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Channel: ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。
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筑波山の紅葉 11月26日(土) 筑波山神社周辺まで下って来た

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                  宮脇駅手前の階段で撮影

 11月26日(土) 快晴、大勢の人が登山に訪れていた。境内には二つの結婚式や七五三でお参りに来る家族ずれでにぎわっていた。ケーブルカー宮脇駅周辺のモミジは葉が落ち、紅葉は神社周辺に下って来た。
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12月3日(土) 筑波山神社の風景 筑波山の紅葉は終わりに・・・・・。

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12月3日(土) 筑波山神社の風景

筑波山の紅葉は筑波山神社周辺に下って来たが、終わりに近づいてきた。快晴の好天に恵まれ山頂を目指す人が多かった。境内では武道研究会の杖道、鎖鎌、居合などの奉納演武が行われた。

 1 神社駐車場付近で

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 4 御神橋で

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筑波山神社の歴史 

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                筑波山知足院中善寺があった筑波山神社  
       筑波山   

 筑波山は江戸城の北東の奇門にあたることから、将軍家の信仰と保護を受けた。 


筑波山神社の由来  
 筑波山神社は坂東無双の名嶽とうたわれた筑波山を境内とし、万葉集に「二神の貴き御山と神代より人の言い継ぎ」と崇められているように、古代山岳信仰に始る国内屈指の古社である。

 西峯男体山頂(871m)の磐座に筑波男大神(伊弊諾尊)を、東峯女体山頂(877m)の磐座に筑波女大神(伊捧再尊)を祀る。山下の南面中腹(270m)に拝殿があり、これより山上の境内地(筑波山)を御神体として拝する古代の形が維持されている。 

     男体山神社   
     
     女体山神社   
 

 筑波山を御神体と崇めまつる神体山信仰に発し、古来春秋両季に行われる御座替祭に供へまつる神衣(かんみそ)に御神霊を奉遷して御神体となす。 

 筑波山縁起によれば、当神社の創祀は遠く神代に始る。天地開開の初、諾冊二尊が天祖の詔をうけて高天原を起ち、天之浮橋に並び立ち給う、天之瓊矛(あめのぬぼこ)を以って槍海をかき探り給えば鉾の先よりしたたり落ちる潮凝って、一つの島となる。

 即ち二神は東方霊位に当る海中に筑波山を造り得て降臨し給い、天之御柱を見立て、左旋右旋して東西御座を替え給い、相対面なされて夫婦となり大八洲国及び山河草木を生み給う。次に日神、月神、蛭児命、素盞鳴尊を生み八百万神を生み給う。

 記紀に伝える「おのころ島」とは筑波山のことで、この故に筑波山は日本二柱の父母二神、皇子四所降臨御誕牛の霊山であり、本朝神道の根元はただ此山にあるのみと伝えている。

 その後 人皇の御代に入って、神武天皇の紀元元年、筑波山神社男体女体両宮が創祀され、崇神天皇の御世早くも筑波国が建置されて采女臣(うねめのおみ、物部氏)の友族筑波命が国造(くにのみやつこ)に任命された。

 成務朝の阿閉色命(あべしこのみこと)を経て大化の改新に至る まで、子孫相承けて祭政一致の制に某き世々筑波国造が当神杜に奉仕していたが、以後もまた筑波国造の称号を伝承して慶長の世に及んだ。

 景行天皇の御代日本武尊の御東征に当り、尊は当山に登拝し給いて連歌嶽の遺跡をとどめ給い、帰途甲斐国酒折宮(さかおりのみや)にて「にひばり筑波をすぎて幾夜かねつる」と御詠あり、連歌の濫しょう をなし給うた。神道歌道もと一つにて、連歌を「つくばの道」と称し、遂には日本独特の俳句を生んでいる。 

 次いで神功皇后三韓征伐の砌、敵国降伏のために御勅願あり、且つ応仁天皇御懐妊あるを以て安産を祈り給い、御凱陣の後神田を寄せ給うと共に御腹帯を当神社に納め給うた。これ当山の秘社常陸帯(ひたちおび)宮創祀の由緒で、神領民には鹿島神宮祭頭祭、御造営の料を充てることを御勅免あらせられ、鎌倉・徳川の世もまた旧慣により免ざられた。 

  降って皇極・天武両朝には圭田を奉ぜられて神礼を行はせられ、平安時代を迎えた。即ち嵯峨天皇の弘仁14年1月21日(823)従五位下筑波神、霊験顕著なるを以て宮社に列し、また文徳天皇の嘉祥3年9月26日(850)伊勢神宮、加茂神社に奉幣の時、当神社にも使を遣はして奉幣せられ(続日本後紀)。 

 以来漸次昇叙して清和天皇の貞観13年2月(871))男神を従三位、同16年11月女神を正四位下に叙せられた。更に寛平5年12月(893)両神共に一階を進められ、延喜の制に男神は名神大杜に女神は小社に列せられた。 

 醍醐天皇の延喜5年4月(905)、紀貫之は古今和歌集20巻を撰上したが、その序に、天皇の御世の長久を「さざれ石にたとへ筑波山にかけて」願ひ、その御聖徳を「広き大めぐみのかげ、筑波山のふもとよりしげくおはりまして、よろづのまつりごとをきこしめす」と述べ、筑波山が天皇の御聖代を象徴する霊山として厚く尊崇されていたことを偲ばせている。 

 武門の時代、建久2年(1191)源頼朝は安西三郎景益、上総介広常、千葉介常胤、茂木四郎義国等の武将を伴って当神杜に参詣、神領を寄進す。 

 弘安太田文に伝う、筑波社56町60歩と。また頼朝の異母弟、八田知家は筑波山麓に小田城を築き、且つ十男筑波八郎(明玄)をして筑波国造の名籍を継がしめ、筑波別当大夫に補しその支族筑波大膳を社司に任じて当神社に奉仕させた。 

 天正18年8月(1590)、徳川家康は江戸城に入城、東北にそびえる筑波山を仰いで江戸城鎮護の霊山と崇め、慶長5年9月(1600))関ヶ原の合戦に大勝の後、山司筑波八郎以来の社家筑波氏をことごとく追没して家康が厚く帰依していた大和国長谷寺の別当梅心院宥俊を筑波別当に補し、知足院を再興せしめて将軍家の御祈願所となし、筑波山神社御座替祭を以て江戸城鎮護の神事と定めた。

 然して慶長7年11月25日(1602)、筑波山神領500石(大字筑波)を寄進した。 

 宥俊の弟子二世光誉も家康の信任厚く、慶長15年(1610)江戸白銀町に護摩堂を建てて常府を仰付けられ、慶長・元和の大阪夏冬の陣には陣中に在って戦勝を祈願し、大願成就の後、元和2年10月(1616)2代将軍秀忠は当山の社堂伽藍を普請した。

         家光が建てた中禅寺の見取り図  
       
                   木村繁著『筑波山』 (崙書房 1977年) 

 さらに寛永9年(1632)春、3代将軍家光は新たに地を相し工を起して筑波山内の社堂伽藍をことごとく造営寄進し、同10年11月(1633)工成り輪奐の美を尽くした。 

 次いで5代将軍綱吉は知足院十一世隆光を重用し、貞享元年(1684)護摩堂を湯島に移し、更に元禄元年(1688)神田橋外に地境を倍加して宏荘な護摩堂を建立した。

 次いで元禄8年9月(1695)筑波山の本坊共々護持院と改称せしめ、元禄3年2月に続いて8年正月に都合千石(大字沼田、大字臼井の2村)を加増したので、筑波山神領は1500石となった。 

 護持院・知足院による寺領支配は江戸と筑波山に設けられた役所によって行なわれた。筑波山役所には代官が置かれ、筑波、沼田、臼井村の庄屋(村役人)を介して農民たちを掌握した。筑波町からは田畑に賦課される年貢のほか、小間物店や茶屋などの営業者に課された店年貢、山内の末社や諸堂から徴収した宮年貢があったという。     
                 (『筑波山神社』から) 

      筑波山神社造営由来記 

 
  (碑文)
  筑波山神社は、イザナギ、イザナミ ニ神御降臨の霊山で、
  西峰に男体神、東峰に女体神を祀り筑波山神社と崇め奉る。
  世々筑波造が奉仕し、嵯峨天皇の弘仁14年正月官社となり、
  延喜式名神大社に列す。 

  慶長の始め徳川家康は、当山を以て江戸城鎮護将軍第一党の
  御祈願所と定め、寛永11年三代将軍家光は山内の諸社堂伽藍を
  悉く寄進造営し輪○その美を尽す。御神領千五百石。 

  元治元年の筑波山義挙を経て、明治元年の神仏分離の命により
  当山は神体山信仰の古制に復し、明治8年拝殿を造営す。

  その後、昭和3年4月、文部省古社寺保存課安間立雄技手の
  設計管理にて唐波風千鳥風付銅板葺入母屋造りに改修し、
  昭和30年5月男体山御本殿を改築す。  

   昭和51年5月24日、25日の両日、天皇・皇后陛下
  当山に御幸啓遊ばされ、全山を挙げて御聖代を謳歌し奉る。

   越えて昭和54年御本殿御造営奉賛会を結成して、
  65年の風雪に堪えた女体山御本殿を改築し 

   更に記念事業として95年前建築の社務所に代えて
  「人民集賀」と御神徳を称えた常陸風土記縁りの参集殿を建立して
  先手堂に三重塔を配した江戸時代の裳構の再現、

  及び百年前に亜鉛板一、仮葺きした随神門屋根の改修をはかり、
  氏子崇敬者からなの浄財寄進により左の事業を行い
  明治以来の宿願を達成す。

    神明造堂板葺     昭和55年5月竣工 
    参集殿  新築    昭和57年4月竣工  
      寝階屋根唐破風付銅版噴入母造り 
    随神門屋根銅板葺替  昭和59年8月竣工  

   明年、筑波研究学園都市に於いて開催される
  世紀の祭典科学万博つくば‘85を迎えるに当たり
  御造営の由来を録して広大無辺なる神明の御加護を深く感謝し、
  天下泰平国家安全、万民弥栄を精祈するものである。

     昭和59年9月吉日 
    筑波山神社御本殿造営奉賛会 
 

     筑波山頂境界確定記念碑 


  (碑文)
 延喜式の名神大社、筑波郡筑波山神社男女二神の神体山と崇められた筑波郡筑波山の北側境界は奈良時代に遡る筑波、真壁両郡の行政境界である。

 筑波郡筑波山は江戸時代には独立した行政単位で、その北側は真壁郡羽鳥村に隣接していた。

 明治の新政府で筑波山は筑波郡筑波町壱番地となり、羽鳥村は真壁郡紫尾村に編入された。 

 大正時代を経て昭和5年5月に当時に真壁郡紫尾村長泉榮一氏が筑波郡筑波町長原幹寿氏に筑波山頂男体女体間の分水嶺境界を主張して境界の確定を求めたが6年9月満州事変の勃発により中断した。  

 昭和20年8月、大東亜戦争が終結し戦後の市町村再編で柴尾を合併した真壁町が交渉を再開して、昭和32年8月12日水 戸地裁に行政境界の確定を求める訴訟を起こし、同38年4月16日真壁町が全面的に勝訴した。 

 筑波町は筑波山神社を補助参加人に加えて、東京高裁に控訴し、一審で主張してきた筑波山頂の北側に残る大木の現境界を改め、古来からの三方境お迎え石、大石重を結ぶ歴史的境界を主張して、その立証に成功し、昭和59年6月30日に逆転勝訴した。 

 真壁町は最高裁に上告したが、昭和61年5月29日上告棄却の判決があり、筑波郡筑波町と真壁郡真壁町との筑波山頂に於ける境界は、東京高等裁判所昭和38年ネ第1179号境界確定請求の判決通り、筑波山の女体山一等三角点を基点として測定された図面表示のイ点の三方境から ロ点お迎え石、ハ点石重、ニ点の石、ホ点駒返石、ヘ点の石、ト点の石、チ点の官林石標264号の各点を順次直線で結んだ線であると確定した。 

 ここに筑波山頂に於ける筑波、真壁両町の行政境界問題の発生より確定に至る経過を碌し、筑波、真壁両町が勝敗を度外視して心魂を傾け、霊峯筑波山の歴史伝統を明確にして誤りがなく護持し得た喜びを伝えると共に、特に筑波山神社境内地の歴史的境界に着眼して本件を勝訴に導いた神田五郎弁護士をはじめ、関係者の功績を称え永く顕彰するものである。  

 因に、筑波研究学園都市に市制が施行されることになり、昭和62年
11月30日筑波郡大穂町、同豊里町、同矢田部町と新治郡桜村の4ケ町村が合併してつくば市となり、昭和63年1月31日に筑波町がつくば市に合併して現在に至る。
   平成3年10月吉日
  茨城県つくば市大字筑波壱番地
  筑波山頂境界確定記念碑建設委員会  


    
 
      随神門 

        

      

 

      御神橋  
         家光時代のままの御神橋  
 〔関連記事〕
 筑波山神社の碑「筑波山神社」を書いた子爵小笠原長生、清水の次郎長を語る

 

          大御堂 


 小田氏一族の筑波氏は筑波山中禅寺の別当であった。中禅寺は徳一が開創したと伝えられ、幕末まで威勢を誇ったが、明治維新の廃仏毀釈によって大半の堂塔が失われた。坂東三十三観音霊場札所大御堂が中禅寺の遺跡を伝えている。

      平成13年12月31日 NHKテレビで放映


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【筑波山の祭りカレンダー】  Ⅰ月は「睦月」、身分や年齢に関係なく往来し拝賀する月

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開運厄除・交通安全

  

  ●筑波山神社元旦祭 (1日)



 ●筑波山大御堂初護摩会(1日)
 ●元始祭 (1月3日)
 ●成人祭 (1月第2月曜日)
 ●筑波山大御堂初観音 (18日)
            
 ●平沢官衙遺跡 野焼き(1月末)

      (2014年1月25日)


●筑波山神社 年越祭 (2月10日・11日)
    平成28年筑波山神社年越祭は、以下の予定にて斎行される。
   2月10日  1時 2時 3時 5時 6時 7時
   2月11日  2時 4時 6時  
 11日には、歌手の相川七瀬様が参加予定。(時間未定)

  ●飯名神牡祭例 (旧正月の初巳)  
    


 ●泉子育観音 年越大祭 (11日) 
 ●筑波山大御堂追難会 (18日)
  ●筑波山神社 皇霊殿遥拝式(春分の日)
 
 ●筑波山福寿草まつり  


 ●筑波山梅まつり
     平成28年2月20日~3月21日   *
                    (2014年3月22日撮影) 

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第42回 筑波山梅まつり (平成27年2月21日~3月29日)

筑波山梅まつり開花状況 (2014年3月22日) 紅梅白梅満開、梅祭り23日まで延長

    
 
 ●飯名神社祭礼 (旧正月の初巳)
 ●蚕影神社蚕糸祭(下旬)

  
 

 ●筑波山神社春の御座替祭(1日)           
             2013年4月6日(土曜日)常陽リビンク 12頁  

 ●筑波山頂 カタクリの花まつり(4月1日~20日)  
 
   
 
   筑波山頂カタクリの里  
  広さ約2ヘクタールの敷地内には薄紫色のカタクリの花が群生している。       
 筑波山ケーブルカー筑波山頂駅から徒歩3分  
 筑波山ロープウェイ女体山駅から徒歩10分  
                  
  カタクリ   
  丘陵地や山地の落葉樹林内に生じ、早春、ユリに似ているがやや小形で帯紅紫色の花を開く柔らかい球根性多年草。ユリ科。
  鱗茎は柱状披針形で、長さ5~6㎝、径約1㎝。花茎は高さ20~40㎝で、中央下部に1対の長楕円形で紫かっ色班のある葉をつける。花は径4~5㎝で、うなだれて咲く。
  6個の花被片は同形で披針形、長さ5~6cm、外巻し、紅紫色で基部内側に3裂する暗紫色の部分がある。内側には6個の雄しべと1個の雌しベがある。 鱗茎は殿粉を含み、昔は採って煮食したりカタクリ粉を作った。若葉はゆでて食べることができる。 カタクリの根からとった殿粉を片栗粉という。白色の光沢ある粉末で、美味なため、昔は料理や片栗落雁(らくがん)など菓子の材料として用いられた。

  現在、カタクリ粉として市販されているものは、ジャガイモの殿粉である。 また食用の殿粉全体をカタクリ粉といっている。用途はクズ粉の代用として、くず湯にしたり、また “あんかけ”などに用いられる。
 

 
  
  北条大池の桜まつり

            2014年4月5日(土曜日)15時頃 撮影 

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          りんりんロード

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         神郡から見た筑波山

                  2013年4月13日 撮影 

      
 アクセス改善で 茨城県がゴールデンウィークの旅行先ランキング2位に急上昇

 ●筑波山つつじまつり(5月)      
 筑波山には約3,000本のつつじがあり、4月下旬頃山麓(標高300m)より咲きだし、5月中旬頃には筑波山頂(標高877m)で見頃を迎える。
 特に、つつじヶ丘やケーブルカー沿線は、多種多様の美しいつつじが群生するため、多くの観光客が訪れる。 『筑波山つつじまつり』の期間中は、苗木のプレゼントや「ガマの油売り口上」などのイベントが催される。
 

          つつじヶ丘        
 
  
 *          

 ●筑波山神社 大祓(30日)
 
     パワースポット巡り 出発地点 大杉前でお祓い

  梅林のアジサイ

 【関連記事】筑波山梅林 ホレストアドベンチャーのアジサイ



 ●小田八坂神牡祇園祭(第3土曜日)
 ●北条祇園祭り   (下旬) 
 ●筑波山七夕まつり (下旬) 

  
 ●筑波山ガマまつり 8月11日(木・祝日)

   


  平成26年のガマ祭り 神事

  
【関連記事】平成25年のガマ祭り
      秋晴れの秋分の日 第66回筑波山ガマまつり開催! 


 ●禅定(下旬)
 知足院開山徳一大士が、782(延暦元)年筑波山下に錫を止め、筑波山神社の二神を仰いで入山し、山腹に至り一神童化現して当山の神窟・霊泉を教示した。大士は大同年中 筑波山を結界(一説に弘仁年中 弘法大師の結界)して筑波山の東・南・北の三面に190余所の霊場を定め、旧暦5月25日・6月14日・20日を禅定日と定め、有信の徒を入窟させ諸神諸仏の尊容を拝させた。
 鎌倉時代に入って筑波山法印現われ、修験道その極みに達した。現在も神窟講社によって昔ながらの禅定が行われている。一般の方が参加できる禅定日は8月下旬で事前に筑波山神社へ申込が必要。 

 ●平沢の万灯まつり(8月27日、土)
   ろうそくの炎に照らされた行灯群は幻想的な光の回廊をつくりだす。
   [時間]18:00-21:00
   [場所]平沢官衙遺跡(茨城県つくば市平沢353) 【関連記事】 
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常陸の国は筑波の郡、歴史は古い筑波の正倉院 「国指定 平沢官衙遺跡」   
 

 ●まつりつくば 8月27日、28日 
   
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 ●普門寺施餓鬼会(彼岸中日)
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  ●夜の筑波山空中散歩 スターヅストクルージング

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 ●蚕影神社秋の大祭(下旬)

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 ●筑波山神社秋の御座替祭(1日)
 ●つくば物語   (上旬) 
 ●筑波山麓秋祭り (上旬) 

 茨城県のビデオデマンド配信「スクーピーレポート」
 「紅葉が見ごろを迎えた筑波山」(2015年11月18日配信)         

       

  ●筑波山紅葉まつり(11月)   

        筑波山神社 御神橋 2013年11月23日(土曜日)午前9時撮影 
             
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  つくば山麓ハイキングコース

                  つくば市 『まるごと 筑波山』   
 


 ●筑波山神社 大祓 (31日)
 ●筑波山大御堂納観音(中旬)  

   

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平成29年1月4日 仕事始めの日 筑波山神社の風景

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1月4日 仕事始めの日 筑波山神社の風景

 「仕事始め」の日、水曜日だから正月気分を一新して今日から仕事の人が多いのだろう、三日までの人出とは打って変わって午前は筑波山神社に訪れる人が例年より少なかった。それでも昼過ぎからは訪れる人が多くなった。

 1月は「睦月」ともいわれる。新たな年を迎え、身分も年齢も関係なくお互いに往来して拝賀し、親族一同が新年の良き日を祝う睦(むつ)び月であるという意が訛って、睦月となったと言われている。 

 今年の干支は酉(とり)、酉年、そこで鳥の名がつくことわざを挙げてみる。
・「立つ鳥跡を濁さず」・・・・・・・・・・・・・立ち去るも者は跡が見苦しくないように始末(注意)をするべきであるというたとえ。
・「一石二鳥」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一度の行為で多くの利を得ること。
・「鳶が鷹を生む」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・平凡な両親から、優れた子供が生まれることのたとえ。
・「今泣いたカラスがもう笑う」・・・・・機嫌がよくなった子供をからかうことば。
・「能ある鷹は爪を隠す」・・・・・・・・・・実力や才能のある者ほど、平生はそれを現さないことのたとえ。
・「一富士、二鷹、三茄子」・・・・・・・・夢でみるものの中で縁起のよいもの。
・「鴨がネギを背負ってくる」・・・・・・・こんないいことはない、おあつらえ向きであることのたとえ。
・「雀百まで踊り忘れぬ」・・・・・・・・・・・人間はいつになっても幼い時の習慣は改まりにくいこと。
・「雉も鳴かずば打たれまい」 ・・・・無用な発言をしたばかりに災いを招くことのたとえ。

 さて、今年はどのような一年になるのだろうか。

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 2 開運厄除・交通安全

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1月7日 筑波山神社の風景 快晴、人出多し

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 1月7日(土)、風一つない快晴、正月気分はこの週末でお仕舞、三連休の初日でしかも日・月曜日は天候が下り坂のためか終日人出が多かった。

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 7 快晴であるがスカイツリーは見えない
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 9 門松 「寸胴」
 門松に使う 竹の切り口には、斜めに切った「そぎ」と、真横に切った「寸胴」がある。
 「そぎ」は、徳川家康が始めたもので、生涯唯一の大敗を喫した「三方ヶ原の戦い(1572年)」の後のこと。甲斐の虎・武田信玄に対して、「次は斬る」という念を込めたのが始まりであるという説がある。門松に使う竹は節をからめて斜めに切った際、その切り口が笑い口に似ていることから、笑う門には福来る」ともいわれている。
 もう一つの切り口の「寸胴」は武士が好んだと言われている。現在では、商売繁盛を願う会社や企業・店舗などで使われるようである。

 10 随神門階段の梅

  11 午後2時頃、駐車場は満車状態

  
 

筑波山梅林の 蠟梅(ろうばい)

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 1月10日、筑波山梅林の 蠟梅(ろうばい)が今、満開である。 
 ロウバイ(蝋梅、蠟梅、臘梅、唐梅〔カラウメ〕、Chimonanthus praecox)は、クスノキ目・ロウバイ科・ロウバイ属に属する広葉の落葉低木の一つである。早生種では12月頃に、晩生種でも2月にかけて半透明でにぶいツヤのある黄色く香り高い花がやや下を向いて咲く 。

 名前に梅がついているためバラ科サクラ属と誤解されやすいが、別属である。唐の国から来たこともあり唐梅(カラウメ)とも呼ばれ、中国名も蝋梅であったことにちなむ。
本草綱目によれば、半透明でにぶいツヤのある花びらがまるで蝋細工のようであり、且つ臘月(ろうげつ、旧暦12月)に咲くからこの名がついた。花やつぼみから抽出した蝋梅油(ろうばいゆ)を薬として使用する。
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第44回 筑波山梅まつり 2月25日(土)~3月20日(月・祝)


筑波山神社の風景 1月14日(土) 今年一番お寒さ、参拝客・登山客は多かった

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  筑波山神社の風景 1月14日(土) 
 今年一番の寒さで風がつめたかった。なぜか参拝客や登山客が多かった。

 1 午前8時頃、神社の駐車場満車
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筑波山神社の風景 1月27日 陽だまりの温かさを楽しむにはうってつけ 

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                   雲一つないブルースカイ                  
 1月28日(土)、快晴で風がなく陽だまりの温かさを楽しむにはうってつけであった。午前8時頃、リュックを担いだ人と随神門で出会ったので「筑波山を登って来たのですか」と尋ねたら、「暗いうちに登って御来光を見て来ました」と言っていた。朝から雲が無いから太陽が見えた瞬間は見ごたえがあっただろうなと納得した。

  1 随神門 「年越祭」、”節分の日” 年越祭は2月10日(金)、11日(土)

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  10 余り知られていないが、日光東照宮より先に彫られた”三猿”の彫物が飾られている

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2月18日(土) 筑波山梅林の開花状況 大分咲いている

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2月18日(土) 筑波山梅林の開花状況 
曇で寒く太陽が見えなかった。
梅林の梅は大分咲いている。温暖な天気が続けば一挙に咲きそうである。
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〔ジオサポーター通信〕 イベント情報

2月25日(土)筑波山梅まつり始まり、紅梅満開白梅5分咲き

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今日から筑波山梅まつりが始まった。気候が暖かいためか昨年より梅の花が咲くのが早い。
2月25日(土)現在、紅梅は満開、白梅は5分咲きである。


  1 神事 
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 3 コンベンション協会、会長挨拶

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3月5日(日)筑波山梅林の開花状況 満開 見ごろは今日までか!

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 3月5日(日)、筑波山梅まつりが始まって一週間、気候が暖かいためか梅花は満開である。
寒くて強い風がふいたためか、花弁が枯れたり落ちているものがある。
この日あたりが最後の見ごろのようである。
梅林の特設ステージでは「白波五男 稲瀬川勢揃いの場」、日本舞踊、源太踊りや南京玉すだれなどが披露された。 

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筑波山梅林の開花状況 3月9日(木) 満開、下り坂

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筑波山梅林、3月9日(木)の開花状況 満開であるが峠を過ぎ下り坂、観梅は今週までといった状況である。
   撮影時刻:  8時30分~9時


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筑波山梅林と神社の風景(3月12日)登山客が多くなった 

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筑波山梅林の見ごろは、そろそろ終わりつつある。11日(土)、12日(日)は好天に恵まれ筑波山を登る人が多かった。 

 筑波山梅林 
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 筑波山神社周辺 3月12日(日)
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  18 大御堂の階段 造成工事中

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筑波山梅林、3月16日の開花状況 花がだいぶ落ちた

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筑波山梅林、3月16日(木)の開花状況 前日の雨風で花弁がだいぶ落ちた。

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筑波山神社の風景 3月18日 登山客が多かった

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 三連休の初日、18日 筑波山神社は多くの登山客でにぎわっていた。

 1 午前8時頃、駐車場満車


 2 パワースポット巡り前のお祈り

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 5  「三猿」を見物

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 7 新入社員の一団(?)


 8 午後1時頃、これから登る人、帰る人

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島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (2)

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 島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (1) の続き   

第10章 1  
 
(和田峠における諏訪藩の防備)
 和田峠の上には諏訪藩の斥候隊が集まった。藩士菅沼恩右衛門、同じく栗田市兵衛の2人は御取次御使番(おとりつぎおつかいばん)という格で伝令の任務を果たすため5人ずつの従者を引率して来ている。徒士目付3人、書役(かきやく)1人、歩兵斥候3人、おのおの1人ずつの小者を連れて集まって来ている。足軽の小頭と肝煎の率いる19人の組もいる。その他には、新式の鉄砲を携えた2人の藩士も出張している。和田峠口の一隊はこれらの人数から編成されていて、それぞれ手分けをしながら斥候の任務に就いていた。 

 諏訪高島の城主諏訪因幡守は幕府閣老の一人として江戸表の方にあったが、急使を高島城に送ってよこして部下のものに防禦の準備を命じ、自己の領地内に水戸浪士の素通りを許すまいとした。和田宿を経て下諏訪宿に通ずる木曾街道の一部は戦闘区域と定められた。峠の上にある東餅屋、西餅屋に住む町民らは立ち退きを命ぜられた。 

 (幕府からのお達し)
 こんなに周囲の事情が切迫する前、高島城の御留守居は江戸屋敷からの早飛脚が持参した書面を受け取った。その書面は特に幕府から諏訪藩にあてたもので、水戸浪士西下のうわさを伝え、和田峠その他へ早速人数を出張させるようにとしてあった。
 右の峠の内には松本方面への抜け路もあるから、時宜によっては松本藩からも応援すべき心得で、万事取り計らうようにと仰せ出されたとしてあった。さてまた、甲府からも応援の人数を差し出すよう申しまいるやも知れないから、そのつもりに出兵の手配りをして置いて、中仙道はもとより甲州方面のことは万事手抜かりのないようにと仰せ出されたともしてあった。 

 このお達しが諏訪藩に届いた翌日には、江戸から表立ったお書付が諸藩へ一斉に伝達せられた。武蔵、上野、下野、甲斐、信濃の諸国に領地のある諸大名はもとより、相模、遠江、駿河の諸大名まで皆そのお書付を受けた。

 それはかなり厳重な内容のもので、筑波辺に屯集した賊徒どものうち甲州路または中仙道方面へ多人数の脱走者が落ち行くやに相聞こえるから、すみやかに手はずして見かけ次第もらさず討(う)ち取れという意味のことが認(したた)めてあり、万一討ちもらしたら他領までも付け入って討ち取るように、それを等閑(なおざり)にしたらきっと御沙汰があるであろうという意味のことも書き添えてあった。 

 時に、幕府では三河、尾張、伊勢、近江、若狭、飛騨、伊賀、越後に領地のある諸大名にまで別のお書付を回し、筑波辺の賊徒どものうちには所々へ散乱するやにも相聞こえるから、めいめいの領分はもとより、付近までも手はずをして置いて、怪しい者は見かけ次第すみやかに討ち取れと言いつけた。あの湊での合戦以来、水戸の諸生党を応援した参政田沼玄蕃頭(げんばのかみ)は追討総督として浪士らのあとを追って来た。 

 幕府は一方に長州征伐の事に従いながら、大きな網を諸国に張って、一人残らず水府義士なるものを滅ぼし尽くそうとしていた。その時はまだ八十里も先から信じがたいような種々な風聞が諏訪藩へ伝わって来るころだ。高島城に留守居するものだれ一人として水戸浪士の来ることなぞを意(こころ)にかけるものもなかった。初めて浪士らが上州にはいったと聞いた時にも、真偽のほどは不確実(ふたしか)で、なお相去ること数十里の隔たりがあった。

 (諏訪藩の対応)
 諏訪藩ではまだまだ心を許していた。その浪士らが信州にはいったと聞き、佐久へ来たと聞くようになると、急を知らせる使いの者がしきりに飛んで来る。にわかに城内では評定があった。あるものはまず甲州口をふさぐがいいと言った。あるものは水戸の精鋭を相手にすることを考え、はたして千余人からの同勢で押し寄せて来たら敵しうるはずもない、沿道の諸藩が討とうとしないのは無理もない、これはよろしく城を守っていて浪士らの通り過ぎるままに任せるがいい、後方から鉄砲でも撃ちかけて置けば公儀への御義理はそれで済む、そんなことも言った。 

 しかし君侯は現に幕府の老中である、その諏訪藩として浪士らをそう放縦(ほしいまま)にさせて置けないと言うものがあり、大げさの風評が当てになるものでもないと言うものがあって、軽々しい行動は慎もうという説が出た。そこへ諏訪藩では江戸屋敷からの急使を迎えた。その急使は家中でも重きを成す老臣で、幕府のきびしい命令をもたらして来た。やがて水戸浪士が望月まで到着したとの知らせがあって見ると、大砲15門、騎馬武者150人、歩兵700余、旌旗(せいき)から輜重駄馬(しちょうだば)までがそれに称(かな)っているとの風評には一藩のものは皆顔色を失ってしまった。 

 その時、用人の塩原彦七が進み出て、浪士らは必ず和田峠を越して来るに相違ない。峠のうちの樋橋というところは、谷川を前にし、後方に丘陵を負い、昔時の諏訪頼重が古戦場でもある。高島城から3里ほどの距離にある。当方より進んでその嶮岨な地勢に拠り、要所要所を固めてかかったなら、敵を討ち取ることができようと力説した。
 幸いなことには、幕府追討総督として大兵を率いる田沼玄蕃頭が浪士らのあとを追って来ることが確かめられた。諏訪藩の家老はじめ多くのものはそれを頼みにした。和田峠に水戸浪士を追いつめ、一方は田沼勢、一方は高島勢で双方から敵を挾撃する公儀の手はずであるということが何よりの力になった。一藩の態度は決した。さてこそ 斥候隊の出動となったのである。 

 元治元年11月19日のことで、峠の上へは朝から深い雨が来た。 

 やがて和田方面へ偵察に出かけて行ったものは、また雨をついて峠の上に引き返して来る。いよいよ水戸浪士がその日の晩に長窪 和田両宿へ止宿のはずだという風聞が伝えられるころには、諏訪藩の物頭(ものがしら)矢島伝左衛門が九人の従者を引き連れ和田峠御境目(おさかいめ)の詰方(つめかた)として出張した。手明きの若党、鎗持ちの中間(ちゅうげん)、草履取り、具足持(ぐそくも)ち、高張持(たかはりも)ちなぞ、なかなかものものしい。それにこの物頭が馬の口を取る二人の厩(うまや)の者も随行して来た。 

 敵はもう近いと思わんけりゃなりません。」 

 御使番(おつかいばん)は早馬で城へ注進に行くと言って、馬上からその言葉を残した。あとの人数にも早速出張するようにその言伝てを御使番に頼んで置いて、物頭もまた乗馬で種々な打ち合わせに急いだ。遠い山々は隠れて見えないほどの大降りで、人も馬もぬれながら峠の上を往ったり来たりした。 

 物頭はまず峠の内の注連掛(しめかけ)という場所を選び、一手限(ひとてぎ)りにても防戦しうるようそこに防禦工事を施すことにした。その考えから、彼は人足の徴発を付近の村々に命じて置いた。小役人を連れて地利の見分にも行って来た。注連掛(しめかけ)へは大木を並べ、士居を築き、鉄砲を備え、人数を伏せることにした。 

 大平から馬道下の嶮岨な山の上には大木大石を集め、道路には大木を横たえ、急速には通行のできないようにして置いて、敵を間近に引き寄せてから、鉄砲で撃ち立て、大木大石を落としかけたら、たとえ多人数が押し寄せて来ても右の一手で何ほどか防ぎ止めることができよう、そのうちには追い追い味方の人数も出張するであろう、物頭はその用意のために雨中を奔走した。手を分けてそれぞれ下知を伝えた。それを済ましたころにはもう昼時刻だ。物頭が樋橋まで峠を降りて昼飯を認めていると、追い追いと人足も集まって来た。 

 諏訪城への注進の御使番は間もなく引き返して来て、いよいよ人数の出張があることを告げた。そのうちに28人の番士と19人の砲隊士の一隊が諏訪から到着した。 別に29人の銃隊士の出張をも見た。大砲二百目玉筒(たまづつ)2挺(ちょう)、百目玉筒二挺、西洋流11寸半も来た。その時、諏訪から出張した藩士が樋橋上の砥沢口(とざわぐち)というところで防戦のことに城中の評議決定の旨を物頭に告げた。東餅屋、西餅屋は敵の足だまりとなる恐れもあるから、代官所へ申し渡してあるように両餅屋とも焼き払う、桟も取り払う、橋々は切り落とす、そんな話があって、一隊の兵と人足らは峠の上に向かった。
 
 (松本藩の出兵)
 ちょうど松本藩主松平丹波守から派遣せられた350人ばかりの兵は長窪の陣地を退いて、東餅屋に集まっている時であった。もともと松本藩の出兵は追討総督田沼玄蕃頭の厳命を拒みかねたので、沿道警備のため長窪まで出陣したが、上田藩も松代藩も小諸藩も出兵しないのを知っては単独で水戸浪士に当たりがたいと言って、諏訪から繰り出す人数と一手になり防戦したい旨、重役をもって、諏訪方へ交渉に来た。
 諏訪方としては、これは思いがけない友軍を得たわけである。早速、物頭(ものがしら)は歓迎の意を表し、及ばずながら諏訪藩では先陣を承るであろうとの意味を松本方の重役に致した。両餅屋焼き払いのこともすでに決定せられた。急げとばかり、東餅屋へは松本勢の手で火を掛け、西餅屋に控えていた諏訪方の兵は松本勢の通行が全部済むのを待って餅屋を焼き払った。 

 物頭は樋橋にいた。5、600人からの人足を指揮して、雨中の防禦工事を急いでいた。そこへ松本勢が追い追いと峠から到着した。物頭は樋橋下の民家を3軒ほど貸し渡して松本勢の宿泊にあてた。松本方の持参した大砲は百目玉筒2挺、小銃50挺ほどだ。物頭の計らいで、松本方350人への一度分の弁当、白米3俵、味噌2樽、漬け物1樽、それに酒2樽を贈った。 

 樋橋付近の砦の防備、および配置なぞは、多くこの物頭の考案により、策戦のことは諏訪藩銃隊頭を命ぜられた用人塩原彦七の方略に出た。日がな一日降りしきる強雨の中で、蓑笠を着た数百人の人夫が山から大木を伐り出す音だけでも周囲に響き渡った。そこには砲座を定めて木の幹を畳むものがある。ここには土居を築き土俵を積んで胸壁を起こすものがある。
 下諏訪から運ぶ兵糧では間に合わないとあって、樋橋には役所も設けられ、炊き出しもそこで始まった。この工事は夜に入って松明の光で谷々を照らすまで続いた。垂木岩の桟かけはしも断絶せられ、落合橋も切って落とされた。村上の森のわきにあたる街道筋には篝(かがり)を焚いて、4、5人ずつの番士が交代でそこに見張りをした。 

 (住民の対応)
 水戸浪士の西下が伝わると、沿道の住民の間にも非常な混乱を引き起こした。樋橋の山の神の砦で浪士らをくい止める諏訪藩の思(おぼ)し召しではあるけれども、なにしろ相手はこれまで所々で数十度の実戦に臨み、場数を踏んでいる浪士らのことである、万一破れたらどうなろう。このことが沿道の住民に恐怖を抱かせるようになった。

 種々な風評は人の口から口へと伝わった。万一和田峠に破れたら、諏訪勢は樋橋村を焼き払うだろう、下諏訪へ退いて宿内をも焼き払うだろう、高島の方へは一歩も入れまいとして下諏訪で防戦するだろう、そんなことを言い触らすものがある。その「万一」がもし事実となるとすると、下原村は焼き払われるだろう、宿内の友の町、久保、武居も危ない、事急な時は高木大和町までも焼き払い、浪士らの足だまりをなくして防ぐべき諏訪藩での御相談だなぞと、だれが言い出したともないような風評がひろがった。 

 沿道の住民はこれには驚かされた。家財は言うまでもなく、戸障子まで取りはずして土蔵へ入れるものがある。土蔵のないものは最寄りの方へ預けると言って背負い出すものがあり、近村まで持ち運ぶものがある。 

 また、また、土蔵も残らず打ち破り家屋敷もことごとく焼き崩して浪士らの足だまりのないようにされるとの風聞が伝わった。それを聞いたものは皆大いに驚いて、一度土蔵にしまった大切な品物をまた持ち出し、穴を掘って土中に埋めるものもあれば、畑の方へ持ち出すものもある。何はともあれ、この雨天ではしのぎかねると言って、できるだけ衣類を背負うことに気のつくものもある。人々は互いにこの混乱の渦の中に立った。乱世もこんなであろうかとは、互いの目がそれを言った。付近の老若男女はその夜のうちに山の方へ逃げ失せ、そうでないものは畑に立ち退いて、そこに隠れた。

 伊賀守としての武田耕雲斎を主将に、水戸家の元町奉行田丸稲右衛門を副将に、軍学に精通することにかけては他藩までその名を知られた元小姓頭取の山国兵部を参謀にする水戸浪士の群れは、未明に和田宿を出発してこの街道を進んで来た。毎日の行程およそ4、5里。これは雑兵どもが足疲れをおそれての浪士らの動きであったが、その日ばかりは和田峠を越すだけにも上り3里の道を踏まねばならなかった。 

 天気は晴れだ。朝の空には一点の雲もなかった。やがて浪士らは峠にかかった。8本の紅白の旗を押し立て、3段に別れた人数がまっ黒になってあとからあとからと峠を登った。両餅屋はすでに焼き払われていて、その辺には1人の諏訪兵をも見なかった。
 先鋒隊い)が香炉岩(こうろいわ)に近づいたころ、騎馬で進んだものはまず山林の間に四発の銃声を聞いた。飛んで来る玉は一発も味方に当たらずに、木立ちの方へそれたり、大地に打ち入ったりしたが、その音で伏兵のあることが知れた。左手の山の上にも諏訪への合図の旗を振るものがあらわれた。 

 山間の道路には行く先に大木が横たえてある。それを乗り越え乗り越えして進もうとするもの、幾多の障害物を除こうとするもの、桟を繕おうとするもの、浪士側にとっては全軍のために道をあけるためにもかなりの時を費やした。間もなく香炉岩の上の山によじ登り、そこに白と紺とを染め交ぜにした1本の吹き流しを高くひるがえした味方のものがある。一方の山の上にも登って行って3本の紅い旗を押し立てるものが続いた。浪士の一隊は高い山上の位置から諏訪松本両勢の陣地を望み見るところまで達した。 

 (諏訪藩の防戦)
 こんなに浪士側が迫って行く間に、一方諏訪勢はその時までも幕府の討伐隊を頼みにした。来る、来るという田沼勢が和田峠に近づく模様もない。もはや諏訪勢は松本勢と力を合わせ、敵として進んで来る浪士らを迎え撃つのほかはない。間もなく、峠の峰から一面に道を押し降った浪士側は干草山の位置まで迫った。そこは谷を隔てて諏訪勢の陣地と相距(あいへだ)たること4、5町ばかりだ。両軍の衝突はまず浪士側から切った火蓋で開始された。山の上にも、谷口にも、砲声はわくように起こった。 

  諏訪勢もよく防いだ。次第に浪士側は山の地勢を降り、砥沢口から樋橋の方へ諏訪勢を圧迫し、鯨波(とき)の声を揚げて進んだが、胸壁に拠る諏訪勢が砲火のために撃退せられた。諏訪松本両藩の兵は五段の備えを立て、右翼は砲隊を先にし鎗隊をあとにした尋常の備えであったが、左翼は鎗隊を先にして、浪士側が突撃を試みるたびに吶喊(とっかん)し逆襲して来た。こんなふうにして追い返さるること3度。浪士側も進むことができなかった。 

 その日の戦闘は未(ひつじ)の刻から始まって、日没に近いころに及んだが、敵味方の大小砲の打ち合いでまだ勝負はつかなかった。まぶしい夕日の反射を真面(まとも)に受けて、鉄砲のねらいを定めるだけにも浪士側は不利の位置に立つようになった。 

  それを見て一策を案じたのは参謀の山国兵部だ。彼は道案内者の言葉で探り知っていた地理を考え、右手の山の上へ百目砲を引き上げさせ、そちらの方に諏訪勢の注意を奪って置いて、5、60人ばかりの一隊を深沢山の峰に回らせた。この一隊は左手の河(かわ)を渡って、松本勢の陣地を側面から攻撃しうるような山の上の位置に出た。
 この奇計は松本方ばかりでなく諏訪方の不意をもついた。日はすでに山に入って松本勢も戦い疲れた。その時浪士の一人が山の上から放った銃丸は松本勢を指揮する大将に命中した。混乱はまずそこに起こった。勢いに乗じた浪士の一隊は小銃を連発しながら、直下の敵陣をめがけて山から乱れ降った。

 (砥沢口の戦闘)
  耕雲斎は砥沢口まで進出した本陣にいた。それとばかり采配を振り、自ら陣太鼓を打ち鳴らして、最後の突撃に移った。あたりはもう暗い。諏訪方ではすでに浮き腰になるもの、後方の退路を危ぶむものが続出した。その時はまだまだ諏訪勢の陣は堅く、樋橋に踏みとどまって頑強に抵抗を続けようとする部隊もあったが、崩れはじめた全軍の足並みをどうすることもできなかった。もはや松本方もさんざんに見えるというふうで、早く退こうとするものが続きに続いた。 

  とうとう、田沼玄蕃頭は来なかった。合戦は諏訪松本両勢の敗退となった。にわかの火の手が天の一方に揚がった。諏訪方の放火だ。浪士らの足だまりをなくする意味で、彼らはその手段に出た。樋橋村の民家三軒に火を放って置いて退却し始めた。白昼のように明るく燃え上がる光の中で、諏訪方にはなおも踏みとどまろうとする勇者もあり、ただ一人元の陣地に引き返して来て2発の大砲を放つものさえあった。
 追撃の小競合(こぜりあ)いはそこにもここにもあった。そのうちに放火もすこし下火になって、20日の夜の五つ時の空には地上を照らす月代(つきしろ)とてもない。敵と味方の見定めもつかないような深い闇が総崩れに崩れて行く諏訪松本両勢を包んでしまった。

 この砥沢口の戦闘には、浪士側では17人ほど討死した。100人あまりの鉄砲疵、鎗疵なぞの手負いを出した。主将耕雲斎も戦い疲れたが、また味方のもの一同を樋橋に呼び集めるほど元気づいた。湊出発以来、婦人の身でずっと陣中にある大納言の簾中も無事、山国親子も無事、筑波組の稲右衛門、小四郎、皆無事だ。一同は手分けをして高島陣地その他を松明で改めた。

 そこの砦、ここの胸壁の跡には、打ち捨ててある兜(かぶと)や小銃や鎗や脇差や、それから床几 陣羽織などの間に、目もあてられないような敵味方の戦死者が横たわっている。生臭い血の臭気はひしひしと迫って来る夜の空気にまじって一同の鼻をついた。 

  耕雲斎は抜き身の鎗を杖にして、稲右衛門や兵部や小四郎と共に、兵士らの間をあちこちと見て回った。戦場のならいで敵の逆襲がないとは言えなかった。一同はまたにわかに勢ぞろいして、本陣の四方を固める。その時、耕雲斎は一手の大将に命じ、味方の死骸を改めさせ、その首を打ち落とし、思い思いのところに土深く納めさせた。深手(ふかで)に苦しむものは十人ばかりある。それも歩人(ぶにん)に下知して戸板に載せ介抱を与えた。こういう時になくてならないのは2人の従軍する医者の手だ。陣中には50ばかりになる一人の老女も水戸から随(つ)いて来ていたが、この人も脇差を帯の間にさしながら、医者たちを助けてかいがいしく立ち働いた。  

 夜もはや四つ半時を過ぎた。浪士らは味方の死骸を取り片づけ、名のある人々は草小屋の中に引き入れて、火をかけた。その他は死骸のあるところでいささかの火をかけ、土中に埋めた。仮りの埋葬も済んだ。樋橋には敵の遺棄した兵糧や弁当もあったので、それで一同はわずかに空腹をしのいだ。激しい饑(う)え。激しい渇き。それを癒(いや)そうためばかりにも、一同の足は下諏訪の宿へ向いた。やがて25人ずつ隊伍をつくった人たちは樋橋を離れようとして、夜の空に鳴り渡る行進の法螺の貝を聞いた。 

 樋橋から下諏訪までの間には、村二つほどある。道案内のものを先に立て、松明(たいまつ)も捨て、途中に敵の待ち伏せするものもあろうかと用心する浪士らの長い行列は夜の街道に続いた。落合村まで進み、下の原村まで進んだ。もはやその辺には一人の敵の踏みとどまるものもなかった。 

 (天狗党の諏訪進出と出立)
 合図の空砲の音と共に、浪士らの先着隊が下諏訪にはいったころは夜も深かった。敗退した諏訪松本両勢は高島城の方角をさして落ちて行ったあとで、そこにも一兵を見ない。町々もからっぽだ。浪士らは思い思いの家を見立てて、鍋釜から洗い米などの笊(ざる)にそのまま置き捨ててあるようなところへはいった。耕雲斎は問屋(といや)の宅に、稲右衛門は来迎寺にというふうに。町々の辻、秋宮の鳥居前、会所前、湯のわき、その他ところどころに篝(かがり)が焚かれた。4、5人ずつの浪士は交代で敵の夜襲を警戒したり、宿内の火の番に回ったりした。 

 300人ばかりの後陣の者は容易に下諏訪へ到着しない。今度の戦闘の遊軍で、負傷者などを介抱するのもそれらの人たちであったから、道に隙(ひま)がとれておくれるものと知れた。その間、本陣に集まる幹部のものの中にはすでに「明日」の評定がある。もともと浪士らは高島城を目がけて来たものでもない。
 西への進路を切り開くためにのみ、やむを得ず諏訪藩を敵として悪戦したまでだ。その夜の評定に上ったは、前途にどこをたどるべきかだ。道は2つある。これから塩尻峠へかかり、桔梗が原を過ぎ、洗馬(せば)本山から贄川へと取って、木曾街道をまっすぐに進むか。それとも岡谷 辰野から伊那道へと折れるか。木曾福島の関所を破ることは浪士らの本意ではなかった。22里余にわたる木曾の森林の間は、嶮岨な山坂が多く、人馬の継立(つぎた)ても容易でないと見なされた。彼らはむしろ谷も広く間道も多い伊那の方をえらんで、一筋の血路をそちらの方に求めようと企てたのである。

  不眠不休ともいうべき下諏訪での一夜。ようやく後陣のものが町に到着して一息ついたと思うころには、本陣ではすでに夜立ちの行動を開始した。だれ1人、この楽しい湯の香のする町に長く踏みとどまろうとするものもない。一刻も早くこれを引き揚げようとして多くの中にはろくろく湯水を飲まないものさえある。 

「夜盗を警戒せよ。」 

 その声は、幹部のものの間からも、心ある兵士らの間からも起こった。この混雑の中で、15、6軒ばかりの土蔵が切り破られた。だれの所業ともわからないような盗みが行なわれた。浪士らが引き揚げを急いでいるどさくさまぎれの中で。ほとんど無警察にもひとしい町々の暗黒の中で。 

  暁の六つ時には浪士は残らず下諏訪を出立した。平出宿 小休み、岡谷 昼飯の予定で。あわただしく道を急ごうとする多数のものの中には、陣羽織のままで大八車(だいはちぐるま)を押して行くのもある。甲冑も着ないで馬に乗って行くのもある。負傷兵を戸板で運ぶのもある。もはや、大霜だ。天もまさに寒かった。 

【続く】
島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (3)

 

島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (3)

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 島崎藤村「夜明け前」は日本の近代文学を代表する小説である。米国ペリー来航の1853年前後から1886年までの幕末・明治維新の激動期を、中山道の宿場町であった信州木曾谷の馬籠宿(現在の岐阜県中津川市馬篭)を舞台に、主人公青山半蔵をめぐる人間群像を描き出した藤村晩年の大作である。 幕府倒壊という巨大な政治変革を引きおこした政治の前面に登場するのは支配階級であるサムライが中心であったが、一般庶民の側からこの動きを描いたのが「夜明け前」であり、極めて例外的な歴史小説である。

 馬籠宿の人々は水戸天狗党や幕府などの動きをどうとらえていたのか、「夜明け前」第1部に描かれた水戸天狗党についての記述を抜粋する。 
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島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (2) の続き

10章 2  
(浪士の行列)
 もとより浪士らは後方へ引き返すべくもない。幕府から回された討手(うって)の田沼勢は絶えず後ろから追って来るとの報知(しらせ)もある。1000余人からの長い行列は前後を警戒しながら伊那の谷に続いた。  筑波の脱走者、浮浪の徒というふうに、世間の風評のみを真に受けた地方人民の中には、実際に浪士の一行を迎えて見て旅籠銭 一人前弁当用共にお定めの250文ずつ払って通るのを意外とした。あるものはまた、一行と共に動いて行く金の葵紋(あおいもん)の箱、長柄(ながえ)の傘、御紋付きの長持から、長棒の駕籠の類まであるのを意外として、まるで3、40石の大名が通行の騒ぎだと言うものもある。 

 しかし、それも理のないことではない。なぜかなら、その葵紋の箱も、傘も、長持も、長棒の駕籠も、すべて水戸烈公を記念するためのものであったからで。たとい御隠居はそこにいないまでも、一行が「従二位大納言」の大旗を奉じながら動いて行くところは、生きてる人を護るとほとんど変わりがなかったからで。

 あの江戸駒込の別邸で永蟄居(えいちっきょ)を免ぜられたことも知らずじまいにこの世を去った御隠居が生前に京都からの勅使を迎えることもできなかったかわりに、今「奉勅」と大書した旗を押し立てながら動いて行くのは、その人の愛する子か孫かのような水戸人もしくは準水戸人であるからで。幕府のいう賊徒であり、反対党のいう不忠の臣である彼らは、そこにいない御隠居にでもすがり、その人の志を彼らの志として、一歩でも遠く常陸のふるさとから離れようとしていたからで。  

 (天龍川進出)
 天龍川のほとりに出てからも、浪士らは武装を解こうとしなかった。いずれも鎧兜(よろいかぶと)、あるいは黒の竪烏帽子、陣羽織のいでたちである。高く掲げた紅白の旗、隊伍を区別する馬印などは、馬上の騎士が携えた抜き身の鎗(やり)に映り合って、その無数の群立と集合との感じが一行の陣容をさかんにした。各部隊の護って行く二門ずつの大砲には皆御隠居の筆の跡が鋳(い)てある。「発而皆中節(はっしてみなせつにあたる)、源斉昭書」の銘は浪士らが誇りとするものだ。

 行列の中央に高く「尊攘」の2字を掲げた旗は、陣太鼓と共に、筑波以来の記念でもあった。参謀の兵部は軍中第二班にある。采配を腰にさし、甲冑騎馬で、金の三蓋猩々緋(さんがいしょうじょうひ)の一段幡連(いちだんばれん)を馬印に立て、鎗鉄砲を携える百余人の武者を率いた。総勢の隊伍を、第一班から第六班までの備えに編み、騎馬の使番に絶えず前後周囲を見回らせ、隊列の整頓と行進の合図には拍子木を用いることなぞ皆この人の精密な頭脳から出た。水戸家の元側用人で、一方の統率者なる小四郎は騎馬の側に惣金(そうきん)の馬印を立て、100人ほどの銃隊士に護(まも)られながら中央の部隊を堅めた。50人ばかりの鎗隊士を従えた稲右衛門は梶(かじ)の葉の馬印で、副将らしい威厳を見せながらそのあとに続いた。

 主将耕雲斎は「奉勅」の旗を先に立て、三蓋菱(さんがいびし)の馬印を立てた100人ばかりの騎兵隊がその前に進み、200人ばかりの歩行武者の同勢は抜き身の鎗でそのあとから続いた。山国兵部父子はもとよりその他にも親子で連れだって従軍するものもある。各部隊が護って行く思い思いの旗の文字は、いずれも水府義士をもって任ずる彼らの面目を語っている。その中にまじる「百花の魁(さきがけ)」とは、中世以来の堅い殻を割ってわずかに頭を持ち上げようとするような、彼らの早い先駆感をあらわして見せている。 

 伊那には高遠藩も控えていた。  

 和田峠での合戦の模様は早くも同藩に伝わっていた。松本藩の家老水野新左衛門という人の討死、そのほか多数の死傷に加えて浪士側に分捕(ぶんど)りせられた陣太鼓、鎗、具足、大砲なぞのうわさは高遠藩を沈黙させた。それでも幕府のきびしい命令を拒みかねて、同藩では天龍川の両岸に出兵したが、浪士らの押し寄せて来たと聞いた時は指揮官はにわかに平出の陣地を撤退して天神山という方へ引き揚げた。それからの浪士らは一層勇んで一団となった行進を続けることができた。 

 進み過ぎる部隊もなく、おくれる部隊もなかった。中にはめずらしい放吟の声さえ起こる。馬上で歌を詠ずるものもある。路傍の子供に菓子などを与えながら行くものもある。途中で一行におくれて、また一目散に馬を飛ばす16、7歳の小冠者もある。 

 こんなふうにしてさらに谷深く進んだ。22日には浪士らは上穂まで動いた。そこまで行くと、1万7千石を領する飯田城主堀石見守は部下に命じて市田村の弓矢沢というところに防禦工事を施し、そこに大砲数門を据え付けたとの報知(しらせ)も伝わって来た。浪士らは一つの難関を通り過ぎて、さらにまた他の難関を望んだ。 

 (今村豊三郎の間道通過の斡旋)
 「わたしたちは水戸の諸君に同情してまいったんです。実は、あなたがたの立場を思い、飯田藩の立場を思いまして、及ばずながら斡旋の労を執りたい考えで同道してまいりました。わたしたちは3人とも平田篤胤の門人です。」 

 浪士らの幹部の前には、そういうめずらしい人たちがあらわれた。そのうちの1人は伊那座光寺にある熱心な国学の鼓吹者仲間で、北原稲雄が弟の今村豊三郎である。1人は将軍最初の上洛に先立って足利尊氏が木像の首を三条河原に晒した示威の関係者、あの事件以来伊那に来て隠れている暮田正香(くれたまさか)である。 

 入り込んで来る間諜を警戒する際で、浪士側では容易にこの3人を信じなかった。その時応接に出たのは道中掛りの田村宇之助であったが、字之助は思いついたように尋ねた。 

「念のためにうかがいますが、伊那の平田御門人は『古史伝』の発行を企てているように聞いています。あれは何巻まで行ったでしょうか。」

「そのことですか。今じゃ第四帙(ちつ)まで進行しております。一帙四巻としてありますが、もう第十六の巻を出しました。お聞き及びかどうか知りませんが、その上木(じょうぼく)を思い立ったのは座光寺の北原稲雄です。これにおります今村豊三郎の兄に当たります。」正香が答えた。 

 こんなことから浪士らの疑いは解けた。そこへ3人が持ち出して、及ばずながら斡旋の労を執りたいというは、浪士らに間道の通過を勧め、飯田藩との衝突を避けさせたいということだった。正香や豊三郎は一応浪士らの意向を探りにやって来たのだ。もとより浪士側でも戦いを好むものではない。飯田藩を傷つけずに済み、また浪士側も傷つかずに済むようなこの提案に不賛成のあろうはずもない。異議なし。それを聞いた3人は座光寺の方に待っている北原稲雄へもこの情報を伝え、飯田藩ともよく交渉を重ねて来ると言って、大急ぎで帰って行った。 
 
 (片桐へ進出)
 23日には浪士らは片桐まで動いた。その辺から飯田へかけての谷間には、数十の郷村が天龍川の両岸に散布している。岩崎長世、北原稲雄、片桐春一らの中心の人物をはじめ、平田篤胤没後の門人が堅く根を張っているところだ。飯田に、山吹に、伴野に、阿島に、市田に、座光寺に、その他にも熱心な篤胤の使徒を数えることができる。この谷だ。今は黙ってみている場合でないとして、北原兄弟のような人たちがたち上がったのに不思議もない。 

 その片桐まで行くと、飯田の城下も近い。堀石見守の居城はそこに測りがたい沈黙を守って、浪士らの近づいて行くのを待っていた。その沈黙の中には御会所での軍議、にわかな籠城(ろうじょう)の準備、要所要所の警戒、その他、どれほどの混乱を押し隠しているやも知れないかのようであった。万一、同藩で籠城のことに決したら、市内はたちまち焼き払われるであろう。その兵火戦乱の恐怖は老若男女の町の人々を襲いつつあった。 

 (間道通過) 
 夜、武田本陣にあてられた片桐の問屋へは、飯田方面から、豊三郎が兄の北原稲雄と一緒に早駕籠を急がせて来た。その時、浪士側では横田東四郎と藤田小四郎とが応接に出た。飯田藩として間道の通過を公然と許すことは幕府に対し憚(はばか)るところがあるからと言い添えながら、北原兄弟は町役人との交渉の結果を書面にして携えて来た。その書面には左の三つの条件が認(したた)めてあった。

  一、飯田藩は弓矢沢の防備を撤退すること。
  二、間道に修繕を加うること。
  三、飯田町にて軍資金三千両を醵出(きょしゅつ)すること。 

 「お前はこの辺の百姓か。人足の手が足りないから、鎗(やり)をかついで供をいたせ。」
 「いえ、わたくしは旅の者でございます、お供をいたすことは御免こうむりましょう。」 
 「うんにゃ、そう言わずに、片桐の宿までまいれば許してつかわす。」

 上伊那の沢渡村という方から片桐宿まで、こんな押し問答の末に一人の百姓を無理押しつけに供に連れて来た浪士仲間の後殿(しんがり)のものもあった。
  いよいよ北原兄弟が奔走周旋の結果、間道通過のことに決した浪士の一行は片桐出立の朝を迎えた。先鋒隊のうちにはすでに駒場泊まりで出かけるものもある。 

 後殿(しんがり)の浪士は上伊那から引ッぱって来た百姓をなかなか放そうとしなかった。その百姓は年のころ26、7の働き盛りで、荷物を持ち運ばせるには屈強な体格をしている。 

 「お前はどこの者か。」と浪士がきいた。 
 「わたくしですか。諏訪飯島村の生まれ、降蔵と申します。お約束のとおり片桐までお供をいたしました。これでお暇(いとま)をいただきます。」 

 「何、諏訪だ?」
 いきなり浪士はその降蔵を縛りあげた。それから言葉をつづけた。 
 「その方は天誅に連れて行くから、そう心得るがいい。」 

 近くにある河のところまで浪士は後ろ手にくくった百姓を引き立てた。「天誅」とはどういうわけかと降蔵が尋ねると、天誅とは首を切ることだと浪士が言って見せる。不幸な百姓は震えた。 

 「お武家様、わたくしは怪しい者でもなんでもございません。伊那辺まで用事があってまいる途中、御通行ということで差し控えていたものでございます。これからはいかようにもお供をいたしますから、お助けを願います。」 

 「そうか。しからば、その方は正武隊に預けるから、兵糧方(ひょうろうかた)の供をいたせ。」 
 人足一人を拾って行くにも、浪士らはこの調子だった。 

       先兵が街道筋を警戒しながら進む    


     笹間良彦著「図説日本戦陣作法辞典」(柏書房)107頁 

 諸隊はすでに続々間道を通過しつつある。その道は飯田の城下を避けて、上黒田で右に折れ、野底山から上飯田にかかって、今宮という方へと取った。今宮に着いたころは一同休憩して昼食をとる時刻だ。

 正武隊付きを命ぜられた諏訪の百姓降蔵は片桐から背負(しょ)って来た具足櫃(ぐそくびつ)をそこへおろして休んでいると、いろは付けの番号札を渡され、一本の脇差をも渡された。家の方へ手紙を届けたければ飛脚に頼んでやるなぞと言って、兵糧方の別当はいろいろにこの男をなだめたりすかしたりした。荷物を持ち労(つか)れたら、ほかの人足に申し付けるから、ぜひ京都まで一緒に行けとも言い聞かせた。別当はこの男の逃亡を気づかって、小用に立つにも番人をつけることを忘れなかった。 

 京都と聞いて、諏訪の百姓は言った。 
 「わたくしも国元には両親がございます。御免こうむりとうございます。お暇(いとま)をいただきとうございます。」 
 「そんなことを言うと天誅だぞ。」 

 別当の威(おど)し文句だ。

 (伊那の本道に進出と行路の変更)
 切石まで間道を通って、この浪士の諸隊は伊那の本道に出た。参州街道がそこに続いて来ている。大瀬木というところまでは、北原稲雄が先に立って浪士らを案内した。伊那にある平田門人の先輩株で、浪士間道通過の交渉には陰ながら尽力した倉沢義髄も、その日は稲雄と一緒に歩いた。別れぎわに浪士らは、稲雄の骨折りを感謝し、それに報いる意味で記念の陣羽織を贈ろうとしたが、稲雄の方では幕府の嫌疑を慮(おもんぱか)って受けなかった。 

 その日の泊まりと定められた駒場へは、平田派の同志のものが集まった。暮田正香と松尾誠(松尾多勢子の長男)とは伴野から。増田平八郎と浪合佐源太とは浪合から。駒場には同門の医者山田文郁もある。武田本陣にあてられた駒場の家で、土地の事情にくわしいこれらの人たちはこの先とも小藩や代官との無益な衝突の避けられそうな山国の間道を浪士らに教えた。

 その時、もし参州街道を経由することとなれば名古屋の大藩とも対抗しなければならないこと、のみならず非常に道路の険悪なことを言って見せるのは浪合から来た連中だ。木曾路から中津川辺へかけては熱心な同門のものもある、清内路(せいないじ)の原信好(のぶよし)、馬籠(まごめ)の青山半蔵、中津川の浅見景蔵、それから峰谷(はちや)香蔵なぞは、いずれも水戸の人たちに同情を送るであろうと言って見せるのは伴野から来た連中だ。 

 清内路を経て、馬籠、中津川へ。浪士らの行路はその時変更せらるることに決した。
 「諸君――これから一里北へ引き返してください。山本というところから右に折れて、清内路の方へ向かうようにしてください。」 
 道中掛りはそのことを諸隊に触れて回った。 

 伊那の谷から木曾の西のはずれへ出るには、大平峠を越えるか、梨子野峠を越えるか、いずれにしても奥山の道をたどらねばならない。木曾下四宿への当分助郷、あるいは大助郷の勤めとして、伊那119か村の村民が行き悩むのもその道だ。木から落ちる山蛭(やまびる)、往来(ゆきき)の人に取りつく蚋(ぶよ)、勁(つよ)い風に鳴る熊笹、そのおりおりの路傍に見つけるものを引き合いに出さないまでも、昼でも暗い森林の谷は4里あまりにわたっている。
 旅するものはそこに杣(そま)の生活と、わずかな桑畠と、米穀も実らないような寒い土地とを見いだす。その深い山間を分けて、浪士らは和田峠合戦以来の負傷者から10数門の大砲までも運ばねばならない。 


【続く】
島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (4)

 

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