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Channel: ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。
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島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (6)

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島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (5)の続き 

 こんな話を伝え聞いた土地のものは、
いずれもその水戸武士の態度に打たれた。
あれほどの恐怖をまき散らして行ったあとにもかかわらず、
浪士らに対して好意を寄せるものも決して少なくはなかったのだ。 

 景蔵、香蔵の二人は落合の宿まで行って、ある町角で一人の若者にあった。
稲葉屋の子息勝重だ。
長いこと半蔵に就(つ)いて内弟子として馬籠本陣の方にあった勝重も、
その年の春からは落合の自宅に帰って、年寄役の見習いを始めるほどの年ごろに達している。 

 「勝重さんもよい子息さんになりましたね。」 

 驚くばかりの成長の力を言いあらわすべき言葉もないというふうに、
二人は勝重の前に立って、まだ前髪のあるその額つきをながめながら、
かわるがわるいろいろなことを尋ねて見た。

 この勝重に勧められて、しばらく二人は落合に時を送って行くことにした。

その日は二人とも馬籠泊まりのつもりであり、急ぐ道でもなかったからで。
のみならず、落合村の長老として知られた勝重の父儀十郎を見ることも、
二人としては水戸浪士の通過以来まだそのおりがなかったからで。 

 稲葉屋へ寄って見ると、そこでも浪士らのうわさが尽きない。
横田東四郎からその子の首級を託せられた節は稲葉屋でも驚いたであろうという景蔵らの顔を見ると、
勝重の父親はそれだけでは済まさなかった。

 あの翌朝、重立った幹部の人たちと見える浪士らが馬籠から落合に集まって、
中津川の商人万屋安兵衛と大和屋李助の両人をこの稲葉屋へ呼び出し、
金子(きんす)二百両の無心のあったことを語り出すのも勝重の父親だ。 

 「その話はわたしも聞きました。」と景蔵が笑う。 

 「でも、世の中は回り回っていますね。」と香蔵は言った。
  「横浜貿易でうんともうけた安兵衛さんが、水戸浪士の前へ引き出されるなんて。」 

 「そこは安兵衛さんです。」と儀十郎は昔気質な年寄役らしい調子で、
  「あの人は即答はできないが、一同でよく相談して来ると言って、
   いったん中津川の方へ引き取って行きました。
  それから、あなた、
  生糸取引に関係のあったものが割前で出し合いまして、
  200両耳をそろえてそこへ持って来ましたよ。」 

 「あの安兵衛さんと水戸浪士の応対が見たかった。」と香蔵が言う。  

 しかし、一方に、浪士らが軍律をきびしくすることも想像以上で、
幹部の目を盗んで民家を掠奪した1人の土佐の浪人のあることが発見され、
この落合宿からそう遠くない三五沢まで仲間同志で追跡して、
とうとうその男を天誅に処した。

 その男の逃げ込んだ百姓家へは
手当てとして金子一両を家内のものへ残して行ったと語って見せるのも、
またこの儀十郎だ。 

 「何にいたせ、
 あの同勢が鋭い抜き身の鎗(やり)や抜刀で馬籠の方から押して来ました時は、
 恐ろしゅうございました。」

 それを儀十郎が言うと、子息は子息で、

 「あの藤田小四郎が吾家へも書いたものを残して行きましたよ。
   大きな刀をそばに置きましてね、
   何か書くから、
   わたしに紙を押えていろと言われた時は、
   思わずこの手が震えました。」

 「勝重、あれを持って来て、浅見さんにも蜂谷さんにもお目にかけな。」

  浪士らは行く先に種々な形見を残した。
景蔵のところへは特に世話になった礼だと言って、
副将田丸稲右衛門が所伝の黒糸縅(くろいとおどし)の甲冑片袖(かっちゅうかたそで)を残した。

 それは玉子色の羽二重に白麻の裏のとった袋に入れて、
別に自筆の手厚い感謝状を添えたものである。

「馬籠の御本陣へも何か残して置いて行ったようなお話です。」と儀十郎が言う。

「どうせ、帰れる旅とは思っていないからでしょう。」

 景蔵の答えだ。 

 その時、勝重は若々しい目つきをしながら、
小四郎の記念というものを奥から取り出して来た。

 景蔵らの目にはさながら剣を抜いて敵王の衣を刺し貫いたという
唐土(とうど)の予譲(よじょう)を想わせるようなはげしい水戸人の気性がその紙の上におどっていた。

しかも、23、4歳の青年とは思われないような老成な筆蹟で。 

 大丈夫当雄飛(だいじょうふまさにゆうひすべし)安雌伏(いずくんぞしふくせんや) 
                  藤田信 
 「そう言えば、浪士もどの辺まで行きましたろう。」 
 景蔵らと稲葉屋親子の間にはそんなうわさも出る。

 その後の浪士らが美濃を通り過ぎて越前の国まではいったことはわかっていた。
しかしそれから先の消息は判然しない。
 中津川や落合へ飛脚が持って来る情報によると、
11月27日に中津川を出立した浪士らは加納藩や大垣藩との衝突を避け、
本曾街道の赤坂、垂井あたりの要処には彦根藩の出兵があると聞いて、
あれから道を西北方に転じ、長良川を渡ったものらしい。

 師走の4日か5日ごろにはすでに美濃と越前の国境にあたる蝿帽子峠の険路を越えて行ったという。 

「あの蝿帽子峠の手前に、クラヤミ峠というのがございます。」と儀十郎は言って見せた。
「ひどい峠で、3里の間は闇を行くようだと申しますんで、
 それで俗にクラヤミでございますさ。
 あの辺は深い雪と聞きますから、浪士も難渋いたしましたろうよ。」 

 「千辛万苦の旅ですね。」と勝重も言っていた。 

 間もなく景蔵らはこの稲葉屋を辞して、落合の宿をも離れた。

 中山薬師から十曲峠にかかって、新茶屋に出ると、
そこはもう隣の国だ。

 雪まじりに土のあらわれた街道は次第に白く変わっていた。
 鋭い角度を見せた路傍の大石も雪にぬれていて、
 まず木曾路の入り口の感じを2人に与える。 

  師走の5日には中津川や落合へも初雪が来た。
 その晩に大雪だったという馬籠峠の上では、
 宿場そのものがすでに冬ごもりだ。

 南側の雪は溶けても、北側は溶けずに、
 石を載せた板屋根までが山家らしいところで、
 中津川から行った2人の友だちはそこに待ちわび顔な半蔵とも、
 その家族の人たちとも一緒になった。  

 この伊那行きはひどく半蔵をもよろこばせた。
 水戸浪士の通過を最後にして、
その年の街道の仕事もどうやら一段落を告げたばかりではない。

 浪士らの残して置いて行った刺激は彼の心を静かにさせて置かなかったからである。
 浪士らの通過以来、伊那にある平田門人らはしきりに往来し始めたと聞くころだ。

 半蔵もまた2人の年上の友だちと共に、
たとい大平峠の雪を踏んでも、
伊那の谷の方にある同門の人たちを見に行かずにはいられなかった。 

 馬籠本陣の店座敷では、
翌朝の出発を楽しみにする三人が久しぶりの炬燵話(こたつばなし)に集まった。

 そこへ半蔵の父吉左衛門も茶色な袖無(そでな)し羽織などを重ねながらちょっと挨拶に来て、
水戸浪士のうわさを始める。   

 「中津川の方はいかがでしたか。」
 「そりゃ、香蔵さん、馬籠は君たちの方と違って、
    隣に妻籠というものを控えていましょう。
    福島から出張した人たちは大平口を堅める。
  えらい騒ぎでしたさ。」と半蔵が言う。 

 「いや、はや、あの時は福島の家中衆も大あわて。」とまた吉左衛門が言って見せた。
 「あとになって軍用の荷物をあけて見たら、
  あなた、桜沢口の方へは鉄砲の玉ばかり行って、
  大平口の方へはまた焔硝(えんしょう)(火薬)ばかり来ておりましたなんて。

 まあ、無事に浪士を落としてやってよかったと思うものは、
わたしたちばかりじゃありますまい。

 あれから総督の田沼玄蕃頭が浪士の跡を追って来るというので、
またこちらじゃ一騒ぎでしたよ。
 御同勢千人あまり、残らず軍の陣立てで、剣付鉄砲を一挺ずつ用意しまして、
 浪士の立った翌日には伊那道の広瀬村泊まりで追って来るなぞといううわさでしょう。

 御承知のとおり、
 宅では浪士の宿をしましたから、
 どういうことになろうかと思って、
 ひどく心配しました。

 あの翌々日には、お先荷の長持だけはまいりましたが、
 とうとう田沼侯の御同勢はまいりませんでした。
 あの時ばかりはわたしもホッとしましたよ。

 聞けば飯田藩じゃ、御家老が切腹したといううわさじゃありませんか。
 おまけに、清内路の御関所番までも……」 

 吉左衛門は年老いた手を膝の上に置いて、深いため息をついた。 

 父が席を避けて行った後、
半蔵は水戸浪士の幹部の人たちから礼ごころに贈られたものを2人の友だちの前に取り出した。
武田、田丸、山国、藤田諸将の書いた詩歌の短冊、
小桜縅(こざくらおどし)の甲冑片袖、
そのほかに小荷駄掛りの亀山嘉治が特に半蔵のもとに残して置いて行った歌がある。

 水戸浪士に加わって来た同門の人が飯田や馬籠での述懐だ。 

 あられなす矢玉の中は越えくれどすすみかねたる駒の山麓 
 ふみわくる深山紅葉を敷島のやまとにしきと見る人もがも 
 八束穂(やつかほ)のしげる飯田の畔にさへ君に仕ふる道はありけり 
 みだれ世のうき世の中にまじらなく山家は人の住みよからまし 
 草まくら夜ふす猪の床とはに宿りさだめぬ身にもあるかな 
 つはものに数ならぬ身も神にます我が大君の御楯ともがな 
 木曾山の八岳ふみこえ君がへに草むす屍ゆかむとぞおもふ  
                               嘉治  

 「亀山は亀山らしい歌を残して行きましたね。思い入った人の歌ですね。」
 と景蔵が言うと、

  半蔵は炬燵の上に手を置きながら、
 「あの騒ぎの中で、亀山とは一晩じゅう話してしまいました。 
  もっとも、番士は交代で篝(かがり)を焚く、
  村のものは村のもので宿内を警戒する、
  火の番は回って来る、
  なかなか寝られるようなものじゃありませんでしたよ。
  わたしも興奮しましてね、
  あの翌晩もひとりで起きていて、
  旧作の長歌を一晩かかって書き改めたりなぞしましたよ。」 

  ちょうどその時、
  年寄役の伊之助が村方の用事をもって家の囲炉裏ばたまで見えたので、
  半蔵は伊那行きのことを伊之助に話しかつ留守中のことをも頼んで置くつもりで、
  ちょっとその席をはずした。

  そして、店座敷へ引き返して来て見ると、
  景蔵、香蔵の二人はお民にすすめられて、
  かわるがわる風呂場の方へからだを温めに行っていた。  

 「半蔵、なんにもないが、
  お客さまに一杯あげる。
  ごらんな、お客さまというと子供が大はしゃぎだよ。
  にぎやかでありさえすれば子供はうれしいんだね。」 
 と継母のおまんが言うころは、店座敷の障子も薄暗い。

 下女は行燈をさげて来た。 

 やがて、こうした土地での習いで、
 炬燵板の上を食卓に代用して、
 半蔵は二人の友だちに山家の酒をすすめた。 

 「愉快、愉快。」と香蔵はそこへ心づくしの手料理を運んで来るお民を見て言った。
 「奥さんの前ですが、わたしたちが三人寄ることはこれでめったにないんです。 
  半蔵さんとわたしと二人の時は、景蔵さんは京都の方へ行ってる。
  景蔵さんと一緒の時は、半蔵さんは江戸に出てる。

  まあ、きょうは久しぶりで、
  あの寛斎老人の家に三人机を並べた時分の心持ちに帰りましたよ。」  

 「こうして三人集まって見ると、やっぱり話したい。
  いや、ことしは実にえらい年でした。
  いろいろなものが1年のうちに、どしどし片づいて行ってしまいましたよ。」

  食後に、景蔵はそんなことを言い出した。
  その暮れになって見ると、天王山における真木和泉(まきいずみ)の自刃も、
  京都における佐久間象山の横死も、
  皆その年の出来事だ。

  名高い攘夷論者も、開港論者も、
 同じように故人になってしまった。

  その時、3人の話は水戸の人たちのことに落ちて行った。  

 尊攘は水戸浪士の掲げて来た旗じるしである。
 景蔵に言わせると、もともと尊王と攘夷とを結びつけ、
 その2つのものの堅い結合から新機運をよび起こそうと企てたのは真木和泉らの運動で、
 これは幕府の専横と外国公使らの不遜(ふそん)とを憤り一方に
 王室の衰微を嘆く至情からほとばしり出たことは明らかであるが、
 この尊攘の結合を王室回復の手段とするの可否はだんだん心あるものの間に疑問となって来た。

 尊王は尊王、攘夷は攘夷――尊王は遠い理想、攘夷は当面の外交問題であるからである。 

 しかし、あの真木和泉にはそれを結びつけるだけの誠意があった。
 衆にさきがけして諸国の志士を導くに足るだけの熱意があった。
 もはやその人はない。
 尊攘の運動は事実においてすでにその中心の人物を失っている。
 のみならず、筑後水天宮の祠官(しかん)の家に生まれ、
 京都学習院の徴士にまで補せられ、
 堂々たる朝臣の列にあった真木和泉がたとい生きながらえているとしても、
 大和行幸論に一代を揺り動かしたほどの熱意を持ちつづけて、
 今後もあの尊攘論で18隻から成る英米仏蘭四国の連合艦隊を向こうに回すような
この国の難局を押し通せるものかどうか。

 尊王と攘夷との切り離して考えられるような時がようやくやって来たのではなかろうか。
これが景蔵の意見であった。 

 景蔵は言った。
 「どうでしょう、
  尊攘ということもあの水戸の人たちを最後とするんじゃありますまいか。」

 「しかし、景蔵さん。」とその時、
香蔵は年上の友だちの話を引き取って言った。

 「あの亀山嘉治(かめやまよしはる)なぞは、そうは考えていませんぜ。」 
 「亀山は亀山、われわれはわれわれですさ。」と景蔵は言う。

 そういう景蔵さんの意見は、実際の京都生活から来てる。どうもわたしはそう思う。」
 「そんなら見たまえ、
  長州藩あたりじゃ伊藤俊助(いとうしゅんすけ)だの井上聞多だのという人たちをイギリスへ送っていますぜ。
  それが君、去年あたりのことですぜ。
  あの人たちの密航は、あれはなかなか意味が深いといううわさです。
  攘夷派の筆頭として知られた長州藩の人たちがそれですもの。」  

 「世の中も変わって来ましたな。」 
 「まあ、わたしに言わせると、
  尊攘ということを今だにまっ向(こう)から振りかざしているのは、
  水戸ばかりじゃないでしょうか。
  そこがあの人たちの実に正直なところでもありますがね。」 

 木曾山の栗の季節はすでに過ぎ去り、青い香のする焼き米にもおそい。

 それまで半蔵は炬燵の上に手を置いて2人の友だちの話を聞いていたが、
雪の来るまで枯れ枝の上に残ったような信濃柿の小粒で霜に熟したのなぞをそこへ取り出して来て、
景蔵や香蔵と一緒に熱い茶をすすりながら、
店座敷の行燈のかげに長い冬の夜を送ろうとしていた。

 彼にして見ると、ヨーロッパを受けいれるか、受けいれないかは、
多くの同時代の人の悩みであって、
たとい先師篤胤(あつたね)がその日まで達者に在世せられたとしても、
これには苦しまれたろうと思われる問題である。

 もはや、異国と言えば、オランダ一国を相手にしていて済まされたような、
先師の時代ではなくなって来たからである。 

 それにしても、
あれほど京都方の反対があったにもかかわらず、
江戸幕府が開港を固執して来たについては、
何か理由がなくてはならない。

 幕府の役人にそれほどの先見の明があったとは言いがたい。
 なるほど、安政万延年代には岩瀬肥後のような人もあった。
 
 しかし、それはごくまれな人のことで、
大概の幕府の役人は皆京都あたりの攘夷家に輪をかけたような西洋ぎらいであると言わるる。

 その人たちが開港を固執して来た。
 これは外国公使らの脅迫がましい態度に余儀なくせられたとのみ言えるだろうか。

 水戸浪士の尊攘が話題に上ったのを幸いに、
半蔵はその不思議さを2人の友だちの前に持ち出した。 

 「こういう説もあります。」と景蔵は言った。
 「政府がひとりで外国貿易の利益を私するから、
  それでこんなに攘夷がやかましくなった。
  一年なら一年に、得るところを計算してですね、
  朝廷へ何ほど、公卿へ何ほど、大小各藩へ何ほどというふうに、
  その額をきめて、公明正大な分配をして来たら、
  上御一人から下は諸藩の臣下にまでよろこばれて、
  これほど全国に不平の声は起こらなかったかもしれない。
  今になって君、そういうことを言い出して来たものもありますよ。」 

 「政府ばかりが外国貿易の利益をひとり占めにする法はないか。」と香蔵はくすくすやる。

 「ところが、そういうことを言い出して、
  政府のお役人に忠告を試みたのが、
  英国公使のアールコックだといううわさだからおもしろいじゃありませんか。」と
 また景蔵が言って見せた。 

 「いや、」と半蔵はそれを引き取って、
 「そう言われると、いろいろ思い当たることはありますよ。」

 「横浜には外国人相手の大遊郭も許可してあるしね。」と香蔵が言い添える。

 「あの生麦償金のことを考えてもわかります。」と景蔵は言った。
 「見たまえ、この苦しい政府のやり繰りの中で、
  10万ポンドという大金がどこから吐き出せると思います。
  幕府のお役人が開港を固執して来たはずじゃありませんか。」

  しばらく沈黙が続いた。 
 「半蔵さん。攘夷論がやかましくなって来たそもそもは、
  あれはいつごろだったでしょう。

  ほら、幕府の大官が外国商人と結託してるの、
  英国公使に愛妾をくれたのッて、
  やかましく言われた時がありましたっけね。」  

 「そりゃ、尊王攘夷の大争いにだって、利害関係はついて回る。
  横浜開港以来の影響はだれだって考えて来たことですからね。
  でも、尊攘と言えば、一種の宗教運動に似たもので、
  成敗利害の外にある心持ちから動いて来たものじゃありますまいか。」  

 「今日まではそうでしょうがね。しかし、これから先はどうありましょうかサ。」 

 「まあ、西の方へ行って見たまえ。
  公卿でも、武士でも、驚くほど実際的ですよ。
  水戸の人たちのように、ああ物事にこだわっていませんよ。」
 
 「いや、京都へ行って帰って来てから、君らの話まで違って来た。」  

 こんな話も出た。  

  その夜、半蔵は家のものに言い付けて2人の友だちの寝床を店座敷に敷かせ、
  自分も同じように枕を並べて、また寝ながら語りつづけた。

 近く中津川を去って国学者に縁故の深い伊勢地方へ晩年を送りに行った旧師宮川寛斎のうわさ、
 江戸の方にあった家を挙げて京都に移り住みたい意向であるという師平田鉄胤(かねたね)のうわさ、
  枕の上で語り合うこともなかなか尽きない。

 半蔵は江戸の旅を、景蔵らは京都の方の話まで持ち出して、
寝物語に時のたつのも忘れているうちに、やがて一番鶏が鳴いた。 

【続く】
島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (7)


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