいた。汗顔の至り、観客との“掛け合い”が良かったのであろう。今思えば隔世の感がする。 

 それが、「失われた20年」と言われる不景気の世になると徐々に観客の反応が少なくなり、つい最近までは、じっと見ているだけで、面白いのかつまらないのか反応が乏しくなってきた。恰も天皇皇后両陛下の前における展覧口上よろしく“ご誠実な方”が多くなった。このような観客の反応が「動」から「静」と変わるに伴い口上を演ずる者の演技に、観客の“受け”を狙っただけのアドリブや動作が徐々に増えていくようになった。いつしか筑波山の“民俗”芸能であることを意識する気風も薄れかけ、伝承芸能が単なる芸能に化する萌芽が散見されるようになっている。 

 
【関連記事】筑波山地域をジオパークに! 筑波山地域が抱え“自然の宝庫”

 筑波山地域ジオパーク構想 
 さらに、つくば市など6つの自治体が“筑波山地域”を「ジオパーク(大地の公園)」の認定を受けるべく取り組んでいる。それは、地域内各地に散在するジオ(地球・大地)に関わる遺産を保護し研究に活用するとともに、自然と人間との関わりを理解する場所として整備し、科学技術や防災教育の場として、また観光資源として地域の振興に生かすことが狙いである。この構想の中で筑波山は、筑波山地域のジオスポットのシンボルであり、筑波山とガマの油売り口上は不可分の観光資源である。

 果たして、保存会の現状、なかんずく、我々が演ずるがまの油売り口上が観光資源として堪えうるものか甚だ疑問である。口上保存会の会員が商品「がまの油売り口上」を売る商人に例えるならば、安物やバーゲンセール向きの商品を提供することができるが、お客様が、“本物、値が張ってもいいもの”を求めた場合、その要求に応えられるかといえば、心もとない。

 特に2020年の東京オリンピックには、国の内外から多数の観光客が東京だけでなく近県各地の観光地に、筑波にも訪れる。それまでにつくば市認定の民俗芸能に相応しい口上を演技ができるよう、会員が民俗芸能についての考え方を確かなものにするとともに技と芸のレベルアップを図ることが喫緊の課題である。

 そこで、文化財の保護育成のあり方がわかりや纏められている文部科学省の「我が国の文教政策」(平成5年度)の「第1部  文化の振興 第3章 文化財を守り、活かすために 第3節 文化財の保存と活用の推進」 
 http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpad199301/hpad199301_2_054.html 
の考え方を参考に「ガマの油売り口上」のあり方を考察する。 

【無形文化財、人間の「技」そのものである】
演劇,音楽,工芸技術その他の無形の文化的所産で我が国にとって歴史上又は芸術上価値の高いものを無形文化財と言う。無形文化財は、人間の「技」そのものである。
「わざ」を体得した個人又は個人の集団によって体現される。    
このため、
①無形文化財は常にその内容,形式に変化の可能性を含みながら存在する。   
②その保護は「わざ」の体得者を通じて行われるという特性を有している。
③そのため、重要無形文化財の指定及び保持者の認定を行い、   
④我が国の伝統的な「わざ」を更に錬磨向上するとともに、伝承者を養成して、
当該重要無形文化財を次の世代に継承していく。
  

【無形文化財の指定・選択】
現在、国の指定が行われているのは、伝統的な芸能及び工芸技術の2分野である。
数多くの「わざ」の中から三つの面に基準を置いて指定する。    
①芸術的に特に価値のあるもの      
②芸能史や工芸史において特に重要な地位を占めるもの
③芸術的に価値が高く, 又は芸能史・工芸史において重要な地位を占め
  かつ,地方的又は流派的特色が際立っているもの
 重要無形文化財である「わざ」を具現化するために、これを保持する者を認定する。

【伝承者の養成、緊急を要す】 
無形文化財の保存には,単に保持者の「わざ」の保存を図るだけでは十分でなく、その「わざ」が人から人へと継承されていくことが重要である。 
この意味で伝承者の養成は,無形文化財の保存の根幹であり、緊急を要する。いわゆる「人間国宝」は伝承者の養成と自らの「わざ」の錬磨向上に努める使命を担っている。
          

【公開、公開それ自体、保持者等の「わざ」の錬磨・研究に結び付く】 
 芸能や工芸技術などの無形文化財の保存においては、常にその時代の人々から広く支持され、国民一般に愛好されることが重要な意味を持っている。無形文化財の公開は、伝統芸能や工芸技術を鑑賞する機会を提供し、国民の理解と認識を深め、愛好者や支持層を広げることに寄与するものである。

 また、公開それ自体,保持者等の「わざ」の錬磨・研究に結び付き、また、伝承者の養成に資する点で重要な保存の手段となっている。したがって口上保存会の会員は筑波山神社等で口上を演じ、己の技と芸の向上に努めるべきである。

【民俗文化財、伝統文化を理解する上で欠くことのできないもの】
 日常生活の中で生み出し、継承してきた有形・無形の伝承で、人々の生活の推移を示すものである。地域の風土や社会生活との関係の中で創造され、工夫・改善されて今日まで伝えられたものである。
 伝統文化を理解する上で欠くことのできない文化財として位置づけられている。 
 

 【無形の民俗文化財、風俗慣習及び民俗芸能である】
 無形の民俗文化財は、衣食住、生業、信仰、年中行事等に関する風俗習慣および民俗芸能である。重要無形民俗文化財の指定は、地域の人々がこれを保存し、後世に継承していけるものが対象とされる。民俗芸能や年中行事が対象の中心となっている。
 誰にもふるさとがある。そこには先人の足跡がある。筑波には無形の民俗芸能である「ガマの油売り口上」がある。
  

【保存・活用、後継者の育成が必須の活動、本来の時・場所での公開が重要】
 無形の民俗文化財は、その伝承母体となる人々によって支えられているものであるから、伝承母体そのものが継承維持されなければならず、後継者の育成が必須の活動となる。
 ガマの油売り口上保存会で後継者の育成の使命を担っているのは、代々の名人の技と芸を継承した名人である。後継者の育成は、芸系が前々の名人から前代、現在の名人、次代の名人と伝承されることが核心であって、会員の増加をもってよしとするものではない。

 このため、名人は会員の中にあって最高の技と芸を具備すべきであり、会員にその技と芸を伝授する“伝え方”も兼ね備えていなければない。

  また、無形の民俗文化財は、広く国民一般への啓発、広報も必要であが、本来の時・場所での公開が重要である。したがって、全国各地に愛好者や会員を増やすことがあっても、活動の本拠地はあくまでも筑波山および神社など筑波の町である。

 

 筑波山地域ジオパークをツーリズムとの関連で捉えるならば、“観光資源”の徹底した差別化を追及し多数の観光客がこの地域に来ていただくことと考えられる。そのためには筑波山以外には無いもの、現地に足を運ばないと見ることも触れ合うこともできないものを作り上げるという姿勢が重要であり、無形の民俗芸能・がまの油売り口上の継承も同じである。

 この地で演じられる口上の技と芸のレベルを高め、登山客に筑波山に行ったら がまの油売り口上をぜひ見てみたいと思っていただけるような口上の演技ができるよう練磨しなければならない。
 

         5月17日(日)の筑波山神社 
   登山客が多くなった。
   常磐線が東京駅から直通になったため茨城県に来る人が多くなったためか?
   写真中央の2人はグアムから来た夫妻


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ガマの油売り口上 型を守り持ち味発揮、名人に必須な資質、芸が芸にとどまらず思索性も 

  

 

ガマの油売り口上、インパクトが強い“接近戦”、直談判が人を動かす

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                インパクトが強い“接近戦”  

ガマの油売り口上、インパクトが強い“接近戦”、直談判が人を動かす  
 がまの油売り口上の実演に力が入るか否かは、観客の多寡やその反応に、多分に影響を受ける。ゴールデンウイークや秋の行楽シーズンなど老若男女、家族連れなど多くの人で賑わうときの実演は、観客の熱いまなざしに応え演技に力が入る。 

 演技に観客の気持ちがのってくる。と同時に口上士もその観客の熱いまなざしに応えて、演技に力がはいる。反対に同じ場所で演技をしても、観客が一人か二人といった閑散場合は、なんとなく醒めた雰囲気が漂う。 観客が口上士を“動かしている”からである。

 人が目の前にいる、ということが、人の気持ちを動かす。人が人に衝撃を与える。どのようなときにこのインバクトが強くなり、相手の人を動かすことができるのだろうか。これをまとめたのが、「杜会的インパクトの理論」(Latane,B.,1981)である。 

それによると、インパクトImpの強さを決める要因として、 
 ●影響源の地位や社会的地位、つまり 強度 S
 ●影響源との空間的、時間的接近つまり 直接性 I  
 ●影響源の数 N  の3つである。
 個人が受ける社会的インパクト(Imp)はこれら3要素の相乗関数
    Imp=f(S×I×N) として定義される。    

影響源の強度  
 この「社会的インパクトの理論」の衝撃3要因は、照明と手元の明るさとの関係で説明できる。手元の明るさというのが衝撃の強さ、つまり実際に人を動かす力である。  

 影響源の強度は太陽の明るさに例えると、曇っているときの太陽よりも快晴の太陽の方が手元が明るくなる。つまり、影響源の強度が強ければ、それだけインパクトが大きくなり、より人を動かすことができる。  

 権威を持っている人、社会的地位の高い人、他を圧倒する実力を持つ人、魅力的な人などは、そうでない人よりも相手の人を強く動かすことができる。強い”パワー”、カリスマ性がある人は、人を強く動かすことができる。  

直接性    
 太陽の光が強くても、日没、夜間と太陽が没してしまえば、新聞は読めなくなる。太陽が没しても、ろうそくの光で手元を照らせば新聞が読める。このように、強い力やカリスマ性が無くても、相手にぴったりとつき、面と向かい、行動すれば、相手へのインパクトは、強力なパワーを持っている人に劣らず強い衝撃を与える。

 人にものを頼むとき電話でお願いするよりも、一対一で直談判したほうが、相手に対するインパクトは強い。人が自分の考えや意思を相手に伝えるには、相手との目の距離が30cm~50cmの間になった時が、もっともよく伝わるようである。そして、そのときの条件としては、いつもの半分の声で話すことである。

 観客との距離を調整しながら演技をすることが、相手を制する。さらに、相手に触れる、触れさせるという最接近の方法も衝撃的方法の一つである。 

      四六のガマだよ! 四六のガマ!  

     
     (赤い血が)ぴたりと止まった! 
 
     
        ごらんの通り! 


影響源の数  
 60ワットの電球でも3つけると180ワットになり、100ワットの電球一つよりも手元が明るくなる。たとえ、一人一人は強力な影響源でなくても、数が集まると、トータルで大きな影響源となり、強いインパクトを与える。

 がまの油売り口上を演技するのは口上士一人であるので逆説的な話になるが、 観客が多くなればなるほど口上士の演技に熱が入る。“影響源”として存在する観客の“数”が口上士を動かし迫真の演技を迫るからである。 

      迫真の演技がインパクトを与える 

 
 「杜会的インパクトの理論」から人を動かすためには、強いパワーをもち、相手の人に近づき、できるだけ大勢で、直接、接することが有効であることが分かる。
 つまり、口上を演じ観客(の心)を強く “動かす” ためには、気迫充溢、自信満々で、観客に近づき、直接、訴えるような演技が有効であるといえる。  

【関連記事】
 「ガマの油売り口上」はプレゼンテーションである   

  


アクセス改善で茨城県がゴールデンウィークの旅行先ランキング2位に急上昇   

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ゴールデンウィーク、旅行先ランキングNo2   
 茨城県は2015年のゴールデンウィークでは、人気急上昇で旅行先ランキングNo2に躍り出た。「上野東京ライン」開業に伴い首都圏からのアクセスがスムーズになったため魅力度連続最下位であった旅行先ランキングが急上昇した。  

  「2015年ゴールデンウィーク、人気急上昇の旅行先ランキング」
  http://travel.rakuten.co.jp/ranking/special/gw/   

 人気ランキングトップ10 
 No1 高原リゾートや温泉街が人気!   新潟県 前年比+117.3% 
 No2 首都圏とのアクセスがスムーズ、  茨城県 前年比+104.6% 
 No3 迫力の雪の壁が話題、       富山県 前年比+102.4% 
 No4 北陸新幹線に沸く!        石川県 前年比+102.3% 
 No5 草津温泉「熱の湯」復活、     群馬県 前年比+101.1% 
 No6 開創1200年の高野山に人気集中、  和歌山県 前年比+98.2%
 No7 17年に一度の「善光寺御開帳」!  長野県 前年比+95.3% 
 No8 日光東照宮では「400年式年大祭」! 栃木県 前年比+94.4%
 No9 温泉×富士山が最高!       山梨県 前年比+91.6%
 No10 絶景!温泉地!見所満載、     山形県 前年比+89.7% 

茨城県の魅力度 連続最下位
 茨城県が2014年度も都道府県魅力度ランキングで最下位に選ばれた。2年連続である。公式サイトで自虐ネタに走り、県の魅力を全力でアピールしていたがなぜこうなった。
  ブランド総合研究所が毎年、国内1000の市区町村及び47都道府県を対象に、認知度や魅力度、イメージなど全74項目からなる調査を実施したもので、今年で9回目となる。最世界遺産もあるし自然も沢山、おいしい食べ物や観光地も沢山ある北海道は、魅力度が高かったので6年連続トップ。続いて京都府、沖縄県と続き1位から9位までは順位変動はなかった。 茨城県は、魅力度に相関の高い観光意欲度も6年連続で最下位であった。 
 

アクセス改善とツーリズムとの繋がり  
 従来、鉄道で茨城県へ行くためには上野駅などで乗り換えなければならず東京以南からのアクセスが不便なため“茨城に行くくらいなら他県の観光地に行こう”と脚を遠のかせていた。
 4月から上野東京ラインが開通したため「観光にいきたい」が「行けなかった」茨城権行くことが容易になり、「行けなかった」茨城県には、”秘境”が残っているので旅人が多く訪れるようになった。

 紅葉の季節の観光客、東京近郊で鉄道の駅に近いところにある高尾山、駅から遠いところにある筑波山、訪れる観光客の多寡もアクセスの難易による。当然といえば当然のこと、アクセスの良さが旅行先としての魅力や人気を左右する。時間的物理的距離が短くなれば移動が容易になり新たな価値を発見し、理解も深まる。これは、ガマの油売り口上にもいえる。観客との”接近戦”が観客にインパクトを与える。筑波山に来る観光客を増やすためにはアクセスの改善やクリーンツーリズムなどに繋げた魅力作りが必要である。

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筑波山地域ジオパーク構想における つくば市認定無形文化財「ガマの油売り口上」のあり方

ガマの油売り口上、インパクトが強い“接近戦”、直談判が人を動かす

 
   

無形の文化的所産 弟子は匠の技を体で吸収する 

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「苦労」が育む一生の技 
 つくばみらい市の都市農村交流施設「松本邸」のかやぶき屋根が、約60年ぶりにふき替えられている。作業を手掛けるのは、このほど黄綬褒章を受章した萱師・広山美佐雄さん(小美玉市、83歳)と若き弟子2人。マニュアルも設計図もない伝統技術を伝えるこの道60年の親方は言葉少なに黙々と仕事をこなし、弟子たちは体全体で匠の技を吸収していく。

               常陽リビング(5月23日)の記事 

【常陽リビングの記事から】 
無形の文化的所産の継承 
 松本邸は江戸時代に建てられた築150年の豪農の家とされ、明治初期頃に取手市宮和出から同地に移築された。作業現場の指揮を執る広山美佐雄さんは、かつて常総市の国指定文化財「坂野家住宅」なども手掛けたベテラン萱帥で、今春、「長年業務に精励し衆民の模範となる者」に授与される黄綬褒章を受章した。「常陽リビング」に藁葺き屋根の葺き替え作業をとおして親方から弟子へ技能が伝授される様子が掲載されている。この記事は演劇、音楽、工芸技術などある種の努力の結果として生み出されたもの(無形の文化的所産)の継承のあり方を教えてくれる。 

▼見て盗むしかなかった
①親方や先輩からは 何の指示もなく、見よう見まねで手を出せば決まって失敗。「あすから来なくていいぞ」という言葉が飛び交った。
 ・・・・・・経験を通して“見えないもの、形になっていないもの、数えられない何物かを感じることができるか否かで次のステージへ進むことができるか挫折に終わる。

②「こうなったら見て盗むしかない」と茅の種類や作業ごとに使い分けている親方の道具などをつぶさに観察した。
 ・・・・・・親方や先輩に「見て盗むしかない」というほどの技があればこそいえる言葉。

③「とにかく苦労の連続。でも、苦労したからいくつになっても忘れねえ」と広山さん
 ・・・・・・「苦労したから幾つになっても忘れねえ」、「一に勉強、二に場数」を踏めば「三は楽しむ」境地に達する。 

◆苦労すれば、力になる
④(弟子には)千取り足取り教えないが時代が変わったからね。聞かれたらちゃんと教えてっけどな。
 ・・・・・・弟子を育てるのが親方の務め、これは国が認定する「人間国宝」もガマの油売り口上も同じ。

⑤作業マニュアルや研修は一切なく、厳密な材料の長さは目分量と長年の経験がモノを言う世界。
 ・・・・・「目分量と長年の経験がモノを言う」、“暗黙知”を体得したか、ガマの油売り口上の演技にもこの有無が表れる。  

⑥そもそも自分から学ぼうという気持ちがなければ技術は向上しない。
 ・・・・・・・ガマの油売り口上も全くなのだろう。「自分から学ぶ気持」、とは「見えないものを感じるとる気持ち」も含まれている。

⑦親方の動きを見て自ら工夫し
 ・・・・・・確かな技を保持した親方とそれを学ぶ弟子の関係

⑧「何より失敗することで自分の力になっていく」と2人の弟子
 ・・・・・・「一に勉強、二に場数、三は楽しむ」

⑨「人に丁寧に教えてもらったことはすぐ忘れちゃうけど、自分で真剣に見て覚えたものは何年経っても忘れないんだよ」
 ・・・・・・自分で真剣に見て覚えたもの、感じ取ったものは忘れない。

⑩苦労して獲得した技術が広く応用できることも知っている。
 ・・・・・・「守破離」 
 

⑨ベテランといえども一つとして同じ形の屋根で仕事をしたことはない。だから、いつまで経っても修業なんだよね。
 ・・・・・・ベテランが演ずるガマの油売り口上も「どれひとつとっても同じ場で演ずることはない」から「いつまで経っても修業なんだ。」、「一に勉強、二に場数」それがないと「三に楽しむ」境地に達しない。 

⑩萱師の最終目標は「元通り」にすること。その家が建てられた当時のように美しい屋根に戻すこと。
 ・・・・・・ガマの油売り口上の演技が目指すものも「その家が建てられた当時のように美しい屋根に戻す」こと。ガマの油売り口上保存会設立の原点に戻り「つくば市認定地域無形民俗文化財」である ガマの油売り口上 のあるべき姿を追い求めることである。 

無形文化財と“大道芸”の違いを知る   
 ガマの油売り口上はどうあるべきか。“つくば市認定”“地域”“無形”“民俗”及び“文化財”の文言が何を意味するかを考えれば、目指すべき姿は自ずとわかる。つくば市の代表する無形民俗芸能であるから、つくば市民に受け入れられるもの、観光産業に寄与すべきものでなければならない。名人はそれが体現できなければならず、他はこれに準ずる。  

 保存会には「ガマの油売り口上士」になるためには「帯刀の仕方や納めるあつかいがスムーズにできる」との指標があるが、一部の会員を除き、これをまともにできる者がいない。
 初代永井兵助は居合抜きの達人だったと伝えられている。文豪夏目漱石は、幼少時に祖父に連れられて行った浅草で見た長井兵助のガマの油売り口上が小説「彼岸過迄」に記述している。居合い抜きが“売り”だった。正岡子規と親交のあった彼は明治30年に「抜くは長井兵助の大刀春の風」と詠っている。
 戦後、ガマの油売り口上の再興に際して、17代名人を襲名した畳職人の稲葉卯之助さんが出会った16代と称する長井兵助さんも、これまた居合いの達人であった。17代以降の名人は、どなたも居合いの素養がなかったため、いつしか刀を持ってガマの油売り口上を演じても刀の扱い方が忘れ去られてしまった。

 ガマの油売り口上に「エイッツ 抜けば夏なお寒き氷の刃 津欄てん沌玉と散る」とある。これは、刀で敵を真っ向から切り倒し、血振りのシーンを表現したものである。刺身包丁を振り回すシーンではない。ガマの油売り口上の演技で包丁を振り回せばパトカーがやってくる。だから刀・・・・模造刀か居合刀であるが・・・・・を使う。
 そのためには刀の扱い方のうち、構え方、刀には鞘があるから刀の抜き方、納刀、真っ向から切り下ろす動作及び血振りの5つのごく基本的な動作は身につけなければ画竜点睛を欠く。

   

 “民俗”という言葉を理解すれば“他県の歴史上の人物”も剣術と薙刀術の流派に関する言葉が口上で語られることはない。無形文化財であることを理解すれば、単に観客受けを狙った演技、例えば“パーと散すならば比良の暮雪か、嵐山には落花吹雪の舞い”の場面で見られる手品まがいの仕草や “大道芸” が演じられることはない。無形文化財と ”大道芸” の違いを知ることが大事である。

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原点に戻って考える「つくば市認定地域無形文化財・筑波山ガマの油売り口上」、核心は名人である!

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ガマの油売り口上保存会の設立  
  平成11年の夏、地元有志が、つくば市のみならず茨城県の伝承芸能の愛好者のすそを広げて後継春の指導・育成のため定例的な研修や情報交換の実施し技能の継承と地元の観光の活性化に貢献するため保存会を結成した。 
   

がまの油売り口上は、つくば市の無形民俗文化財 
 民俗とは、風俗や習慣、伝説、民話、歌謡、生活用具、家屋など古くから民間で伝承されてきた有形、無形の人間の営みの中で伝承されてきた事象であり、人間の生活には、誕生から、育児、結婚、死に至るまでさまざまな儀式が伴っている。こうした通過儀礼とは別に、普段の衣食住や祭礼などの中にもさまざまな習俗、習慣、しきたりがある。 

  民間の風俗・習慣・信仰に根ざして伝承されてきた芸能は、郷土芸能ともいわれ、祭礼・法会などに伴うものが多い。その土地の風土や歴史を反映しており、それぞれの地域文化のなかで大事な役割をはたしてきた。農村,漁村,都市の祭りや寺社の行事という形で,人々の生活,習俗,信仰と深く結びついており,一般の人によって演じられることが多く,通常,興行形態はとらない。戦後、町おこしのため再興された筑波山がまの油売り口上は筑波の町の民俗芸能である。 

 つくば市の文化財保護条例第2条によると、「文化財」は、(1)「有形文化財」、(2)「無形文化財」、(3)「民俗文化財」、(4)「記念物」に分類にされている。

 筑波山ガマの油売り口上は、第2条(3)で『民俗文化財』」と認定された芸能である。「民俗文化財」とは、「 (3) 衣食住,生業,信仰,年中行事等に関する風俗慣習,民俗芸能,民俗技術及びこれらに用いられる衣服,器具,家屋その他の物件で市民の生活の推移の理解のため欠くことのできないもの 」である。 

  * 

  
 

 平成25年1月、筑波山がまの油売り口上は、つくば市認定地域無形文化財に認定された。   

   【筑波山ガマの油売り口上は、民俗文化財】   
     

無形芸能、「名人」が技芸継承の核心
 がまの油売り口上保存会は、伝承芸能として愛好者のすその広げ、後継者の指導、育成はかるため定例的な研修及び情報交換等に努めている。国の文化財保護法の“伝承者の養成”についての考え方は、民俗芸能・がまの油売り口上についても準用される。
 

 技芸の継承のためにはそれぞれが技芸の練磨工場に勤め、その中で「名人」と同等のレベル以上の技芸等を有する者が次の「名人」を襲名することになる。この過程において「名人」の技芸等が会員に伝播されることが極めて重要であって、「名人」は自己の技量の練磨向上に努めるだけでなく他会員の練磨向上の「範」でなければならない。

     「名人」が技芸継承の核心 
   技芸の伝承は図にすると下図のようイメージだろうか。



地元観光の活性化に貢献  
 「ガマの油売り口上」は、筑波山観光の目玉である。したがって、名人の襲名式に市長ほか観光業に関係する人々が出席して執行され、観光コンベンション協会事務局長から認定書が授与される。このため、一般会員が筑波山神社などで観光客を前に口上を演ずるのは当然であるが、枢要な公開の場は「名人」の出番であり、それこそ真価を思う存分発揮すべきである。「名人」の演技は筑波山観光の目玉でなければならない。 

      名人の演技は筑波山観光の「目玉」!
     

 ノブレス・オブリージュ(仏: noblesse oblige)!

保存会会員の心構え 
 口上保存会の会員は実演に際しては、「筑波山ガマの油売り口上」がつくば市の貴重な財産であることを自覚し、口から出る文言、技や技、刀の扱い方及び衣装等「文化財」として相応しいものでなければならない。 
 

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がまの油売り口上 ゼスチュアを上手く使う

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ゼスチャーで話が具体的になり、 
     聞き手の想像性を強める  
 無限にある事実やことがらを、有限の言葉で表そうというのであるから、問違いなく表現し、相手に正確に受けとめてもらうことは、たいへん難しいことである。日頃、私たちは言葉を線状に連なる鎖のようにっなぎ合わせて、立体的な事実を表しているわけである。限られた言葉で、無限の事実や事象を間違いなく表そうというのは、どだい無理な相談である。ましてや、さまざまな 観客に対して話そうとすれば、言葉で表現できない、あるいは、ゼスチャーを加えたほうが効果的に説明できる。  

 たとえば、「箱」を説明する場合、言葉だけで「大きさが一辺50センチの正方形の箱で、色は・・・・」と説明するだけでなく、両手で宙に四角形を描きながら「一辺が50センチの大きさの箱で・・・・」と説明するとわかりやすい。  

 人は動きのあるものを目で追うものである。マジックショウなどは、この人間の本能を応用して見ているものに錯覚を起こさせる。動いているほうの手を見ているうちに、他方の手でトリックを仕込むわけである。話の上手い人の多くは、両手を自在に使いながら語っている。 

 身振り手振りを上手く使うと、自分への関心をそらさずにすむ。語る時は身振り手振りを上手く使うと、聞いているものにはわかりやすいものである。 
 このように、いわゆる、言葉だけで表現できないものを補うのがゼスチュアである。また、言葉で話し続けているなかで、言葉と違った視覚的表現が加味されることによって、音声言語としての単調さが破れ、話を立体的にする働きをするメリットがある。  

 ものごとは、視覚的に訴えればより具体的になり、聞き手の想像性を強めることになる。話の内容を正しく理解させ、聞き手の心をゆさぶる迫力ある話をするためには、ゼスチュアを含めて、体全体を道具にして話すことが欠かせない。 

        中間のお供の様子
     中間(ちゅうげん)とは武士のお供などをする奉公人のことで、武士と小人(雑用をこな)の間に
      位置することから中間という説がある。
   武士は外出するときには地位に応じて、連れて歩く供の人数が決められていた。
   中間は、このときに挟み箱(着替、ぞうりなどをいれた箱)持ちや草履取りなどの役目を果たす。
   武士が外出する際にお供する中間たちはどこまでもついていった。
   主人が厠(かわや)に入ればその側で出てくるのを待った。
         
         竹内誠監修 「図説江戸7 江戸の仕事づくし」 株式会社 学習研究社 

ゼスチュアと“くせ”とは違う  
 手をやたらに動かせば、それだけでゼスチュアになるというわけではない。話すときの身振りが機械的で、無意味なものであれば、それはゼスチュアではなく、むしろ“くせ”というべきものである。ゼスチュアは、補助的言語として意識的に使うべきものである。  

ゼスチュアは言葉の補足
 ゼスチュアは、私たちが話すときの手段として使っている、本来の意味の言葉を補うもの、つまり、補足の言葉といえる。「言葉」で表せない微妙な内容を、できるだけ分かりやすく、具体的に表現しようという狙いがある。
 また、無限にある事柄を、限られた言葉で表そうとすれば、たいへん大ざっぱな表現になってしまうこともあるので、詳細な面を補うという点からも、ゼスチュアを上手く使う必要がある。  

動きや動作には節度が必要 
 言葉と合わないチグハグな動き、けじめのつかないゼスチュアや過剰な動作などは、かえって聞き手にわずらわしい印象を与えたり、耳から入る言葉への注意力を鈍らせたりする。さらに、聞き手が話し手の動きの中に軽薄さを感じることさえある。そうなると、話し手の信頼感は失われてしまう。 

このため、次のことに気を配る必要がある。
●動作と話す内容が時間的に一致していること。ズレがないこと 
●動きが相手から見て自然であること 
●動きが明確で、あいまいさがないこと  

ゼスチュアの種類 
 ゼスチュアには、次のような種類がある。 
●指示的ゼスチュア、目標や方向、最終到着地など示す 
●数量的ゼスチュア、話のポイントなどあげるとき、指をたてたり、まげたりして数量を示すしぐさがあるが、それである。いろいろな意味での数量を示す 
●形態的ゼスチュア、大きさや形を示すなど、イメージを描かせるもの
●動作的ゼスチュア、動きをそのまま、具体的に視覚化するも
●抽象的ゼスチュア、Vサイン、ガツツポーズ、「私にまかせろ」と胸をたたくなど、何かを象徴してみせるもの 

 大げさなゼスチェアーは、日本人の感覚にあわないので避けたほうがいいようだ。いかにもやっているという感じを抱かせたり、キザだと思わせるのも避けたほうがいい。
 ゼスチェアーは、あまり不自然な感じを与えないように注意しなければならない。
聞く人に「推して知るべし」と突き放すのではなく、具体的なイメージがわくように語り掛ける。これによって観客は、口上を語る自分と同じ視点に立つことができる。

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ガマの油売り口上、 「語られる言葉」の美・・・・・なによりもまず自分を知ること 

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書かれた言葉と語られる言葉  
 われわれ日本人は、子供の時分から、文字を眼で読む勉強を強いられたせいか、「口から耳へ」伝へられる言葉の効果に対しては、あまり関心が向かない。もちろんその他にも原因はあるが、書かれた言葉、即ち文章について批評をする人も、「語られる言葉」即ち「談話」については、案外、無関心のように思われる。  

 大学高校の弁論部では雄弁術を学ぶであろうが、ここで言おうとするのは、必ずしも、そういう限られた技術の問題ではない。物を言いはじめた子供の語る言葉にも魅力に富んでいるし、農作業で疲れた農家の人が、道ばたで取り交す会話のうちに、時として、面白い調子を発見することがある。われわれの耳の周囲には、月並な思想の月並な表現が充満していることは事実である。しかしながら、稀に、われわれの耳は、その中に、ある種の「魅力」に遭遇して、忘れ難き印象を留め、快感を覚えさせるものがある。   

 その「快感」は、その人が自分の言葉を持ってをり、そして、その言葉を自由に使っているからである。言い換へれば、いかにもその人にふさわしい言葉で、その人でなければ表せないようなものを、最も適切な時機に、最もはっきり現はしているからだ。 ここでは、この快感を名づけて「語られる言葉の美」という。  

 「語られる言葉」の美は、これを「語り手」に求むべきことであるが、自分が「聴き手」の側に位置したとき、この魅力に鈍感であるばかりでなく、更に、自分に関係なく語られる言葉の中から、第三者として、この種の魅力を素早く捉へるという訓練に至っては、最も欠けているようである。
 口上を魅力あるものにするためには、「語られる言葉の美」を数多く発見し、新しく培養する努力が不可欠である。 「語られる言葉」の美は、「書かれた言葉」の美以上に、デリケートでかつ複雑な効果をもっている。それは、人そのものの生き方に近いからである。
          

言葉と人  
 「語られる言葉」の選択と配列は、「書かれた言葉」即ち文章のスタイルに相当するものである。多くの場合、これが「話の調子」を決定する要素である。そして、その「話の調子」こそ、人の「声ある姿」なのである。「文は人なり」という格言が半分の真理を含んでいるとすれば、「話しをしてみると、どんな人間かわかる」という常識的観念は、正に九分以上の真理を語っている。 

 ある人によって「語られる言葉」が、当面の事実と心理以外、その人の年齢、性、性格、教養、職業、環境、境遇、国、時代などを反映していることは、誰でも気がつく。「語られる言葉」の魅力は、こういういろいろな条件が、その人の「語る言葉」のうちに、最も色濃く、最も尖鋭に、最も調子高く、その上最も暗示的に表現されている場合に、極めてよく発揮されるのではないかと思う。 

 われわれは、常に、周囲の人物の「語る言葉」を通して、それぞれの人の人間的魅力を感じ得ることを喜ぶと同時に、何等かの方法によって、まずその人を知り、しかる後、その「語る言葉」の美的効果を批判するのである。 

  言葉の選択が、言葉の調子を生み、言葉の調子が、その人の「声ある姿」となるにしても、ある限られた言葉の表はれによって、その人の全幅が示されるものではない。「語られる言葉」の魅力は、ある人物の一面を、最も特色ある一面を強調した「意味ある響のリズム」であり、人間の魂が何ものかに触れて奏で出る即興曲である。  

 その人の属性は、「語られる言葉」に様々な特色を与えている。男には男の言葉があり、女には女の言葉があり、老人には老人の、青年には青年の、子供には子供の言葉がある。男の男らしい言葉は、女の女らしい言葉と共に、ある種の魅力を持ち、老人、青年、子供、それぞれの年齢に応しい言葉は、それぞれ別個の「味」を含んでいる。 

 性格や気質もまた、言葉を決定する大きな条件である。強気、弱気、神経質、多血質、偏屈、八方美人、何れも、それらしい言葉をもってをり、何れも、興味の対象となるものである。

 教養の程度は、最も言葉の選択に関係し、「物の言い方」を左右する。教養の種類方面によって、その色彩は多種多様である。「語る言葉」に理知的要素を欠けば精神的な感銘を受けることが少なくなる。
 知識そのものは、必ずしも「語られる言葉」に魅力を添えるものでなはないが、“知らない”ということが、常に「語られる言葉」を醜くするものではない。「衒学的なこと」「くどさ」「固苦しさ」などは、知識を売るものが陥り易い弊であり、「単純さ」「淳朴さ」は、往々、言葉に不思議な生彩を与えることがある。   

 「ぶっきら棒な物言い」が時に好感を与え、「如才なさ」が往々反感を招くのは、「語られる言葉」と、人物の性格、教養などとの関係を語っているが、これは職業も関係している。ある職業にはその職業を反映した言葉遣いがある。サラリーマンらしい物の言い方もあれば、商人らしい物の言い方もあり、教師らしいのもあれば、職人らしいものもある。
 そのいずれをとって、ただ、それだけではなんの価値もないが、ある場合には、それが、「語られる言葉」の魅力を構成する一要素となる。

 環境と境遇、即ちある人間の「育ち」「生い立ち」は「言葉」の上にも争えない特色を残し、複雑な影響をそこにみることができる。
 家庭の構成によって著しい違いがある。例えば老人がいるのといないのと、家族の数、性別なども関係がないとは言えない。勤め人、舅、末っ子、伯母、親友、先生、知人・・・・・一寸並べてみても、そこに、それらしい言葉使いがありそうに思われる。

 国と時代にも、それにふさわしい言葉がある。東北、関東、関西、中国、九州、みなそれぞれの言葉をもっている。そして、それは、みなそれぞれの地方を特色づける文化、風土や気質に根ざす言葉である。 

 時代については、「過去」は、われわれの「耳」で聞くことはできないが、現代にしても、既に、幾つかの「時代」を画していると言える。親爺の時代、息子の時代、孫の時代等があり、親爺は、息子との年齢の相違による「言葉」の違い以外に、時代の相違による「言葉」の「旧さ」を持っている。親爺の遣う言葉は、単に老人の言葉ではなくして、実に前時代の言葉なのである。即ちこの種の人は、その「語る言葉」を通して、一つの特色ある「時代」を映しているのである。それがまた、場合によっては、意外にもわれわれの興味を惹くに足るのである。健康な人の言葉は、病弱な人の言葉とどこかで背中合せをし、酔っ払いは酔っ払いの言葉を語り、政治家は政治家らしく物を言う。  
 そして、最後に、当面の「事実」と、これに対するその人の「心理」が、「語られる言葉」の内容と表現の根本を決定するのである。

                  
話術以上の話術、心の投影      
 話術というものがある。雄弁術を儀式的、本格的なものとすれば、話術は、着流し的であり、散歩的なものと言える。いずれにしても、いわゆる「術」の「術」たる所以を発揮しなければならぬ所に、意識的な努力と効果とを計算に入れている。

 この話術なるものが、「語られる言葉」の美を豊富にしているが、われわれの日常生活は話術を演じているわけではない。また、この技術を以て職業とするもの、タレントなどの中には、その技術以外のものによって、われわれを笑わせる手合があまりにも多い。高い趣味に裏づけられた話術の妙は、われわれを恍惚境に導くには相違ないが、これは、その「技術」を体得して、その運用を誤らない才能だけに許された特権であろう。

 話術とは読んで字の如く、「話をする術」である、聴き手を感動させ、面白がらせ、自分の言葉に耳を傾けさせる一種の技術であるが、「語られる言葉」の効果は書かれた言葉のそれ以上に複雑な要素を含んでいるから、「書かれた物語」の話術的構成は、必ずしも「話される物語」の話術的構成に役立たない。

 また、「物語り風」の話術的技巧は、「対話風」の話術的技巧と一致しない。殊に、話術の「鍵」ともいうべき「聴手の心理観察」は、この技術の複雑性を一層拡大するもので、聴き手が多い時、少ない時、殊に一人きりの時、その聴き手の種類、その状態、聴き手と自分との関係、自分たちを取り巻く雰囲気、それらはみな話術の根本条件である。  

 しかしながら、この「技術」は、「技術」として遊離し、それだけが目立つような時、その効果の大部を失うもことも否定できない。甲の場合に成功した話術も、乙の場合には成功するとは限らない。

  われわれの日常生活を豊富にするものは、即ちこの種の話術ではない。意識的にもせよ、無意識的にもせよ、「語られる言葉」の魅力は、人間そのものの「味」と、その自然な表現によって、最も高く発揮せられるものだと思う。そこから「話術以上の話術」が生れるのである。
 「なんでもないことを面白く話す」のは、結局その人間の精神的な特質が、言葉の有機的作用を通して、一種の心理的快感を与えるからであり、畢竟、才気とか、熱意とか、細やかな情感とかいう心理的音符によって、最も正確に、最も鮮やかに、何物かを聴き手の耳に伝へ得た場合を言うのである。

 話術を看板にした「話」に真の魅力がないように、いかに言葉巧みに述べられても、それは退屈以上の何物でもない。
 従って、「話術」の秘訣は、何よりもまず、「自分を知る」ということであり、「自分の話術」は結局、そこからでなければ生れて来ない。



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