島崎藤村「夜明け前」は日本の近代文学を代表する小説である。
米国ペリー来航の1853年前後から1886年までの幕末・明治維新の激動期を、
中山道の宿場町であった信州木曾谷の馬籠宿(現在の岐阜県中津川市馬篭)を舞台に、
主人公青山半蔵をめぐる人間群像を描き出した藤村晩年の大作である。
幕府倒壊という巨大な政治変革を引きおこした政治の前面に登場するのは
支配階級であるサムライが中心であったが、
一般庶民の側からこの動きを描いたのが「夜明け前」であり、極めて例外的な歴史小説である。
馬籠宿の人々は水戸天狗党や幕府などの動きをどうとらえていたのか、
「夜明け前」第1部に描かれた水戸天狗党についての記述を抜粋する。
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第11章 1
「青山君――伊那にある平田門人の発起で、
近く有志のものが飯田に集まろうとしている。
これはよい機会と思われるから、
ぜひ君を誘って一緒に伊那の諸君を見に行きたい。
われら両人はその心組みで馬籠までまいる。
君の都合もどうあろうか。ともかくもお訪ねする。」
中津川にて
景蔵
香蔵
馬籠にある半蔵あてに、
2人の友人がこういう意味の手紙を中津川から送ったのは、
水戸浪士の通り過ぎてから17日ほど後にあたる。
美濃の中津川にあって聞けば、
幕府の追討総督田沼玄蕃頭(げんばのかみ)の軍は水戸浪士より数日おくれて伊那の谷まで追って来たが、
浪士らが清内路(せいないじ)から、
馬籠、中津川を経て西へ向かったと聞き、飯田からその行路を転じた。
総督は飯田藩が一戦をも交えないで浪士軍の間道通過に任せたことをもってのほかであるとした。
北原稲雄兄弟をはじめ、
浪士らの間道通過に斡旋した平田門人の骨折りはすでにくつがえされた。
飯田藩の家老はその責めを引いて切腹し、
清内路の関所を預かる藩士もまた同時に切腹した。
景蔵や香蔵が訪ねて行こうとしているのはこれほど動揺したあとの飯田で、
馬籠から中津川へかけての木曾街道筋には和宮様御降嫁以来の出来事だと言わるる水戸浪士の通過についても、
まだ2人は馬籠の半蔵と話し合って見る機会もなかった時だ。
「いかがですか。おしたくができましたら、出かけましょう。」
香蔵は中津川にある問屋の家を出て、
同じ町に住む景蔵が住居(すまい)の門口から声をかけた。
そこは京都の方から景蔵をたよって来て身を隠したり、
しばらく逗留したりして行くような幾多の志士
・・・・・・・・たとえば、内藤頼蔵、磯山新助、長谷川鉄之進、伊藤祐介、二荒四郎、
東田行蔵らの人たちを優にかばいうるほどの奥行きの深い本陣である。
そこはまた、
過ぐる文久2年の夏、
江戸屋敷の方から来た長州侯の一行が木曾街道経由で上洛の途次、
かねての藩論たる公武合体、航海遠略から破約攘夷へと、
大きく方向の転換を試みるための中津川会議を開いた由緒の深い家でもある。
「どうでしょう、香蔵さん、大平峠あたりは雪でしょうか。」
「さあ、わたしもそのつもりでしたくして来ました。」
2人の友だちはまずこんな言葉をかわした。
景蔵のしたくもできた。
とりあえず馬籠まで行こう、二人して半蔵を驚かそうと言うのは香蔵だ。
年齢の相違こそあれ、二人は旧(ふる)い友だちであり、
平田の門人仲間であり、
互いに京都まで出て幾多の政変の渦の中にも立って見た間柄である。
その時の二人は供の男も連れず、
途中は笠に草鞋(わらじ)があれば足りるような身軽な心持ちで、
思い思いの合羽に身を包みながら、午後から町を離れた。
もっとも、
飯田の方に着いて同門の人たちと一緒になる場合を考えると
紋付の羽織に袴ぐらい風呂敷包みにして肩に掛けて行く用意は必要であり、
馬籠本陣への手土産も忘れてはいなかったが。
中津川から木曾の西のはずれまではそう遠くない。
その間には落合の宿一つしかない。
美濃よりするものは落合から十曲峠にかかって、あれから信濃の国境に出られる。
各駅の人馬賃銭が六倍半にも高くなったその年の暮れあたりから見ると、
2人の青年時代には駅と駅との間を通う本馬55文、
軽尻(からじり)36文、人足28文と言ったところだ。
〔水戸浪士らの行動〕
水戸浪士らは馬籠と落合の両宿に分かれて一泊、中津川昼食で、
11月の27日には西へ通り過ぎて行った。
飯田の方で北原兄弟が間道通過のことに尽力してからこのかた、
清内路に、馬籠に、中津川に、
浪士らがそれからそれと縁故をたどって来たのは
いずれもこの地方に本陣庄屋なぞをつとめる平田門人らのもとであった。
一方には幕府への遠慮があり、
一方には土地の人たちへの心づかいがあり、
平田門人らの苦心も一通りではなかった。
木曾にあるものも、東美濃にあるものも、
同門の人たちは皆この事件からは強い衝動を受けた。
水戸浪士の通り過ぎて行ったあとには、
実にいろいろなものが残った。
景蔵と香蔵とがわざわざ名ざしで中津川から落合の稲葉屋まで呼び出され、
浪士の一人なる横田東四郎から渋紙包みにした首級の埋葬方を依頼された時のことも、
まだ二人の記憶に生々しい。
これは和田峠で戦死したのをこれまで渋紙包みにして持参したのである。
二男藤三郎、当年18歳になるものの首級であると言って、
実父の東四郎がそれを二人の前に差し出したのもその時だ。
景蔵は香蔵と相談の上、夜中ひそかに自家の墓地にそれを埋葬した。
そういう横田東四郎は参謀山国兵部や小荷駄掛(こにだがか)り亀山嘉治と共に、
水戸浪士中にある3人の平田門人でもあったのだ。
浪士らの行動についてはこんな話も残った。
和田峠合戦のあとをうけ下諏訪付近の混乱をきわめた晩のことで、
下原村の百姓の中には逃げおくれたものがあった。
背中には長煩(ながわずら)いで床についていた1人の老母もある。
どうかして山手の方へ遠くと逃げ惑ううちに、
母は背に負われて腹筋の痛みに堪えがたいと言い出す。
その時の母の言葉に、
自分はこんな年寄りのことでだれもとがめるものはあるまい、
その方は若者だ、
どんな憂き目を見ないともかぎるまいから、
早く身を隠せよ。
そう言われた百姓は、
どうしたら親たる人を捨て置いてそこを逃げ延びたものかと考え、
古筵(ふるむしろ)なぞを母にきせて介抱していると、
ちょうどそこへ来かかった2人の浪士の発見するところとなった。
お前は当所のものであろう、
寺があらば案内せよ、
自分らは主君の首を納めたいと思うものであると浪士が言うので、
百姓は大病の老母を控えていることを答えて、
その儀は堅く御免こうむりましょうと断わった。
しからば自分の家来を老母に付けて置こう、
早く案内せとその浪士に言われて見ると、
百姓も断わりかねた。
案内した先は三町ほど隔たった来迎寺の境内だ。
浪士はあちこちと場所を選んだ。
扇を開いて、携えて来た首級をその上にのせた。
敬い拝して言うことには、
こんなところで御武運つたなくなりたまわんとは夢にも知らなかった、
御本望の達する日も見ずじまいにさぞ御残念に思(おぼ)し召されよう、
軍(いくさ)の習い、是非ないことと思し召されよと、
生きている人にでも言うようにそれを言って、暗い土の上にぬかずいた。
短刀を引き抜いて、土中に深くその首級を納めた。
それから浪士は元のところへ引き返して来て、
それまで案内した男に褒美として短刀を与えたが、
百姓の方ではそれを受けようとしなかった。
元来百姓の身に武器なぞは不用の物であるとして、堅く断わった。
そういうことなら、病める老母に薬を与えようとその浪士が言って、
銀壱朱をそこに投げやりながら、
家来らしい連れの者と一緒に下諏訪方面へ走り去ったという。
庶民の戦見物

笹間良彦著「図説 日本戦陣作法辞典」(柏書房307頁)