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Channel: ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。
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筑波山梅林 梅の開花状況 3月5日(木) 紅梅満開

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 3月5日(木) 天気晴朗で温暖、筑波山梅林の紅梅は満開、白梅も咲き出した。
 撮影時刻: 午前9時~9時30分 

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筑波山梅林 梅の開花状況 3月11日(水) 紅梅満開 白梅3分咲き

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3月11日(水) 筑波山梅林 梅の開花状況   紅梅満開、白梅3分咲き 
             撮影時刻: 9時~9時30分頃

     紅梅満開 白梅3分咲き 

     

      


      左側のスギ林 霜柱 9時頃 

       

        

       
        
        
       
        
      
       
      
       
       
       
       
       
        
        
        
         
        
        
         
        
        
         
         
                             

       

        

        

       

       

        

        

        

        

        

       

        

       

       

        

       

        

        

        

       

       

       

       

        

        

        

        

        

      

       

       

       

       

       

        

        

      


 

3月14日(土) 筑波山梅林 梅の開花状況   紅梅満開、白梅7分咲き 

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3月14日(土) 筑波山梅林 梅の開花状況   紅梅満開、白梅7分咲き 
             撮影時刻: 9時~9時30分頃
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筑波山の名物 ガマの油

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ガマの油の由来
 口上演技の実演による宣伝効果によって知名度が上がった“ガマの油”は、どのようにしてつくられたのだろうか。“ガマの油”と言われるが、ガマガエル、別名ヒキガエルは目の後ろに長い隆起があり、そこから出る白い毒液を分泌する。これをセン酥(せんそ)というが、この分泌液は、麻酔作用と血管収縮作用があると言われている。 これに薬草、動植物油脂や辰砂を配合して作ったものをセン酥膏(“ガマの油”)と言った。 

 慶長19年(1614年)、筑波山神社の光誉上人は徳川方として大阪冬の陣に際し、セン酥膏をもって出陣、戦に傷ついた武士の切り傷、すり傷の薬、血止めの薬として使われよく効いたと言い伝えられている。戦に際して用いられたので“陣中”という文言が付けられている。
   江戸時代末期、香具師は、がまの油をどう作ったのだろうか。彼らは胡麻油一升にムカデ十匹を入れ約半年で溶かし、これとは別にガマ十匹何も餌を与えずに、一ヵ月ほど飼いならし腹の中を空にしたものを この中に入れる。それをとろ火で一日ほど煮つめ、濾してからセンソ適量と和ロウを加えてがまの油を作ったと伝えられている。 
 ガマ類の脂肪は融点が低く人間の体温でよく溶けるので皮膚に浸透し薬効が高い良薬だった。

                               筑波山のガマの油 成分と作り方
    
                                       筑波山梅林の旧がま園・茶屋「お立会い」の展示物    

 【関連記事】

光誉上人がガマの油を造ったガマガエルの 「せんそ」とは



現在、市販されている 「陣中油(一名 がまの油)」   
 現在、筑波山の土産物店で売られている“ガマの油”は、水戸市の種村製薬が伝承の薬をベースに改良したものである。これには、いわゆる"ガマの油"は入っていない。種村製薬株式会社のガマの油は、商品名を「陣中油」と言い、含まれている成分は、ワセリン、ラノリン、シコンエキス、スクワラン、尿素などである。 

●効能 
  切り傷、擦り傷、吹き出物、湿疹、アトピー性皮膚炎、虫刺され、ひび、あかぎれ、やけど、水虫、ニキビ、切れ痔、床ずれ、鼻炎、鼻水(鼻孔に綿棒などで塗布)、老人性皮膚病など。 

●肌にうるおいを与える成分・・・・紫根エキス・スクワラン・尿素 
   紫根・スクワラン・尿素の相乗効果  
 紫根は漢方名で、和名では「むらさき」ともいう。万葉集の恋歌にも登場する古来からの名草である。紫根は現在でも貴重な薬草で、殺菌、消炎、異常細胞の形成除去と新生細胞の形成そくしんなどの作用や、分泌異常、肌におさまざまな異常を改善するとされている。スクワランはサメからとられ、保湿効果がある。また、尿素は、皮膚を柔らかくし、有効成分の浸透力を高める。なお、「「陣中油」には"ガマの油"は入っていない。

◆賦活効果  
  不足する成分を与えるだけでなく、血行を良くし、飢を内側から元気にする。 
◆改善効果  
  乾燥、ひび・あかぎれ、しもやげ、切り傷など、肌のトラブルを積極的に改善する。  
◆美肌効果  
  ベタつかず、肌にしっとりとしたうるおいを保持させ、やわらかくすぺすべにする。 

●市販されている「陣中油」  

   A: 障中油(ガマの油) 210gプラ缶入り  
   B: 障中油(ガマの油)  14gプラ缶入り   
   C: 障中油(ガマの油)   7gプラ缶入り  
   D: 障中油(ガマの油)   8gチューブ入り  

  (以上、”現在、市販されている「陣中油(一名 がまの油)」” は、製造販売:種村製薬株式会社(〒310-55 茨城県水戸市袴塚1-6-26)の資料 「陣中油(一名 がまの油)」によった。) 
 
現在では蟾酥(せんそ)、蒲黄(ほおう)とも医薬品に指定され、同種のものを製造して販売するには薬剤師登録販売者の資格が必要である。

          筑波山名物 ガマの油
 
 

                            筑波山名物 ガマの油 陣中油として継承 種村製薬
                                     http://www.ibaraki-meisan.gr.jp/?page_id=3957
 

 


 

ガマの油売り口上 江戸は大道芸の街だった

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江戸は大道芸の街、やし(香具師)が活躍した 
  やし・香具師とは?  

 ガマの油売り口上を理解ためには、口上が誕生した時代背景、特に江戸時代、江戸の町の商いで活躍した やし(香具師)について知る必要がある。
  1590年(天正18年)、徳川家康は江戸に根拠を移すと、直ちに諸国の工商を江戸に招いた。参勤交代の実施後、江戸の人口は急激に増えその消費を当て込んだ商業が栄え、大阪に比べ小売人が多く集まった。これら江戸に進出した商人は近江、伊勢及び三河出身のものが多かった。
      江戸・駿河町 三井呉服店
 
     角川書店 「新版 江戸名所図会 上巻」 72~73ページ 

やし・香具師 
 矢師、野師、弥四とも書き、的屋(てきや)ともいっている。もとは売薬、香具、艾(もぐさ)などの効能を能弁に実際の効能以上にいいたてて、それらを売ることを業とするかたわら、客よせの目的で、独楽(こま)回し、居合抜きなどの雑芸を余興として見せていた。
 これから、縁日など人の多く集まる街頭で贋物(にせもの)、粗悪晶を真物(ほんもの)、優良品のようにみせかけ、ときには つられて買う人が出るように仕向けるために、“さくら” と呼ぶ仲間を客のように仕立て、偽って “さくら” に買わせ、大衆の買気をそそった。
 このような仲間や大道芸人を “やし” というようになった。

 このような人から真物、良品を買いあてることは、矢を的にあてるようなものだということから的屋ともいわれた。露店、夜店で商品を売る街商、その街商が店を出す場所で地割りをしたり、街商の世話をする人、大道で雑芸をする人のことをいい、その取扱い商品は、単に売薬、香具、艾の類にかぎらず、繊維製品、荒物日用品、玩具(がんぐ)、飲食物など雑多なものに及び、大道芸人の芸も色々あった。
 昔、街角で見かけた、くつみがき、宝くじ売などは外商であるが香具師仲間に入らない。

売り方
 売り方の手法としては「十九文見世」がはやった。江戸時代中頃、四文銭が普及し、物の値段がなんでも4の倍数になってきた。「十九文見世」とは、二十文のところを十九文、つまり「一文引いて売るよ」という割安感を演出するものである。
 中には十九文では高いものも混じっていて、上手に品定めをしないと騙されることもあった。「十九文見世」の次には「十八文見世」が出現した。

 ガマの油売り口上は「2百文」を「百文」に値引き販売の場面があるが、値引き販売は、江戸府内の小売販売、特に香具師の世界では、的屋(テキヤ)という言葉が示すように当たり前のように行われていようだ。
 まず高い値段を設け、調子の良い口上を述べながら値引きしたように思わせて客に売りつけていたのではないかと想像される。
 
江戸の街、見世物・大道芸で賑わった
 江戸時代・・・・今もそうであるが・・・・・・城や神社仏閣に入るときは、“下車”、“下馬” といって、そこから先は車や馬などから降りて入らなければならなかった。 お供がその場所で主人の帰りを待っているとき、主人や仲間のことを話題にした。これを「下馬評」というが、待っているお供を相手に商売をはじめるものが出てきた。飲み物、食べ物の販売、暇つぶしのための見世物など、色々な見世物・大道芸が生まれた。

 江戸の街を賑わした見世物、大道芸はいろいろあった。

●居合抜き・・・・・居合を大道芸にかえたもので、薬売りや歯磨き売りの客寄せの芸   
          浅草蔵前 居合抜きの長井兵助の居合ぬき 
                   
              菊池貴一郎著 「江戸府内 絵本風俗往来」(有)青蛙房 

●曲独楽(きょくごま)・・・・・独楽を刀の刃の上を渡らせたり、肩から手首の上を移動させる芸

●歯力・・・・強烈な歯の力で重いものを咥え持って見物人からカネを集める芸 
               歯力演芸
        

                   豊島屋酒店 樽の曲ざし 
          
                菊池貴一郎著 「江戸府内 絵本風俗往来」(有)青蛙房  
●曲屁(きょくへ)・・・・・人ができないことをやれば金になる。屁(へ)で三番叟(さんばんそう)や鳥の鳴き声を演奏すれば金がもらえた。

●枕返し・・・・・箱枕、木枕などを自在に操る曲芸 

●鳥追い・・・・・若い女性が編笠をかぶり、帯をだらりと結んで艶かしい姿で鳥追いの歌を歌ってカネをもらう商売

●籠抜け・・・・・狭くて長い竹籠を通り抜ける大道芸 

●百眼(ひゃくまなこ)・・・・・いろいろな目鬘(めかづら)を取り替えて変装する見世物

●泣き売(なきばい)・・・・・哀れみを誘って物を売る。客の中に”さくら”が紛れ込んで客を集めた。

●讀売(よみうり)・・・・・教訓、道歌などを読み聞かせて売る  
      
        菊池貴一郎著 「江戸府内 絵本風俗往来」(有)青蛙房 

●一人芝居・・・・・右半身と左半身を違った色でできた衣類を身に付けて2人分の役を演じる芸 

●芝居、新狂言 
       

●鎌倉節の飴売り
     台上の人形が鉦(カネ)を打ち鳴らしながら飴を売った  
      
             菊池貴一郎著 「江戸府内 絵本風俗往来」(有)青蛙房  

●一人相撲・・・・・・力士、呼び出し、行司の三役を自分一人でこなす芸 

●乞食芝居
           乞食芝居 男の助
         
             菊池貴一郎著 「江戸府内 絵本風俗往来」(有)青蛙房 

●お千代船・・・・・船の模型を腰にぶら下げ銭をもらう芸 

●謎解き・・・・・明和の時代、江戸の湯島天神の開帳の時、坊さんが境内で参詣人に謎をかけさせ、木魚を叩きながら即座に謎をといて喝采を博した。これを真似て「何々とかけてなんと何々と解く、そのこころは何々である」といった謎解きを商売とする者が現れた。

●大平記読み・・・・・道端で「太平記」や軍記などを読み聞かせ、その内容を講釈してカネをもらう大道芸。講談の元祖。

●節気候(せきぞろ)・・・・・歳末に楽器を鳴らしてカネをもらう芸人、一人の場合もあり複数の者で演奏する場合もあった。

         栗餅の曲つき    
   数人栗餅の屋台を担ぎ、臼杵は持たず、一人は曲取り曲投げをなし、
   花見・遊山・開帳場など江戸街々を回って栗餅を売った。

        菊池貴一郎著 「江戸府内 絵本風俗往来」(有)青蛙房

 街商が出る場所には毎日一定の場所に開かれる平日(ひらび)、毎月一定の日に一定の場所に開かれる縁日(えんにち)、神杜仏閣の大祭日などに毎年一定の期日に開かれる高市(たかば)があるが、1949年(昭和24)に平日は禁止された。
 
    湯島天満宮
   月ごとの25日は植木市、表門通り左右 料理茶屋あり    
 
           角川書店 「新版 江戸名所図会 下巻」 42~43ページ 


街商の種類
●三寸 (商品をならべて黙って客のくるのを待つもの)、

●古店 (こみせ・・・・商品をならべ、多少客を呼んで売るもの)、

●ころび (俗に たたき といわれ、大声で商品の値段を呼び、その特色や効能を誇大にいいふらし、さあ買えささあ買えといって品物を売るもの、でん助式の射辛的なもの)、

●大締 (おおじめ・・・・へび薬、歯みがき、傷薬などの販売、独楽回し、催眠術、霊感術など)、
  本当の香具師は、ころび、大締だといわれている。

●植木店
  
            江戸の見世物 

        槌田満文編 「江戸東京 職業図典」 (東京堂出版)18頁 
       ●影芝居 (前列右端)
       ●与吾連太夫(前列右から2番目)
       ●お釜おこし(前列右から3番目)
         ●唐人飴 (前列左から2番目)
         ●紙屑ひろい(前列左端)
           ●大黒舞 (後列右端)
         ●飴曲吹 (後列右から2番目)
         ●高野行人(後列右から3番目)
         ●二人乞食(後列右から4番目)
         ●芥川之助(後列左から3番目)
         ●六部  (後列左から2番目)
         ●取替平 (後列左端)

今の時代、本当の香具師は誰  
 街商を希望する人は、出店する場所の所轄警察署に出店許可串請をして許可証をもらえば、その場所に一応出店できるはずであるが、各人がめいめいかってに出店すると、場所の奪い合いが起きたり、整理もむずかしい。
 慣習として出店を出す場所を縄張りにもっている親分に、出店する人は許可証と取り扱う商品とを見せて店を出す場所、店の広さを定めてもらい、電灯代とごみ銭(そうじ代)を支払うことになっている。この親分が本当の香具師といわれている。 


【関連記事】

江戸の町 口上や泣いて客を惹きつけ商品を売りさばいた 

 ガマの油売り口上、相手との強力な共感を作るアイコンタクトが大事 

「ガマの油売り口上」はプレゼンテーションである  

【参考】 第103回 全日本剣道演武大会 居合道 公開演武 

 

第19代 永井兵助 吉岡名人の口上演技に学ぶ

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第19代 永井兵助 吉岡名人に学ぶ
 吉岡名人のガマの油口上は、見る者をして“筑波山に伝承された “ガマの油の口上、これか!” と納得させるものがある。その口上演技には軽薄なアドリブは一切ない。見る者に媚、諂う言葉や仕草もない。見ている者が笑うことも声を出すこともない。皆、ジィット聞き惚れている。その場には、凛とした空気が漂っている。名人の口上演技に触れると、本物とは、こういうものなのであろうと納得する。

  名人の口上演技の素晴らしさは、刀剣の美しさに例えられるだろう。日本刀の持つ、機能を追求し一切の無駄を省いた姿・形に美を感じる人は多いと思う。その姿や反り格好は、その製作された歴史の中で、それぞれの必要性に応じて生まれ、その歴史や時代の思潮や様相を物語っている。日本刀には、独特の魅力や文化が秘められている。  

  日本刀の秘められた魅力、独特の文化とはどのようなものだろうか。研ぎ澄まされた地がねの肌や刃文は、美しい。 和鉄の鋼を何回も折り返し鍛錬し、強靭な地がねを作ることによってもたらされた鍛えた肌は、美しく趣がある。地がねの美しさは、和鉄の鋼を何回も折り返し鍛錬し、強靭な地がねを作ることによってもたらされた鍛えた肌の美しさである。この美しさは、刀がどのような過程を経て出来上がったのかなど誕生の経緯を教えてくれる。 

 また、刃文の文様は、製作された時代、刀工の系統、特色をよく現し、変化に富んだ刃中の様々な働きを見せる。 刃文の、互の目、丁字、沸でき、匂いでき、足(焼き入れの際の土置きによって、足と呼ばれる、刃文の縁辺より刃先に向かってほぼ直角にはいる線状の焼き入れ瘢痕)を鑑賞するためには、刀身に打ち粉を振り、懐紙で汚れを取り除き、電灯に斜め方向からかざしてみないと、その存在に気づかない、かすかな現象である。
 透かして見ると秋の夜空に輝く星のようにきらきらと見える刃文に、刀剣の美が凝縮している。また、切っ先も、刀の部分は長辺の刃の部分とは違った磨きかたを施されており刀剣の美を左右する。  

 日本刀は、武器として発達してきたため作られた時代背景を反映し、武士道の精神を表している。そのため武士の魂をあらわすものとして恩賞、下賜されてきた日本刀は、わが国独自の世界に誇る美術品といえる。 

 第19代吉岡名人の口上演技が見る者の心をとらえ感銘を与えるのは、刀剣の美に見られる歴史の長さ、文化的な重さ、深さ、厚さなどを感じるからであろう。ガマの油売り口上を披露するためには、“軽”、“薄”、“奇”や“媚”を排し、何度も繰り返し鍛錬をふみ、強靭な“地がね”を作り、鍛え抜いた“地がね”の美しさを、”お立会い”に提供する姿勢がなければならない。
 筑波山ガマの油売り口上に“美”を感じることは、伝承芸能を“感じる”ことでありたい。

                     19代名人の口上演技  
   

  
   山寺の鐘がゴォーン、ゴォーンとなると雖も、・・・・・・・。


  鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのか、・・・・・・・・。


 さて、手前ここに取り出したる これなる この・・・・・・・。

 
 木の根・草の根踏みしめまし山中深く分け入り捕らえ来ましたる このガマをば・・・・・・。

 
 さて、ここに取り出しましたるが、それ その陣中膏はガマの油だ・・・・・。 

 
 だが、お立会い。ガマガマと一口に云っても、そこにもいる、ここにもいる というガマとは、ちと これ ガマが違う。
 

 我こそは今業平と思いきや、鏡に写る己の姿の醜さに・・・・。
 

  ガンマ先生びっくり仰天いたしまして、・・・・・・・。 

 
 御体から脂汗をば、ダラーリ、ダラーりと流しまする。・・・・・・・。
 

  練って練って練り抜いて作ったのが、これぞこれ、陣中膏はガマの油の膏薬でござりまする。
 

 これにて、ガマの油の膏薬の作り方 お分かりかでござりまするかな。 


 エー、分かったよ。分かったけれども、どうせ ・・・・・・。   


 しからば、ガマの油の膏薬、何に効くかと云うなれば・・・・・・。
 

 も一つ大事なものが残っておりまする。刃物の切れ味をば、止めてご覧に入れる。手前 ここに取出したるは、これぞ当家に伝わる家宝にて政宗が・・・・・。


 天下の名刀、元がきれない、・・・・・、先が切れないなんていう
 

 鈍刀、鈍物とは、物が違う。実によく切れる。どれくらい切れるか・・・・・・。


 ここに一枚の紙がござりまするので、これを切って、・・・・・・・。
 

 ご覧の通り種も仕掛けもござりませぬ。
 

 ハイ。一枚が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚、・・・・・、この通り細かく切れた。
 

 パーッと散らすならば比良の暮雪か、嵐山には落花吹雪の舞とござりまする。 
 

 刀の差表、差裏に、手前のこのガマの油塗る時には、刃物の切れ味ピタリと止まる。塗ってご覧に入れる。あーら塗ったからたまらない。刃物の切れ味ピタリと止まった。
 わが二の腕おば、切ってご覧入れる。 
 

 打って切れない、叩いても切れない、押しても切れない。

 
 引いても絶対に切れない。
 

 この紙をもちましてきれいに拭きとるならば、刃物切れ味、また、元に戻って参りまする。
 

 さわっただけで、赤い血が、タラリタラーリと出る。
 

 しからば、我が二の腕をば、切ってご覧に入れる。ハイッ・・・・・。 
 
 この通り。赤い血が出ましたで、ござりまする。 


 だが、お立会い、血が出ても心配はいらない。なんとなれば、ここにガマの油の膏薬がござりまするから、この傷口に ぐっと 塗りまするというと・・・・・・。
 

 さあて、お立会い。お立会の中には、そんなに効き目のあらたかな そのガマの油、一つ欲しいけれども、・・・・・・・。 
 

 このガマの油、本来は一貝が二百文、二百文ではござりまするけれども・・・・・・・。 

 今日ははるばる、出張ってのお披露目。男度胸で女は・・・・・・

 
 効能が分かったら ドンドンと買ったり、買ったり。
 

 (これにてガマの油売り口上 おしまいでございます。) 
 
    
    以上、平成19年2月11日撮影、口上の所要時間約13分40秒  
 
【関連記事】「ガマの油売り口上はプレゼンテーションである」 


 

ガマの油売り口上 初代名人・永井兵助と刀について

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初代・永井兵助   
 筑波山麓の新治村(現、土浦市)の永井に伝えられる "永井村の兵助" の話によると、兵助は百姓の長男として生まれた。 1753(宝暦3)年、16歳のときに江戸深川(東京都江東区)の木場問屋で働くかたわら、がまの油を売るため、居合い抜きで歯磨き粉の売った技法を取り入れ、口上に工夫を凝らし、武士の衣装をまね竹光を派手に振り回してガマの油を売るに至ったと伝えられている。 これがガマの油売り口上の初代名人、永井兵助である。 


水戸藩における農民支配 
 永井兵助が生きた時代はどのような社会だったのだろうか。一般的に活力に満ちた豊かな社会は人口が増えるが、反対に活力が衰えた社会は人口が減少する。人口の増減の推移をみればその時代の世相が推察できる。  

 そこで、江戸時代後期の人口の推移を概観する、
  1721(享保6)年   2606万5千人を  100とすると、
  1744(延享元)年 2615万3千人で  100.3  
  1750(寛延3)年  2591万7千人     99.4  
  1756(宝暦6)年  2607万人      100.1  
  1762(宝暦12)年 2592万1千人      99.4  
  1768(明和5)年  2625万2千人   100.7  
  1774(安永3)年  2599万人        99.7   
  1792(寛政4)年  2489万1千人      95.5  
   (山本武夫著『詳解日本史』 旺文社 1992年)  

 人口推移から見ると永井兵助は1753(宝暦3)年、16歳が江戸に出たと言い伝えられているので、生まれたのは16年前の1737(元文2)年、没した年は不明であるが仮に60歳と仮定した場合、1796(寛政8)年である。彼が生きたのは、元号でいうと元文、寛保、延享、寛延、宝暦、明和及び安永の時代である。    

 永井兵助はいわゆる、田沼の改革で知られている田沼意次(おきつぐ、1719年~1788年)と同じ時代の人間である。宝暦・明和から所謂、田沼の改革の時代は、その政策で都市の特権商人の力を強めたが、反面物価高騰のため都市の町人の生活を苦しめた。また、農村では殖産産業の進展によって寄生地主や豪農が出る一方で、年貢の取立てが厳しかったこともあって各地で百姓一揆や村騒動が起こっている。

 水戸藩では農民の相互監視、扶助を目的として、万治2(1659)年に「十人組」を設箇していたが、時代がたつにつれ有名無実化してきていた。そのため、新たに五戸ずつを単位とした「五人組」として再編した。その上、改革の方針を村々に徹底させるため、法令67カ条を触れまわした。その主な内容は、農業経営の指導、生活の統制などに関する規定である。 

 これらの政策とともに、全領に精密な村況調査を行った。その主な内容は、各村の農家の持高、家族、耕作している作物、農間余業、家の広さ、蔵の有無などであった。その結果に基づいて、農民をそれぞれ「有福人」「相応人」「困窮人」「極窮人」の四級に分けて書き上げさせている。

 農政のうちで、最も注目されるのは人口対策である。 一般に江戸時代農村は、たび重なる飢筐や伝染病の流行、高い乳幼児死亡率、加えて堕胎や間引きによる人口制限などにより享保以降人口は停滞していた。水戸藩領では享保17(1732)年に約31万人あった人口が、寛政10(1798)年には約23万人にまで減少している。その最大の原因は間引きであった。

                  間引き(左)と育子(右)の図   
               『概説 水戸市史』 (水戸市 平成11年3月1日)
                                
 これに対して、藩は当初禁令や教論で対応していたが、それに加えて治保時代からは積極的な育子策がとられるようになった。すなわち、安永7(1778)年からは子供3人以上を育てているものに稗を支給し寛政3(1791)年からは金を給付するようにしたのである。そのいっぽうで、村役人に妊婦を改めさせ、胎死や出産の届けを厳重に行わせた。 

 もう一つの対策は、城下に出てきた農民を帰村させる「人返し」である。水戸藩ではすでに正徳2(1712)年にこれを命じていたが、治保時代の安永2(1773)年には再度達しを出し、寛政5年には人別改を厳正にした。これは、農民が奉公などで村から移動する際の届けを厳正にすることによって、農民が無断で離村することを防ごうとしたものである。これらの対策は、当座はある程度の成果をあげた。

 没落した農民は貧農、小作農、日雇などになり、都市へ流出して下層の暮らしするか無宿になるものが出るなど百姓では食っていけない社会であった。 このような世相であったので、田沼の改革で一時的に人口がピークに達した年もあったが、一貫して人口が減少している。 

 永井兵助は1753(宝暦3)年、16歳のときに江戸・深川の材木屋で働いた。呑んだくれであったとか、筑波山に参詣した際、山頂尾根の参道沿いにある奇岩・珍石をみてガマの油売りで身を立てようと一念発起したなどと言い伝えられているのは、このような江戸時代後期の農村社会を反映しているといえる。

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ガマの油売りと刀使い 
 江戸時代、「帯刀」許されていたのは武士と一部豪農、豪商で幕府の支配体制に貢献したものであった。武士に許されていた苗字帯刀とは、家名の中でも特に領知の名前に由来し、一種の領主階級であることを示す苗字を公称する事を「苗字」といい、また武門の証である刀を腰に帯びることを許される事を「帯刀」といった。これによって自身が領主階級であり、また武家の一族であることを示したのである。

 江戸時代も農民・町人など非武家階層の者達も装束として脇差1本のみを腰に帯びるなど護身武器の携帯もある程度は認められていた。しかし士農工商制を中核とした階級社会・封建社会を確立する上で「武士の特権」「武門の証」を明確にするため、長刀・刀に関しては武家だけが帯びるものとされた。  

 苗字帯刀の権利については武家の棟梁たる将軍家(幕府)、その直臣として自治領を持つ旗本(旗本領)、独自に家臣団を抱える各大名家(藩)など、小身の領主を抱える君主階級に決定権があった。基本的にそれぞれの君主が持つ領内においてのみ苗字帯刀権は機能し、それ以外の領地ではその土地の君主に苗字帯刀を許さなければならなかった。ただし、幕府が認めた場合のみはあらゆる土地で名乗りが許されていた。 

 また大名・旗本などは、しばしば家柄や功労により領内の有力百姓や町人などにこれを許して武士に準ずる者として扱った。村役人層や豪商などは町人・農民身分ながらも苗字帯刀を許される場合があった。

 武門の証である刀を腰に帯びることを許される事を「帯刀」は武士の特権であったが、刀を保有すること自体は自由であった。刀を作るの刀工が作ったのであり武士が作ったわけでもない。 もっとも、今の時代にも言えることであるが “法の支配” の外に生きる渡世人やヤクザは、お上の定めを遵守しないから、腰に刀を帯びていのであろう。

 明治維新後の1872(明治5)年に平民苗字許可令が出され平民の苗字の名乗りが公的に許されるようになった。また1876(明治9)年の廃刀令によって軍人・警察官でなければ士族であっても刀を帯びるのは許されなくなり、特権としての苗字帯刀は役割を終えている。

 「廃刀令」と言っても、刀を帯びることが禁止されただけで、所有そのものが禁止されたわけではない。四民平等の社会を築くため特権階級であった「武士」をなくすのが狙いであった。彼らが刀を帯びちょんまげ姿で闊歩されては新しい国作りの障害になったからである。

 永井兵助が生きた江戸時代の後期といえども上記のような規範があったので、武士階級から見れば、大道芸で物売り商売をしている “下層” の者が帯刀を許されることはなかった。 永井兵助が、がまの油売りで使用したのは、「帯刀」ではなく見世物として振り回したのであろう。または、刀身に見せかけた竹光を使った可能性もある。 

【関連記事】 ガマの油売り口上 江戸は大道芸の街だった 

大道芸の盛衰とがまの油売り  
 江戸幕府は身分の秩序にはうるさかったが、芸の内容には口出ししなかったため、色々な大道芸が発展した。明治時代になると、開国とともに日本の大道芸は海外でも知られる存在となり、一般人の海外渡航が許され、大道芸人が海外にでかけるようになった。日本の独特な芸風は大いに受け、海外のマジック、アクロバットなどに影響を与えることもあれば、海外の芸が日本に紹介されることも増えていった。

 ところが、明治政府は幕末に欧米と結んだ不平等条約の改正に苦労していたので富国強兵を進め、文明開化と称して鹿鳴館に代表される欧米文化の模倣につとめた。政府は、江戸幕府とは対称的に、身分制度を廃止した代わりに、芸の内容にまで踏み込む統制・管理を行ない、悪風俗として多数の大道芸を禁止した。 職を失った大道芸人は生活に困窮するようになり、これによって日本の大道芸は廃れていった。 

 時代が下って、富国強兵の結果、日清戦争に勝利した頃から、国民も自信を持つようになるとともに日本古来のよさを見直す動きも現れるようになった。明治30年代になると四民平等の風が行きわたり、庶民のなかから江戸時代の武士の装束をまとって見世物をするものが現れるようになっている。 

              武士の装束をまとった人々 (明治30年頃)   
      この写真は、古い時代の戦場での武士の姿を再現したもの。
        明治の世も下ると、祭礼などの場で江戸時代やそれ以前の装束を身につけ、
      歴史絵巻として練り歩くことが定着していった。
      現代でいう、観光大名行列のようなものである。
      
   
             門付け芸人 (明治30年頃)
       琵琶と笛を持った二人組みと月琴(中国伝来の弦楽器)と胡弓を持つ三人組。
      2組の門付け芸人を撮った写真。
        明治の時代、正月になると猿回しや角兵衛獅子などの 辻芸人がやって来たが、
      尺八を吹き鳴らす虚無僧や、法界節などを唄う写真のような芸人が季節に限らず訪れた。
      
                         解説 丸浜晃彦 「ノスタルジック ジャパン なつかしの日本 」
                                 株式会社 心交社 1994年      

 このような明治時代の世相を辿ってみると、独楽回しの松井源水や永井兵助の家も明治初期で消え去っているのは、大道芸に対する明治政府の姿勢が関係していると考えられる。また、現在のように、刀を振り回す芸を見せながらガマの油を売る物売りが香具師の手によって “復活” したとすれば、明治時代後半以降ではないかと推察される。

 このためか、がまの油売り口上の初代名人・永井兵助は言い伝えられているにも関わらず、2代目以降、15、16代まで名人らしい人物が実在したのか、実在したが言い伝えられていないのか、真相は不明である。それを示す文献が見当たらない。 
 
 

 

3月18日(水) 筑波山梅林 梅の開花状況   紅梅、白梅ともに満開

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3月18日(水) 筑波山梅林 梅の開花状況   紅梅、白梅ともに満開
             撮影時刻: 9時~9時30分頃
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文豪夏目漱石らが描写した江戸・浅草の香具師「長井兵助」 

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漱石の俳句 「長井兵助」
 文豪夏目漱石には長井兵助を歌った俳句がある。 
「長井兵助」は、江戸時代後期、安永(1772~1781)頃,江戸浅草奥山,上野山下などで人集めに大太刀の居合抜きを演じて歯磨きを売ったり、口中の治療をした香具師(やし)である。長井兵助は先祖代々浅草に住み、居合抜で人寄せをして家伝の歯磨や陣中膏蟇油を売っていた浅草や上野で有名な大道商人だった。
 明治10から20年代にかけって5代目が活躍していたというから、漱石の俳句にある人物は5代目とみられる。 

【俳句】
 抜くは長井兵助の太刀春の風 (明治30年作)
 
 句の言葉使いは大道芸よろしく講談調になっている。心地好い春風に吹かれて、見物している夏目漱石の機嫌もすこぶるよい。句を読む者も機嫌よくなる、そんな句である。 

 漱石は1893(明治26)年、帝国大学を卒業し、高等師範学校の英語教師になったが、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚えていた。失恋や肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになり、参禅などして治療に努めたが効果はなかった。

 1895(明治28)年、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に赴任した。松山は正岡子規の故郷であり、子規とともに俳句に精進し数々の佳作を残している。 

 1896(明治29)年、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚したが、順調な家庭生活とはいかなかった。家庭面以外では俳壇でも活躍し名声を上げていった。
 上の句はその頃の作である。 

小説『彼岸過迄』に登場する「長井兵助」
 漱石は小説『彼岸過迄』の中で “主人公田川啓太郎” が「占ない者」を求めて浅草を歩く場面で、啓太郎が子供の頃、祖父に浅草に出かけたとき聞かされた長井兵助の居合抜きについて記述している。
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【「停留所」十六】
 敬太郎はどこの占い者に行ったものかと考えて見たが、あいにくどこという当もなかった。白山の裏とか、芝公園の中とか、銀座何丁目とか今までに名前を聞いたのは二三軒あるが、むやみに流行はやるのは山師らしくって行く気にならず、と云って、自分で嘘と知りつつ出鱈目を強いてもっともらしく述べる奴はなお不都合であるし、できるならば余り人の込み合わない家で、閑静なひげを生やした爺さんが奇警な言葉で、簡潔にすぱすぱといい破ってくれるのがどこかにいればいいがと思った。  

 そう思いながら、彼は自分の父がよく相談に出かけた、郷里の一本寺の隠居の顔を頭の中に描えがき出した。それからふと気がついて、考えるんだかただ坐っているんだか分らない自分の様子が馬鹿馬鹿しくなったので、とにかく出てそこいらを歩いてるうちに、運命が自分を誘い込むような占者の看板にぶつかるだろうという漠然たる頭に帽子を載のせた。

 彼は久しぶりに下谷の車坂へ出て、あれから東へ真直に、寺の門だの、仏師屋だの、古臭い生薬屋だの、徳川時代のがらくたを埃といっしょに並べた道具屋だのを左右に見ながら、わざと門跡の中を抜けて、奴鰻(やっこうなぎ)の角へ出た。 

 彼は小供の時分よく江戸時代の浅草を知っている彼の祖父さんから、しばしば観音様の繁華を耳にした。

 仲見世だの、奥山だの、並木だの、駒形だの、いろいろ云って聞かされる中には、今の人があまり口にしない名前さえあった。広小路に菜飯と田楽を食わせるすみ屋という洒落た家があるとか、駒形の御堂の前の綺麗な縄暖簾を下げた鰌屋は昔から名代ものだとか、食物の話もだいぶ聞かされたが、
 すべての中で最も敬太郎の頭を刺戟したものは、長井兵助の居合抜きと、脇差をぐいぐい呑のんで見せる豆蔵と、江州伊吹山の麓ふもとにいる前足が四つで後足が六つある大蟇(おおがま)の干し固であった。 

それらには蔵くらの二階の長持の中にある草双紙の画解が、子供の想像に都合の好いような説明をいくらでも与えてくれた。

 一本歯の下駄をはいたまま、小さい三宝上にしゃがんだ男が、襷(たすき)がけで身体よりも高く反返った刀を抜こうとするところや、大きな蝦蟆(がま)の上に胡坐をかいて、児雷也(じらいや)が魔法か何か使っているところや、顔より大きそうな天眼鏡(てんがんきょう)を持った白い髯の爺さんが、唐机(とうづくえ)の前に坐って、平突(へいつく)ばったちょん髷を上から見下みおろすところや、大抵の不思議なものはみんな絵本から抜け出して、想像の浅草に並んでいた。 

 こういう訳で敬太郎の頭に映る観音の境内には、歴史的に妖嬌陸離(ようきょうりくり)たる色彩が、十八間の本堂を包んで、小供の時から常に陽炎(かげろ)っていたのである。
 
 東京へ来てから、この怪しい夢はもとより手痛く打ち崩ずされてしまったが、それでも時々は今でも観音様の屋根に鵠(こう)の鳥とりが巣を食っているだろうぐらいの考にふらふらとなる事がある。
 今日も浅草へ行ったらどうかなるだろうという料簡が暗に働らいて、足が自とこっちに向いたのである。
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【江戸府内 繪本風俗往來下編】に描写された
   長井兵助の居合抜き
 明治38年刊の東洋堂版に『江戸府内 絵本風俗往来』という菊版袋とじの和本上下2冊がある。東陽堂は、当時の風俗を描写し「風俗画報」として明治22年から大正5年の間、出版している。この雑誌は明治から大正にかけて江戸の歴史風俗地誌として異彩を放っている。

 本書の著者の芦廼葉散人菊池貴一郎の詳細は不明であるが、『江戸府内 絵本風俗往来』の「序」「・・・・・60余年来当地に居住し、昔のことは悉く知りぬきたり。されば其の風俗を記して大いに江戸児風を吹かせむと。几案の前に座禅しつつ。躍起となりて筆をとり。江戸口調の文を以て江戸純粋の歳事をありのままにかきちらし。・・・・・・」とあり、上編の「序」の日付は「明治38年11月」となっているので、当時すでに70を越えた人である。あまり評判にもならなかったので専門学者でもなく画工でもなく、市井の好事家であったと推し量られる。
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居合抜き 長井兵助  

居合抜きの歯磨売は浅草御蔵前に長井兵助あり三田松本町有馬邸前にあり 此二家の外江戸中になし 

二家とも表間口二間半許にて店は白地に藍の大形井桁の内に長の字の総張付壁同じく襖障子を立し様は其頃の医師の玄関の如く

其内正面に光輝きたる真鍮作りの長短大中小の居合太刀幾腰も刀掛にかけたり

又黄銅磨の金具打たる箱を据置威風を粧ふ

三田なる居合抜きは幸橋御門久保町の原或ひは芝愛宕下増上寺御成門外なる路傍に露店を張りて

家業の歯磨を商う時は五六間四方に大きな麻縄を張廻し

其正面程よき所に台を据其上に刀掛を置て居合太刀をかざり

其後部は家の印を染出せる大暖簾を以て掩ひ刀掛の前に小さな台の据えてあり

其上には1尺四方の三方盆を置たり

居合抜きの扮打は黒染五ツ所定紋付の衣類に小倉織の平袴を付て高股立をとり

白き襷を十字に綾どり甲斐々々しく居合太刀を帯て

右手に白扇を持て一本歯の高足駄を踏みて立上がりける

左手には帯たる一丈に余れる長き居合太刀の鍔許を握りて占身せるは

直ちに抜んず光景なりしかば

最前より見物せる山の如き人々は居合を見て行んと樂みしに

居合抜は口軽き滑稽を言て見物の頤を解しめ

巳に抜かと見へて又抜ず家伝歯磨の効能をいふより歯磨を売る

見物は居合を見たさに買ずもがなの歯磨きを買ふに未だ居合をせず

此中蓋を傾けんまでに時を移す

見物の人々足の痛きを覚へず

小僧は主人の使ひの遅刻を忘れ

田舎人は懐中の財布を抜かれしを心づかず

居合抜は今まで帯びて居たる丈余の太刀は脱して後辺にかけ短かき太刀と指かへ前に、

蹲(うずくま)れる己の抱えの小僧目がけてヤッといふ声に抜き放ち小僧を相手に打ち振けるが

待甲斐程に覚へねば忽ち足の痛を感じ見物は失望らしく散乱すれば

叉後より立止る居合抜は短剣を鞘に納めて再び丈余の長太刀を帯しも抜かざることは以前に同じ

又歯磨の家伝の効能随分人を馬鹿にせしも

馬鹿になりて見物するは居合を抜ざる中の却て面白居合になりては

趣味多からざりしと覚へたり。 


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  『江戸府内絵本風俗往来 新装版』絵・文 菊池貴一郎著 有限会社青蛙房 平成15年5月20日

筑波山 梅林の梅満開、ケーブルー運行再開で山頂を目指す人が多かった 3月21日

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 筑波山梅林の梅は満開、好天に恵まれ多くの人が梅の花を楽しんでいた。花弁が散っているのでこの週末が梅の見納さのようだ。
また、筑波山のケーブルカーが運行再開となったので山頂を目指す人が多かった。

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筑波山梅林 白梅満開、散りだした (3月27日)

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  3月26日、筑波山梅林の白梅は満開だが花びらが散りだした。 
 

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水戸黄門 「葵の御紋」を振りかざすイメージが形成された背景 「御三家」

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権威を見せ付けて役人の不正を糺さざるを得ない事情 
 「水戸黄門漫遊記」は、数ある時代物のうちでも、人気の衰えない話であるが、『漫遊記』自体は、それに喝采した近世後期の人びとの夢想である。

 実在の水戸藩主である徳川光圀は、水戸藩初代藩主頼房の第3子で江戸時代初期の名君の典型とされた。光圀は国史編纂(『大日本史』)のために史局員の儒学者らを日本各地へ派遣して史料蒐集を行っているが、光圀自身は世子時代の鎌倉遊歴と藩主時代の江戸と国元の往復や領内巡検をしている程度である。光圀は初代藩主頼房の養母太田氏「於梶の方」の墓がある鎌倉扇谷の英勝寺に「英勝院」の墓碑銘を撰文し、頼房および光圀は養母、養祖母の菩提のため英勝院を度々訪れている。また初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現を祀る東照宮のある日光日光へ行ったことはあるが諸国を漫遊したという史実は無い。 

 時代劇の「水戸黄門」のストーリーは、時は元禄、「犬公方」こと五代将軍徳川綱吉の治世。隠居した光圀はお供の俳人を連れて、諸国漫遊を兼ねて藩政視察の世直しの旅に出る。悪政を行なう大名・代官などがいれば、光圀は自らの俳号「水隠梅里」を書き記すなどしてその正体をほのめかし、悪政を糾す。というものである。  

 この黄門(中納言の中国風のよびかた)像は天下の副将軍としてのものである。その下敷になっているのは、二代水戸藩主徳川光圏としての名君の誉れである。徳川光圀は『大日本史』の編纂のほか、士風の高揚、寺社の整理と復興、農業の増進など積極的な政治をすすめ、藩体制の基礎をつくった。水戸の徳川家が天下の副将軍と称することで、あたかも将軍家につぐ高位にあるかのような印象を与えるが、水戸藩は、尾張・紀伊についで御三家のなかではもっとも格下であった。 

 光圀が糺すのは局所々における役人の不正であり、時には身分制度の掟で結ばれない恋人同士に粋なはからいを示すことなどであるが、身分制度の矛盾を正す改革にまで踏み込んだ対応はしていない。

 江戸時代は、天下の副将軍が、いきなり「葵の御紋」を振りかざして善悪の決着がつけられるような社会ではなかった。身分を問わず訴訟が行なわれ、公然の対決や扱い人をいれての内済・和談というのが公事の処理であり、犯罪であれば、武士は目付、町人は町奉行、寺社関係は寺社奉行と、それぞれの身分に応じた司直の機構がある。そういう機構の縄張りを無視できなくなってくるのが、近世の成立であった。

 もちろん頭越しの影響力行使や手加減はあった。だがそれは規則・制度を運用する条件としてである。『漫遊記』の登場そのものが、規則ずくめとその非効率に対する反発という側面をもっている。
 光圀のような名君藩主によって仕上げられてゆく「藩世界」において、領民はけっして封建領主制の抑圧からのがれられたわけではない。 

 黄門様が「葵の御紋」を見せ付けて役人の不正を糺すというイメージが形成された背景にあったのは、水戸藩の威光と弊害及び定府制に伴う江戸と水戸の対立、これに伴って起こる諸々の問題を解決せざるを得ない事情があった。また時期がたつにつれて、藩財政にゆきづまりを深めたために、史実以上に誇張された名君像がつくられていったという事情もある。 

                水戸光圀木像  
    『義公没後三百年 光圀―大義の存するところ如何ともし難く』 茨城県立博物館

「御三家」である
 水戸藩の成立事情で、他の藩にない特徴は、藩主徳川家が御三家の一家であることと定府制(江戸常詰)であること、この2つである。

 江戸時代の諸大名の数は、時代によって多少の相違があり、大概260家前後から270家前後の間を上下しているが、将軍徳川家との縁故によって親藩・譜代・外様の3種類に分けられる。親藩は将軍家の親類で、そのうち家康の子を始祖とする尾張・紀伊・水戸の三家は別格で、御三家と呼ばれ、その分家は御連枝(ごれんし)と呼ばれた。

 更に、家康の子結城秀康を始祖とする越前松平家、秀忠の子保科正之を始祖とする会津松平家、及びそれらの分家、母系で徳川氏の縁戚につらなる大名などは御家門(ごかもん)といわれた。

 譜代大名は関が原役以前から徳川氏に臣属した者で、外様大名は関が原役以後臣属したものであるが、その区別はかならずしも明確でなく、後には外様大名でも譜代の格式を与えられたので、いくらか例外もみられる。親藩の数は御三家以下23家で、新規に取立てられたものであるから、槍先の功名で徳川氏の覇権を助けて成り上って来た譜代大名や、自力で大名となり徳川氏の覇権に服した外様大名とは、その成立事情に違いがある。

 たとえば、藩政では広大な領地を一時に与えられたので、その当初から支配組織が整ってはおらず、また家臣団も寄せ集めであるから、譜代の主従関係が密接ではない。この点では、特に戦国以来の外様大名の性質とは大きな相違があり、成立の初期では藩情にもその相違が明らかに現れている。御三家水戸藩の場合も同様である。  

  御三家の制度は、幕府が特にある時期に法令を出して定めたことはないが、家康の方針に基づいて義直・頼宣・頼房3子が格別の待遇を受けて大領地を与えられたとき、すでに御三家の原型ができたのである。そして2代将軍秀忠の弟、3代将軍家光の叔父として他の親族大名とは別格の地位に立ったとき、おのずから権威を高め、幕府の制度の上でもその権威にふさわしい格式が成立したもので、その時期は幕府の諾制度の大綱がほぼ成立した寛永期と推定される。 

 事実、「御三家」の称は、1623(元和9)年 家光任将軍の時から寛永に入って、記録にたびたび見えるようになる。御三家の「三」は古来、東洋思想では、三・五・七・九などの数が重んぜられているので、その伝統思想に適応したとの考え方もあるが、事実は家康の11人の男子のうち晩年に生まれた末の3人が特に寵愛され、膝下に残ったのである。 

家康には男子11人がいたが、 
●長男信康(母はは正夫人関口氏)は、1579(天正7)年21才で自殺、
●次男秀康(以下、母は側室)は下総の結城家を継いで越前北之荘(福井)65万石を領したが、1607(慶長12)年34才で病死、
●三男は秀忠、四男忠吉は三河東条の松平家を継いで、尾張清須57万石を領したが、1607(慶長12)年28才で病死して嗣子なく断絶、
●五男信吉は武田氏を継いで水戸15万石を領したが、1603(慶長8)年21才で病死して無嗣断絶、
●六男忠輝は三河長沢の松平家を継いで、越後福島(のち高田)75万石を領したが1615(元和元)年父に勘当され、翌2年25才で改易、伊勢朝熊に流罪となり1617(天和3)年死没、
●七男松千代は1599(慶長4)年7才で死し、
●八男仙千代は1600(慶長5)年6才で早世した。
したがって家康の晩年には、将軍秀忠のほかに、九男義直・十男頼宣・十一男頼房しか残っていなかった。 

 近くは豊臣氏が肉親少なく減亡を早めた事情を眼前に見、遠くは源氏が骨肉相食み北条氏に権力を奪われた先例を知っている家康にとって、3人の末子たちを大々名に取り立て、将軍家の藩屏とし、徳川の血統の安泰を計ることは、実に情実と政路とをかねた方針であったに違いない。 

 徳川家はその後、秀忠に4人の男子があった。長男長丸(母は下女)は1602(慶長7)年2才で死し、次男は3代将軍家光(母は正夫人浅井氏)、三男忠長(同)は駿府城20万石を与えられたが、1631(寛永9)年改易となり、翌年28才で自刃させられ、四男正之(母は側室)は信濃高遠城主保科家を継いで会津23万石の城主(その孫正容の時、松平姓となる)となった。  

 家光には5人の男子(すべて母は側室)があった。長男は4代将軍家綱、次男綱重は甲府城25万石を与えられたが、1678(延宝6)年死し、その子綱豊(家宣)が宗家を継いで6代将軍となったので、甲府徳家は絶えた。

 三男亀松は1684(正保4)年3才で死し、四男綱吉は寛文元年、上野館林で25万石の大名に取立てられたが、1680(延宝8)年兄家綱の死後宗家を継いで将軍となったので、館林徳川家は一代で絶え、五男鶴松は1648(慶安元)年当才で死んだ。
                        近世徳川家系図
     『義公没後三百年 光圀―大義の存するところ如何ともし難く』 茨城県立博物館 

 このように、家康の男系子孫には義直・頼宣・頼房ほど特に卓越した地位に立った者はいない。この3人は三代将軍家光の叔父として尊敬され、義直は1650(慶安3)年(51才)に死んだが、頼宣(1671年=寛文11年死、70才)と頼房(1661年=寛文元年死、59才)とは4代将軍家綱の時代まで徳川一家の長老として重きをないたのである。これらの事情をみれば、御三家が諸大名中に高い権威を誇るようになったわけが判然とする。 

その地位は次のとおりである。
(1) 官位・儀礼等の格式
 御三家の格式は他の諸大名とは別格とされ、幕府から待遇を受けた。
 まず官位は尾張・紀伊両家が従二位権大納言を極位極官とし、水戸家は従三位権中納言を極位極官とした。江戸時代の諸大名のうち納言となった者は前田家の利常・齋泰2人が中納言に任ぜられただけである。また千代田城中の詰所は御三家だけ大廊下で、そのほか将軍に対する礼式すべてにつき、諸大名とは異なった。また諸大名との礼式も、対等でなく一段高い地位にあった。 

(2)幕府との支配関係  
 家康の意向で特に附家老(附人という)が付属された。尾張家の成瀬・竹腰両氏、紀伊家の安藤・水野両氏、水戸家の中山氏で、いずれも譜代の城主格である。

 附家老の制には、御三家の内部を強固にし、幕府との連絡を密接にすると共に、場合により幕府から御三家を監督する意味もふくまれていた。諸大名は、将軍から領地の証状(10万石以下は将軍の朱印を押した朱印状、10万石以上は将軍の花押を記した判物)を与えられ、その証状は将軍の代替わりごとに書き改められたが、御三家にはこの事はない。  

 慕府の築城工事や治水土木工事などには、諸大名の手伝い(国役という)を命じたが、御三家には寛永の千代田城普請の時以外は国役の義務を免ぜられた。また諸大名は将軍の代替わりごとに、忠誠を誓う誓詞を差出さねばならなかったが、御三家には八代将軍吉宗の時から廃止された。

(3)幕政および宗家の継嗣との関係 
 御三家は常々幕府の政治向きの事に直接には関与しない建て前であった。

 これは将軍の親類が政治上権力を揮うと弊害が起こりやすいため、初期以来幕政の根本方針とされた。しかし幕府の危機の場合、または家康以来の祖法を変えるほどの一大事の場合などには随時意見を上申し、あるいは将軍から御三家に意見を求めた。御三家の幕政関与の好例は、天明6年老中田沼意次の罷免、松平定信の老中推挙である。 

  このときは水戸家治保・尾張家宗睦・紀伊家治貞の3人と一橋家治済が協カして、田沼一党の粛清に乗り出し、ついにこれを倒して、寛政改革への途を開いた。またこれより先、八代将軍吉宗が財政難を打開するため、諸大名の参勤交代の在府期間を半年に縮小して、その代わりに上米を諸大名から上納させる新政策を行なったとき、あらかじめ御三家と密議して了解を取り付けたことがある。このように幕府と御三家との政治関係の先例をみれば、幕末、水戸徳川齊昭の激しい政治活動も、その由来するところが深いのである。 

 将軍の継嗣問題については、特に御三家の意向が尊重されるべき立場にあった。将軍に世子(後継ぎの男子)があるときは、諸事老中が取計ったが、世子がなくて将軍か死んだときは、家督相続者の選定につき御三家が相談にあずかり、また将軍に世子も弟もない場合は、御三家の中から入って宗家を継いだ。

 四代将軍家綱の病死に当たり、大老酒井忠清が有栖川宮幸仁親王を幕府の主として迎え立てようとしたとき、老中堀田正俊がこれに反対して将軍の弟館林城主綱吉を推し、ついに綱吉が宗家を継いだが、この決定には特に徳川光圏の意見が有力であったと水戸側では伝えている。

 ただし、この相続間題の真相は、将軍家綱の遺言状を正俊があずかって評議の席に差出したので、酒井忠清の計画(その真相は不明)が破れ、綱吉に決定したもので、光圀はこの将軍の遺志を尊重すると共に、また道理上、綱吉を推したのであろう。その後、七代将軍家継がわずか8才で死んで、御三家のうちから後継を選ぶこととなったとき、水戸家徳川綱條が尽力して将軍家と最も血縁が近く、賢明の名が高かった紀伊家徳川吉宗を推挙したので、吉宗に決定し、幕政停滞の危機を防止することができた。 

【参考文献】
『義公没後三百年 光圀―大義の存するところ如何ともし難く』茨城県立博物館 平成12年11月
『水戸市史 中巻1』 水戸市編纂委員会著 水戸市役所 1991年
『県史シリーズ8 茨城県の歴史』瀬谷義彦・豊崎卓著 山川出版社 昭和62年8月
『大系日本の歴史⑨ 士農工商の世』深谷克己著 1993年4月 
『世界大百科事典 16』 平凡社 1968年9月

 

水戸黄門 「葵の御紋」を振りかざすイメージが形成された背景 「天下の副将軍」

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“名君”水戸光圀の仁政
 藩主としての光圀の活動が本格化するのは、父頼房の3年の喪があけた寛文3年頃からである。「頼房卿後逝去の後三年の間、頼房卿の御仕置きを御用ひ、少も御改被成候」(桃源遺事)。定府制により、江戸常駐を義務づけられていた光圀であるが、30年間の藩主在任中、前後11回にわたり就藩帰国して水戸城に滞在し(歴代水戸藩主のなかで最も滞在日数が多く約90ヶ月に及んだ)、領国経営に力を注ぐとともに、領民との接触に努めた。

 藩政の遂行に関しては「我が為に非ざるなり、以て人を利するなり、今日の為に非らず、以て将来を冀ふなり」(義公行実)という言葉を常に口にしていたと伝えられている。そしてその仁政ぶりは、領内だけでなく全国に知れわたり、幕末期以降現在に至る「水戸黄門」の源となっている。

 ただし、水戸藩主としての光圀に関しては、光圀時代の年貢率の高さ、藩財政の大幅な赤字、「附荒」(本来なら作付けされる田畑が、作付けされずに放置されて荒廃した耕地のことで、耕作農民の逃亡や、耕地保全策がなされないことが原因とされる)事態にもかかわらずに、大日本史編纂や快風丸建造などに多大な支出を行い、さらに定府制による江戸屋敷費用の増大もあって水戸藩尾財政が破綻し、これに伴う元禄3年の光圀引退に至ったことなどから、必ずしも“名君”とはいえない一面がある。 

【関連記事】
水戸黄門は“名君”だったが、実在した徳川光圀の水戸藩の百姓は貧窮に喘いでいた  

天下の副将軍 
 光圀には水戸藩主としてそのその領国の経営に責任をもつ以外にも「御三家」の一員として徳川幕附を支えるという人きな役側があった。光圀30年の藩主時代を、将軍の治世でみると四代家綱の後半19年と五代綱吉の前半11年にまたがっている。この間、光圀がどのように幕政に関わったのかははっきりわかりませんが、幕府運営上重大な出来事がおこるたびに光圀が関わっていることが見える。 

 まず1680(延宝8)年の将軍嗣問題である。この年の5月、四代将軍家綱が後嗣のないまま没したため、誰を嗣子に立てるのか衆議混乱状態になった。『徳川実記』によれば、当時「下馬将軍」と称されて幕府の実験を握っていた大老酒井忠清が、鎌倉幕府のれ煮習って、京都から有栖川宮親王を迎えようと画策し、幕閣もこれに傾きつつあったが、老労堀田正俊一人だけが反対、血統論で家綱の弟館林藩主綱吉を推挙したので、いなこれに従ったとされている。

一方、「御三家」の一員としてこの問題に発言権のある光圀の対応については、『水戸紀年』に次のように記されている。

「厳有公(家綱)疾病ナルヤ嗣立未定衆議紛紜タリ公(光圀)ノ一言館林綱吉卿ヲ養君ニナシ玉ヒ大統ヲ嗣セラルト云」。つまり光圀の一言で五代将軍綱吉が誕生したとなっている。しかし事実はそう単純なものでもなく、『徳川実紀』にある堀田正俊の発言の背後には、御三家を中心とする徳川一門の動きがあり、実際にはその動きが酒丼忠清の計画を封じて綱吉の嗣立に成功、大奥も絡んだ複雑な政治的暗闘の結果、ついに家綱の遣言というかたちで問題は決着したのであろう。

「副将軍」という役職はなかった
 江戸幕府が開かれたが、幕府内に「副将軍」という役職はなく、江戸時代において副将軍が任ぜられることは一度もなかった。しかし、水戸家は御三家ではないという説があり、水戸藩主は将軍の名代、天下の副将軍または水戸の副将軍と称されることが多い。

 家康が元和元年8月に定めたといわれる「公武法制応勅十八箇条」には、第12条に、将軍と尾張家・紀伊家を三家と定め、第14条に水戸家を副将軍と定めている。

そして尾・紀両家は将軍の政治が悪しく国民が苦しむ時に、代わって将軍となるべき家柄であり、水戸家は将軍を取りかえる必要がある場合、その選任を指図すべき家柄である、と説明している。 

【ウキペディア】
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 公武法制応勅十八箇条 (こうぶおうちょくじゅうはっかじょう)    
 元和元年(1615年)8月に徳川家康が、後水尾天皇の勅命を受けて御所の紫宸殿に掲げるために定めたとされている18ヶ条。ただし、今日の法制史においては「偽法令」であるとされている。

 『徳川禁令考』前集一に諏訪氏所蔵として引用されており、武家政道と天下太平について定めたものとされる。ところが、その内容は当時の幕府の法令に形式に則しておらず、特に第18条に至っては当時存在する筈の無い「東叡山」(寛永寺の山号。同寺の創建は元和元年から10年後の寛永2年(1625年)で、山号もこの時に天海が命名した)という言葉が登場するなど矛盾が多く、今日の法制史の研究者の間ではその存在を否定されており、公家政権(朝廷)に対する江戸幕府の優越的地位を示すために創作された偽文書であると考えられている。

 また、岡野友彦は源氏長者の地位を本来持っていた公家の役職としての奨学院淳和院両院別当としての意味から武家の棟梁としての意味に換骨奪胎していることに注目し、この文書を偽造した人物が徳川将軍家が源氏長者の地位を根拠として公家政権(朝廷)の支配を行おうとした方針を文書に反映させているとしている。 
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 ところが、この家康制定という法制は全部後の偽作であって、信用することはできず、家康が三家の格式をこのように定めたことはない。しかし、このような考え方が一部にあった証拠にはなるのである。 

 このほかにも「校合雑記」に、光圀から大久保長十郎長栄が直々承わった話として「世上で尾・紀・水を三家と考えるのは心得違いである。公方(将軍)と尾州・紀州を三家という。水戸家は三家の後見のようなもので、三家に我がままをさせぬように意見をして、行跡をも吟味する役目の家である」と仰せられた、という。 

 また江戸後期の名随筆「事蹟合考」には、尾・紀・水、御三家のうち、特に水戸家は将軍の名代として軍用を勤める家柄で、そのため常々幕府の旗本・役人を見知っておき、江戸に定詰(じょうづめ)である、と記している。その大意は、『大坂役の後、神君の計らいで御三家を定めて天下鎮護の任に当たらしめ、本丸に嗣子がないときは三家の順で相続させ、義直・頼宣は西方の鎮護、頼房は将軍の名代として軍用および四海の地域、異地の征法などをつかさどるべし、と命ぜられた。

そのため水戸藩は将軍の采配によって凶徒征伐に向かわれる定めである。この事情で光圀の時代までは、毎年3月13日から8月12日まで、慕府の小役人の組頭以上惣旗本の列の人は、毎日非番次第五人三人ずつに限り、十人百人たりともその日限の中に一度水戸家書院に出て、一汁三菜の料理を受けた。 

 この時、水戸家の享主役の者が来客一人ずつの名を呼び掛け「何某よく喰いやれ」と挨拶する習わしであった。これは水戸家が将軍の名代として幕府の人数を指揮するとき、旗本の面々を見知っておくためである。将軍の名代であるから、元和以来、定詰で、一年のうち、「鷹野御暇」(たかのおいとま)として百日ずつ帰領される。このような家柄だから家綱将軍が幼少のとき、光圀が在府して天下の政を後見された』という。 

 このほか「新編柳営続秘鑑」にも、公方家と尾・紀両家を御三家とすることを一説として伝えており、尾張藩・紀伊藩では、元来秀忠・義直・頼宣を御三家(又は三人様)と呼んだが、水戸家が分かれ出たのち尾・紀・水を御三家とした、との説があった。 

 これらの諸説のうち、水戸家「非御三家説」は格式上のことで政治上の意味はうすいが、副将軍説は、政治上、軍事上、大きな意味をふくむものである。

 水戸藩中では副将軍説につき、特別に詳記したものは見当たらないが、案外ひろく信ぜられていたようである。事実、1819(文政2)年7月、青山拙斎の藩主斉脩(なりのぶ)への建白書に「御当家は天下の副将軍と奉称、有事ときは幕下御名代にも被為。成候御儀に侯得ば、御代々様方御武芸熟練の御儀奉存候」とある。 

 またこれより以前、1807(文化4)年3月小宮山楓軒の建白書にも、万一の節は「副将軍御出陣」の用意に不足なきよう心掛けねばならない、といっている。慕末には政争の激化とともに、このような考えが一段と具体的となった。三条実萬らの尊撰派の公卿が安政5年、斉昭に副将軍の宣旨を下すよう策動し、「水戸前中納言事、文武両道之聞有之、且従来報国之心懸神妙之義に付、今度副将軍宣旨可被下御内意被仰出候事」と実萬が手記している。 

 斉昭もまた水戸家が格別の家柄(将軍の名代)であることを確信していた証拠に、1844(弘化元)年5月5日、幕府老中あての書状案に、「三家之義は乍恐将軍家御兄弟の家にて、且拙家初代源威事、大猷公より難打尊慮有之、誓紙をも指上、御内々御書をも頂裁いたし居候へは、代々右之心得にて、非常之節は御旗本の下知も致侯心得にて」と記している。すなわち、水戸家では代々将軍の名代をもって自任していたことは、明らかである。 

 「源威」(頼房)が、大猷公(家光)から有りがたい「尊慮」を受けて誓紙を差上げ、内々で御書をも賜わったというのは、家光が御三家の叔父のうち頼房と親密な間柄で「兄弟のように力を協せたい」(年令では頼房は一つ年上)という意味の直書を頼房に与え、頼房からも誓紙を上呈したものである。その家光の直書は「格別の家柄」の証して、水戸家に代々保存され、「水戸藩史料」にも収載されている。 

 このような考えが、幕末の政局に対する自負心と責任感とを水戸の人々に植え付けたことであろう。また明治時代にでき水戸黄門漫遊の物語にも「天下の副将軍であるぞ」という一喝が、いつも悪人を慴伏させていることは、ひろく世に知られている。 

 ただし、水戸家副将軍説には確かな根拠がなく、また幕府が水戸家を特に刷将軍(又は名代)と定める事情もないので、表向きの真実とは考えられない。
 慕府はもちろん、諸大名がこれを認めていたわけでもないが、水戸藩主の地位が他の大名と違って、参勤交代せずに常に江戸に留まる定府が義務付けられていたこと、将軍の補佐役として重きを成していたことなどから、水戸藩士にはそうした自負があったものと思われる。 

 おそらくこの説の源は、前記家光の直耕や光圀一代の名声などにもとづき、その後おのずから、水戸藩とその周辺に言われ出したものであろう。このように、自分の家柄に格別な意味を自負することは、他の諸大名でも見受けられる。
 たとえば彦根藩井伊家では、家康から京都守護の密命を受けた家柄と信じ、津藩藤堂氏は上方鎮撫の特旨を受けたと伝えるのがその例である。ただ水戸藩では、御三家であるから、その看板が大きかったのである。

【参考文献】
『義公没後三百年 光圀―大義の存するところ如何ともし難く』茨城県立博物館 平成12年11月
『水戸市史 中巻1』 水戸市編纂委員会著 水戸市役所 1991年
『県史シリーズ8 茨城県の歴史』瀬谷義彦・豊崎卓著 山川出版社 昭和62年8月
『大系日本の歴史⑨ 士農工商の世』深谷克己著 1993年4月 
『世界大百科事典 16』 平凡社 1968年9月 

水戸黄門 「葵の御紋」を振りかざすイメージが形成された背景 定府制、「江戸の邸と水戸と他国」

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定府制、「江戸の邸と水戸と他国のごとくなり」
 江戸時代において参勤交代を行わずに江戸に定住して将軍や藩主に仕える者を「定府」いった。参勤交代を行う交代寄合を除く旗本・御家人は、江戸に定住して将軍に仕えたため定府である。諸大名にあっては、徳川家康によって江戸定住が定められていた水戸徳川家(水戸藩)と、老中・若年寄・寺社奉行など幕府の公職にあって江戸城に詰めている藩主(主に譜代大名)は、江戸に定住する必要性があったので、当然に定府となる。 

 御三家のうち、水戸だけ尾・紀両家とくらべて官位が一段低く、領地も半分程度であり、かつ定府制であったのは何故だろうか。官位は.尾・紀両家の従二位権大納言に対して、水戸家は従三位権中納言であり(頼房だけ正三位)、領地は尾張家の54万石(のち62万石)や紀伊家の55万石に対して、水戸家はわずか25万石(のち28万石、三代綱條の時、新田の至筒を加えて35万石)で、隔たりがはなはだしい。 

 これを差別待遇と考えた水戸側の諾書には、頼房の豪気俊英を幕府が恐れて大領地を与えなかった、などと評判して、「威公年譜」にもその事を明記している。しかし領地は三子の幼少の時にすでに定まったのであるから、頼房の豪英云々ということは後代の理由付けにすぎない。 

 そこで三子に対する家康の愛情に、何かのわけがあったのではないか、との疑いも出て来る。家康の駿府時代の生活記事が多い「駿府記」「当代記」など当時の記録には、家康が義直・頼宣の2人を傍から離さず、可愛がった事が所々に書かれ、2人の姿がきらびやかに浮かんでいるが、頼宣とわずか一つ違いの弟頼房はそれほど出ておらず、はなはだ影がうすい。家康の上洛の時は、義直・頼宣2人を同伴したが、頼房は同伴しなかった。大坂の陣にも、夏冬とも家康は上の2人を同伴したが、頼房だけ駿府にとどめられた。明らかに差別が認められる。 

 頼房は頼宣と同じく「於萬の方」の所生であるから、生母の身分違いによる差別ではないが、何かの事情で家康の情愛が兄たちよりも薄かったのではないだろうか。 

 水戸家だけ定府制であった理由もまた、はっきりしない。前記のように、将軍の名代、天下の副将軍だから他の大名のように参勤交代せず、常時江戸に住まねばならなかったといわれているが、これは後代の憶測で、頼房はすでに少年時代から2人の兄と違って定府であった。 

 この3人の兄弟は1616(元和2)年4月、父家康の死後、間もなく江戸に屋敷を与えられたが、義直は駿府を引き払って名古屋へ去り、その年の冬、江戸へ参勤した。頼宣は駿府城主であるから、その地に留まり、翌年参勤した。しかし頼房は江戸へ引越して新邸に住み、国元へは赴かなかった。そしてその後も義直は1617(元和3)年春江戸から帰国し、年内に江戸へ参勤、翌四年春帰国、同5年冬江戸参勤した。頼宣もまた元和3年8月江戸から駿府に帰り、翌4年冬参勤、同5年春帰城、その年8月紀伊国に移り、6年冬参勤、翌7年春帰城というように国元と江戸とを往来し、寛永年中に入っても、ほとんど連年または1年おきに参府している。 

 諸大名の参勤交代制度が確立したのは、1635(寛永12)年武家諾法度の改定以来のことで、諸大名は1年在府、1年在国で毎年定期に交代し、とくに関東大名は半年交代としたが、水戸家と老中・若年寄など役付大名は定府とした。そのほか諸大名の分家の小大名など定府の家もいくらかあった。 

 御三家のうち、水戸家だけ定府とした事情は不明であるが、幕府の政策として、御三家のうち一家は江戸に常住して万一の変事に備えさせる方針を採り、江戸に近い水戸家を定府としたのであろう。したがって将軍の名代、天下の副将軍という説も、この辺の事情から作られたものかも知れない。

 水戸家ではこの定府制を迷惑と考えたのか、1730(享保15)年、幕府へ隔年ごとに「在所への御暇」を願い出たことがある。幕府では、尾張殿.紀伊殿は前から隔年に「御暇」を遣わされ、水戸殿には隔年と定まってはいないのだから、同様に取計らうことはできない、2年置きほどの「御暇願」ならば許されるかも知れないが、差当たり保養などの名目で臨時に「鷹場への御暇願」を出されたらよかろう、と答えている。

 ついに、尾.紀両家同様の取扱い振りに変えることができなかった。したがって歴代の水戸藩主は常々江戸に生活の本拠を置き、時に賜暇を得て国元へ行き、数か月滞在して再び江戸へ戻るのが、普通の状態であった。

 歴代のお国入りを見てみると、初代頼房が53年間に11回、二代光圏が30年間に11回、三代綱條29年間4回、四代宗尭23年間2回、五代宗翰37年間2回、六代治保40年聞1回、七代治紀12年聞1回、八代斉惰14年間なし、九代斉昭16年間3回、十代慶篤25年間1回である。 三代以後帰国が少なくなるのは、財政難のためでもあるが、ほとんど不在城主同様の状態がつづい手いる。 

定府制が水戸藩の構成と水戸人の生活に及ぼした影響
 この定府制は水戸藩の構成と水戸人の生活に、いろいろの作用と影響とを及ぼした。まず藩全体の構成では、おのずから国元よりも江戸邸の方の比重が大となった。特に光圏の時代までは、家臣たちは水戸在住、江戸交代勤番が本来の建て前であったが、次代綱條の時代に江戸住居が多くなり、さらに第六代治保のとき、諸土の交代の煩労を少なくするため、多く江戸に移住させた。このため、国元から江戸勤番の士のほか、江戸常勤の士が他藩よりは比較的多かったが、その実数は明らかでない。 

 重臣以下諸役人が江戸にも常勤して、藩主の命令を受けて国政を指図したので、政治の重心は江戸にあった。そのために、江戸邸・水戸城間の連絡に支障が起こりやすく、また双方の意志が疏通せず、時には、それが対立、抗争の種をまくこともあった。また江戸常住の藩主と国元の士民との間も、常々水戸の生活を共にする目か少ないので、危急の場合、藩主の統制力が国元へ十分に及ばなかった。天保以降の水戸藩の動揺と分裂には、この弱点がもっとも端的に現われている。 

 次に財政経済面でも定府制のため江戸邸の消費生活が膨張し、その上、江戸と水戸との生活の程度に大きな差があったので、藩士の経済生活にもいろいろ支障が起こりやすかった。江戸の者と国の者との風俗・気風の相違もまた藩中の団結を弱めた。藤田東湖は「常陸帯」に定府の弊を論じて、江戸の狭い長屋住居が人間の性質を「狡黠」にし、「剛毅朴訥」の気風を失わせ、「江戸の邸と水戸と他国のごとくなり、定府の人は水戸の人を田舎ものと嘲り、水戸の士は定府の士を軽薄ものと謗り、政事の妨になり」云々と記している。

 このような宿弊を改めるため、天保改革のとき「諸事水戸表を根本に定める」方針で、江戸の士200余人の水戸帰住を断行したが、これがまた混乱と不平の種となった。 

さ らに文化の面では、天下の政治の中心地に常住することが、特に前期では江戸中心の傾向が強かったのでたとえば学者を招聘し諸士の識見を高めるなどの利点があった。このため逆に、上記、藤田東湖の言葉にある「田舎もの」である水戸の士民に直接感化をおよぼして土着の文化を育成することが少なかった。 

黄門様の諸国漫遊、世直し 
 幕末になって、講談師がこれらの伝記や十返舎一九作の滑稽話『東海道中膝栗毛』などを参考にして『水戸黄門漫遊記』を創作したと考えられている。内容は、「天下の副将軍」こと光圀がお供の俳人を連れて諸国漫遊して世直しをするというものである。

 水戸藩が「定府制」をとっていたため、藤田東湖の「江戸の邸と水戸と他国のごとくなり」で定府の人は水戸を嘲り水戸の士は定府の士を軽薄も謗り」という関係にあったから、“世直し”をしなければならぬ問題を抱えていたにもかかわらず、水戸藩の外、江戸では年貢取立ての厳しさに見られる苛政の実態は知られなかったであろう。
 徳川幕府が衰退した幕末から維新後の明治・大正・昭和の大戦前にかけて徳川氏への評価が著しく低下したにもかかわらず、黄門物がもてはやされた背景には、実在の光圀が天皇を敬い楠木正成を忠臣として称え、『大日本史』編纂したことに代表される“名君”の側面が誇張されたことや水戸学が尊王論や天皇制・南朝正閏論に多大な影響を及ぼしたことが関連している。

筑波山 都心から、らくらくアクセスできる登山コース

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                   女体山頂からの眺望

筑波山 テクテクガイド
 筑波山には多くの奇岩や怪石が点在している。由来、伝承を楽しみながら登山できる。

自然研究路コース
 男体山頂付近を周回
 筑波山の自然観察に適したコースで眺望も豊か・

おたつ石コース
 つつじヶ丘~弁慶茶屋跡(白雲端コースと合流)
 弁慶茶屋跡から白雲端コースを経て女体山頂へむかう。

白雲橋コース
 筑波山神社~女体山頂
 奇岩怪石スポットが点在する筑波山満喫コース。

御幸ケ原コース
 筑波山神社~御幸が原
 樹齢数百年の杉の巨木群と出会える定番のコース

迎場コース
 つつじヶ丘~酒迎場分岐(白雲橋コースと合流) 
 勾配ガ緩やかなコースで初心者にお勧め。

第15回 筑波山頂カタクリの花まつり 
 開催期間: 2015年4月1日(水)~20日(月)
 筑波山の山頂付近には、自然のカタクリの花がおよそ3万株自生している。山頂にある広さ約2ヘクタールのカタクリの里はまつり期間中のみ開放され、多くの人が訪れる。また、筑波山男体山頂の周辺を巡るハイキングコース『自然研究路』でも、足元にカタクリの花々が咲き、春の可憐な花をお楽しめる。
  筑波山はほぼ全域が自然公園法による特別保護地区、特別地域に指定されており、植物の採取などが禁止されている。許可なく採取等を行った場合、罰則も適用されますのでご注意下さい。

                 カタクリの花

                    登山コース  
                                     (クリックすると拡大)

 

 


筑波山の祭りカレンダー

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                 筑波山全景  筑波山神社と随神門

1月

  ●筑波山神社元旦祭 (1日)



 ●筑波山大御堂初護摩会 (1日)
 ●元始祭 (1月3日)
 ●成人祭 (1月第2月曜)
 ●筑波山大御堂初観音 (18日)
            
 ●平沢官衙遺跡 野焼き(1月末)

           (2014年1月25日)
 2月 
 ●筑波山神社 年越祭 (2月10日・11日)

   ●飯名神牡祭例 (旧正月の初巳)  
    


 ●泉子育観音 年越大祭 (11日) 
 ●筑波山大御堂追難会 (18日)
   ●筑波山神社 皇霊殿遥拝式 (春分の日)
 
 ●筑波山福寿草まつり  


 ●筑波山梅まつり 
     平成27年2月21日~3月29日  

 *
                           (2014年3月22日撮影) 
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  第42回 筑波山梅まつり (平成27年2月21日~3月29日)

  筑波山梅まつり開花状況 (2014年3月22日) 紅梅白梅満開、梅祭り23日まで延長

   筑波山の梅の状況 満開 2013年3月16日 (土曜日) 

 3月
 ●飯名神社祭礼 (旧正月の初巳)
 ●蚕影神社蚕糸祭 (下旬)
 
    
             
                  2013年4月6日(土曜日)常陽リビング12頁 

    4月
 ●筑波山神社春の御座替祭 (1日) 

 
            
                         2013年4月6日(土曜日)常陽リビンク 12頁  

●筑波山頂 カタクリの花まつり  
   4月1日~4月20日 

     筑波山頂カタクリの里  
    広さ約2ヘクタールの敷地内には薄紫色のカタクリの花が群生している。       
   筑波山ケーブルカー筑波山頂駅から徒歩3分  
   筑波山ロープウェイ女体山駅から徒歩10分  
                               
  カタクリ   
  丘陵地や山地の落葉樹林内に生じ、早春、ユリに似ているがやや小形で帯紅紫色の花を開く柔らかい球根性多年草。ユリ科。

  鱗茎は柱状披針形で、長さ5~6㎝、径約1㎝。花茎は高さ20~40㎝で、中央下部に1対の長楕円形で紫かっ色班のある葉をつける。花は径4~5㎝で、うなだれて咲く。

  6個の花被片は同形で披針形、長さ5~6cm、外巻し、紅紫色で基部内側に3裂する暗紫色の部分がある。内側には6個の雄しべと1個の雌しベがある。

  鱗茎は殿粉を含み、昔は採って煮食したりカタクリ粉を作った。若葉はゆでて食べることができる。 カタクリの根からとった殿粉を片栗粉という。白色の光沢ある粉末で、美味なため、昔は料理や片栗落雁(らくがん)など菓子の材料として用いられた。

  現在、カタクリ粉として市販されているものは、ジャガイモの殿粉である。 また食用の殿粉全体をカタクリ粉といっている。用途はクズ粉の代用として、くず湯にしたり、また “あんかけ”などに用いられる。
 

 
  
  北条大池の桜まつり

                    2014年4月5日(土曜日)15時頃 撮影 

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          りんりんロード



                つくば市 『まるごと 筑波山』
         神郡から見た筑波山

                         2013年4月13日 撮影 

   
 ●筑波山つつじまつり (4月下旬~5月中旬) 


          つつじヶ丘        
           
    梅林のアジサイの花                                       2013年6月22日(土曜日)撮影、曇り  

 7月 
 ●小田八坂神牡祇園祭 (第3土曜日)
 ●北条祇園祭り (下旬) 
 ●筑波山七夕まつり (24日~27日) 


 8月 
 ●筑波山大御堂万灯会 (上旬) 
 ●平沢の万灯まつり(24日)
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 常陸の国は筑波の郡、歴史は古い筑波の正倉院 「国指定 平沢官衙遺跡」   
 



 ●まつりつくば(30日、31日)

 *

    

9月
 ●普門寺施餓鬼会 (彼岸中日) 

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  ●筑波山ガマまつり (23日)
   (下図は平成26年のガマ祭り) 
                 
         
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                            がま祭り 神事 平成25年9月28日 13時~14時

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 10月
  ●夜の筑波山空中散歩 スターヅストクルージング

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 ●蚕影神社秋の大祭 (23日)

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 11月
 ●筑波山神社秋の御座替祭 (1日)
 ●つくば物語 (上旬) 
 ●筑波山麓秋祭り (上旬) 
 ●筑波山紅葉まつり(1日~31日)   
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                筑波山神社 御神橋 2013年11月23日(土曜日)午前9時撮影 
 
                         筑波山ロープウエイ宮脇駅付近 2013年11月23日15時頃撮影   
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   筑波山ロープウェイ女体山駅 スターダストクルージング 夜の筑波山空中散歩 

  つくば山麓ハイキングコース

                          つくば市 『まるごと 筑波山』   
 

 12月 
 ●筑波山大御堂納観音 (18日)  

    
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水戸黄門漫遊記 ”水戸黄門”像の形成と水戸藩「御三家」の弊害 

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「御三家」の威光と弊害
 副将軍説がたとえ確かなものではなかったとしても、御三家としての権威は諸大名とは格段の違いがあり、水戸藩の武士や領民までも、他家に対して御三家の威光を振りまわす気風が強かった。たとえば、御三家の通行のときは、先払いの者が、「シタニロ、シタニロ」(下に居ろ、下に居ろ)と制止声を掛け、往来の士民は道脇に土下座する習わしであった。  

 そのため諸大名、その家来たちは御三家の行列に会わぬように用心し、あらかじめ見張を出して御三家が来ると判れば、急いで横道へ逃げかくれた。また道中の宿場では、御三家の通行のときは特別に念を入れて宿中を清掃し、その本陣では通行三日前から諸家の休泊を断わる定めであった。そのほか諸家休泊の宿場に差立ててある宿札・張慕なども、御三家が通行するときは、先払いの者が権柄づくで取りはずさせた。御三家の家来も公用で往来する時、諸事特権を揮ったが、特に紀伊・水戸両家の家来は威張って道路を場広く通行するので、諸家はもちろん、幕府の役人でさえ、かかり合いを恐れて、道をよける有様であった。 

 万事厳重な取締まりを行なうべき関所でさえも、御三家の家来だと寛大に取扱った。水戸のある武士が仙台方面へ湯治旅行をして、仙台領と相馬領の境、駒が峯関所に差掛ったとき、もし関所役人に見咎められたならば、どのように答えようかと心構えしたが、若党・槍持ちを供にし駕籠、馬で通行する「水戸ノ士ナレバ誰何セズ」自由に通過できた。

 更に阿武隈川の渡場では、船頭が故意に「川留」(かわどめ)といって、舟を出さず、内密に舟渡しを頼む客から酒手を食り取ったが、水戸の家来だというと素直に舟を出し、また道中人足も水戸家の荷札を付けた荷物は、丁重に取り扱った。 

 近世史上、最大の文化事業である「大日本史」編纂も、御三家の威光があったからこそ遂行できたのである。諸事権式高く、文書を秘蔵して他に示さなかった京都の堂上方や京・奈良の古社寺が、たとえ全部でなくとも史料の閥覧筆写を許し、また諸大名の領内でも水戸の家臣たちの史料採訪の際は、大いに便宜を計った。西国を九州の涯まで出張した佐々十竹(宗淳)の復命書に、到る所の大名に厚過を受けて、かえって気詰りで自由に調査ができないこともあったが、「殿様御威光之程言舌にのべ申事不罷成候」と感激している。 

 このように水戸家の威光が強いので、幕府の役人や諸大名は、水戸家の家来たちにまで一目を置いた。そして水戸の領民と他領の者との訴訟事件には、明白に水戸領民が非理であっても有利に裁判し、幕府領の者が水戸領民を相手取って訴訟を起こしたときでも、なるべく事件を内済として、荒立てないように取計らった。 他領民は相手が水戸領民だというので、主張したいことも押さえて判決に服した。また幕府の役人が水戸領分の者を召捕り、あるいは呼出すときも、水戸役人への通達に特別の配慮をした。
 要するに、水戸の士民は他とは格別の優越感を持っていたのである。 

 その優越感がしばしば他領民を苦しめ、全国共通の規則や、他領の禁令を無視する特権的行為となった実例も少なくない。たとえば宝暦11年、笠間藩の鳥見役の者と水戸領の上泉村弥左衛門との紛争事件につき、水戸側では相手に非分の事を申懸けても御威光をもって理分を得ると考えて、権柄の仕方があり、そのほか同様な事件がたびたび起こるので、水戸の奉行から町方、村方へ厳しくこのような事件を取締るべきことを命じた。それと同時に笠間の城下へ商いに行った水戸城下の者が、夜中居酒売りを禁止する笠間藩の法令を無視して酒を出させ、その後に立ち寄った馬子たちと共に権柄ずくで無理に飲酒したことがあり、水戸の奉行は、町方に対して坂締まりを指図した。 

 そのほか、水戸の家来だといって、高慢な態度を取り、宿場の人馬継立の規則を守らず、無理に便宜を強要したり、宿場役人の取扱い振りに勝手な難くせを付け、町人・百姓や馬方など弱い者をいじめる者が少なくなかった。それらの中には、偽水戸人もまじっていたであろうが、また商人などで「水戸御用」の名儀を借りて私用を達したものもあった。しかし中期のころ、御三家の家来などの横暴が交通制度を乱すほどはなはだしくなったので、慕府はたびたびこれを制する触書を出し、水戸藩でも幕令の趣旨に従って禁制を下した。  

 水上交通でも、御三家の船は特別に取扱われたが、とりわけ水戸家の手船および御用の商人船などは利根川・江戸川・隅田川に多数往来し、幕府の川船役所(関東地方の川船を取締まる)の規則を無視することがあったので、たびたび紛争の種をまいた。
 以上のような特権意識が、江戸時代の水戸人の気質の中にある特殊な気位、というようなものを作り出したことは否定できない。 

水戸黄門諸国漫遊記の誕生
 実在の徳川光圀はその生涯において旅らしい旅をしたことがない。水戸と江戸の往復、あと祖母が建立した寺院がある鎌倉を何度か訪れた程度であった。だが光圀に代わって多くの家臣が旅に出ている。光圀は歴史書「大日本史」編纂のため儒者を集めて彰考館を設立したが、その史料収集のため多くの儒者を諸国に使わせた。その諸国を訪れた儒者に佐々宗淳、安積澹泊という人物がおり、この二人が後の助さん、格さんのモデルになったと考えられている。 

 徳川光圀に関する創作は江戸時代に存在していたらしい。19世紀初頭の水戸藩儒学者石川久徴(宝暦6=1756年5月13日生、天保8=1837年没)の『桃蹊雑話』(文政10、1827年)では水戸領内を光圀がお忍びで歩き、古墳を発見したり洞窟探検に出たりした話がある。

                  『桃蹊雑話』の序文

 また明治になって発見された18世紀半ば宝暦年間に書かれたとされる小説「水戸黄門仁徳録」では虚実織り交ぜて光圀の生涯が描かれ、
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/882051/26  
幕府の要人の陰謀を防いだり、怪異に立ち向かったりといった冒険譚になっている。 

            『水戸黄門仁徳録』の挿絵

 江戸時代における黄門像は、幕府の内紛やお家騒動に際し、悪人の姦計を阻止し、正しいご政道をおこなう天下の副将軍、そして引退後は各地を巡見していろいろな事跡にかかわり適正に処理するスーパーマン的人物であり、それを水戸光圀に託して漫遊譚が生まれた。

 もともと、水戸藩内においては江戸定府のものと水戸在住の者の意思疎通のまずさから来る対立、いざこざがあり、藩の外の者に対しては「御三家」の威を借り横暴な態度で臨む風があり、これに対する反発があったので、“水戸黄門”のような人物が悪人を懲らしめることに喝采を送る土壌があった。横暴な大名たちや権威に対する批判を光圀という人物に託してこの水戸黄門像になっていったのであろう。

水戸藩主・徳川光圀の治政 綱紀の弛緩と粛清 

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光圀の実像が徐々に美化され“水戸黄門”が誕生した
 江戸時代の数多い大名のなかで、徳川光圀ほど、その一代の伝記、言行録、逸話集が多い人物はほかに見当たらない。水戸藩における光圀の正伝ともいうべき『義公行実』から、

 光圀一代の事蹟を通俗的に記した『義公黄門仁徳録』(一名「義公黄門記」「義公仁徳録」、著者・呑産道人)にいたるまで多種多様なものがあり水戸藩以外のものまで入れると数え切れないほどある。

 これらの伝記類の叙述は、金正綱紀の幕藩体制の衰えにともなう改革気運の高まりにつれて盛んになった。光圀の事蹟が広く世に慕われ、その一言一行でも書き伝えられるようになった。しかし言い伝え書き伝えられるにつれ実在の光圀と離れ、その人物像が美化されていった。それが「水戸黄門伝説」の誕生である。 

 その典型ともいうべき「水戸黄門諾国漫遊記」は文化・文政年間の成立といわれている。これは講談師・桃林亭東玉が、当時大ヒットしていた十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にならって、光圀とお供の俳人松雪庵元起が奥州から越後あたりまでを漫遊し、諸大名の政治を視察するという筋で考案したものであった。 

 大正初期から昭和の30年代ころまで民主主義の世になったが国民大衆の願望を反映することはできなかった。しかし、そういう体制、状況であったからこそ“水戸黄門”が求められたのであろう。失政、悪政を繰り返す大名、代官を手厳しくこらしめ、悪政をうみだすお家騒動を解決し、反社会的存在を罰し、貧苦の民百姓を救う黄門が求められたのである。

 権力をもちながら威張らず、分別あり、仁慈の心にみち、そして温容に隠居爺さんになら、親しみをもってもたれかかってゆく心情、それは、権威と権力に弱く、主体性と論理性に欠け、理性的ではない、当時の日本人の心理に特徴的なもといえよう。百姓爺になるか、商人になるか、それはどうでもいいことで、民衆の間に分け入り、庶民の生活にじかに触れ、その不満や願望を知るために、諸国を漫遊し、庶民の声を政治に反映させて、政治を改革させるところに、黄門の魅力と存在意義があり、“水戸黄門漫遊記”はその点で成立するものであった。 

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江戸時代 水戸藩は百姓一揆に強硬な姿勢で臨み刑は過酷であった

綱紀の弛緩と粛清 
 徳川光圀は寛永五年(1628)水戸城下、柵町の三木之次(みきゆきつぐ)という家老の屋敷で生まれ、事情があって5歳まで身分を隠して三木夫妻の養育をされた。6歳のとき、長兄頼重(よりしげ)を越えて(次兄は幼いとき死亡)、世継ぎに決められると、江戸小石川の水戸邸へ移り父のもとで武士的教育を受けた。ところが、15~6歳の頃から脱線し、江戸の繁華街を放浪したり三味線を楽しむようになったので守役が熱心に諌めても効果がなかった。 

 しかし転機は意外なことから訪れた。18歳のあるとき、前漢の司馬遷が書いた歴史書『史記』伯夷伝(はくいでん)を読んだことが、光圀の人生を変えることになった。 その一つは、伯夷・叔斉(しゅくせい)兄弟の相続の譲り合いから、兄を越えて「世継ぎ」となったことにひどく心を痛め、これまでの自分の態度を恥じ、兄の子を養子にして跡を継がせようと堅く決意したことである。
 二つ目は、読書学問が自分の人格の確立にどんなに重大であるかを知り、以語の生涯を学問に専心し、人に対する思いやりの心を深めたことで会う。三つ目は、史記にならって日本の歴史を編集する志を立てたことである。四つ目は、伯夷・叔斉が周の武王の革命を否定したことから、日本の国柄を守るため君臣の大義を明らかにすることを決意したことである。これ以後の光圀の生涯はこのような志の貫徹を念願としながら展開して行った。 

 しかしながら、光圀の名声とは反対に、その治世には、藩中で素行不良、風俗紊乱などの罪で処罰された者がはなはだ多かった。

 光圀の晩年は天和、享保、元禄の時代になると、いわゆる元禄文化の時代を迎えた。江戸幕府5代将軍徳川綱吉の治世,特に元禄年間 (1688~1704) を中心とする時代は家康,秀忠,家光の3代の間にその基礎を確立し幕藩体制を整え,4代家綱を経て綱吉の代には最盛期を現出した。綱吉の強い意思によって「生類憐みの令」が出されるなど文化の爛熟期であり、この世においても特権商人-賄賂-役人という三題噺は通用する。“殿中の刃傷”中臣蔵に代表される“腐敗”した世でもあった。

 水戸藩も例外ではなかった。特に天和2(1682)年には80余人の大量処罰が行なわれた。また貞享3(1689)年には曽根甚六の妻が家来と姦通し、2人の家来は生袈裟(生きたまま袈裟斬り)獄門、一人は生胴(生きたまま胴をためし切り)、そのほか8人の士が改易、追放以下の刑罰を受けた。

 姦通者たちの首は袴塚で獄門にかけられ、城下の人々の見せしめとされた。このほか遺徳風俗罪で罰せられた事件が多いので、これを光圀の時代の風俗粛清とみることもできるが、当時藩中の生活がそれほど乱れていたのである。 

刑罰の厳しさを表す典型的な事件、望月事件と藤井事件
水戸藩の綱紀の弛みが表面に出た事件が望月事件であり藤井手討事件である。 

 御三家として体面を維持するための出費に伴う藩の財政の逼迫、農民に課せられた厳しい年貢の取り立て、これがもたらす農村の疲弊村と領民の生活を支えるための数々の善政など、光圀の政治には明と暗の両面が存する。水戸藩の綱紀の弛緩と粛清は、当時代の政情から考えれば決して光圀の名誉となるような事件ではない。 この点に光圀の政治上の意味がある。 

(望月事件) 
 光圀の晩年には、藩内にいくらか動揺のきざしも見受けられる。元禄2(1689)年12月、大目付望月正盛(次右上門)の自殺事件は、たまたまその一端が表面に現われたものである。

 大目と大目付といえば、元禄元年7月新設されたもので、藩内監察の最高責任を持つ重役である。その望月の前職は町奉行であったが、町方の目付役の者の紛争解決(「桃畷雑話」によると、荒町・肴町・本木町一町目木戸麟の道路を通すため持屋敷をつぶした事件のため登用されたにもかかわらず、翌年光圀はどういうわけか望月を羅免し,かえって望月の相手方の立場を正しいとする処置を取った。

 そこで望月はこれを不服として、病気といって光圀の召出しに応ぜず、ついに血判の神文(神に誓った誓文)を差出して自殺した。 

 その神文は「曽祖父以来四代御厚恩を蒙り、また昨秋には廉直の御選挙にて莫大の御登用にあずかりながら、今年は御憎しみを受け、かえって邪曲の者が本望を遂げるようになったことは、万人の嘲弄の的である。これは自分が昏愚のために尊眼を違わらせられたもので、大罪を謝するため自殺する」という趣旨であった。光圀はこれを君命に背く者として斬罪に処し、新舟渡の川原にさらした。
 重役の処罰としては、異例の極刑であり、藩政の一面をこの極刑に見ることができる。 

(藤井の手討事件)
 光圀が西山に隠居してから3年後のことであるが、元禄7(1694)年11月、老中藤井徳昭(紋太夫)手討事件が起こった。藤井紋太夫徳昭は幕臣荒尾久成(1200石、延宝2(1705)年死、73歳)の四男で、同じく荒尾家の出で水戸家に仕えた藤井という奥女中に養われて藤井姓となり、光圀に才幹を認められ、小姓から累進して老中になり、綱條の子菊千代の養育掛を命ぜられたほどの人物で、彰考館の庶務をつかさどったこともある。しかるに元禄7(1694)年11月23日、江戸滞在中の光闘が、小石川邸で幕府老中・大名旗本らを招いて能楽を興行し、みずから能を演じたのち、楽屋で藤井を刺殺した。 

 その時の有様は、光圀が客あしらい中の藤井をわざわざ呼び寄せ、人を退けて何か押問答をしているうちに事件が起こったのである。しかも光圀は怒りのあまり、突然刺したのではなく、前々からこの事を考えていたと推察される節々があった。 
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(執政刺殺)
 元禄7年(1694)2月、光圀は将軍綱吉の招きにより、隠退後はじめて江戸にのぼり、4月には綱吉の前で「大学」を講義しました。この江戸滞在中に光圀の生涯を考える時、最大の謎ともいうべき藤井紋太夫刺殺事件が起きた。 

 事件はこの年の11月23日、小石川の上屋敷において、幕府老中や諸大名を招待しての能興行の最中に起こった。この時藩主の綱條は就藩中で、光圀はこの藩主不在の江戸屋敷で、藩の執政藤井紋太夫を訣殺したのである。

 現場を間近に目撃した井上玄桐は、その顛末を子細に記録している。(『玄桐筆記』)。
 要約すると、「能の会がある数日前、光圀は能舞台の楽屋を見にやってきて、後日殺害の場となった鏡の間に入り、ここには屏風を立てるかなどと、こまごました指図をしたので、伴の者たちは不思議に思った。当日は自ら能衣裳をつけて千手を舞うことになった。それが終ってからの休み時間に、鏡の問に紋太夫を呼んだ。玄桐は紋太夫を入口まで案内して、一段低い次の間に控えていた。時々のぞいてみると、屏風で姿はよく見えないが、何か問答している様子だった。少したってみると光圀が紋太夫の方に近づいていったので、何事かと思って入っていった。

 その時は玄桐より先に三木幾衛門、秋山村衛門といった西山近侍の士が入っていた。後で聞けば、光圀は紋太夫の首を膝下に敷き伏せ、口もとは声が出ないように膝を押し当て、左右の欠皿(首の下のくぼみ)を一刀ずつ刺し、血は外とに出ないように処理し見物客に気づかれないよう気を遣ったという。
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 藤井紋太夫はもともと幕臣荒尾久成の四男で、水戸藩に来仕して後藤井姓を名乗った。光圀の信頼が厚く、異例の出世をして、事件の前年には家老級の要職についていた。

 「御家士に藤井紋太夫徳昭といふ者有、利口にして弁論人に勝れ、其上広く諸史に通し候故、書籍を引て是非を決断する事速に有之候、麦を以て西山御取立、老中二被成候、其御ハ篤実謹厚に相見え候所ニ、内心に忍ひ陰置候候奸邪曲いつとなく外に溢れ、己に不能者をは甚悪ミ、悪さまに言上して、稠敷刑罰を加へ、己に追従軽薄を致す者をは甚能様に執なし、官禄を進せ申候、依之士及百姓町人に致迄大二苦ミ怨ミ憤る者多く有之候…-斯て日を重ね、年を逐て騎慢の心盛り二成、悪長し候付、西山公已事を得給ハす、彼紋太夫を御手自御諜し被成候」(桃源遺事)と記されている。 

 この後始末は、水戸の君臣の間で隠秘のうちに処理されたので、事情は明らかでない。光圀が即日附家老中山信治らに出した手紙には、「藤井紋太夫の事については兼てから存念があったけれども、今日などに申出そうとは思わなかったが、不慮の仕合せとなり、老後の不調法、何とも申し様もない、殊に宰相殿(綱條)の思召、迷惑に存ずる。宜しい様に御沙汰を頼み入る」とある。 

 また幕府への届書には「宰相家来藤井紋太夫は自分の時代に取り立て用達役まで申付けた者であるが、不屈の事があるので、宰相の将来を案じて、たびたび意見するよう申し聞かせた。しかし承知せず、家中の士をはじめ百姓に至るまで不安な様子になったので、常々難儀なことと考えていた。それで宰相が水戸から参府したら、とくと相談するつもりでいたところ、今日能興行いたし、楽屋で休息していた所へ紋太夫が帯刀のまま側まで来たので、かねがね叱ることもあり、案外に思って差当たり勘忍なりがたく成敗した」という主旨の内容である。  

 これと同じ趣旨を附家老中山信治から慕府老中へ直談したが、その中に、事件が起こる前の事情につき「紋太夫は利発者で、よい御用達ではあるが、高慢で少し奢り者である。この事さえ止めば宰相殿の為にも宜しいと考えられ、たびたび意見されたが承引せず、此頃は諸事宜しからず、御目見も悪くなっていた」云々と説明している。 

 当年67歳の名君の誉れの高い御三家の隠居が、藩の老中を所もあろうに江戸邸で慕府の老中.諸大名などを招待中に、突然刺殺したのであるから、慕府、水戸藩、及びその分家はもちろん、世人が仰天して驚いたのは当然である。

 そのため、いろいろの風評が立ち、「藤井大全」「藤井記」「鰐物語」などという通俗書も出て、藤井が陰謀を企んで藩中に與党を作り(連判状もある)、正義の土を斥け、光圀・綱條父子を離間しようと計ったとか、柳沢吉保と策応して光圀乱心の噂を立て、江戸へ呼び出して将軍の面前で「大学」の講義をさせたとか、穿った話が伝えられている。 

 この日藤井の妻子たちは、他の諸士の家族たちと御能拝見に殿中へ参上していたが、思いもよらぬ出来事で、その場から引き立てられて、親類に身柄預けとなった。翌年男の子二人は出家して御構いなく、娘二人は元禄9年、縁付くとも奉公するとも勝手次第となった。他に例も少ない大事件でありながら、家族縁類は一時遠慮を命ぜられただけで処罰はされず、僅かに藤丼の与カの中3人が召放ちとなっただけである。 

 また重役たちの任免をみると、元禄8(1695)年、城代朝比奈泰通、老中寛正成・加藤宗成、用人芦沢信貞・赤林重行・興津良長・岡田利恒の新任があったが、罰せられたり、斥けられたりした者はない。

 それで、この事件の真相につき、光圀が老齢の身ながら、御家騒動を未然に防ぐため、その禍の芽を自ら刈り取り、周囲に波及させず、自分一人の胸の中に収めて済ませたのではなかったか、という推察もある。 

 しかし、光圀が藤井刺殺の後、すぐに藤井邸へ人を遺して書類を探させ処分した(当時肥田十蔵政大の書状によると、証拠書類はなかった)ので、藤井の奸謀を証するほどの史料は全くなく、すべて臆測の線を出ない。  

ただ、光圀の隠居の後、2、3年の間に藩中にとかく風波が起るようになり、人心動揺の兆侯が現れたことは確かである。そしてその禍因が藤井の専権にあったこともまた推察できる。
 元禄5(1692)年から7(1693)年まで3年問に、藤井のため退けられ罰せられたといわれる諸士が、左記のように多い。
 〇渡辺堅 (奉行、元禄5年12月役禄召放蟄屠)、  
 〇渡辺定 (小姓、同月父の罪により蟄居)、   
 〇近藤和之 (目付、元禄5年役禄沼放蟄屠)
 〇草沢喜行 (町奉行、元禄6年正月禄役召放蟄居、自殺)、  
 〇伊東祐元 (町奉行、同月致仕蟄住居)、     
 〇岩崎良正 (新料理番、元禄6年2月役禄沼放蟄屠)、    
 〇若林忠政 (使役指引、同月役禄召放、翌7年正月賜暇)、  
 〇若林忠次 (馬廻組、元禄6年2月賜暇)、
 〇高屋閏 (使役、元禄6年3月役禄召放、翌7年正月改易) 
 〇忍穂保道 (小姓、元禄6年8月役禄召放切符となる)、   
 〇岡嶋幸忠 (目付、元禄6年8月役禄召放蟄屠)、      
 〇長谷川儀当 (目付、同上)、 
 〇有賀正乗 (目付、元禄6年9月自殺)、           
 〇太田高経 (矢倉奉行、同月切符召放、同月12月賜暇) 
 〇遠山重令 (土蔵番、元禄6年12月賜暇)、   
 〇太田良政 (新番組、同上)、 
 〇小川義隆 (土蔵番、同上)、 
 〇木村甚六( (評定所留付、同月追放)
 〇児玉昌豊 (小納戸役、元禄7年6月賜暇、喧嘩死)       
   以上19人 (元禄6年中15人) 
 右の中、特に元禄6(1693)年12月処罰の遠山・小川(共に土蔵番)は、徒目付在役中「虚言雑説」を申し立て人を迷わせた罪であり、

 同月処罰の木村(評定所留付)は目付の尋問に答えず、新組に居た時には、忍穂、長谷川(処罰)の申付けに従い、太田(高経、処罰)の手に付き、「御国一大事之悪説之品名、人々之噂」など証拠もない事を言いふらした罪、

 同じく太田(高経・矢倉奉行)は小十人目付在職中、忍穂、長谷川など「大悪人」と申合せ、「種々様々の悪逆」に同心し、「御家中歴々重立侯衆中を始、末々に至迄」の雑説風説を取りしまらなかった罪、

同じく太田(良政、新番組)もまた同上の罪であった。 

 これらの罪状によると、当時、藩中では藤井等に反対する一派があり、いろいろの批判や風説が流されていたことが推察できる。

 その反対派の中心人物は、有賀正乗(半蔵、自殺)、近藤和之(作之介、役禄没収)、長谷川儀当(五太夫、同上)、岡嶋奉忠(藤左衛門、同上)等の目付であったことも、ほぼ確かである。

 彼等は自殺した有賀を除き、元禄10(1697)年6月に罪を免ぜられるが、この時、光圀から3人の免罪を喜んで与えた6月10日付密書がある。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
久閉門之内、いか計苦労と存侯所、子息迄被召出、解陰いか計悦申候、此上ハ息達も段々被召仕立、本地帰被申候半と存侯、早々火中、

 各3人段々首尾能被申付、大慶存侯、有賀事唯今迄存命二候ハバ、能き事も侯半者をト、一入残念二侯、候ヘハ各御叱之品、曽而不存侯、とくニ尋申度存侯へ共、書付ヲ為レ持遺可申人無心元、後今迄遅々申侯、御叱之品々ハ其節被仰渡候様子、自身何か覚有甘之事二侯ハバ、銘々二委書付、成程音密沙汰無之様被致、佐々介三郎か玄桐方迄可給候、上書二御薬方と御認可然侯、以上
   10日              西山
  近藤作之介様 
  長谷川五太夫殿
  岡嶋藤左衛門殿 
  (封紙) 
 うし六月十日くすりのほう 薬方一  
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 この内密書状(封紙に薬の処方と記してある)によると、光圀は3人の処罰の理由につき、詳しい事情を知って居なかったらしい。したがって、藤井とこれら目付らの対立が光圀の藤井刺殺の直接の動因であったとは考えられないが、元禄5、6年頃から藩内に対立分裂の兆侯が現われて、種々の風説が人心を動揺させ、藤井反対の人力が多く処罰を受けるようになったので、すべての禍根は藤井の専権にあるとかねがねにらんでいた光圀が、とっさの間に意を決してその禍根を除いた、との推測が成り立つと思う。ただし、俗説のように藤井の奸謀というべきものはなかったのであろう。

 事件の翌年、元禄8年(1695)1月、成田、銚子、筑波山をへて西山に帰った光圀は、二度と再び江戸の地を踏むことはなかった。
 西山隠棲後9年半余、元禄13年(1700)13月、光圀は73歳をもってその生涯をとじました。遺骸は瑞龍山寿蔵碑のうしろ20歩の場所に葬られ「義公」と諡されました。この時、江戸の町中には「天カ下ニツノ宝ツキハテヌ佐渡ノ金山水戸ノ黄門」という落首があったといわれている。 

参考文献 
『義公没後 三百年 光圀』 茨城県立美術館 平成12年11月
『水戸市史 中巻(一)』 水戸市役所 1991年 
『県史シリーズ8 茨城県の歴史』瀬谷義彦・豊崎 卓著 山川出版社 昭和62年8月
『日本の歴史16 元禄時代』児玉幸多著 中公文庫 昭和49年5月
『大系日本の歴史⑩ 江戸と大坂』竹内 誠著 小学館 1993年4月

「ガマの油売り口上」は プレゼンテーションである!  

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江戸の町の生業 
 膨大な消費人口を抱える百万都市江戸では目抜き通りに店をかまえる大きな店から、一人で売り歩くものまで多種多様な商売でにぎわった。一人で売り歩く商売は、プレゼンテーションの上手い下手が収入につながった。

          江戸の町の生業
                        
                     竹内誠監修・市川寛明著 『一目で分る江戸時代』 小学館  

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ガマの油売り口上は商売の話術  
 多くのセールスマンや商店主は、どうしたら売りつけられるかと考えることであろう。品物は売る側がお客に単に売るのではなく、お客が売る人から買うのである。この場合“売る” “買う”というのは同じことではない。
“売る”のは売る側の好むところであるが、売る側から“売られる”のはお客の好むところではないからである。

 お客の好むものは自分が“買う”ということなのであり、それは、売り場で品物を買いあさっている人の嬉しそうな顔を見ればよくわかる。
 “売る”のは売る側が自分の利益を基とした考えで、“買う”のはお客が自分の利益を基とした考え方である。 お客は自分の利益のため自分の喜びのために物を買うので、その緒果売る側も “売れて” 儲かったことになる。 

 そこでお客の利益をまず考えることが先で、“売る” という自分の利溢を後廻しにしなければ、“売りつけられた” 不快さだけがお客に残り、 “売れて” 儲かったことが一時的で長続きしない。 
 お客が自分から“買う” ことに対し、全面的に協力し、促進し、啓発するのが売る側のつとめであり、それでこそはじめて “売れる” ことになる。  

 “売れる”ためには、お客の"買う”心を呼び覚ますことがどうしても必要になる。“買うこと”は欲望を満足させることであるから、誰にとっても愉快なものである。 “買おう”  とする欲望を呼び覚ますことが、とりも直さず“売れる近道” ということになる。


 このような観点から見れば、伝承芸能 「ガマの油売り口上」は、お客を“買う” 気持に導くための話し方、今で言うプレゼンテーションの一例といえる。 


 なお、ガマの油売り口上は、筑波山麓の住民みずからが演者となって伝承してきたきわめて地域性の濃いものである。口上の演技は、最終的には個々の会員の“人そのもの”に依存することになるが、ガマ口上保存会は、伝承されてきた ガマの油売り口上 を自由に創作の手を加えて面白く楽しい新たなものを “創造” することを目指すものではない。
  創造性の発揮は、“伝承”芸能とかこれと似たようなものであるが “民俗” 芸能の概念に沿った形で発揮されるべきである。

 以下、その構成を見てみると、7段階で構成されている。 

 「ガマの油売り口上」の構成

第1段 呼び込み: さーさーお立会い・・・・
 さあさあ お立ちあい、ご用と お急ぎでなかったら、
ゆっくりと聞いておいで。遠出山越え笠の内、聞かざる時には、物の出方、善悪、黒白(あいろ)がトント分からない。

 山寺の鐘がゴォーン、ゴォーンとなると雖も、童子来たって鐘に撞木を当てざれば、鍾が鳴るのか、撞木が鳴るのかトントその音色が分からぬが道理じゃ。

 さて 手前ここに取り出したる これなるこの棗、この中には一寸八分唐子ゼンマイの人形が仕掛けてある。 

                        「山寺の鐘」とは大御堂の鐘のこと                                      

第2段 客の足止め: 唐子発条の人形・・・・・
 我が国に 人形の細工師 数多有りと雖も京都にては守随、大阪表にては竹田縫之助、近江の大じょう藤原の朝臣(あそん)、この人たちを入れて上手名人はござりませぬけれども、手前のは、これ近江の津守細工じゃ。

 咽喉(のんど)には 八枚の小ハゼを仕掛け、背中には 十と二枚の歯車が組み込んで ござりまする。

 この棗をば、大道に据え置くならば天の光を受け 地の湿りを吸い上げまして陰陽合体。パッと 蓋を取る時には、ツカ ツカ ツカ ツカと 進むが虎の小走り虎走り、後ろへ下がって 雀独楽どり 独楽がえし、また孔雀、霊鳥の舞と十二通りの芸当が ござりまするけれども、如何に人形の芸当が上手であろうとも、投げ銭や放り銭はお断り。

 手前大道にて未熟な渡世はしているけれども、憚りながらの 天下の町人、泥のついた投げ銭や放り銭をバタバタ拾うようなことはいたしませぬで。

 しからば、お前、投げ銭、放り銭貰わねえで、一体 何を以て 商売としているのかい、何を以て おまんま食べているのかいと心配なさる方があるかも知らないけれども、これなる此の看板示すがごとく、筑波山妙薬陣中膏ガマの油という膏薬をば売りまして生業と致してとおりまするで。 
                  松井源水の独楽まわし         
              編著・平福百穂 『加古「風俗画大成 7  目で見る徳川時代後期』(国書刊行会)   

第3段 ”ガマの油”の原料・蝦蟇を説明する
 さて、いよいよ 手前 ここに取り出(いだ)しましたるが、それその陣中膏はガマの油だ。だが お立ち会い。蝦蟇蝦蟇と一口に云ってもそこにも居るここにもいるという蝦蟇とは、ちとこれ蝦蟇が違う。

 ハハア、蝦蟇かい。なんだ蝦蟇なんか俺んちの縁の下や流し下(もと)にもぞろぞろいる。裏の竹藪にだって蝦蟇ならいくらでもいるなんていう顔している方がおりますけれども、あれは 蝦蟇とは云わない。ただのヒキガエル、いぼガエル、お玉蛙か、雨蛙、青ガエル、 何の薬石・効能はござりませぬけれども、手前のは、これ四六の蝦蟇だ。四六の蝦蟇だ。 
                                                     骨格
                     
 四六、五六というのはどこで見分けるかというと、ほら、此の足の指の数。 エー、前足の指が四本、後ろ足の指が六本。これを合わせましては、蟇鳴噪は四六の蝦蟇だ、四六の蝦蟇。
 
  また、この蝦蟇の採れるのが五月、八月、十月でござりまするから、一名これ、五八十は四六の蝦蟇だ。四六の蝦蟇。 

 サテしからば、此の四六の蝦蟇の棲むところ、一体、何処なりやと言うれば、これより遙か北の方、北は常陸の国は筑波の郡、古事記・万葉の古から歌で有名。 

 「筑波嶺の 峰より落つる男女川恋いぞつもりて渕となりぬる。」と陽成院の歌にもございます関東の名峰は 筑波山の麓。 

 臼井、神郡、館野、六所、沼田、国松、上大島、東山から西山の嶺にかけまして、ゾロゾロとはえておりまする大葉子と言う露草をば 喰らって育ちまするで。 

            
                    
                      ガマガエル            

  
第4段 製造方法を説明する 
 さてしからば、此の蝦蟇から 此の蝦蟇の油を採るにはどういうふうにするかって言いますと、先ずはノコタリノコタリ急ぎ足、木の根・草の根踏みしめまして、山中深く分け入り、捕らえ来ましたる この蝦蟇をば、四面に鏡を張り、その下に金網、鉄板を敷く。その鏡張りの箱の中に、この蝦蟇を追い込む。サア追い込まれた蝦蟇先生、己の醜い姿が四方の鏡にバッチリと写るからたまらない。 

 我こそは今業平と思いきや、鏡に写る己の姿の醜さに、ガンマ先生、ビックリ仰天いたしまして、御体から油汗をば、ダラーリ、ダラーリと流しまする。
          
 その流しましたる油汗をば、下の金網からぐぐっと抄き取り集めまして、三七は二十と一日の間、柳の小枝をもちまして、トローリ、トローリと煮炊きしめ、赤い振砂に椰子油、テレメンテーナ、マンテーカという唐、天竺、南蛮渡りの妙薬をば 合わせまして、良く練って 練って練りぬいて造ったのが、これぞ これ、此の陣中膏は 蝦蟇の油の 膏薬でござりまする。

                   赤いシンシャにヤシ油、テレメンテーナ、マンテーカ・・・・ 
                       (筑波山 梅林内 旧「おたちあい」の展示用サンプル)                       

 さてお立ち会い。これにて、蝦蟇の油の膏薬の造り方 お分かりでござりまするかな。
エー、分かったよ。分かったけれども、どうせ大道商人のお前の造った蝦蟇の油なんかろくな効き目なんかあるまいと思っているような顔をしている方がおられるようだけれども、薬というのは、何に効くのか効能(ききめ)が分からなかったら値打ちがねいよ。

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第5段 用途・効能を説明する 
 しからば、蝦蟇の油の膏薬、何に効くかと云うなれば、先ずは 疾に癌瘡(がんがさ)、火傷に効く。
 瘍(よう)、梅毒、ヒビに霜焼け、皹(あかぎれ)だ。 前へ回ってインキタムシ、 後ろへ回ると 肛門の病。 肛門と云っても 水戸黄門様が病気になったんじゃねいよ。 
                                              鶏の鶏冠(とさか)  
 これを詳しく云うなれば、出痔に疣痔(いぼじ)、走り痔、切れ痔、脱肛に鶏冠痔。鶏冠痔というのは、鶏の鶏冠のように真っ赤になる痔の親分だ。 だが手前の此の蝦蟇の油をば、グットお尻の穴に塗り込むというと、三分間たってピタリと治る。 

 まだある。 大の男が七転八倒して畳の上をば ゴロンゴロンと転がって苦しむほど痛えのがこれこの虫歯の痛みだ。だが、手前のこの蝦蟇の油の膏薬、これをば 紙に塗りまして 上からペタリと貼るというと、皮膚を通し肉を通して歯茎にしみる。
 又蝦蟇の油 小さく丸めましてアーンと大きな口開いて歯の空洞(うつろ)にポコンと入れるというと、これ又三分間熱い涎がタラーリタラーリと出る共に歯の痛みピタリと治る。 

 まだある。 どうだい、お立ち会い。お立ち会いのお宅に小さい赤ん坊はいらっしゃるかな。お孫さんでもお子さまでもいいよ。エー。赤ん坊の汗疹(あせも)、爛れ、かぶれなんかには、手前の此の蝦蟇の油の入っておりましたる、空きは箱、空箱、つぶれ箱、此の箱を見せただけでも ピタリと治る。 

 エー、どうだい、お立ち会い。こんなに効く蝦蟇の油だけれども、残念ながら 効かねいものが 四つあるよ。 先ずは 恋いの病と浮気の虫。あと二つが 禿と白髪に効かねえーよ。 

第6段 効能をテストする 
 おい、油屋。お前さん効かねえものなんか並べちゃって、もう蝦蟇の油の効能つうのは終わりになったんじゃねえかと思っている方がおりますけれども、そうではごさりませぬ。
 も一つ大事なものが残っておりまする。刃物の切れ味をば止めてご覧に入れる。

 ハィツ。 手前ここに取出したるは、これぞ当家に伝わる家宝にて 正宗が暇に飽かして鍛えた天下の名刀、元が切れない、中切れない、中が切れたが先切れないなんていう鈍刀・鈍物とは 物が違う。実に良く切れる。どれ位切れるか抜いて切ってご覧に入れる。 

 エィツ。 抜けば夏なお寒き氷の刃。津欄てん沌玉と散る。ハイ。ここに一枚の紙がござりまするので、これを切ってご覧に入れまする。ご覧の通り種も仕掛けもござりませぬ。 

ハイ。 一枚が二枚。二枚が四枚。四枚が八枚。八枚が十六枚。十六枚が三十二枚。三十二枚が六十四枚。六十四枚が一束と二十八枚。
 エイ。これ この通り細かく切れた。パーッと散らすならば比良の暮雪か、嵐山には落花吹雪の舞とござりまする。

          嵐山には落花吹雪の舞                              
 どおだ お立ち会い。 こんなに切れる天下の名刀であっても、この刀の差表、差裏に手前のこの蝦蟇の油塗るときには、刃物の切れ味ピタリと止まる。塗ってご覧に入れる。あーら塗ったからたまらない。刃物の切れ味ピタリと止まった。 

 我が二の腕をば、切ってご覧に入れる。ハイッ。打って切れない、叩いても切れない。押しても切れない。引いても絶対に切れない。さて、お立ち会いの中には、なあんだ、お前の そのガマの油という膏薬はこれほど切れた天下の名刀をただなまくらにしてしまうだけだろうと思っている方がおりまするけれども、そうではござりませぬ。
                            金看板                           
 手前、憚りながら、大道商人をしているとは雖も、ご覧の通り金看板天下御免のガマの油売り、そんなインチキはやり申さん。この刀についておりまするガマの油、この紙をもちまして、きれいに拭きとるならば、刃物の切れ味また、元に戻って参りまする。さわっただけで赤い血がタラリタラーリと出る。  
           

 しからば、我が二の腕をば切ってご覧に入れる。 ハイッ。これこの通り。赤い血が出ましたでござりまする。だが、お立ち会い、血が出ても心配はいらない。なんとなれば、ここにガマの油の膏薬がござりまするから、この膏薬をば此の傷口にぐっと塗りまするというと、タバコ一服吸わぬ間にピタリと止まる血止めの薬とござりまする。これこの通りでござりまするで。   
                     これこの通り!         

第7段 値下げして売る 
 さあて、お立ち会い。 お立ち会いの中には、そんなに 効き目のあらたかなそのガマの油、一つ欲しいけれども、ガマの油ってさぞ高けいだろうなんて思っている方がおりまするけれども、
 
此のガマの油、本来は一貝が二百文、二百文ではござりまするけれども、今日は、はるばる、出張ってのお披露目。 

 男度胸で、女は愛嬌、坊さんお経で、山じゃ、鶯ホウホケキョウ、筑波山の天辺から 真っ逆様にドカンと飛び降りたと思って、その半額の百文、二百文が百文だよ。 
 さあ、安いと思ったら買ってきな。効能が分かったら ドンドンと買ったり、買ったり。 

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ガマの油売り口上 態度・風采・身なりが大切、手足を動かし、体・声で表現、自信が大切!

 ガマの油売り口上、相手との強力な共感を作るアイコンタクトが大事 

 ガマの油売り口上、一目瞭然!今度はイメージが湧いてくるようにやってみる

 ガマの油売り口上、インパクトが強い“接近戦”、直談判が人を動かす -
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ガマの油売り口上は、お立ち合いとの共感作りが大事

ガマの油売り口上 今日は、心を込めてやってみる  

ガマの油の値段 江戸時代はいくら? 

ガマの油売り口上保存会の設立の経緯と「居合い抜き」


 

筑波山信仰と物見遊山 昔も今も変らぬ男女の遊び

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        遊郭風景  
     客は張見世にいる遊女を見て入った。
    (原田伴彦・遠藤武・百瀬明治著『絵で見る 江戸の女たち』柏書房株式会社 2006年)

筑波山信仰の起こり 
 関東では富士山につぐ霊場、筑波山。険しい峰は多くの修験者を集め、人々を救済してた。一方はるか上代から祀られた男と女の神は時に仏とされたが、江戸城鎮護の任務をもはたし、庶民の豊穣と繁栄のシンボルとして長い間親しみ守られてきた。 

 筑波山は茨城県の中央に沓える高さ876メートルの山で、山頂は男体・女体の二つの峰に分かれ、広い裾野を持っている。その美しい姿は昔から人びとの心の糧となり、信仰の対象となってきた。  

 「常陸国風土記」に、祖先の神が子供の神々を回って歩く途中で、富士山には宿泊を断られたが、筑波山は温かく泊めてくれた。祖先の神は筑波山に対して「人びとはこの山に集まって楽しみ、飲食物は豊富で、いつまでも絶えることなく栄え、いついつまでもこの山での遊楽は尽きない」といった祖先の神の巡行の話がある。

 また、筑波山は、四季を通じて誰でも登山ができ、春は花が咲き時、秋は紅葉が美しくなる頃、手をとり肩を並べて飲食物を携えて登り楽しく遊んだと書かれている。『万葉集』にもたくさん歌われ、古くから地域の人々に親しまれ、物見遊山の恰好の場所であった。

 山頂にはイザナギノミコトギを祀る男体社とイザナミノミコトを祀る女体社がある。イザナギノミコトとイザナミノミコトは神話の世界では、日本の国土や山野・食物などの神々を生んだ、いわば日本の国土と人民を創り出した天地創造の神である。山麓の臼井(のつくば市)には里宮の六所神社がある。六所とは山頂と四摂社をさしている。 

 「筑波山縁起」によると、この山は、天地の開け始まる時から神が宿り、イザナギノミコトとイザナミノミコトが最初に生み、そして降臨した「天地開闘」の霊山である。 

 延暦元年(782)に東大寺の僧徳一が登山し、中腹に知足院中禅寺を開いた。 徳一は日本の神々は仏(本地)が日本の衆生を救うために、姿を変えて現れた(垂迹、すいじゃく)とする思想によって、山頂の男体神の本地として千手観音を安置した。
 その後に空海が登山して、法相宗から真言宗に変わり、密教を広める道場となり、多くの行者が山中の岩屋や滝で修行した。 

 本地垂迹思想の広まりとともに、イザナギノミコトを祀る男体権現は金剛界の大日如来、イザナミノミコトを祀る女体権現は胎蔵界の大日如来として信仰された。 

             男体山神社


           女体山神社   


 中禅寺境内には日枝神社と春日神社を勧請して鎮守とした。山中のいたる所に神仏の霊跡が作られ、全山が信仰の対象となったため神仏の加護を求めて登山する者が増加し、山岳仏教の一大霊場として発展した。 

 中世になり熊野信仰が広まると、筑波山は日光、羽黒とともに修験者の拠点となり、山麓には多くの熊野神社が勧請された。文明18年(1486)には熊野三社の修験を統括する聖護院(京都市)の道興が登山している。

 修験者とは、激しい修行によって験力(神通力)を得た者という意味で、一般には山野に伏して修業するところから山伏と呼ばれ、超自然的な呪力によって加持祈祷を行った人々のことである。山中には数多くの修験僧の宿舎や僧坊が建てられた。 

       筑波山神社 随神門に貼られた千社札 

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徳川幕府の筑波山信仰 
 慶長7年(1602)に徳川家康は、筑波山神領として供僧別当(ぐそうべっとう、住職)あてに筑波郷5百石を寄進した。さらに慶長15年に家康はこの500石を筑波山神社の別当寺である知足院あてに寄進し直している。 

 筑波山は江戸城の北東方向にあり、この方角は鬼が出入りする鬼門といわれ、何事にも忌み嫌われていた。そこでこの方角に神仏を祀り、災難を除き避けようとして知足院を保護した。以来、知足院は江戸城鎮護の霊山として信仰され、幕府の祈願所となった。 

 知足院の僧となった光誉は2代将軍の秀忠との関係を強め、江戸城奥向きの祈祷に関与し、江戸に護摩堂を建立した。これが江戸知足院である。

 3代将軍家光は寛永3年(1626)から幕府の費用による筑波山諸堂社の造営に着手し、10年には知足院中禅寺の本堂(大御堂)、山頂の両本社、摂社や三重塔、楼門などの付属の建物が落成しました。新築されたたくさんの堂社は目を見張るばかりの美しさであったと伝えられている。 

 建築資材を運ぶために北条(現在、つくば市)から新たに道路を作り、これを参詣者のための登山路とした。山腹の登山道の両側には諸職人を住まわせ、知足院を中心に30数軒の僧坊が建てられ、宿屋、土産物屋、遊女屋、小間物屋などができて門前町が成立した。 

             北条の町に立つ道標   
                          

                          

    神郡の街 


   つくば道  

  *
 
   つくば道 正面のビルはホテル青木屋 


 5代将軍綱吉も知足院を深く信仰し、住僧の降光(りゅうこう)は将軍の厚い信任を得て、元禄元年(1688)には江戸知足院を神田橋(東京都千代田区)に移して大伽藍を建立して拡充し、筑波山に来ることなく江戸で祈願できるようにした。これは後に護持院と改称し、実質的には筑波山知足院の本山的存在となった。 

 護持院は元禄8年には幕府の寄進により筑波に1500石の領地を持つようになったが、領地からの年貢を護持院に収取しただけでなく、筑波山中の摂末社からも宮年貢を徴収している。
  住僧は江戸に住み、院代や代官を派遣して筑波山を支配した。 
 筑波山での宗教行事は院代の指揮により18の衆徒寺の僧が担当し、江戸の護持院と同様に幕府の安泰と天下泰平を祈願し、江戸へ護符を送った。 

江戸時代の信心 
 神仏に祈願するのは無事息災を願うのが本来の目的であるが、江戸時代中期以降、婦女達の物見遊山として社寺参詣がこのまれた。そこで、神社仏閣では寺にちなんだ年中行事をもうけ、祭礼、縁日に庶民がつどうように考え、くりきさらにいろいろのまじないの功力(くりき)をつくっては町人の信仰心をあおった。  

     厄除 人生3度は厄祓い 
 悪いことが身に降りかかりやすい年、人生の節目の年を厄年という。数え年で男性は25歳、42歳、61歳、女性は19歳、33歳、37歳が本厄、その前後を前厄、後厄といい、神社にお参りをして、災厄を除けるために厄祓(厄祓)をする。地方によっては慣習が異なることがあるので、近くの神社で尋ねてみてください。 


●川垢離(せんごり) 
 神仏に祈願するために川に入って身を清めるのが川垢離である。江戸では隅田川の両国橋東詰に川垢離場があった。     

●口よせ 
 巫女が梓弓(あずさゆみ)を鳴らしながら神降しをして、死者や行方不明の人たちの様子を聞く民間信仰を「口よせ」という。
 巫女には「いちこ」「あずさみこ」「かみおろし」などがあり、多くは老婆で目が不自由な者であった。   
             (原田伴彦・遠藤武・百瀬明治著『絵で見る 江戸の女たち』柏書房) 


信仰から物見遊山の山へ変化 
 山岳信仰として出発した筑波山信仰は、知足院が幕府の祈願所となり、権力者と結合したことによって大きく性格が変わっていった。心身を鍛えて神通カを身につけようとした登山や、五穀豊穣・家内繁盛を願う信仰から物見遊山の参詣に変質して言った。 

 知足院は幕府から500石の朱印地を与えられ、寺院組織を編成替えする中で、筑波山中にあった多くの修験僧や御師を知足院の衆徒として組み込んでいる。山伏たちは衆徒寺の僧として食禄を与えられるようになったため布教者としての活動を止めるようになった。明暦3年(1657)の筑波には家数300軒のうち御師は2軒、山伏は3軒、寺百娃7軒であった。御師の布教活動は見るべきものはなくなってしまった。

 筑波山北麓の真壁郡羽鳥村(今の真壁町)には元禄9年(1696)に「筑波山牛王御師」が13人いたが、83年後の安永8年(1779)には2人となっている。この村には中世以来の御師が元禄年間頃までは活躍していたが、その後の参詣者は筑波町に移って羽鳥村からの登山者は急減し、それにともなって御師も減少したのだろう。 

 幕府に追従して大名や旗本らも護持院に進物を贈って祈願を依頼している。また、常陸国(茨城県)に領地を持つ大名は参勤交代の途中に筑波山に参詣した。参詣者の主体は常陸、下総(千葉県・茨城県)や江戸の農民、町人であったが、江戸や関東一円での民衆社会に根を下ろした信仰組織は発達せず、筑波山の霊験を宣伝して御札を配り、信徒を登拝させる御師の活躍は見られなかった。 

 参詣者の中には、伊勢神宮や善光寺などの参詣者と同様に、信仰よりは物見遊山がほんとうの目的で、信仰に名をかりて封建的な束縛から解放された自由な生活を求めるものが多かったからである。

                    物見遊山が目的 遊女屋が繁盛した  
                      『芸術新潮 2003年1月号』 (新潮社)
                            
  男女和合の筑波の神にあやかってか遊女屋が繁盛し、衆徒寺の僧の中にさえ女犯の罪で罰せられる者が少なくなかった。

●女犯を犯した坊主が晒されている図   

      編集長 佐藤香澄『【決定版】図説 大江戸犯科帳』(学研パブリッシング)
 
 幕府は坊主に多くの特権を与えたが、そのかわり性交を禁止した。3日間晒されたのち各宗派の裁きを受けた。普通は僧籍をはく奪され寺から追い出された。坊さんだって、我慢できない時もあるのだろう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
     だから坊主は児小姓に手を出した

       田中優子・白倉敬彦著 『江戸女の色と恋 若衆好み』 株式会社学習研究社2002年 

  門前町の風紀が乱れ近くの農村にまで悪い影響を与えたので、享和元年(1801)には幕府寺杜奉行の取り締まりがあり、旅籠屋32人と遊女16人が厳しい取り調べを受けている。 

     門前町の風紀が乱れ近くの農村まで悪い影響を与えた 

         『芸術新潮 2003年1月号』 (新潮社)

 これ以降、筑波の宿屋では遊女を抱え置くことが禁止された。このために参詣客が減少して門前町が寂れていったとして、宿屋は幕府に対して召使い女(実際は遊女)を置くことを何回も嘆願してやっと認められている。 

    遊郭で働く人々
 遊郭で働くのは遊女だけではない。遊女を取り仕切るやり手、客が遊郭に上がる段取りをつける茶屋の亭主のほかにも大勢の人が働いていた。    
 
             竹内誠監修『図説江戸7 江戸の仕事づくし』 株式会社 学習研究社

江戸時代の女遊び 昔も今も変らぬ遊び
 江戸幕府が吉原遊廓を公認して以来、いわゆる「公娼」制度がはじまったが、それによって吉原以外の娼婦が根絶されたというのではもちろんない。公娼が遊女と呼ばれたのに対し、売女(ばいた)と蔑まれたこれらの私娼は、幕府の取締りの網をのがれて根強く生きのびた。

 私娼が集団的に売春を営んだ区域ふつう岡場所(おかばしょ)という。岡場所は、社寺境内や門前町に発生しているが、これは寺社奉行の支配地を拠点とすることによって、私娼取締りの任を負った町奉行の追及を逃れるためでもあった。 

 岡場所での遊び代は、吉原に較べると格段に安く、また肩のこるような格式ばった雰囲気もない。そのため、庶民の恰好の息ぬきの場として、時代が下がるとともにいよいよ繁盛し、そのため衰退をきたした吉原遊廓が、岡場所取締りを幕府に願い出たことがたびたびあった。
 
 ●湯女(ゆな) 
     
 江戸時代、最初に私娼化の道を歩んだのは湯女である。私娼とは、幕府の許可を得ないまま、常習的に売春を稼業としている女性のことで、私娼に準じるものとしては、世間の眼をはばかりながら売春を行なう密娼、ほかに職業をもちながら機会があれば売春も辞さない準娼などがあった。

●茶屋女     
 江戸時代、社寺の境内や市中で湯茶を供して通行人を休息させる店を水茶屋といい、江戸市中の門前にはずらりと店が並んでいた。それらの茶屋は、若い女を雇い、客引きさせた。これから私娼の風が生じた。 

 ●旅籠の女         
 社寺参詣でにぎわう宿場の旅籠屋は、多数の抱え女を置いて客の足を留めた。図は精進落としで繁盛する旅籠屋。     

 ●旅籠の女 飯盛女   
 旅宿にいて売春を生業としていた女は、宿場女郎と言い、飯盛女(めしもりおんな)と呼ばれていた。 

 ●馴染み客          馴染みの客になると、「積み夜具」といって、客から遊女へ布団を贈る風習があった。  
      

 ●のぞき見
    女も障子の穴からこっそり のぞいて楽しんだ。 

 ●ふられ客     廻し部屋でいつ来るか分らない遊女を待って「床の番」をしているふられ客 

 ●酔い客        呑みすぎて肝心なことが出来ないドジな酔い客 

 ●出女      
  飯盛女の一種。街道に出て旅客の袖を掴んで強引に所属の旅籠屋に引っ張り込んだ。  

 ●夜鷹  
                  
 「京で辻君、大阪で総(想)嫁(そうか)、江戸の夜鷹(よたか)」といった。 代表的な街娼で頭に手拭をかぶり小脇に莚を抱えて、物陰から客を引いた。夜鷹の相場は24文。刀は持っていなかったが、千人切るのはおてのも。 
       (原田伴彦・遠藤武・百瀬明治著「江戸の女たち」柏書房)  
 
 ●朝方の女湯には与力、同心も入った 

       編集長 佐藤香澄『【決定版】図説 大江戸犯科帳』(学研パブリッシング)
 江戸時代、一般的には内風呂はなく銭湯に通った。与力・同心は朝、女湯に入って、男湯から聞こえてくる話し声から情報を集めた。 

 ●馬屋    
  遊興費の払えなかった客について自宅まで馬を連れていき、支払うまで待つ。
馬屋がいると金もないのに吉原で遊んだことが近所にわか ってしまう。近所の人に笑い者にされたくない客は差恥心から遊興費を工面しようとした。
 ここから未払いの客について家まで行って取り立てる者を付馬(つけうま・つきうま)というようになった。    
        監修 竹内誠監修 『図説江戸7 江戸の仕事づくし』 株式会社 学習研究社

 ●庶民の生活
   地上の天国 裸を隠さない天真爛漫な社会     
 日本の混浴の嵯恥心の無さは外国人の非難の的だったが、日本の生活に慣れるにしたがって、それが開放的で自然の文化であることを理解するようになった。
    (藤原千恵子編 『江戸っ子のたしなみ』河出書房新社)    

    宿場の女中も幸せを祈った 
    「牛久下町中宿女中一同」 
     旧水戸街道牛久宿(牛久市城中)  
     

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